大河ドラマ篤姫・(50)一本の道 [終]
今日は『篤姫』最終回!
なので、『その時歴史が動いた』風にお届けします(^ ^)
人間のドラマ。
それを人は歴史と呼びます。
決断の時、
決行の時、
人は何を考え、
どのようにして動いたか。
その歴史の決定的瞬間を取り上げます。
そしてみなさん、いよいよ「その時」がやってまいります。
原作:宮尾 登美子 (『天璋院篤姫』講談社 刊)
脚本:田渕 久美子
音楽:吉俣 良
テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
テーマ音楽指揮:井上 道義
演奏:弦 一徹オーケストラ
題字:菊池 錦子
時代考証:原口 泉
:大石 学
建築考証:平井 聖
衣裳考証:小泉 清子
脚本協力:田渕 高志
撮影協力:鹿児島県
:鹿児島県 鹿児島市
:茨城県 つくばみらい市
:博物館 明治村
所作指導:西川 箕乃助
武術指導:林 邦史朗
香道指導:三條西 堯水
仏事指導:金嶽 宗信
写真指導:山本 一夫
馬術指導:田中 光法
華道指導:杉本 康子
書道指導:望月 暁云
手芸指導:山本 恭子
薩摩ことば指導:西田 聖志郎
御所ことば指導:堀井 令以知
京ことば指導:井上 裕季子
資料提供:徳川記念財団
:尚古集成館
:京都造形芸術大学
:東京国立博物館
:伊牟田 志香人
:野本 禎司
:竹村 誠
語り:奈良岡 朋子
──────────
[出演]
宮崎 あおい (天樟院)
瑛 太 (小松帯刀)
小沢 征悦 (西郷隆盛)
原田 泰造 (大久保利道)
堀北 真希 (静寛院)
樋口 可南子 (お幸)
岡田 義徳 (島津忠敬)
ともさか りえ (お近)
中嶋 朋子 (重野)
高橋 由美子 (唐橋)
原田 夏希 (お琴)
岩井 友見 (歌橋)
小林 麻子 (しの)
スズキ ジュンペイ (木戸孝允)
安倍 麻美 (常磐)
コロッケ (太助)
三谷 昌登 (千吉)
稲葉 さゆり
澁谷 晶己
細川 あゆみ
岡島 亜紗美
渋谷 宏美
柴垣 亜希
吉武 怜朗 (徳川家達)
私市 夢太 (徳川家達)
長谷川 愛美 (近衛泰子)
高橋 平 (小松清直)
中村 柊芽 (小松安千代)
幸塚 瑠菜
枝川 吉範
今吉 祥子
ゲオルグ
劇団ひまわり
キャンパスシネマ
セントラル子供タレント
若 駒
テアトルアカデミー
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[出演(回想)]
堺 雅人 (徳川家定)
松田 翔太 (徳川家茂)
長塚 京三 (島津忠剛)
佐々木 すみ江 (菊本)
玉木 宏 (坂本龍馬)
沢村 一樹 (小松清猷)
平 岳大 (徳川慶喜)
余 貴美子 (英姫)
鶴田 真由 (志賀)
河野 安郎 (島津忠冬)
岩本 千波 (於一)
古本 新乃輔 (後藤象二郎)
眞野 響子 (フク)
中村 梅雀 (井伊直弼)
松坂 慶子 (幾島)
高橋 英樹 (島津斉彬)
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稲森 いずみ (滝山)
高畑 淳子 (本寿院)
山口 祐一郎 (島津久光)
片岡 鶴太郎 (岩倉具視)
北大路 欣也 (勝 海舟)
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制作統括:佐野 元彦
制作:屋敷 陽太郎
美術:山口 類児
技術:市川 隆男
音響効果:西ノ宮 金之助
撮影:溜 昭浩
照明:中山 鎮雄
音声:渡辺 暁雄
映像技術:片岡 啓太
記録:水島 清子
編集:佐藤 秀城
美術進行:山尾 輝
演出:佐藤 峰世
明治元(1868)年の暮れ。
天樟院は、仮の住まいとしていた一橋邸から
赤坂にある紀州藩江戸屋敷へお引っ越しします。
本寿院や唐橋も、天樟院とともに移ります。
唐橋は、西洋のパラファムという
今で言う香水を紹介し、
天樟院はじめ、本寿院や歌橋とともに
シュパシュパとやりまくっています。
徳川宗家を継ぐことを許された徳川亀之助は
名を家達(いえさと)と改め、駿府にいます。
天樟院は家達の身を案じていますが、
勝 海舟の報告に、ひとまず安堵といったところです。
小松帯刀は、版籍奉還を薩摩藩が率先して行うことを
国父・島津久光に力説しています。
久光は、若干不満が残っていますが、
しぶしぶ受け入れます。
新政府の運営は多難を極めております。
