プレイバック八代将軍吉宗・(23)江島生島
さればでござる。ご幼少の家継公を擁して幕府の実権を握りしは、まあ何と申しましても側用人の間部詮房どの。これを理論で支えたのが新井白石どのでござる。お二方とも6代将軍の腹心にて、私利私欲とは無縁の人格者。家宣公のご遺命をよく守り、清潔な政治を目指して献身的な努力をなされたのは揺るぎない事実でござる。特に白石どのは、風俗の共生、貨幣制度の安定、貿易の管理など次から次へと建議書をしたため、いわゆる「文治政治」の基礎を築かれ申した。これについては近松も大いに賞賛いたしとう存ずる。
さりながらいかなる人物にも弱点はござり申す。間部詮房どのは月光院さまとのみだらな関係を取り沙汰され申した。新井白石どのは“論争の鬼”と言われ、傲岸不遜(ごうがんふそん)の気性を憎まれ申した。“出る杭は打たれる”の例えあり、特に誇りを傷つけられたご老中の方々は、間部・新井連合軍を快く思わず、ひそかに包囲網を固めつつござった。
そしてついに正徳4(1714)年春、思わぬところから火の手が上がり申した──。おおっと、こちらも火の手が……大変だこりゃ……あちっ!
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