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2013年1月 2日 (水)

大河ドラマ平 清盛・(51-1)総集編第一回・武士の世

(01)ふたりの父
1185年、壇ノ浦の戦いで平家一門は滅亡。源 頼朝(岡田将生)はその知らせを鎌倉で北条政子(杏)から聞いた。歓声をあげ平家を罵倒する家来たちをよそに、頼朝は武士の世を初めて作った男・平清盛の偉大さを改めて思い返していた。

1118年、京都。300年の平安を誇った貴族の世も乱れ、平氏の嫡男・平 忠盛(中井貴一)は、朝廷の命令のまま盗賊の捕縛を行うなどの汚れ仕事を行っていた。そんなある日、忠盛は物乞い姿のひとりの女と出会う。
その女・舞子(吹石一恵)は院の御所に出入りする白拍子で、時の最高権力者・白河法皇(伊東四朗)の子を身ごもっていた。不吉な子として殺されることを恐れた舞子は、源 為義(小日向文世)たちの追及から必死に逃げていた。そんな舞子を忠盛は自らの屋敷にかくまった矢先、赤子は生まれた。その赤子こそが、のちの平 清盛であった。
忠盛はやがて舞子と心を通い合わせる。「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」という舞子の歌から、忠盛は「今を夢中で生きる」ことの大切さを教わる。しかし、ふたりの幸せは長くは続かなかった。
舞子は為義に捕まり、白河法皇のもとに引き出された。法皇の寵妃である祇園女御(ぎおんのにょうご:松田聖子)や忠盛は赤子の助命を嘆願するが、それでは「赤子の代わりに舞子を殺せ」と法皇は忠盛に命じる。窮地の忠盛を見かねた舞子は赤子を忠盛に託し、法皇に刃物を向けるが、護衛の弓矢で命を落とす。のこされた赤子に忠盛は「平太」と名づけ、育てる決心をする。
時は流れ、朝廷や王家にはわざわいの種が見え隠れしていた。1123年、白河法皇は帝の座から鳥羽天皇(三上博史)を引きずり落とす。しかも法皇は鳥羽の后(きさき)である璋子(たまこ:檀 れい)とも関係をもち、鳥羽上皇はひとり苦しむ。
一方、忠盛は宗子(和久井映見)を妻に迎え、平太(前田旺志朗)を実子として育てていた。ところがある日、平太は町で出会った見知らぬ少年(前田航基)から、実の父親が白河法皇であることを知らされる。悲しみにくれる平太に、忠盛は出生の秘密を打ち明けた。そして、「死にたくなければ、強くなれ」と突き放し、平太に自らの運命に恐れずに、立ち向かえと試練を与えた──。

(02)無頼の高平太
成長した平太(松山ケンイチ)は、ふたりの父を持つという数奇なさだめを知らされ、何者でもない自分にいらだち、賭場をうろつきまわっていた。人々はそんな平氏の嫡男をいつのころからか「無頼の高平太」と呼ぶようになっていた。育ての父である平 忠盛は、血のつながらない平太を嫡男として育てていることで、弟の忠正(豊原功補)といつもぶつかりあう。
そんなある日、夜の町をさまよう平太は、落とし穴にはまった男・高階通憲(たかしなのみちのり:阿部サダヲ)を助けた。通憲は乱れた世を嘆き、殺生禁断令(せっしょうきんだんれい)をだして狩りや漁を禁じた白河法皇を「もののけ」と呼んだ。
白河法皇は平太の実の父でもあった。絶大なる権力者として悪政を続け、祗園女御の話にも耳を傾けない。一方、鳥羽上皇は、后である璋子のもとに通いつつも、白河法皇への憎しみを募らせていた。
1129年、平太の元服式が行われた。派手な衣装であらわれた平太は加冠役の藤原家成(佐藤二朗)に白河法皇の悪政を貴族が正さないことを責めた。侍大将・伊藤忠清(藤本隆宏)が無理やり平太を押さえつけ、忠盛は「清盛」の名を与えた。平 清盛が世にあらわれた。
ある日、清盛が兄のようにしたう漁師の鱸丸(すずきまる:上川隆也)の父・滝次(河原崎建三)が漁をしたため捕らえられてしまう。忠盛の忠告も聞かず清盛は白河法皇のもとに乗り込み、滝次の釈放を訴えた。そして白河法皇の横暴さを「もののけ」のごとき振る舞いとなじる。すると白河法皇は、命に背いて産んだ母親はここで殺された、お前にも「もののけ」の血が流れていると告げ、清盛は大きな衝撃を受けるのであった。
