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2012年3月18日 (日)

大河ドラマ平 清盛・(11)もののけの涙

腰刀を抜いてを切り落とした
“京随一のもののふ”佐藤義清──。

身を捨つる
 人はまことに 捨つるかは
  捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

その義清は23歳の若さで世捨て人となり、
関わりのあった宮中の人々に少なからず衝撃を与えます。

人が人を愛しく思うことの罪深さを義清に知らしめた
待賢門院璋子は「すまぬことをした」と悔い、
唯一の心の味方を失った崇徳天皇は焦って声を荒げます。

その崇徳天皇と女房(兵衛佐局)の間に重仁親王が誕生します。
待望の皇子誕生は、鳥羽上皇─得子ラインに
対抗できるチャンスが巡ってきたことを意味します。

やはり血の薄い人物に位を譲るよりも
血の濃い実子に譲った方がいいのは理の当然であります。
さっそく崇徳天皇は、鳥羽上皇に
重仁親王に帝位を譲りたい胸を伝えます。

ただ、崇徳天皇の東宮(皇太子)は、得子の策略によって
養子の躰仁親王(上皇と得子の皇子)に決まっております。

鳥羽上皇がなしたように、自分も子の後ろ盾となり
自分が思う政治をしていきたい!
今まで虐げられてきた天皇が、初めて牙を剥いたわけますが、
そんな考えの崇徳天皇に、得子は余裕な笑みさえ浮かべています。

重仁親王を帝の座につける算段として、
得子が天皇に提案したのは──。

兵衛佐局が女房気取りとなってしまっては
崇徳天皇の中宮・聖子やその父である関白藤原忠通が不快に思うため、
崇徳天皇から重仁親王へ強引に譲位がなされれば
それを阻もうと関白が上皇と手を結ぶ可能性があります。

そうなる前に、まずは天皇が躰仁親王に譲位することで
関白への顔を立ててやる。
その上で、躰仁親王の退位後に重仁親王が天皇に即位すれば
崇徳天皇も院として政治を行え、すべてが丸く収まるわけです。

翌、永治元(1141)年12月7日、
得子の進言に従って、崇徳天皇は帝の座を
東宮・躰仁親王に譲ります。

(宣命使)「皇太弟と定めたまへり──」

譲位の儀式で、“皇太子・躰仁親王”ではなく
“皇太弟・躰仁親王”に譲位するという宣命が
読み上げられていたわけです。

つまり、皇太子に譲位であれば
その“親”として院政もできますが、
皇太弟に譲位であれば、
その“兄”としては院政は行えません。

“親”として院政ができるのは……
実の父である鳥羽上皇であるわけです。

「違う……違う!」
崇徳天皇は、得子の謀略にまんまとはまってしまいます。
顔面蒼白となり地団駄踏みますが、時は既に遅かったようです。

こうして、皇太弟・躰仁親王は近衛天皇として即位し、
崇徳天皇は崇徳上皇に、
そして鳥羽上皇は出家して鳥羽法皇となります。

すべては得子の思惑通りですが、事はここでは終わりません。

そののち、永治2(1142)年1月19日には
璋子に仕える判官代・源 盛行と妻の津守嶋子を
土佐へ遠流と決定しました。
“得子を呪詛した咎”なんだそうです。

権力者として変貌した得子は、その呪詛調伏が
勝手にやったことか、璋子が命じてやらせたことか、
そこまでは詮索しませんでしたが、

璋子は、その璋子としての人形が
かつて得子が初めての子(皇女)を産んだ時のお祝いの品でして、
いわばこれは、璋子を陥れるためのワナとも言え
璋子派は失脚、堀河局は悔しがります。

しかし璋子は、鳥羽法皇を傷つけ、崇徳上皇を苦しめ、
佐藤義清を出家に追いやった自らの罪深さを受け入れて
堀河局たちとともに髪を下ろします。


話は若干戻って、永治2(1142)年・正月。
天皇家お家騒動(←と言っていいのか?(笑))の直後だけに
平氏による正月の祝いの席でも、
天皇家との結びつきについて会話が飛び交います。

鳥羽法皇に加えて、今や皇后となった得子にも
取り入っておくべきという声もあり、
無節操なやりようは逆に不信を招くとの声もあり、

鳥羽法皇ばかりではなく、
摂関家としての力を盛り返しつつある内大臣・藤原頼長にも
忠義を励むことも考えては? との声もあります。

棟梁・平 忠盛が三位の公卿になれるかどうかでありまして、
平 家盛は「引き続き法皇様に忠勤を」と提案します。

忠盛の妻・宗子、清盛の妻・明子、
家盛の妻・秀子の3人で正月のお祝いに合奏することになりました。

柔らかな音色の中にも力強さがある宗子の和琴、
品のよい音色の秀子の笙、
明子の琵琶の音は、さすがに人柄をよく表して凛としています。

3つの音色が調和しているということは
それぞれがそれぞれの色を出し、
お互いに足りない部分を補い合い、高め合うわけで、
これこそ平氏一門の追い求める姿だとウマくまとめます(^ ^;;)