天樟院は、新政府に参加しているはずの西郷隆盛が
薩摩に帰っていることを耳にし、一抹の不安を覚えます。
ともに参加している小松の名を挙げますが、
勝によれば、小松は大阪医学校に入院療養中だそうで、
小松不在が、新政府混乱の一因となっている模様です。
翌、明治2(1869)年10月。
薩摩から、久々の再会となる客人が来訪します。
その客人とは、天樟院の実母・お幸と
兄(義兄?)の島津忠敬であります。
お幸とは、しっかりと抱き合い、母娘の再会を喜びますが、
横に控えている兄の島津忠敬の存在も忘れてはいません。
抱き合うことはしないまでも、
昔の兄娘の姿のまま、であります。
お幸は、天樟院の江戸城大奥での苦労をねぎらいますが、
ここまでやってこれたのは、
幼い頃の母の教えがあったこそであります。
「おのれの“役割”を果たすこと」
「一方を聞いて沙汰するな」
「感じるままにせよ」
天樟院は、お幸に礼を述べ、
そんな天樟院の母であることを誇りに思うお幸ですが、
お幸は翌月、帰国した薩摩で安らかに息を引き取ります。
明治3(1870)年7月。
小松は病床にあっても、新政府への熱意は冷めることを知らず、
大久保利通や西郷に手紙を書いていますが、
途端に吐血してしまいます。
看病に当たっていたお琴は、小松の病状について
急ぎ薩摩のお近に知らせます。
薩摩から駆けつけたお近と二人で、
協力して小松の看病に当たることにしますが、
その甲斐なく、小松の容態は悪化の一途をたどっています。
「すばらしい日々だった──」
いままで出会った様々な人たち、
そしてお近に感謝しながら、小松は世を去ります。
享年36。
まだまだ働き盛りの年でした。
翌8月。
天樟院は、紀州屋敷を訪ねてきた大久保から
小松の訃報を知らされます。
天樟院の、不吉な予感が当たってしまったわけです。
大久保は、小松が死の直前にしたためた手紙を受け取っていて、
その遺志を継ぐために、
薩摩に帰っている西郷を説得するつもりのようです。
大久保との対面を終えた天樟院は、
島津斉彬から下された色違いの御守を手に号泣。。。
小松と天樟院は、生まれた時も2ヶ月違いで
幼い頃から行動をともにしていただけに、
小松の死は大ショックであります。
一方、薩摩に帰った大久保は西郷と再会します。
「まっこて、かごんまは遠かとなぁ」
「遠かとは江戸……東京のほうじゃ」
小松からの手紙を手に、互いの心を即座に理解。
さすがは“盟友”でありますね。
そして西郷は、新政府に復帰し、
廃藩置県を断行します。
「版籍奉還」では、藩の領地を朝廷に返上しても
実質的実権は藩主が引き続き握っていましたが、
今回の「廃藩置県」では、藩の代わりに県を置き、
新政府が直接支配できるようにした政策であり、
旧藩からの反発が予想できます。
西郷隆盛が、
廃藩置県断行を決断した言葉が残っています。
「もし暴動が起きれば、拙者が引き受け申す」
(「大西郷全集」より内容を引用し、一部意訳)
「私情においては、忍び難いが、
しかし、廃藩は天下のすう勢である」
(「西郷隆盛書簡・桂四郎宛」より内容を引用し、一部意訳)
大久保利通が、
廃藩置県断行を決断した言葉も残っています。
「このまま何もせずに政府が瓦解するよりは、
思い切って廃藩を断行して瓦解した方が良い。」
(「大久保利通日記」より内容を引用し、一部意訳)
一方、小松に説得されて版籍奉還をしぶしぶ認めた久光は、
新政府に対して批判の言葉を遺しています。
「維新当初、余が藩を犠牲とし、一身を顧みず、
断じて天下に殉じたるを忘失せし乎(か)」
(「維新前後実歴史伝」より内容を引用し一部意訳)
めまぐるしく変わってゆく日本を、
天樟院はしみじみと見守るしかありません。
廃藩置県により、駿府にいた家達は東京へ帰還します。
天樟院は家達に、武士としての鍛錬をさせ、
英語を習わせたりと、新時代にふさわしい教育を施します。
新政府の情報は、勝経由で
天樟院の耳に自動的に入ってきますが、
明治6(1873)年10月、
新政府に復帰した西郷が、再び下野するようです。
鹿児島に帰る西郷は、出発前に天樟院に逢いに来ます。
やはり、いくら“盟友”とはいえ、
意見が食い違うところも出てくるわけで、
それが元で帰国するそうです。
そんな時、京都へ帰っていた静寛院が
久々に紀州屋敷の天璋院を訪れます。
静寛院は家達の聡明さに触れ、ホッと一安心。