石清水八幡宮の臨時祭が行われた。舞人に選ばれた清盛は、白河法皇たちの前で華麗に舞う。踊りの中で自らの剣を手にした清盛は、白河法皇に斬りかかるように刃を向ける。そして剣を大地に刺し、「おもしろう生きてやる」と宣言し、笑った。そんな清盛を遠くから見つめる青年がいた。武者丸、のちに終生のライバルとなる源 義朝(みなもとのよしとも:玉木宏)だった。それから数か月後、白河法皇は崩御、鳥羽上皇が権威の座についた。世は乱世へとなだれこんでいくのだった。

(03)源平の御曹司
1132年、平 清盛の弟・平次(大東駿介)は元服し、家盛と名を改めた。そのころ清盛は、西海(瀬戸内海)で鱸丸ら郎党とともに無頼の日々を送っていた。自称船の警護役として海賊と戦い、取り返した食物を盗まれた漁民に返していたのだ。しかし、賊と間違われた清盛は捕らえられて京に連れ戻されてしまう。そんな清盛を呼びとめたのは源 義朝、父の宿敵・為義の子で、清盛の終生のライバルとなる男であった。義朝は清盛に、競べ馬(くらべうま=乗馬によるレース)で勝負しろ、とふっかけるが、清盛は相手にしなかった。
時は鳥羽上皇の世であった。源 為義は義朝を「北面の武士(ほくめんのぶし)」という院の警護役にするよう、院の近臣である藤原家保(渡辺 哲)・家成親子へ願い出る。一方、鳥羽上皇は白河法皇と関係が深い平 忠盛と清盛の忠誠心をはかりかね、忠盛を問い詰めていた。その場にいた家成は清盛が北面の武士になる気があるかどうかで忠誠心を試すことを進言する。しかし、その話を忠盛から聞いた清盛はきっぱりと断る。
鳥羽上皇の御所を守る北面の武士・佐藤義清(藤木直人)は、御所を訪れる鳥羽上皇の后、璋子の姿に思わず「花は盛りに咲き・・」と心を躍らせる。璋子は、鳥羽上皇がわが子である帝(みかど=ここでは崇徳天皇のこと)への愛情が薄いと訴えると、帝は璋子が祖父・白河法皇と密通して産んだ子ではないかと、鳥羽上皇は怒りをあらわにしてその場を離れた。しかし、心の機微に弱い璋子には上皇の気持ちがわからない。一方、御所を訪れた為義・義朝親子は家成から、上皇が義朝ではなく清盛を北面の武士に望んでいることを聞かされる。
清盛は検非違使(けびいし=今の警察)に捕らわれた郎党を牢から助け出し、その道すがら義朝と会う。清盛から「王家の犬になりたくないから、北面の武士には入らぬ」と聞くと義朝は落胆し、清盛を「甘やかされた御曹司」と言い捨てて去っていた。
やがて清盛の助けた郎党が再び捕まり、平氏の館に検非違使の役人が押しかけた。そこへ清盛がかけつけ、自ら責めを負うと言うが忠盛は許さず、「平氏一門が守っていたおかげで、お前は無頼の日々を過ごせたのだ」と清盛の生きかたの甘さをしかる。忠盛の弟・平 忠正は、清盛に平氏と縁を切れと訴えるが忠盛はそれも許さない。いたたまれずに清盛は飛び出した。
その後、加茂の川原で修練する義朝の前に清盛があらわれ、競べ馬を申し込む。はじめは拒否する義朝だが清盛の熱意にまけて勝負をうける。勝負は義朝の勝利に終わり、落馬した清盛は自分の無力さを嘆きわめく。義朝はかつて清盛の舞う姿を見た時から清盛を目標にしてきたことを告げ、武士は王家の犬ではなく、王家を守っているのだという思いを伝え、去っていった。あくる日、清盛は北面の武士の一員として、鳥羽上皇の前に姿をあらわした。

(04)殿上の闇討ち
北面の武士として鳥羽上皇に仕えることになった平 清盛は、北面の武士の中でもひときわ文武両道に秀でた佐藤義清と出会う。義清は卓越した武芸をなんなく披露し、璋子と女房たちとの歌合(うたあわせ)の場でも歌の名人である堀河局(りょう)の歌に適切な意見を述べて注目を浴びた。清盛は義清を意識しすぎて武芸の修練では失敗し、歌では的外れなことを言ってあきれられる始末だった。
