大河ドラマ風林火山・(50)決戦川中島 [終]
今日は『風林火山』最終回!
なので、『その時歴史が動いた』風にお届けします(^ ^)
人間のドラマ。
それを人は歴史と呼びます。
決断の時、
決行の時、
人は何を考え、
どのようにして動いたか。
その歴史の決定的瞬間を取り上げます。
そしてみなさん、いよいよ「その時」がやってまいります。
原作:井上 靖 (『風林火山』新潮社 刊)
脚本:大森 寿美男
音楽:千住 明
題字:柿沼 康二
語り:加賀美 幸子
──────────
[出演]
内野 聖陽 (山本勘助)
市川 亀治郎 (武田信玄)
ガクト(Gackt) (上杉政虎)
池脇 千鶴 (三条夫人)
金田 明夫 (飯富虎昌)
高橋 和也 (馬場信春)
高橋 一生 (駒井政武)
木村 了(武田義信)
田中 幸太朗 (香坂虎綱)
前川 泰之 (飯富昌景)
有薗 芳記 (河原村伝兵衛)
市瀬 秀和 (秋山信友)
有馬 自由 (葛笠太吉)
麻田 あおい (おくま)
──────────
佐藤 隆太 (矢崎平蔵)
紺野 まひる (於琴姫)
水川 あさみ (ヒサ)
西田 尚美 (桃)
前田 亜季 (リツ)
柴本 幸 (由布姫)
仲代 達矢 (武田信虎(回想))
風吹 ジュン (大井夫人(回想))
千葉 真一 (板垣信方(回想))
竜 雷太 (甘利虎泰(回想))
加藤 武 (諸角虎定(回想))
田辺 誠一 (小山田信有(回想))
貫地谷 しほり (ミツ(回想))
宍戸 開 (原 虎胤(回想))
嘉島 典俊 (武田信繁(回想))
西村 真 (山高平左衛門)
檀 臣幸 (石黒五郎兵衛)
竹田 寿郎 (宮下)
荻野 英範 (深井)
吉田 翔 (十吾郎)
相原 綺羅 (ミツ)
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若駒
劇団ひまわり
会津武士道
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西岡 徳馬 (直江実綱)
佐々木 蔵之介 (真田幸隆)
金田 賢一 (柿崎景家)
近藤 芳正 (相木市兵衛)
永島 敏行 (村上義清)
緑 魔子 (おふく)
緒形 拳 (宇佐美定満)
──────────
制作統括:若泉 久朗
制作:中村 高志
演出:清水 一彦
川中島での、武田・上杉両軍の死闘は、
そのピークを迎えていました。
信玄は、弟・信繁、重臣・諸角を失い、
武田軍には崩壊の危機が迫っています。
信繁と諸角の討死の報を受け、じっと目を閉じる信玄。
武田の陣もようやく整い、
あと2時間は戦える状態までこぎつけました。
妻女山に向かっていた武田の別働隊が下山し、
戦に参加すれば、戦況は一気に逆転できる──。
別働隊の復帰を、信玄は本陣で待ちます。
そして声をふり絞り、勘助に命を下します。
「勝つのじゃ勘助。守るだけでは足らぬ。勝つのじゃ!」
勘助は、その場に戻ってきた駒井政武に
「お館さまを……頼む」と後を託し、出陣の支度にかかります。
勘助にしてみれば、今度の失策はすべて自分のせいだと痛感し、
命を捧げてお詫びするつもりなのかもしれません。
上杉政虎の陣──。
武田勢が軍勢を整え、予想以上に粘っていることに
宇佐美は「退き陣も視野に」と政虎に撤退を進言します。
このまま退却の時を逃せば、妻女山から下山する別働隊と
武田の本隊に挟み撃ちに遭うのは必定であり、
別働隊は戦いらしい戦いをしていない、新品同様の兵士なので、
そんなパワーみなぎる軍勢に囲まれては、ひとたまりもありません。
しかし政虎は宇佐見の進言を聞き入れず、自ら武田本陣に向かいます。
妻女山に派兵した別働隊がようやく下山、
上杉軍の背後に迫ろうとしていました。
下山した真田幸隆は、かつての敵・村上義清の軍の前へ。
どちらから仕掛けるともなく、両者は激突します。
それを見た勘助も、手勢を率いて突撃します。
上杉軍の脇を攻撃するつもりなのです。
しかし、太郎義信も同じことを考えていたようで、
勘助には父・信玄を守ってほしいと言いおいて
無理に出兵しようとしますが、
勘助はそれを身をもってとどめ、義信を説得します。
義信は、勘助の勢いに押されたか、黙って兵を引きました。
「本陣を手薄にするな! 戻れ! 戻るのじゃ!!」
そんな宇佐見の声も、
広いこの戦場では、かき消されがちでした。
そこへ押し出してきた勘助。
宇佐美は勘助に、兵を引くように叫びますが、
勘助が聞き入れるはずもありません。
何度も何度も、宇佐美に斬りかかろうとします。
「一国を滅ぼしてまで、何のために戦うのか!」
しかし、宇佐見と勘助が相対している中を、
一頭の白馬が乱戦を突き抜けて、
信玄の本陣に向かっていきます。
上杉政虎──!?