ほどなくして、天樟院と静寛院の2人は、
勝の案内で芝居見物に出かけます。
江戸城大奥の時代よりも一層
親交が深まっているようです。
静寛院曰く、江戸へやって来た当初は
天樟院と家茂の仲睦まじさに嫉妬していたそうで、
それが天樟院と静寛院の仲の悪さに発展していたようですが、
今ではそれが言えるほど、壁はなくなっています。
しかしその後、静寛院は32歳で亡くなります。
明治9(1876)年。
家達と近衛泰子の婚約祝いに
滝山や重野ら、懐かしい大奥の面々が
天璋院の屋敷に集まります。
大奥を出た後の滝山の消息は不明でありまして、
天樟院は心配していたのですが、
どうやら養子夫婦を迎えたそうです。
演者の稲森いずみさんからは想像できませんが、
この時の滝山は72歳ですからね(^ ^;;)
「今日は……最良の日じゃ」
天璋院は満足そうに微笑み、写真に収まります。
明治10(1877)年、下野した西郷は
新政府に不満を持つ武士たちとともに西南戦争を起こし、
新政府軍によって鎮圧、西郷は戦死してしまいます。
そして翌明治11(1878)年5月、
大久保は紀尾井坂の路上で
新政府の政策に不満を持つ者たちによって暗殺。
天樟院の知った者たちが、
自分を残して次々と世を去っていくことに
天樟院は耐えられません。
家定の位牌に手を合わせ、涙を流します。
5年後、家達は子を授かります。
生まれてくるであろうその子のために、
天樟院は産着を縫っています。
家定が願っていた、徳川の家族が
こうして続いて行く……。
天樟院は、ホッと安堵したのかもしれません。
おのれを信じた“一本の道”。
その道を必死に歩み続け、天命を全うした天樟院篤姫は、
明治16(1883)年11月20日、
49年の波乱の生涯を閉じました。
勝が天樟院を評した言葉が残されています。
「天璋院の人となりは貞婦というか烈婦と申そうか、
実に類い希なるお方である」
(『勝海舟全集・第22巻 秘録と随想』より引用し意訳)
(以上は、NHK番組サイト『その時歴史が動いた』より引用しました)
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『篤姫』
総集編第1回「御台所への決心」
アナログ総合・デジタル総合:12月26日(金) 午後7時30分〜8時43分
総集編第2回「大奥入城」
アナログ総合・デジタル総合:12月27日(土) 午後7時30分〜8時43分
総集編第3回「天樟院篤姫」
アナログ総合・デジタル総合:12月27日(土) 午後9時〜9時58分
総集編第4回「徳川の母」
アナログ総合・デジタル総合:12月28日(日) 午後7時30分〜8時43分
総集編第5回「無血開城」
アナログ総合・デジタル総合:12月28日(日) 午後9時〜9時58分
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コメント
1年の長丁場お疲れ様でした(^o^)/
僕も篤姫は興味があったから、出来るだけ見るようにしていたんですが、見逃した時には、Kassyさんのところで学び、次週の放送に頭の中のストーリーを繋げることが出来ました(^^♪
──────────
たっくんさーん。こんにちは!
今日もコメントありがとうございまーす。
>1年の長丁場
Kassyの大河ドラマシリーズとしては、
今回の「篤姫」は2作目となるわけですが、
毎週毎週、新しく放送されてしまいますからね〜。
時間に追われて大変だったかもしれません。
>Kassyさんのところで学び
「学び」!?
学んじゃったのですか(^ ^;;)
ともかく、参照いただいて光栄です!
投稿: ★たっくん | 2008年12月18日 (木) 03:33
篤姫は長生きしたと、思っていましたが、
短い波乱な人生だったんですね。
──────────
うっちゃんさーん。
>篤姫は長生きしたと、思っていましたが、
篤姫に関わりのある人たちの中では
けっこう長生きの方かもしれません。
旦那や養子・義娘などは、短命でしたからね。
>波乱な人生だったんですね。
江戸城入城以降、大奥の代表として
いろいろな局面で難題を乗り越えてきましたからね。
ドラマでは、多少は“ドラマ仕立て”になっているのが
気になりましたが、それ抜きにしたとしても、
とても波乱だった一生なのでしょうね。
投稿: ★うっちゃん | 2009年1月 8日 (木) 21:40