そのころ、平 忠盛は観音堂に千体の観音像を寄進するなど、璋子への愛憎に苦しむ鳥羽上皇の心の隙に入り込んでいった。やがて、忠盛は武士としては初めて、内裏への昇殿が許される「殿上人」に昇りつめた。祝宴を開き盛り上がる平氏一門をよそに、武士の心を忘れ、出世にいそしむ父の姿に清盛は反発を感じていた。
忠盛の出世は波紋を広げていた。平氏に差をつけられた源氏の棟梁、源 為義はやけ酒をあおり不運を嘆くと、息子・義朝から源氏の凋落は為義のふがいなさのためだと責められる。一方、藤原摂関家のおさ・藤原忠実(國村 隼)は鳥羽上皇に、忠盛が殿上人になったことへの不服を述べると、上皇は藤原摂関家の命運は自らが握っているかのように答え、忠実を牽制(けんせい)した。
ある日、藤原家成の館で忠盛と清盛を迎えて宴が開かれ、その場に忠実と息子の藤原忠通(堀部圭亮)もやってきた。忠実は一計を講じて忠盛に舞うことを申し付ける。忠盛は堂にいった舞で周囲を魅了するが、忠実は伴奏を乱れさせるほか貴族たちが忠盛に酒を浴びせるように仕組み、忠盛を笑いものにする。屈辱を甘んじて受ける忠盛の態度に清盛は怒りを抑えかねていた。
その後、忠実は為義を呼び、忠盛が豊明節会(とよあかりのせちえ)という儀式に出席するときに隙ができることを教え、忠盛を討ち取るようそそのかす。一方、それぞれ父への不満を抱えた清盛と義朝が出会う。清盛は武士の心を忘れて宮仕えにいそしむ父・忠盛への不満をぶつけ、義朝はふがいない父・為義への不満を清盛にぶつけた。そこへ源氏の家臣・鎌田通清(金田明夫)がかけつけ、為義は忠盛を斬るつもりだと告げる。
夕暮れ時、内裏の渡り廊下を一人で歩く忠盛に為義が迫り、源氏の未来と息子・義朝のために忠盛を斬ると告げる。忠盛は「源氏と平氏の勝負は武士が朝廷で力をつけてからでも遅くない」と為義を制し、「王家の犬では終わりたくない」という悲願も告白する。その一部始終を清盛と義朝はかげから見つめていた。忠盛の帰りを待ちかまえていた清盛は、忠盛にいつから野心をもっていたかを問うと、忠盛は「清盛をわが子として育てると決めた時だ」と答えた。父への認識を新たにした清盛は、すがすがしい笑みをうかべていた。

(05)海賊討伐
長承2年、平 忠盛に新たな子・平五郎(のちの頼盛)が誕生し、喜びに包まれる清盛ら平氏一門。しかしそのころ、長引く飢饉が原因で都には盗賊がはびこり、ますます物騒になっていた。御所を警備していた清盛は通りがかった源 義朝とけんかを始め、それを見かねた佐藤義清は2人を自邸に招く。飢えた世の中に対し、義朝は武士の力を示す好機ととらえ「強さを磨きたい」といい、義清は「美しく生きたい」、清盛は「おもしろく生きたい」と、それぞれの志を語った。
乱れた世を嘆く崇徳天皇(井浦 新)は、飢饉への策を講じたいと政治への意欲を示すが、鳥羽上皇は一蹴、その権力を一切譲ろうとはしなかった。一方で鳥羽上皇の后であり、崇徳天皇の母である璋子は宮中で絶大な権力を持っていた。あるとき、藤原長実(国広富之)が娘の得子(なりこ:松雪泰子)を帝へ入内(じゅだい)させてほしいと璋子に申し出る。璋子は鳥羽上皇へその話をとりなす際に、自分が白河法皇から受けた寵愛の思い出を無邪気に語った。鳥羽上皇は璋子を「もののけ」と呼んで激高し、感情のおもむくまま得子に手を出してしまう。得子は上皇を受け入れ、のちに正式な后となった。
保延元年(1135年)、朝廷では藤原忠実ら貴族たちが集まり、瀬戸内海を荒らす海賊対策の会議に追われていた。その会議にご意見番として招かれた高階通憲は、自己中心的な貴族たちを非難するが誰も聞く耳を持たない。結局、鳥羽上皇の命令で平氏が海賊の追討をすることになった。忠盛は清盛を討伐の一員に加わえ、家盛には留守居を命じた。清盛をよく思わない叔父の忠正は、忠盛に跡継ぎをどう考えているかを問うと、清盛は自分が跡継ぎになるつもりはないと宣言した。
