2025年6月20日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(23)江島生島

さればでござる。ご幼少の家継公を擁して幕府の実権を握りしは、まあ何と申しましても側用人の間部詮房どの。これを理論で支えたのが新井白石どのでござる。お二方とも6代将軍の腹心にて、私利私欲とは無縁の人格者。家宣公のご遺命をよく守り、清潔な政治を目指して献身的な努力をなされたのは揺るぎない事実でござる。特に白石どのは、風俗の共生、貨幣制度の安定、貿易の管理など次から次へと建議書をしたため、いわゆる「文治政治」の基礎を築かれ申した。これについては近松も大いに賞賛いたしとう存ずる。

さりながらいかなる人物にも弱点はござり申す。間部詮房どのは月光院さまとのみだらな関係を取り沙汰され申した。新井白石どのは“論争の鬼”と言われ、傲岸不遜(ごうがんふそん)の気性を憎まれ申した。“出る杭は打たれる”の例えあり、特に誇りを傷つけられたご老中の方々は、間部・新井連合軍を快く思わず、ひそかに包囲網を固めつつござった。

そしてついに正徳4(1714)年春、思わぬところから火の手が上がり申した──。おおっと、こちらも火の手が……大変だこりゃ……あちっ!

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2025年6月15日 (日)

大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(23)我こそは江戸一利者なり

田沼意次・意知親子らによる蝦夷地の上知について、仲間に加わるよう意知に勧められた蔦屋重三郎(蔦重)ですが、少し考えた後、自分のことで手いっぱいだと断ります。意知は無理に引き込むようなことはせず、花魁のためにも他言無用で頼むと言いおくことを忘れません。花魁のため──? 意知の敵娼(あいかた)は花魁誰袖(たがそで)で、蔦重は誰袖に抜け荷のことを聞いてきた理由を問いただします。

しかし誰袖はとぼけて答えてくれません。睨みつけた蔦重は大文字屋の二代目市兵衛に伝えようとしますが、市兵衛は「“ぬクけケにキ”のからくり」のことで頭がいっぱいです。ぬクけケにキ……ぬ け に! 蔦重はきな臭い話だと市兵衛に言い寄りますが、市兵衛は誰袖が花雲助(はなのくもすけ=意知)に身請けされればどれだけ金が入って、どれだけ名が上がるかと、あくまで経営者としてしか考えていない様子です。

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2025年6月13日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(22)裏工作

「わたくしは武蔵国川越在 駒林村のフメと申します。薬売りの夫勘五郎が行商に出たまま戻りませぬので、案じておりましたところ、近くの川で水死人があったと聞き、行ってみますとこれが夫の変わり果てた姿にござりました。お奉行所のお調べによりますれば、夫を殺して金を奪ったのはわたくしの父と兄でございました。親に夫を殺されたわたくしは、どうすればよいのでござりましょうか」

これは正徳年間に起きた実話でござるが、下手人の死罪は当然としても、実の親を訴えたこの女に罪ありやなしや。つまり親の罪を暴いてよいかどうかで侃々諤々(かんかんがくがく)、ついには名高い学者の論争にまで及び申した。

こなた朱子学の最高権威・林 大学頭どの。片や“論争の鬼”・新井白石どの。「この後は隠すべきもの、もし薬売りの妻は下手人の何びとかを承知の上で訴えしものならば、ただちに死罪に処すべし」「されど夫人には三従の教えあり、家にありては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従えと申す」「子が親に背いてよいならば、家臣もまた主君に背いてよいことになる」「子にとりては父が天なり」「父は天下にただ一人」「つまりこれでは夫が天なり」「夫は何人でも代えられ申す」「しからばこの女、父が下手人と分かりしみぎり、いかがいたせばようござりましたか」「親を諫めるべく、自害して果てればようござった」「商人の妻でござれば、そは望むべきにあらず」

いかがでござるかな、ご婦人方。実家が大事か婚家が大事か。これはいつの世にもなかなかの難問でござりまするな。さて、それがしが大事は!(と小女を差し)これでごじゃる──。

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2025年6月 9日 (月)

南ケ丘線 (22)番ヒストリー「南ケ丘48」・第8回 大佐野夢幻

前回は、「(22)番」の西鉄二日市駅と下大利駅を結ぶ新規バス路線について学校側が提案する際、「右折が困難」とされた杉塚交差点について、地図を交えて状況の詳細を見てみました。

前回までで、南ケ丘線の第一期路線は完成を迎えたわけですが、じつは計画段階で、今では幻となっている予定バス路線があったことはご存知でしょうか。大佐野バス停から旧国道3号線(現県道112号線)に出る「通古賀ルート」です。

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2025年6月 8日 (日)

大河ドラマべらぼう -蔦重栄華乃夢噺-・(22)小生、酒上不埒(さけのうえのふらち)にて

田沼意知を吉原に呼び出した花魁誰袖(たがそで)は、松前家が抜け荷(密貿易)をしている証拠探しの手助けをする代わりに、自分を身請けしてほしいと見据えます。間者のようなことは危ない役目だけにやめておくよう伝える意知ですが、誰袖はあの日座敷で聞いたことを、松前家側に伝えることもできると脅しますが、花魁の吉原の格を落とすような振る舞いに意知は構わず出ていきます。

意知は、田沼意次の家臣・土山宗次郎に誰袖の行為を報告しておきます。抜け荷の証となる絵図は、湊 源左衛門によれば上方で騒ぎになっています。蝦夷と取引する商人は近江者が多いようで、宗次郎は、絵図とともに松前家の抜け荷を訴え出てくれる者も合わせて平秩東作に探させるつもりです。意知は『赤蝦夷風説考』を著した仙台藩江戸詰め藩医・工藤平助と対面し、源左衛門の訴えをどう考えるかと問いかけます。

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2025年6月 6日 (金)

プレイバック八代将軍吉宗・(21)将軍は四才

さればでござる。
紀州藩の治世において着目すべき点を申し上げれば、その1つは二代藩主光貞公が全国に先駆けて導入なされた「定免制(じょうめんせい)」でござる。定免制とは、稲の豊作凶作に関わらずあらかじめ定めた年貢を徴収する仕組みでござる。これによって紀州藩は、安定した収入を見込むことが出来、また煩雑な毎年の現地見聞も不要と相成り申した。無論農民より申し入れがござれば、事情を調べて減免措置も講じられ申した。やがて幕府もこの定免制を導入し、全国に広めるに至った次第にござる。

また光貞公は、明の国の法律書すなわち「明律」を詳しくお調べになり、治世の参考になされた。近松の見るところ吉宗公が大の法律好きになられたのも、光貞公の影響と存ずる。吉宗公は紀州藩主のみぎり、訴訟箱を設置し横目付を強化し、たくさんの法律をお作りあそばした。これなるは若き藩主吉宗公がお書きになられた家臣の心得でござる。エゲレス語で申すならばアニマル……もといマニュアルでござりますな──。

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2025年6月 4日 (水)

南ケ丘線 (22)番ヒストリー「南ケ丘48」・第7回 バス行くいずこ

前回は、「(22)番」の「グリーン色」を付番した系統番号(行先番号)、当時の新聞報道など、昭和56(1981)年12月25日に西鉄二日市駅と下大利駅を結ぶバス路線が開設された詳細を見てみました。

物心ついたころから存在するバス路線は、自分が生まれる“かなり前から”バス路線がそこにあって、とイメージしがちですが(……と少なくともKassyはそう思っているのですが、みなさまどうなんでしょう?)、資料を調べて行く先に「昭和56年12月25日」という開設日を見たKassyの正直な感想は、あれれ? でした。

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