琵琶の腕を買われた明子は
やんごとなき姫君たちに琵琶を教えることになり、
かつての教え子である時子にも
お手伝い役として声を掛けることにしました。

その指導は清盛館で行われるわけで、
当然ながら時子は清盛と再会するわけですが、
清盛は過去に時子と出逢ったことは覚えておりません。

平 盛国のらんらんとした視線を追うと
その先には貴族の娘の侍女・波子に注がれておりまして、
明子と清盛は、そんな盛国に波子との縁談を持ちかけます。

ただ、盛国は漁師出身であることを気にして
一度は縁談を断りますが、
清盛に尽くしてくれていることに報いたい明子は
折れて結婚を受け入れます。


さて、放浪の旅を続ける源 義朝ですが、
行く先行く先で多くの武士を従え、
今や立派な棟梁(のような存在)となっております。

相模の波多野義通も義朝の配下に加わり、
妹の通子は義朝の側室になってのちに朝長を生みます。
ちなみに朝長は義朝の次男坊でありまして、
長男坊は三浦党の娘との間に生まれた義平です。

その義朝の実家では、相変わらず由良姫が訪れて
イマイチぱっとしない源 為義に言いたい放題。
源氏の棟梁たる人物がいつまで位低き検非違使で
手柄も上げずにくすぶっているのか──。

黙らっしゃい! と声を荒げた為義に圧倒された由良姫は
急にしおらしくなり、手をついて数々の非礼を詫びます。
「私はただ……義朝殿にお逢いしとうて」


清盛は、夫婦そろって神社へ参詣に訪れますが、
帰り道に病に苦しむ男を助けたことが原因か
明子は流行の疫病にかかって意識不明に陥ります。

この流行病は一切の薬も効かず、薬師もお手上げの状態であり、
半ば狂乱気味の清盛は
宋の薬を手に入れようと博多に向かおうとしますが、
熱がさらに高くなったことで足止めを食らいます。

清盛は、たくさんの僧たちに病気平癒の祈祷をさせて
自らも一心に祈り続け、陰陽師にも占わせることにしますが
陰陽師の存在は、忠盛が完全に否定しています。
清盛の母・舞子は、陰陽師の占いが元で
命を狙われて殺されたのですから。

ともかく、清盛らによる明子の命を助けたいという願いも
明子にはなかなか届かないようです。

「明子は……幸せにござりました」
熱にうなされながらも、目を開けて
一言一言をゆっくりと語りかけた明子。

いたたまれなくなった清盛は、
明子の父・高階基章や盛国が止めるのも聞かずに
明子の部屋へ飛び込みますが、すでに息を引き取っていました。

祈祷僧を蹴飛ばし、つかみかかり、宋剣を抜く清盛を
盛国はガッチリと抱きしめています。

皆が健やかに生きられる世を、殿がお作りなさりませ──。

──────────

永治元(1141)年12月7日、
崇徳天皇は躰仁親王に譲位し、近衛天皇が即位する。

治承4(1180)年8月17日、
源 頼朝が挙兵して平氏に反旗を翻すまで


あと38年8ヶ月──。


作:藤本 有紀
音楽:吉松 隆
題字:金澤 翔子
──────────
松山 ケンイチ (平 清盛)
玉木 宏 (源 義朝)
深田 恭子 (時子)
三上 博史 (鳥羽上皇)
加藤 あい (明子)
豊原 功補 (平 忠正)
金田 明夫 (鎌田通清)
矢島 健一 (藤原教長) ※ ピンクレジットなし
──────────
檀 れい (待賢門院 璋子)
りょう (堀河局)
井浦 新 (崇徳天皇)
田中 麗奈 (由良姫)
平田 満 (高階基章)
藤木 直人 (佐藤義清(回想))
岡田 将生 (源 頼朝・語り)
──────────
小日向 文世 (源 為義)
和久井 映見 (宗子)
上川 隆也 (平 盛国)
松雪 泰子 (得子)
中村 梅雀 (平 家貞)
中井 貴一 (平 忠盛)
──────────
制作統括:磯 智明
    :落合 将
プロデューサー:櫻井 壮一
演出:渡辺 一貴


◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『平 清盛』
第12回「宿命の再会」

デジタル総合:午後8時〜
BSプレミアム:午後6時〜

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