平氏の一行が華々しく西へ向かうころ、義朝は修行の旅へと東へ向かった。京へ残った家盛は母・宗子に忠盛と夫婦になったいきさつを尋ねていた。宗子は清盛出生についての事情を知った上で忠盛を支えるために妻となり、清盛の母になったことを告げる。
一方、安芸(広島)の宿営地で海賊討伐について語る平氏一門に向い、元漁師の鱸丸が海で暮らす者たちと海戦する困難さを説く。その言い方に反発した侍大将・伊藤忠清は鱸丸を恫喝し、忠正は鱸丸を侮辱した。すると清盛は忠正につかみかかり大混乱になる。その後忠正と清盛は二人きりとなり、忠正は清盛に「お前が禍(わざわい)の種としか思えない」という心情を語って去る。思い悩む清盛の前に突然、高階通憲があらわれた。西海の状況が知りたくて追討軍の荷車に隠れてついてきたのだ。通憲は清盛が背負う運命が禍か宝になるかは自分次第だと清盛を諭す。
やがて安芸の海に到着し、討伐に出発した忠盛・清盛たちを待ち受けていたのは、巨大な海賊船だった。

(06)西海の海賊王
海賊討伐の命を受けた平氏一族は安芸の海で巨大な船と遭遇、激しい戦闘となる。初めての本格的な戦闘にひるむ平 清盛をかばい、乳父(めのと)の平 盛康(佐戸井けん太)は深手を負ってしまう。宿営地に一時引き返した平氏は、巨大な船が宋から来た唐船(からふね)であると分析、海賊を束ねている者の素性はますます謎に包まれていた。清盛は単身小船で海へ出て敵を探ろうとするが、その小船に高階通憲も強引に乗りこむ。
一方、東国での武者修行に出た義朝は、尾張・熱田神宮で、盗賊に襲われている宮司を助け、その娘と出会う。源 頼朝の母となる由良姫(田中麗奈)であった。源氏を侮る態度の由良姫を義朝は「心根が醜い」と説教する。やりこめられた由良姫は逆に義朝にひかれていく。
鳥羽院御所では璋子と得子の女房同士が対立を深めていた。得子は鳥羽上皇の子を身ごもったことを勝ち誇ったように璋子に告げるが、璋子は何の感情の揺れも見せない。そんな璋子に得子はますます憎しみをいだいた。璋子に仕える堀河局は、男女の関係になっていた佐藤義清にそんな出来事を話していた。義清は「心が空っぽ」と璋子を分析し、女房同士の争いを冷ややかに観察していた。
西海で小船に乗る清盛と通憲は海賊に捕縛されて唐船に閉じ込められ、海賊の棟りょう・兎丸(加藤浩次)と出会う。清盛は兎丸に、負けたほうが勝ったほうの知りたいことに答えるという賭けを挑み、みごとに勝つ。興奮しながら唐船を見て回る清盛。海賊たちは陸では居場所がなくなった商人・漁師や農民たちだった。兎丸は海賊王となって民を苦しめる朝廷の世を変えたいという野望を語る。兎丸の生き方に共感した清盛だったが、兎丸の父が平 忠盛に殺された盗賊・朧月(隆 大介)であるということを知ると、兎丸が昔、自分が忠盛の子でないことを教えた子どもだったことに気づく。兎丸も清盛が父の敵の子であることに気づき、清盛を再び捕縛して帆柱につるし、忠盛に一人で沖にでてくるよう手紙を届けた。
平氏の宿営地では皆が思案にくれていた。伊藤忠清は闇討ちを主張する。そして夜明け、つるされた清盛の前に平氏の船団があらわれた。海賊船に次々と乗り込む平氏一行。射殺されそうになる清盛を救ったのは叔父の平 忠正だった。平氏側は次々に海賊たちを討ち取っていった。そして忠盛は兎丸と斬り合うが、親の敵と迫る兎丸に追いつめられる。そこへ清盛が駆けつけ、兎丸と清盛の激しい斬り合いになった。清盛は兎丸が出生の秘密を教えたせいで自分がいかに苦しんだか、そして、自分を助けにきてくれた平氏への思い、武士として生きる覚悟を叫び、やがて兎丸を倒す。忠盛に海賊の処分を任された清盛は、兎丸に「お前は俺だ」と語り、仲間とした。京に凱旋した平氏一行を多くの人々が見守る中に時子(深田恭子)の姿もあった。

(07)光らない君
犠牲は出したものの海賊を討伐した平氏一門。平 清盛の乳父・平 盛康は亡くなったが、清盛は生前の盛康に、漁師出身の鱸丸を養子にするよう頼んでいた。晴れて鱸丸は武士となり、平 盛国と名乗ることとなった。
