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2012年9月14日 (金)

プレイバック義経・(37)平家最後の秘密

壇ノ浦の戦いで、平氏を滅亡に追いやったことで
後白河法皇からお褒めの言葉をもらった源 義経。
ここは法皇のために何としても
三種の神器の宝剣を探し出したいところですが、

まだ見つからない安徳天皇については、
義経は何となく疑いを持っています。

時子の胸に抱かれて安徳天皇は入水している一方で、
源氏から攻撃を受けそうになる際、能子はとっさに
守貞親王を白い布で巻いて助け出したわけです。

建礼門院徳子らに天皇の行方を尋ねたときの目の泳ぎようなど
その不可解な行動がしっくりきません。


鎌倉・大倉御所──。

源 頼朝の耳には、すでに壇ノ浦で
平氏を滅亡せしめたことは入ってきております。
ただ、滅亡は一種の通過点であり、
あくまでも武家政治の樹立が最終到達地点です。

そのために、三種の神器が全て揃い
帝もともに源氏の手中にあれば、
朝廷や法皇に対して絶好の切り札を持つことになり
断然有利に話を進められますが、

現実には宝剣が見つからず帝もいない現状では
ちと厳しい状況と言わざるを得ません。

それと懸案事項がもう一つ。
一の谷合戦から屋島にかけて勲功のあった武将二十余名が、
頼朝の許しなく法皇から官位を授かっております。

戦の最中にその処罰をすれば、
味方の士気を削ぐことになるので処罰は延期しておりましたが、
それをそろそろ確定させなければなりません。

頼朝は、ともに官位を授かった義経に
美濃国墨俣川から東には進むな、という
その二十余名への処罰を言い渡す役割を任じます。

そのかわり、処罰の対象者リストからは義経を外すわけです。
あとは、義経がどう出処進退を表すかです。


元暦2(1185)年4月25日、
義経軍はおよそ3ヶ月ぶりに都へ凱旋。
さっそく法皇の呼び出しを受けた義経は、法皇の要請のまま
三種の神器の残る2つを返還すべく昇殿します。

宝剣は仕方ないとしても、
残る2つが戻ってきたことはとても喜ばしいことであります。
これからも検非違使の務めに励むように言葉をかけられ、
身が引き締まる思いです。

六条にある堀河館に屋敷をもらった義経は、
ここで京の暮らしを営むことになりました。
そこには、正妻たる萌も そして静もおります。

無事に戻った面々に静はとても嬉しそうですが、
一の谷で落命した佐藤継信のことを知って、
静は落涙し、萌は佐藤忠信にお悔やみを伝えます。

義経は、一の谷から仲間入りした鷲尾三郎に
数々の戦功への褒美として、
片諱を授けて「義久」の名を与えます。

あ、そうそう。
京の留守中、変わったことと言えば、
うつぼが嫁に行きました。
それを知った喜三太は、
嬉しいのやら悲しいのやら複雑な表情です。

頼朝から、例の処罰者リストが送られてきました。

義経自身も官位を賜ったひとりですが、
処罰者リストに名がないということは
それは一の谷から壇ノ浦への戦功が認められて
その恩情があったのだろう、と比較的好意的に受け取ります。

しかも、処罰を伝える役目を任されたということは
それだけ頼朝の信頼が厚いということにもなります。


そのころ鎌倉には、戦目付として義経と行動をともにしていた
梶原景時からの書状が届いていました。

そこには、義経は戦に勝ちはしたものの
夜襲や不意討ち、舟のこぎ手を射るなど
堂々とした戦が一切なかったと書かれ、

更には屋島の戦いにおいて、
逆櫓をつけるかつけないかで大もめにもめたことを暴露し、
軍の将としての器に乏しいともありました。

確かに義経は、戦のルールとか習わしとかを一切知らずして
総大将になってしまったということもあるので、
そういうルールを全く無視した、というのも
ある意味仕方ないことですが……。

そこへ大江広元が慌てて入ってきます。
広元宛に届いた書状を頼朝に手渡しますが、
読み進める頼朝の表情から、血の気がみるみる引いていきます。
「神器を院に返し奉った、とある!」

最大の切り札、カードであった
三種の神器を返還されてしまっては、
頼朝が思い描いた武家政治へのサクセスストーリーも
音を立てて崩れていきます。

しかも、無断任官に対する詫びを
二十余名の武将たちは次々に鎌倉へ入れていく中で、
義経からは何の音沙汰もなく……。

日ごろ感情を表に出さない頼朝が、珍しく爆発。
書状をくしゃくしゃに破り捨てます。
「九郎は……何も分かっておらぬのか!」


義経館に、梶原景季がやって来ました。
言おうか言うまいかさんざん迷った挙げ句、
言った方が良かろうと、
わざわざ人目をはばかって来てくれたようです。

景季曰く、景時へ頼朝からの命があったそうです。
「この後、九郎に従うことはならぬ」と。

確かに最近、いつもは気さくに挨拶を交わしてくれる梶原党の面々も
最近はどことなくよそよそしさが感じられ、
目線すら合わせてくれません。
忠信もなんとなく感づいてはおりました。

