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2008年10月 7日 (火)

じゃあな。

どれぐらいの方がお気づきになったかは分かりませんが、
2日前(10月5日(日))の朝刊で、
吉田直哉さんの訃報記事がありました。

吉田直哉さんとは元・NHKディレクターでありまして、
大河ドラマ『太閤記』『源 義経』『樅ノ木は残った』ほか、
数々のドラマ、ドキュメンタリーを演出した方です。

“Mr.大河ドラマ”の異名をとる、大原 誠さん(元NHKディレクター)が
「師匠」と仰ぐ御仁であります。

NHK退職後は執筆活動の傍ら、大学教授として教壇に立ち
後進の育成にあたっておられたそうですが、
9月30日に、肺炎のために亡くなられました。
享年77歳でした。

吉田さんの訃報を受けたとき、
昭和40年『太閤記』、昭和41年『源 義経』と、
大河ドラマで2年連続でタッグを組んだ
俳優・緒形 拳さんのことが頭をよぎりました。

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秀吉に続き <源 義経>で弁慶に──。

 うん。浪花千栄子さん(「太閤記」で秀吉の母・なか役)に言われた。
 「あんたなぁ。秀吉やってなあ、来年また違うもんやるそうやけど、やったらあかん」
 もっと秀吉を大事にせいっちゅうことなのかなぁと思ったんですけど、自分の中では、秀吉と弁慶は全然違うものだから、抵抗はなかったし、逆に面白いかなって思いましたね。
 過酷なマラソンではあったかもしれない。その割には、いそいそとNHKに通った覚え、ありますけど(笑)。テレビがまだ、やみくもに元気のいい時代でしたよね。あまり細かいことにとらわれず、ガーッて撮っちゃう時代だったような気がする。だから自分も、ちっとも苦にならなかった。
 1年間で1人の人間をやる、という面白さはありましたね。役のなかで年齢を重ねながら、弁慶なら弁慶の思いみたいなものを伝えていく。テンションが少しずつ上がっていく。うねりのようなものが出てくる。

 2作とも吉田(直哉)さんの演出だったのも、ラッキーでしたよね。いろんなことを話しましたし、実に適切に演出してくれました。吉田さんとやって何がよかったかっていうと、根が、ドキュメンタリー作家ですから。人間をドキュメンタリー的にとらえるから、あまり作り込まない。ドラマドラマしていないのが、よかったんじゃないですかね。それは後々、僕に大きな影響を与えてくれました。舞台であれ、映画であれ、役者があんまりこう、作らないほうがいいのではないかっていうような……。思いのたけはここまであふれていても、出てくるのは、そう、腹八分目とかね。そんなようなことだと思うんですけど……。

<NHKテレビ放送開始50周年記念・テレビ50年〜あの日あの時、そして未来へ〜82頁より引用>
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それぐらい、お互いに認め合って
撮影に取り組んでいったのでしょう。
その吉田さんが亡くなられたことで、
拳さんも相当力を落とされたのでは???

……と思った矢先でした。

その緒形 拳さん、急に世を儚んでしまいました。
享年71歳。
“後を追うように”とはこのことを言うのでしょうか。
まだまだ早すぎる死であります。


拳さんの大親友、俳優の津川雅彦さんは
ご自身のブログでこうおっしゃっています。

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「南無妙法蓮華経! 名優 緒形 拳が10月5日23時53分に亡くなった!」

4日の夜に獨協医大に入院したが、5日朝の手術の経過も良く!
一時はお医者さんも、もう一度復帰出来るかも知れないと、期待をかけて下さったが、午後になって又容態が急変し、とうとう危篤との知らせが入り、急きょ仕事をキャンセルして病院に着いたのが、5日19時頃、ベッドの上のガタは、嬉しそうに手を出してきてくれたので、『仕事! 全部終わったのかい』と聞いたら『終わったよ!』と言うから、『流石のモンスターも、仕事が終わったから気が抜けたな?』といったら『そう!』と素直に頷いて、ちょっと起きると言って、ベッドに座り直したが、やはり、辛くてすぐに横になった!
元気そうに見せたかったんだろう!
でも、声は大きくて元気だったから!

