プレイバックおんな太閤記・(43)母、ともの嘆き
文禄4(1595)年7月8日、秀吉の甥・秀次は謀反の廉(かど)により高野山に追放された。お茶々の子・拾をめぐる凄惨な豊臣家世継ぎ争いの結末であった。が、秀次の非運はそれだけでは済まなかった。やがて残酷な知らせがもたらされることになる。7月15日のことであった。
三好吉房・とも夫婦が大坂城のねねの元を尋ねます。吉房は謀反人の親となってしまいねねに面会に訪れるなど憚られる身だと遠慮がちに言いますが、豊臣秀吉の身内だとねねは憚る必要はないという立場です。豊臣秀次のことについて伏見の秀吉に動きがあれば、すぐにねねの元に知らせが入るように手配していますが、ねねとはいえ目通りは許されず、秀吉と対面することはできていません。
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