源氏物語の世界にあこがれる貴族の娘・時子(深田恭子)は、琵琶の稽古に向かう途中も光源氏のようなすてきな男性との出会いを夢みる。そこで偶然、粗暴な清盛と最悪の出会いを果たす。この時はまだ、平家一門を担う夫婦になるとは、二人とも知る由もなかった。
海賊退治の戦功で、清盛は従四位下の位を授けられたが、棟りょうである平 忠盛は念願の公卿(くぎょう)にひきたてられなかった。御所に挨拶に出向いた清盛はその帰り道、雨でぬかるむ道で転んだ父子を助けた。下級貴族・高階基章(たかしなのもとあき:平田 満)とその娘・明子(加藤あい)であった。基章はひとめで清盛のことが気に入り、娘を妻としてくれないかと申し出る。清盛はとまどいながらも明子に心を奪われていた。
御所では得子が鳥羽上皇の娘を産んだ。璋子は周囲の思いをよそに、大量の産着(うぶぎ)を持って得子のもとへお祝いに行き、赤子を育てる苦労を語った。璋子の邪心のない悠然とした態度が許せない得子は、鳥羽上皇を「皇子を産みたい」とたずねる。
このころ、佐藤義清は歌の才により、崇徳天皇からも一目置かれる存在になっていた。清盛は義清に明子のことを相談しようと訪ねるが、義清には既に妻がいると聞かされて驚く。
一方、父の暴走にとまどう明子は、琵琶の弟子であり、親友の時子に相談すると、時子はまるで源氏物語の「明石の君」のような良縁と明子に進言、明子を連れて神社で縁結びを祈ろうとする。そこでふたりは、明子との再会を祈る清盛と出会う。時子は明子の相手が以前会った下品な男と知って落胆する。明子は思わず立ち去るが清盛は追いかけ、明子に海の話や大きな夢を語る。明子は清盛にひかれながらも身分違いの縁だと気後れしていた。
そのころ、藤原家成は宗子をたずね、清盛に格式ある家の娘を嫁にとるよう勧めていた。家成はいとこである宗子が、血のつながらない清盛を育てる気苦労を案じていた。
ある日、明子に清盛から文が届く。義清が清盛に代わって恋の歌を贈ったのだ。しかし明子から届いた返歌は断りの内容だった。あきらめきれない清盛は明子を訪ねて真意を問う。明子はこの身分違いの縁は、父のすがる住吉明神の力によるものにすぎないと改めて断った。しかし、清盛は明子への思いは自分自身の心によるものであると率直な思いを語った。明子はやがて涙とともに清盛を受け入れるのであった。
清盛は忠盛の館に基章と明子を連れて行く。家格の違いから一門は結婚に反対するが、清盛の純粋な明子への思いを聞いた忠盛はふたりの結婚を認める。だが、この結婚は平氏一門に新たな波紋をもたらすのである。

(08)宋銭と内大臣
1136(保延2)年、平 清盛たちは、平氏の家人・家貞(中村梅雀)の案内で宋から運ばれてきた貴重な品々が並ぶ博多の市にやってきた。清盛は貿易と宋銭というお金の魅力を心に刻みつける。このころ、お金は国内ではほとんど使われていなかった。また、当時は太宰府の役人を通さずには、宋と交易できないはずだったが、平氏が忠盛の発案で、3年前から密貿易を行っていることを家貞は打ち明け、一同は驚く。
そのころ宮中では、鳥羽上皇による宴が催され、庭には寵愛する得子が好きな菊が咲き乱れる。宴を警護していた佐藤義清は鳥羽上皇に呼ばれ、上皇をたたえる歌をみごとに詠んだ。宴席には、苦々しげに宴の様子を見つめる男がいた。藤原忠実の次男・藤原頼長(山本耕史)である。邸にもどった頼長は忠実や兄・忠通から、自分が内大臣に決まったと知らされる。なにごとにも妥協をゆるさない頼長が内大臣となったことで、混乱した朝廷がさらにかき乱されていくことになる。
鳥羽院御所では、鳥羽上皇をめぐる二人の女性の境遇が明暗をわけていた。子をみごもり勝ち誇ったような表情の得子が鳥羽上皇に抱かれ、璋子は菊の花壇をさびしそうに眺めていた。ここにはかつて、鳥羽院が璋子にささげた水仙が咲いていたのだ。一方、内裏(だいり)では義清が崇徳天皇に謁見していた。義清が鳥羽上皇の前で歌を詠んだことで不機嫌になっていた崇徳天皇は、母・璋子の奔放な振る舞いのために鳥羽院から遠ざけられていることや、義清をいかに信頼しているかを語った。