色んな話をしをしたが、一番気にしてくれてたのは、僕の第3作目の『旭山動物園物語』の出演を、約束してたのに、他の仕事のスケジュールで、断ったことらしく、初号試写の時には、忙しい合間を縫って見に来てくれたが、『監督さん、あれはホントに面白かった』と何度も励ましてくれ、『市長役をやった、万田久子が良かった』とも、誉めてくれた!
『あの出来なら『次郎長三國志』も、さぞ良かったろう! 見たかったな! (中井)貴一の次郎長ははどうだった』と聞くから、俺は主演男優賞を上げたいくらいだといったら、富良野の仕事(=フジテレビ開局50周年記念・倉本 聰ドラマ 木曜劇場「風のガーデン」)の話しになって、『おい! この貴一もき素晴らしいぞ』と感心してくれていたのが、うれしかった!
話しの最後に、俺の手を握りながら『お前身体大事にしろよ! 良い映画沢山創ってくれよな! 治ったら、うなぎ喰いに行こうな、白焼きをな』と冗談交えて、医者に危篤を宣言されてる患者とは思えない、明るい台詞を残して、その4時間後には、歌舞伎役者のように、虚空を睨み付けながら、静かに、静かに、息を引き取った! 実に安らかに、全く苦しむ様子も見せず、名優らしい! カッコいい! 立派な最後だった! 俺もあんな死に方したいと、本気で思えた! 臨終に間に合い、話が出来てつくづく良かったと思ってる!

<津川雅彦 遊びブログ「サンタの隠れ家」10月7日更新分より。原文のまま掲載>
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拳さんのオフィシャルブログ「hara8bunme」は
「風のガーデン」の記者発表会見があった9月30日以降、
更新されておりません。

しかし、10月5日として「じゃあな!」という言葉が
更新されているように思えてなりません。


亡くなる10月5日までの間に、
入院・手術・治療、そして逝去と、
ラストスパートをかけたマラソン選手のように
アッという間に駆け抜けて行った拳さん。

7日、近親者によって密葬が行われたそうです。

津川雅彦さんとともに臨終を見とった、
長男の緒形幹太さん(41)、次男の緒形直人さん(41)が
密葬後に記者発表で取材を受けました。

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(2人は黒いスーツ姿で記者会見場にあらわれ、報道陣約50人を前に、立ったままで質疑応答に応じた。直人さんは表情を隠すようにサングラスをかけていた)

(幹太) 8年前から肝臓を患っていた。3月から倉本さんの「風のガーデン」のロケに入ってまして、8月30日にクランクアップし、10月4日に……(涙ぐんで、声がうわずる)……肝ガンによる肝臓破裂の出血で、10月5日夜に亡くなった。

──体調は悪かったのか。
(幹太) 手術をすることはないが、体調が悪くなると病院に行って、点滴などを受けていた。

──その時はどんな様子だったか。
(直人) 仕事に前向きで意欲的で。病気に打ち勝ちたいという強い気持ちがあったのですが。肝臓を患っていたことは「絶対に言うな」と。(病気は)家族だけしか知らなかった。

──病気の発覚は。
(幹太) はっきりとは分からないが、肝炎が分かったのは、体調がすぐれなかったから。
(直人) ガンに移行したのが5年前ぐらい。強い気持ちがあったので、おれは絶対、大丈夫だと(言っていた)。家に帰ってくると「疲れた」というが、とにかく仕事人間で。仕事をしているときはうれしそうな表情をしていました。4日の夕方、ちょっとおかしいと病院に行って…。

──どのような治療を受けていたのか。
(幹太) ずっと仕事をしてきたので、入院するほどではなかった。治療というのは分からないね。検査はしていたが、治療をしなくても治るんだと。懸命に戦っていた。

──やせてきていましたよね。
(直人) 気が気じゃなかった。素晴らしい仕事をしていたので、急死ということでいろんな方に迷惑をかけ、おわびしたいが、僕らも急で…。ファンの皆さんにこんな報告をしなくてはならなくて…。俳優仲間の皆さまは突然のことだったのでびっくりしたと思うが、本人の希望で家族で密葬をすませた。後日、忍ぶ会をやる予定です。

──最近はどんな会話をしたか。
(直人) お互い絵が好きで。一緒に美術館に行こう、そんな話をした。

──いつごろの話か。
(直人) 9月に入ってからですね。30日の会見(「風のガーデン」の合同記者会見)は気合を入れなければいけないと、終わってからゆっくり行こうと(話していた)。

──どんな存在だったか。
(直人) あまりにもでかい存在。
(幹太) 一家の大黒柱でした。外にいれば俳優、家にいれば家族を大切にしていた。
(直人) どちらも(俳優としても父としても)、尊敬しています。

<10月7日「SANSPO.com」より。原文のまま掲載>
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Kassyにとって拳さんは
大好きな大好きな俳優さんだったわけですが、

