大河ドラマ麒麟がくる・(40)松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)
天正5(1577)年 夏、本願寺は毛利や上杉などと手を結び、反信長勢の中心でした。
信長と本願寺との戦いは7年あまりにもおよび、
この戦の最中、参戦していた松永久秀が天王寺砦の陣から
突如として逃亡を図り、織田家中に衝撃を与えます。
天正5(1577)年 夏、本願寺は毛利や上杉などと手を結び、反信長勢の中心でした。
信長と本願寺との戦いは7年あまりにもおよび、
この戦の最中、参戦していた松永久秀が天王寺砦の陣から
突如として逃亡を図り、織田家中に衝撃を与えます。
将軍足利義昭を追放した織田信長は、室町幕府に代わり畿内を掌握し始めますが、
摂津石山本願寺、紀州雑賀衆、武田、上杉、越前一向一揆、丹波国衆、毛利、三好と、
信長に抗(あらが)う勢力は、まだまだ各地に残っていました。
天下の静謐(せいひつ)を目指すべく、信長は本願寺に対し5年も攻略を続け、
宗主本願寺顕如は、仏法の危機は今この時と、僧兵たちを鼓舞し、あくまで対抗します。
信長は朝廷から「権大納言 右大将」という破格の官職を授けられ、
岐阜に戻って次の戦の支度にかかっていました。
そんな信長に、三条西実澄は京からわざわざ下向して会いに来ました。
任官の御礼言上もせぬまま京を不在にするなど言語道断であるし
朝廷には朝廷のしきたりがあり、それに従ってもらわなければ困るという苦言です。
「帝をおろそかにされては困る!」
信長は涼しい顔でそれを受け、いきなり「家督を譲る」と言い出します。
今後は嫡男織田信忠に京での仕儀万端を務めさせます。
実澄は、帝が本願寺との長期間の戦を気にしておられると言うのですが
信長は、帝に献上した蘭奢待(らんじゃたい)を毛利に下した理由を問い詰めます。
毛利は裏から本願寺を支えている、信長にとっては敵方であるわけで、遠回しに
帝は信長より毛利に肩入れしているのでは?という事実を突きつけたのです。
信長は京にも岐阜にも近い近江国の安土に城を築き始め、
政治の中心を移します。
「天下布武」の旗印の下、信長の目指す世は大詰めを迎えていました。
天正2(1574)年3月、織田信長が所望した蘭奢待(らんじゃたい)の一件は
御所を巻き込んだ、ちょっとした騒動になります。
信長がよかれと思って差し上げた蘭奢待の欠片を見て、
朕が喜ぶとでも思うたのか? と正親町天皇は快く思わなかったのです。
明智光秀も、時に信長が何を考えているのか分からなくなると吐露すると
近江坂本城に預かりの身となっている三淵藤英は、優しく諭します。
「その時にこそどう付き従うか、そこが家臣の器」
そんな藤英に下った信長の命は、光秀の予想をはるかに上回るものでした。
一両日中に、藤英は自害せよ、と──。
すっかり成長した光秀の侍女・たまに、生け花を指南するなど
藤英の人間性のすばらしさを垣間見ることができるのですが、
自分が置かれている状況の察知能力も、なかなかに高いわけです。
「信長殿は、私を斬れと仰せられたかな」
確かに藤英は、紀州由良に逃げている義昭と文のやり取りをして
信長討伐の企てを進めており、信長にその証拠が渡ってしまったための
切腹の処分というわけで、信長に対する反逆の芽を早めに摘んでおきたいのです。
光秀が義昭より信長を選んだのと同じように、
藤英も信長より義昭を選んだだけのことであり、
言い方を変えれば、主君を裏切る勇気がないだけなのですが、
ともかく藤英は一生、義昭に付き従うつもりなのです。
「切り捨てられた花にも、一度は咲いてみせたという誇りがある」
藤英は、光秀による減免の願い出を断り、自分の身は自分で処する、と答えます。
そして藤英は、立派に最期を遂げました。
甲斐の武田信玄が上洛を開始します。
将軍足利義昭は、もはや信長の命運は尽きたとし、明智光秀の必死の説得も聞かず
元亀4(1573)年3月、信長に対し討伐の兵を挙げます。
義昭の意を酌んだ信玄は、三方ヶ原の戦いで徳川織田連合軍を打ち破り
三河へ侵攻しましたが、野田城まで進んだところで突如、兵を引き返します。
今度こそ武田と織田の直接対決だと覚悟を決めていた民衆の会話は、
菊丸の耳に確実に届いていました。
宇治槙島城に陣を構えた義昭は、なかなか姿を現さない
朝倉や浅井、そして武田に対しいらだちを隠しきれませんでした。
そこに突然の攻撃が入り、木下藤吉郎が刀を向けて近づいてきました。
「織田信長様のご下命により、木下藤吉郎が召し捕らえる」
「実澄、気に入ったのであろ、明智を。折を見て連れて参るがよい」
元亀3(1572)年の冬、正親町天皇の許しを得て、光秀が
“三条西実澄のお供”として御所へ上がる日がやって来ました。
“お供”なので帝の前に出られませんが、さすがの光秀もとても緊張しています。
比叡山の戦いで一番手柄をあげた明智光秀は、信長から
近江国・志賀の地を与えられ、琵琶湖のほとり坂本に城を建てようとしていました。
見取り図を眺めながら、愛娘の岸とたまは目を輝かせていますが
正直、京の屋敷がいいと考えている光秀は、さほど乗り気ではありません。
上洛してわずか3年で、城持ち大名になる──。
喜ばしいこと、と熙子は笑顔で返しますが、光秀の曇った表情に
妻として不安がぬぐいきれません。
元亀2(1571)年9月、織田信長は比叡山延暦寺を攻め、
僧侶やそこで暮らす人々を男女の区別なくことごとく殺戮(さつりく)します。
比叡山は大きな打撃を受けたのですが、座主の覚恕は
わずかな供と東国へ逃亡したとのことで、逃げられてしまいます。
信長は戦況に大いに満足し、勝どきを上げますが、
光秀は、一存で女と子どもは見逃したと許しを請います。
信長は笑顔を崩さないまま、聞かなかったことにすると伝えます。
「ほかの者ならその首刎ねてくれるところじゃ」
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