ある日清盛は、兎丸たちが市場で密輸品を売りさばいているのを見つけるが、居合わせた高階通憲の意見を聞き入れ、これを黙認することに。しかし、この派手な商いが見つからないはずもなかった。
そのころ、源 義朝は東国の山中で武芸の鍛錬に励んでいた。その義朝に会うため熱田神宮宮司の娘・由良姫が京の源 為義の館を訪れていた。由良姫は義朝の不在に落胆しつつも、自分と縁をもつことが源氏にも役立つと売り込むのだった。
内大臣となった頼長は為義をとおして、清盛たちの商いに気づき、清盛を呼びつけた。頼長は博多での取り引きの記録を調べあげ、清盛を厳しく追いつめた。開き直った清盛は宋銭を頼長に見せ、豊かな宋を手本にするよう進言するが、頼長は清盛の浅はかさを指摘。清盛は言い返せなかった。
館に戻った清盛は妻・明子から懐妊したことを告げられる。家族をもつ喜びを清盛は改めて、知るのだった。

(09)ふたりのはみだし者
1138年、平 清盛と妻・明子の間に長男・清太(のちの重盛)が生まれた。祝宴でにぎわう清盛邸にかけつけた弟・家盛と清盛は和やかに酒をくみかわし、改めて兄弟愛を確かめる。
一方朝廷内では、待賢門院璋子の産んだ皇子たちの間に深い溝ができていた。父・鳥羽上皇に疎まれ続け、子もいない崇徳天皇は孤独感にさいなまれていた。それを横目に、弟・雅仁親王(松田翔太)は、賭場をうろついたり今様に熱中したりと、気ままな毎日を過ごしていた。いずれ雅仁が帝になるとみて乳父になった高階通憲とその妻・朝子(浅香 唯)は、そんな雅仁の奔放さに振り回されるばかり。
ある日、亡き白河法皇に愛された祇園女御は清盛邸を訪ねた。清盛を幼い時からかわいがっていた祇園女御は感慨深く清盛の赤子を抱いた後、亡き白河法皇のまき散らしたわざわいの種が芽吹いていることを告げ、清盛が昔よく遊んだ双六(すごろく)を例にだし、サイコロの目次第では出遅れた者が勝ち上がることもある、と世の動きを予見した。
そのころ東国の山中で暮らしている源 義朝のもとに相模国の三浦一族が助けを求め、義朝は助ける代わりに自分に従うことを誓わせた。義朝も来るべき世に備え、着々と力を蓄えていた。一方、佐藤義清は、近ごろの崇徳天皇の苦悩ぶりを気に病み、帝を救うためにも、帝の母である待賢門院璋子の目をさまさせなければと、静かに決意を固めていた。
そして朝廷の均衡を破る出来事が起こる。得子が鳥羽上皇の皇子を産んだのだ。皇位継承の順位を揺るがす一大事であった。鳥羽院御所では男児の誕生を祝う宴会が開かれ、そこには鳥羽上皇、得子、待賢門院璋子や藤原摂関家らのほか、清盛や義清も出席していた。得子から祝いの歌を詠むよう求められた義清は、この場にいない崇徳天皇の歌を詠んだ。弟の誕生も祝うことができない崇徳天皇の気持ちを代弁したのだ。
宴席に緊張が走ったそのとき、雅仁親王が笑い声とともに宴会に乱入、そして赤子の頬をつねって泣かせてしまう。父・鳥羽上皇がたわむれをしかると、雅仁は鳥羽上皇や母・待賢門院、得子との愛憎にまみれ、権力欲に駆られた王家の乱れた様をあげつらう。怒った得子は自分が皇子を産んだのは権力欲ではなく、上皇を傷つけた待賢門院に思い知らせたいのだと反論。待賢門院は自分には人を愛する気持ちがわからず、白河法皇の言うままにしただけと涙をながす。この一部始終を見ていた清盛は、朝廷内の乱れた政に改めて失望する。宴席の後、傷心の待賢門院をたずねた義清は、愛する気持ちがあなたにもあるはずといい、抱きしめる。待賢門院はとまどいながらも身をゆだねる。