それを見て、勘助も後を追いかけます。
政虎は単騎、武田の陣に乗り込みます。
太刀を振り下ろす。
軍配で受けとめる。
ふたたび振り下ろす。
受けとめる。
みたび振り下ろす。
受けとめる。
信玄と政虎の一騎打ちであります。
慌てて駆けつけた兵が、
政虎の乗る白馬の尻を突いたため、
驚いた白馬は駆け出し、
政虎はやむを得ず引き返していきます。
武田本陣の前で戦っている上杉軍に迫ってゆく勘助。
勘助の頭の中には、宇佐見に投げかけられた
「何のために戦うのか」という問いの答が出ています。
「──生きるためじゃッ!!」
国のため、主君のため、愛するもののため、
勘助は我武者らに戦い続けます。
無数の傷を受けても、なお満身創痍で戦い続けます。
しかし不覚にも直江実綱に一太刀を受け、
その場で落馬。
銃声が響き渡り──。
その弾を全身で受けた勘助は、
その場でゆっくりと倒れていきます。
しばらく突っ伏していた勘助は、
「まだ戦える……」と、上体を起こします。
と、そこには槍を構えた平蔵の姿が。
「平蔵──、我が首を……討て」
首から摩利支天を引きはがします。
その摩利支天は、
河原村にやってきた勘助がミツに与え、
ミツが亡くなった後は、形見として平蔵が預かり、
信濃を離れる際に平蔵が置いていったものを、
信濃に入国した勘助が見つけ、再び身に付けていたものです。
もしかしたら、この摩利支天こそが、
勘助と平蔵を再会させたのかもしれません。
勘助に少しずつ近づいてくる平蔵ですが、
その背中に一矢が刺さり、倒れます。
顔を上げた勘助が見たもの。
それは、
無数の六連銭の真田旗でした。
真田旗ということは、
別働隊が妻女山から下山し、戦いに加勢したことを意味します。
勘助はようやく安堵の表情を浮かべ、つぶやきます。
「勝った……」
その直後、
勘助は無名の兵士によって首を取られます。
甲斐・山本屋敷──。
おくまが、仏さまがいないと騒いでいます。
仏とは、勘助が高野山に上った折、清胤に授かったもので、
養女・リツに渡したものです。
畑から屋敷に戻ったリツは、
勘助から渡された仏が縁側に出ているのを見て、
何か虫の知らせを感じたようで、一すじの涙を流します。
上杉本陣──。
ひとまず、善光寺へ引き上げます。
上杉には、武田信繁、諸角虎定、山本勘助を討ち取ったという
大きな土産があります。
直江も「我らの勝ちでしょう」と、川中島血戦の成果を讃えますが、
政虎も宇佐見も「武田は再び戦を仕掛けてくる」と考えています。
武田本陣──。
弟・信繁、重臣・諸角の遺体が運ばれ、
信玄の目の前に横たわっています。
家臣一同、哀しい面持ちです。
信玄は、かつて父を追放すると信繁に伝えたときのことを
じっと思い出していました。
>某(それがし)が引き立て役であることは承知しておりました。
>家臣たちとて、承知していることでしょう。
>それでも信繁は、その器量にあらずと家臣に思われようとも、
>いかなる恥を忍んでも、家督を継ぐ所存にござりました。
>兄上がお立ちにならなければ、かような日が来ぬのであればと。
>兄上……、よくぞご決意なされた!