鎌倉殿の間に一体何がござった!? と景季は声を荒げますが、
義経には身に覚えのないことで何が何だか全く分かりません。

戦でしかお役に立てぬ私は、もはや不要ということか──。

「鎌倉殿は何ゆえ私をお疑いか……何ゆえお怒りか」
義経は胸を痛めます。
後ろで偶然話を聞いてしまった静は、
義経の辛さを考えると、涙が止まりません。


義経は久々に鞍馬寺を訪問します。

覚日律師は、御仏の教えの中に
この世には8つの苦しみがある、と説きます。

「生」「老」「病」「死」
「愛別離苦」(あいべつりく)
「怨僧会苦」(おんぞうえく)
「求不得苦」(ぐふとくく)
「五蘊盛苦」(ごうんじょうく)


求めても求めても得られないからこそ苦しむ
「求不得苦」を例に出します。

思いも何とかしようとするからこそ難儀であり
いっそ捨ててみなさい、と義経に教えます。

武蔵坊弁慶が「皆が案じております」と
義経を呼びに来ました。

己ひとりの身であるならば
全てを打ち捨てることも叶うでしょうが、
今は人の上に立つ身であり、捨てることはできません。
義経は律師に手をついて山を下ります。

鎌倉殿に対し二心あるべくやうもなく、
天地神明にかけてお誓い申し候──。

屋敷に戻った義経は、水で身を清めて
頼朝に対し起請文をしたためます。


京・長楽寺で徳子は髪を下ろし、仏門に入りました。
義経は確かめたいことがあって、その建礼門院を尋ねます。

「親王様のお顔を拝し奉りたく」と口にした瞬間、
建礼門院の眉がピクリと動いたような気がしました。

生き残った親王は、安徳天皇の異母弟に当たり
建礼門院の実子ではありません。
しかし、親王の顔はどことなく建礼門院に似ています。

お互いがお互いの間合いを計っています。
火花が散る瞬間です。
対面所の外では、いつでも飛び出してゆけるように
明子と輔子が懐刀を握りしめて控えています。

建礼門院はあくまでもシラを切り、
もし親王を鎌倉へ連れてゆくのであれば
自分の命を奪うことだと強気に出ますが、

幼い子どもが母から引き離されるというのは、
かつて牛若と名乗っていた義経自身もそうであったように
子どもにとってはなかなか辛く悲しいものであります。
心置きなくお過ごしなされますよう、と手をつきます。

別の帝が即位した今となっては、
親王(実は安徳天皇)が天皇になる道はありません。
いずれどこかの寺へ送り、政とは全く関わりないところで
仏の道を歩ませるつもりだ、と建礼門院は言います。

「心遣い、痛み入る」

あくまでも実子をかくまう母に問うた義経と、
あくまでも義理の母として答えた建礼門院と、
二人の静かな戦いは終わりました。

──────────

元暦2(1185)年5月1日、
『平家物語』悲劇のヒロイン・建礼門院徳子が
出家して直如覚と名乗る。

元暦2(1185)年5月24日、
源 義経が兄・源 頼朝に弁明の腰越状を送るまで

あと23日──。


原作:宮尾 登美子
   「宮尾本平家物語」「義経」より
脚本:金子 成人
音楽:岩代 太郎
脚本協力:川上 英幸
    :眞鍋 由起子
題字:陳 燮君
タイトル画:宮田 雅之
語り:白石 加代子
──────────
[出演]
滝沢 秀明 (源 義経)
松平 健 (武蔵坊弁慶)
石原 さとみ (静)
南原 清隆 (伊勢三郎)
うじき つよし (駿河次郎)
伊藤 淳史 (喜三太)
海東 健 (佐藤忠信)
長谷川 朝晴 (鷲尾義久)
尾野 真千子 (萌)
小栗 旬 (梶原景季)

中越 典子 (建礼門院徳子)
戸田 菜穂 (輔子)
後藤 真希 (能子)
塩見 三省 (覚日律師)
松尾 貴史 (大江広元)
五代 高之 (善信)
──────────
平 幹二朗 (後白河法皇)

財前 直見 (北条政子)
中尾 彬 (梶原景時(回想))
草刈 正雄 (平 知康)
夏川 結衣 (明子)
小林 稔侍 (北条時政)

松坂 慶子 (時子(回想))

中井 貴一 (源 頼朝)
──────────
制作統括:諏訪部 章夫
演出:木村 隆文

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