飛び出していった雅仁親王を探していた清盛はばくち場で身ぐるみはがされた親王を発見、清盛邸に連れて行く。雅仁親王はそこで双六遊びせよと誘う。清盛は乗り気がしないままサイコロを振ると、雅仁は自分が勝てば清盛の子・清太をもらうという。清盛は勝負を拒否できないまま勝負を続けるが、不利な状況に追い込まれる。すると、清太が双六の邪魔に入り、そのお陰で清盛の勝利で終わると、腹を立てた雅仁は双六盤を清太に振り上げた。雅仁は必死に止める清盛に、親子の絆などもろいものだと言い捨て盤を捨てる。清盛は、平家は王家とは違うと反論するが、雅仁は清盛にも入っている白河法皇の血がいずれ騒ぎだすはずと言い放つ。長きにわたるふたりの双六遊びは、まだ始まったばかりだった。

(10)義清散る
1139年、得子は、わが子・躰仁(なりひと)を東宮(とうぐう=皇太子)に立てようと考える。崇徳天皇の中宮・聖子(大谷英子)の父である関白・藤原忠通に接近し、躰仁を聖子の養子とすることを認めさせ、躰仁は思惑どおり次の帝となった。
東宮誕生の知らせを聞いた平 清盛と佐藤義清は、朝廷内の不穏な空気に国の行く末を案じる。自分たち武士が国を守らねばと熱っぽく語る義清を、清盛は心から頼もしく思うのだった。
一方、義清が待賢門院璋子に接近したことに気づいた璋子の女房・堀河局は義清を誘い出し、二度と璋子を訪ねるなと彼にくぎをさす。
そのころ、僧たちによる強訴(ごうそ)が頻発し、清盛ら平氏一門はしばしば勅命を受けて彼らと戦闘。朝廷の中で、平氏の武力の重要性をさらに高めていた。一方、源 義朝は、東国において次第に武名をとどろかせ、着々と家臣を増やしていた。
元服後も相変わらず奇行を繰り返す雅仁親王は、得子と出くわすなり、彼女を挑発。得子も「あなたは鳥羽上皇ではなく、先の院・白河法皇の子なのではないか」と親王を攻撃する。それを聞きつけた雅仁の母である璋子が取り乱して得子につかみかかったため大騒動となる。
そのうわさを耳にして璋子を心配した義清は、ひそかに彼女を訪ねる。だが義清は、彼女の心が本当は鳥羽上皇にあると知り、逆上して思わず首を絞めてしまう。駆けつけてきた清盛が止めに入り、堀河局の計らいで義清は逃がされ、何とか事なきを得たものの、その様子は内大臣・藤原頼長に見られていた。頼長は義清を呼び出し、鳥羽上皇の前で彼の所業を暴いていく。しかし、鳥羽上皇は義清をとがめなかった。そこに現れた璋子に向かい鳥羽上皇は、璋子が誰と何をしようと自分は何も感じないと言い放つ。
館に帰った義清は、満開の桜の下で我が身の無力感に絶望していた。遊んでいた妻と娘が駆け寄ってきた。娘から手渡された花びらを見つめてほほ笑んでいた義清は、やがて険しい表情に変わり、突然娘を蹴落とし去っていく。
駆けつけた清盛に義清は「出家する」と言う。朝廷の乱れの種は、人を愛する心がねじ曲がり、どす黒くなった醜(みにく)い心であり、美しく生きたいと思う自分は、その醜さにまみれる覚悟がないと告げる。清盛は義清を思い直させようとするが、義清の決心は変わらず、その場で髻(もとどり)を切り落とす。京随一のもののふといわれた佐藤義清は乱世の舞台に立つことなく世捨て人となった。

(11)もののけの涙
内裏に呼ばれた平 清盛は崇徳天皇に、佐藤義清が出家した際に詠んだ歌を伝える。清盛は崇徳天皇と同じく白河法皇の血をひく宿命を背負ったが、自分なりに面白く生きていくと告げる。
1140年、崇徳天皇に待望の皇子・重仁が誕生する。崇徳天皇は帝の座を重仁に譲りたいと、父である鳥羽上皇に表明。しかし得子は崇徳天皇を言いくるめ、自らの子・躰仁に帝の座を譲ることを約束させる。
翌1141年、躰仁がわずか3歳で近衛天皇として即位。しかし譲位の儀式で崇徳上皇は、躰仁に自分の養子としてではなく、弟として位を譲る形式になっていることを知る。弟に譲ったのでは上皇として院政を行うことができず、だまされたと知った崇徳上皇は怒りをさらに募らせていく。出家して法皇となった鳥羽法皇が引き続き政治の実権を握ることとなった。