本陣に向かって、黒い物体が動いてきています。
伝兵衛が、小柄な身体で大柄な勘助を背負い、
武田陣中に戻ってきたのです。
「山本ォー、勘助にござりまするゥー!!」
時同じくして、別方向から太吉が、
敵軍から勘助の首を取り戻し、駆けてきました。
信玄の指示で、勘助の首と胴体をつなげます。
それをじっと見つめる家臣たち。
「笑っておるわ……」
亡き勘助を囲んで、小さく勝鬨をあげます。
上空には、かなたまで青空が広がっていました。
申の上刻・午後四時。
こうして武田は、川中島から引き上げていきます。
背中に矢を受けたままの平蔵。
槍を杖代わりに、越後へ向かって一歩一歩進んでいきます。
その姿は、まるで何かに取り憑かれたかのよう。
その後、平蔵は
無事に越後にたどり着き、ヒサの元に戻れたのか、
それともこのまま川中島で落命したのか、
それは知る由もありません。
激戦が終わった川中島──、
無数の兵と、無数の馬が転がっています。
そんな中を、乱取りしているおふく。
おふくはおふくで、農民としての戦いをしているわけです。
道鬼斎 山本勘助晴幸
永禄四年九月十日 川中島合戦にて討死
享年六十九
勘助……、
戦で人を殺したときゃァ、こうして花を摘んだと思やァいいずら……。
恨みがあって殺したんじゃねえらに……、
そう思えるらに……。
うらにゃ見えるらに……、
勘助の中に咲いている花が……。
川中島の中でも、最も激戦と言われた第四次決戦。
山本勘助をはじめ、武田信繁、諸角虎定といった
武田家にとって重要な人物を失って、幕を下ろしました。
川中島の後、勘助が仕えた武田家はどうなっていくのか?
勘助と相見えた主な人物たちは今後どうなっていったのか?
武田家の流れを縦軸に、人物たちを横軸にご紹介しながら、
お別れしたいと思います。
今年も大河ドラマをご覧いただき、ありがとうございました(^ ^)
──────────
川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けます。
上野には、真田幸隆がかつて仕えていた長野業正がいましたが、
その業正の死後、後を継いだ子の業盛を攻撃。
永禄9(1566)年9月には上野西部を制圧します。
●原 虎胤 永禄7(1564)年1月28日逝去 享年68
●宇佐見定満 永禄7(1564)年7月5日逝去 享年76
●小山田弥三郎(信有) 永禄8(1565)年8月20日逝去 享年26
さらに、今川義元が桶狭間で討たれたことによって
衰退の兆しを見せ始めた今川を、
信玄は同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画。
しかし義元の女婿である嫡男・武田義信と
その傅役・飯富虎昌が激しく反発。
かつて信玄が父・信虎にしたように、
義信は父・信玄に対して追放を企てますが、
そのクーデターは事前に露見してしまい、
信玄は永禄8(1565)年に飯富虎昌を切腹させ、
永禄10(1567年)年には義信を廃嫡し、自殺に追い込みます。
義信の妻(義元の娘)であった女性を駿河へ追い帰した後、
駿河への憂いがなくなった信玄は、
永禄11(1568)年、三河の徳川家康とともに駿河侵攻を開始。
しかし、今川と親戚関係にあった北条氏康が今川の援軍に駆けつけ、
さらに駿河征服を狙う家康も、氏康と組んで信玄と敵対したため、
信玄は一旦撤退した後、北条を叩くべく上野・武蔵・相模へ出陣。
三増峠において武田と北条が激突、武田軍が大勝します。
こうして氏康を抑えた上で駿河に再侵攻し、完全平定を成功させます。
●三条夫人 元亀元(1570)年7月28日逝去 享年50
元亀2(1571)年、盟友・北条氏康が小田原で逝去。
「再び武田と和睦せよ」との氏康の遺言に従い、
後を継いだ子の氏政は、信玄と甲相同盟を結びます。
この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほかに、
信濃・駿河・上野西部と遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、
石高はおよそ120万石に達していました。
●於琴姫(油川夫人) 元亀2(1571)年逝去
一方、武田と織田は、遠山氏の娘を織田信長の養女とし、
武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んでいました。