Kassyが、緒形 拳さんのお姿を初めて拝見したのは
平成3年のNHK大河ドラマ『太平記』で、
足利尊氏の父・足利貞氏役で出演されたときが
最初だと記憶しております。

この時は、序盤の第1〜10話の出演でしたが、
日ごろは尊氏(当時は高氏)も顔を曇らせるほどのダメ親父、
しかし尊氏が道を外しそうになると
子を追放したり(追放という名の「研修」?)、
自分に死期が迫っていると感じると
自分が父から継いだ倒幕の意思を
確実に尊氏に受け継がせたり、

同じ役であっても、微妙な表情や絶妙な間で
それを表現なさっていて、
Kassyは、いっぺんに虜になってしまいました。


それからおよそ3年後?
NHK-BS2で再放送されていた、
昭和57年放送の大河ドラマ『峠の群像』も拝見しました。

このドラマでは、主演・大石内蔵助役を務めておられ、
まさに“昼あんどん”、しかし事を起こすときは眼光鋭く、
見ている側としても、非常にワクワクさせてくれるものでした。

大河ドラマ限定でいえば、
平成9年放送『毛利元就』の尼子経久役、
平成19年放送『風林火山』の宇佐見貞満役で
拳さんのお姿を拝見しましたが、

出演作品リストを見てみると、
もっともっとたくさんの映画やテレビドラマ、
舞台、CMなどに出演されておられたのですね。


この『太平記』でもそうですが、
それ以外のドラマで、出演俳優−脚本家という関係で
親交が深かった池端俊策さんのことを
拳さんは後にこう語っておられます。

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 脚本の池端俊策さんとは、映画『楢山節考』のときに出会ったのが最初。池端さんは監督の補佐というか、動物の世話係だったんですね。足元をシューッとヘビがいくシーンでね、「踏むの嫌だから早く出してよ」と言ってましたら、これがヘタでねぇ(笑)。「ヘビ係、ヘビ係」って呼んでたら、イヤな顔をしてました。
 それがある日、空き時間に、「実は脚本を書きたいんだ」と言う。「ヘビ係にろくなホンが書けるか」って、まぁ言ったんですが……ハハハ。
 それから『虹のある部屋』『海の群星』(共にNHK総合)と何作も一緒にやりました。池端さんのホンて、セリフがうまいんだなぁ……役者に説明させない。人間をひたーって、見つめている感じがしますね。
 ドラマにはよくあるけど、普通の人が叫んだりすることって本当はあまりないじゃないですか。そういう普通の人の中のドラマチックな部分をふくらませるのが実にうまい。
 貞氏も演じてて面白かったですよ。最期に遺言を語るシーン(第10回)は、ホンでは貞氏は寝たままだったんだけど、「火が見たい」って言ってね、起きて話すようにしたんです。死ぬときに息も絶え絶えっていうのは、だれでもやるしね。吸い込んだ息をそのまま全部吐き出しちゃうように、人間が最後の力を振り絞るって感じを出したくって……。
 ボクが一番大事にしてるのはロングショットなんですよ。アップなんて、しょせんただのアップ。ロングで全身映ったときは、役者の手の先から足の先までピーッと神経行き届いてるってことですから。特にね、池端さんのホンは、ロングが大事でね。えぇ、僕、池端さんをね……これはカタカナで“ソンケー”してますから(笑)。今度映画も一緒にやりますよ。
 “大河ドラマ”って言いますけど、『紅白』と同じで、騒ぎすぎだよね。別に普通のドラマですよ。慣れてきちゃうのは怖いけどね。

<「NHK大河ドラマ・太平記 ドラマ脚本集」55頁より原文のまま掲載>
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今年8月2日に、
NHK広島放送局開局80周年を記念したドラマ
『帽子』が放送されましたが(番組サイトはコチラ。)
この作品でも、脚本家−主演俳優 という関係だったおふたり。

この組み合わせは、
もう二度と拝見することができません。
とても残念です。

今月から放映が開始された、EPSON「カラリオ」のCMは、
拳さんが亡くなったことで
わずか数日で放映が中止になったそうですが、
Kassyは偶然にも、1度だけ見れました。


最後に、拳さんがみなさんに贈った言葉の中で、
次のようなものがありました。
その言葉をご紹介して、
今日のブログをおしまいにしたいと思います。

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ほんとに
ほんとうに
おつかれさま
でしたッ. すべてのヒトに
感謝です、

<緒形 拳 オフィシャルブログ「hara8bunme」2007年11月25日より原文のまま>
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安らかに、ゆっくりお休みください。

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