その養女は、信玄の嫡孫となる信勝を出産後に亡くなりますが、
信長の嫡男・織田信忠と信玄の娘・松姫の婚約が成立し、
引き続き同盟関係にありました。
永禄11(1568)年、足利義昭を奉じて
織田信長が上洛しましたが、信長と義昭はやがて対立。
義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を送ります。
活躍は耳にしている。
天下太平のために上洛してほしい。
(『足利義昭御内状』より引用し意訳)
●寿桂尼 永禄11(1568)年3月14日逝去
信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、
元亀3(1572)年、将軍義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて
信長との同盟を事実上破棄し、上洛するために甲府を出発。
この時の信玄の言葉です。
存命のうちに天下を取り、京に旗を立つ。
(『甲陽軍鑑』より引用)
その上洛の進路に当たる家康は、信玄を迎え討つべく
遠江三方ヶ原において、信玄と一大決戦を挑みます。
しかし兵力の差や信玄の巧みな戦術の前に、
家康は大敗を喫し、多くの将兵を失って敗走します。
武田軍圧勝の様子です。
あたかも猛虎が羊の群れに突撃したるが
ごとく、全軍巨大な火の玉に見えたり。
(『千曲之真砂』 より引用し意訳)
元亀4年(1573)年に野田城を落とした直後から、
たびたび喀血するなど、信玄の持病が悪化し、
武田軍の快進撃は突如として停止します。
このため信玄は、長篠城において療養していましたが、
病状は一向に良くならず、遂に甲斐に撤退することを決意。
4月12日、軍を甲斐に引き返す途上の信濃国駒場で、
武田信玄はついにこの世を去りました。
享年53歳。
信玄は、次のような遺言を残しています。
勝頼は、信勝が十六になるまでの陣代とする。
三年は自分の死を伏せ、国内の充実を図れ。
(※ 陣代=後見人)(「甲陽軍鑑」より引用抜粋・意訳)
信玄の死により、後を継いだ勝頼は、
信玄の圧倒的武力によって抑えつけられていた
織田・徳川連合軍の大逆襲を受けることになります。
しかし勝頼は、信玄以上の勢力拡大を目指して積極外征を実施。
これに対し、信玄譜代の重臣たちは、口々に勝頼に注進します。
信玄公の遺言通り、
三年の喪が明けるのをお待ちになることです。
(「甲陽軍鑑」より引用抜粋・意訳)
勝頼が信長を攻める決断を下したことについて
「甲陽軍鑑」では勝頼の失策として、
信長・家康への度重なる出兵が挙げられていますが、
これは、長篠の敗戦後に書かれた結果論であり、
実際に勝頼が何を考えて出兵したのかははっきりしていません。
しかし当時の武田家は、信玄死去直前に大量の兵を雇ったこともあり、
それらの兵士をどう食べさせるかという問題に直面していました。
家中が分裂する中、「まず国内をまとめよ」という
信玄の遺言と重臣の判断は、一見妥当なものに思われますが、
国をまとめる戦国大名の立場に立てば、近隣諸国が国境を脅かす中、
座して待つわけにはいかないという判断は真っ当であるという解釈が、
勝頼を再評価する研究者の間で増えてきています。
天正2(1574)年2月、東美濃・織田領の明智城に侵攻します。
信長は嫡男・織田信忠と共に、明智城の援軍に出陣したものの、
すでに勝頼が城を落としていたため、撤退せざるを得ませんでした。
続いて勝頼は、4ヶ月後には遠江の徳川領に侵攻し、
信玄が落とせなかった堅城・高天神城を陥落させて
東遠江をほぼ手中に入れます。
この時の信長の言葉です。
勝頼は表裏をわきまえた武将だ。
信玄にもまして油断ならず。
(上杉謙信宛の織田信長書状より抜粋引用・意訳)
●武田信虎 天正2(1574)年3月5日逝去 享年81
●真田幸隆 天正2(1574)年5月19日逝去 享年62
天正3(1575)年、勝頼は三河国へ侵入し、長篠城攻撃を開始。
しかし、敵勢が善戦する長篠城は武田軍の猛攻を支え、
長篠城攻略に想定外の時間を費やしてしまいます。
そこへ、遂に織田・徳川連合軍およそ35,000の大軍が到着。
これに対し勝頼は、長篠城の抑えに兵2,000を残し、
主力13,000を率いて連合軍と対峙します。
世に言う「長篠の戦い」で、武田軍は連合軍に敗北を喫し、
山県昌景・馬場信春・真田信綱らを失ってしまいます。
勝頼は方針転換を余儀なくされ、武田領国の再建を目指します。
天正5(1577)年には、信玄の宿敵であった上杉謙信と同盟を結びます。
それは、信玄の遺言に次のようなものがあったためと言われています。
上杉謙信とは和議を結ぶように。
謙信は男らしい武将であるから頼ってゆけば、
若いお前を苦しめるようなことはしないだろう。
私は大人げないことに、最後まで
謙信に頼るということを言い出せなかった。
お前は必ず謙信を頼りとするがよい。
上杉謙信とはそのような男である。
(「甲陽軍鑑」より引用抜粋・意訳)
また同年、甲相同盟を強化するため、
北条氏政の妹を正室として迎え入れます。
(信長の養女である最初の正室は信勝出産後死亡)
しかし、翌天正6(1578)年、越後で謙信が病死すると、
謙信の二人の養子である上杉景勝(謙信の甥)と
上杉景虎(北条出身)との間で家督争いが勃発。
勝頼は、甲相同盟から景虎の支援を要請されて調停を試みますが、
急に外交方針を転換して、景勝の支持にまわります。
結局戦いは景勝が勝ち、景虎は自害。
甲越同盟の成立は東上野において沼田領が獲得できたものの、
同時に甲相同盟の解消を招いたため、
織田・徳川に加え、北条さえも敵に回した勝頼の外交方針は
結果的には致命的な失策であったと評されています。
●香坂虎綱 天正6(1578)年5月7日逝去 享年52
天正9(1581)年、勝頼は、
近い将来攻め込んでくると思われる織田・徳川連合軍への備えのため、
躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の地に新府城を築城するとともに、
武田軍団の再編成を目指します。
しかし、そのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、
天正10(1582)年2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が
新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返り。
勝頼の叔父・武田信廉は大島城を捨て甲斐に敗走し、
信濃松尾城主の小笠原信嶺や駿河田中城主の蘆田信蕃らも
織田・徳川連合軍の侵攻を前に戦わずして降伏。
さらに武田一族の重鎮である穴山信君までも勝頼を見限り、
徳川家康を介して織田信長に服属を誓ってしまいます。
この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、
疑心暗鬼にさいなまれた将兵たちは勝頼を見捨て、
隙を見ては次々と逃げ出します。
3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡。
甲斐一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、
勝頼を受け入れると表明するものの、
勝頼が選んだのは小山田の居城である岩殿城でした。
しかし信茂は、織田信長に投降することに方針を変換し、
勝頼は進路を絶たれてしまいます。
逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は、
武田氏ゆかりの天目山を目指しますが、
その途上でついに捕らえられ、
嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害しました。
享年37歳。
これによって、甲斐武田氏は事実上滅亡を迎えます。
勝頼と、妻・北条夫人の辞世の句です。
おぼろなる 月もほのかに
雲かすみ
晴れて行くへの 西の山のは
黒髪の 乱れたる世ぞ
はてしなき
思ひに消ゆる 露の玉の緒
(以上は、辞書サイト「Wikipedia」・
NHK番組サイト『その時歴史が動いた』より引用しました)
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『風林火山』
総集編:12月31日(月)
第1部・風の巻 午後1時55分〜午後2時53分
第2部・林の巻 午後3時〜午後3時58分
第3部・火の巻 午後4時〜午後4時58分
第4部・山の巻 午後5時〜午後5時58分
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コメント
Kassyさんの日記見てたら、生の大河ドラマ見たくなって、生まれて初めて、大河ドラマを見ました!
あれは、はまってしまいますね(笑)
ただ、まともに歴史が苦手でまともに勉強してなかったので、イマイチ分からんというところも多々ありました(^^ゞ
──────────
たっくんさーん。こんにちは!
今日もコメントありがとうございまーす。
>生の大河ドラマ見たくなって
ありがとうございます(^ ^)
そう言っていただけると、毎週書いてきた甲斐がありますね!
Kassyは文章下手なので、まさに
「百聞は一見に如かず」だったと思います……。
>あれは、はまってしまいますね(笑)
このブログを通して、大河ファン……とまではいかなくても、
「大河は時々見てます!」という御仁を増やしていこうっと!(^ ^)
>歴史が苦手でまともに勉強してなかったので
大河を歴史の教科書代わりに見る! という方法もありますが、
所詮はドラマですからね〜。
「歴史を借りた現代劇」と思って
見ていただいていいかと思いますよ。
ちなみに来年は幕末時代を扱います。
幕末時代は、明治維新を成し遂げた人物たちが交錯して
余計に混乱しやすい時代なので、みなさんに分かりやすく、
このブログで解説していければと考えています。
(何せ、かく申すKassyは幕末時代は大の苦手なので(^ ^;;) )
来年もぜひ、大河ネタを読んでくださいね!
投稿: ★たっくん | 2007年12月17日 (月) 01:10
最後一部のシーンはなぜ平蔵だったんやろうか?
ずーと勘助の回想シーンでよかったろうに…
ちょっぴり終わり方に疑問を持ったアタシでした
来年の「篤姫」…前評判はそんなに高くないけど
同じK州内やけん密かに期待しちょります
──────────
やまさーん。こんにちは!
今日もコメントありがとうございまーす。
>最後一部のシーンはなぜ平蔵だったんやろうか?
うーむ(- -)
恐らくは、最初は武田を恨む同士が、
一方は武田の配下に入り、もう一方は恨み続けて。
一方は独り身で、もう一方は妻子持ちで。
という対照で見せたかったのかもしれませんけどね。
どうなんでしょうね〜。
>ずーと勘助の回想シーンでよかったろうに…
うーむ(- -) ←また登場♪
1話分追加したわけなので、
時間調整で仕方のないことなのかもしれませんが、
どちらかというと、Kassyの率直な感想は、
回想シーンの多さから、とてもくどく感じました(^ ^;;)
バックでテーマ曲を壮大に流しながら、
名場面集を振り返る! という仕上がりなら、
勘助らしい、さっぱりした終わり方だったのになぁ?
とも思いますね。
昨年の『功名が辻』のラストで、
初回、千代(子役=永井 杏ちゃん)が
一豊(上川隆也さん)に助けられるというシーンを、
仲間由紀恵さんが、同じ場所・同じ衣裳・同じセリフで
演じ直したシーンが流れたのですが、
あれよりはマシかなぁ? とは思いました(^ ^;;)
>来年の「篤姫」…前評判はそんなに高くないけど
そうですね〜。
確かに前評判は高くはありませんね。
民法でヒットした「大奥」シリーズのパロディ?
と思わせる時代設定ですし、
ただでさえ幕末ものは当たらないというジンクスが
大河にはありますからね。
確固たる自信はないのですけど、
初回視聴率は14〜15%前後? ←厳しすぎ?
ただ、幕末もので女性が主人公というのは初の試み!
だから、期待半分・不安半分です。
来年の『篤姫』で、Kassyが期待している役者さんは、
高橋英樹さん(島津斉彬役)、山口祐一郎さん(島津久光役)、
長塚京三さん(島津忠剛役)、北大路欣也さん(勝 海舟役)
の4名ですかねー。
高橋さんは、平成2年『翔ぶが如く』で
斉彬の異母弟・久光役で出演されたので、
その比較を楽しみたいところです。
山口さんはご当地・鹿児島出身なので、
生の薩摩言葉に期待したいところ。
長塚さんはKassyの好きな俳優さんなので。
北大路さんは、昭和44年『竜馬がゆく』の主演でしたから、
竜馬と今回の勝 海舟と、その比較を楽しみたいです。
投稿: ★やま | 2007年12月20日 (木) 18:27