1142年正月、皇后となった得子の勢いを前に、にわかに平氏一門は騒がしくなる。今後平氏は誰に忠義を尽くすべきなのか──。清盛は答えの出ない議論を、「くだらぬ」と一蹴。そんな兄に家盛が食ってかかる。そこで宗子、明子、家盛の妻の秀子(海老瀬はな)が、新年を祝う演奏を開始。3人の奏でる和琴(わごん)、琵琶、笙(しょう)の調和を元に平 忠盛は一門の結束が大切だと話す。
後日明子は、貴族の娘たちに琵琶を教えることに。助手として駆り出された明子のかつての教え子・時子は、そこで清盛と再会する。そんな中、明子は琵琶の生徒の侍女・波子(岩田さゆり)を見つめる平 盛国の視線に気付き、2人の縁談を進める。清盛は、明子のこまやかな気遣いに感心する。
そのころ、東国にいる源 義朝は相模(現・神奈川県)の波多野一族を家来にするなど、地域一帯の武士の多くを配下におくほどに武名を高めていた。三浦一族の娘との間に義朝の長男・義平が生まれ、波多野一族の娘との間に次男・朝長が生まれる。京では由良姫が義朝の帰りを待ちわびていた。
台頭する得子の陰で、すっかり権勢を失った待賢門院璋子は、ある日、得子に呼び出される。待賢門院に仕える者が得子を呪詛したというのだ。得子の陰謀と悔しがる堀河局だが、待賢門院は鳥羽法皇や崇徳上皇を苦しめ、義清を出家に追いやった罪深き自分を得子が救ってくれていると説き、堀河局らとともに仏門に入る。
ある日、清盛に大事件が起こる。神社参詣の帰り、参道にうずくまる物乞いを介抱した明子は疫病にかかってしまう。治せる薬はないという薬師の言葉に清盛は動転。感染するおそれがあるため、介抱することも許されない清盛は、僧を呼び一心に祈りつづける。そんな清盛に、見舞いに訪れた忠盛や宗子たちは声をかけられない。やがて目をさました明子に、ふたりで海を見る約束のためにも死んではならないと清盛は呼びかけるが、明子は清盛のお陰で十分楽しませてもらったと告げ、息をひきとる。清盛は我を失い祈とうする僧たちに襲いかかるが、盛国に止められ「みなが健やかに生きる国を殿がつくりなさい」と諭される。一方、その清盛の姿を見た忠盛は、「もののけ」と言われた白河院の血が清盛に流れていることを改めて気づかされていた。

(12)宿命の再会 〜ライバル帰京!〜
京では、朝廷に不満を持った僧侶たちが、武装をして神輿(しんよ=みこし)を担いで訴える強訴がますます盛んになっていた。平氏一門は武力と財力で僧兵らを退け、鳥羽法皇の期待に応え続けても、平 忠盛が公卿に出世することは許されなかった。
ある日、平 清盛の館に僧衣の高階通憲が訪ねてきた。能力がありながらも出世できない不条理な世に愛想がつきたため、出家して信西(しんぜい)と名乗っているという。
忠盛の館では清盛の弟・平五郎が元服し、頼盛(西島隆弘)と名乗るようになった。武士として頼盛を導けという忠盛の言葉に清盛は、妻・明子を死なせた疫病や飢きんを止められず、武士を相変わらず番犬扱いする朝廷への怒りをぶちまけた。
そのころ、清盛の館には明子の友人・時子が清盛の息子たちの世話をしにたびたび訪れていた。それを知った時子の弟・時忠(森田 剛)は清盛を訪ね、いきなり時子を後妻にするよう願いでる。あわてて時忠をいさめる時子に向かい、清盛はもう館に来ないでくれと頼む。明子を忘れられずにいたのだ。
しばらくした後、出家した待賢門院璋子の元へ得子がおとずれ、なぜ黙って出家したのかを尋ねた。待賢門院は得子から人をいとしく思う気持ちの激しさを教わったといい、それを持てなかったことを悔いた。得子は待賢門院から全てを奪うことはできなかったと実感した。
1145年、待賢門院は重い病で床についた。鳥羽法皇は取り乱し、待賢門院を慰めるために、季節外れの水仙を探すことを配下の武士に命じる。清盛は反発するが、家盛に説得され、一門のために水仙を探すことを決意。京の野山をかけまわる清盛の前に一人の精かんな武士が現れる。東国の武者修行でたくましくなった源 義朝であった。義朝はすでに水仙を手に入れ、鳥羽法皇に届けるところだと告げて去った。そして、床に伏した待賢門院に鳥羽法皇は水仙を握らせる。待賢門院は最後に人をいとしく思う気持ちがわかったと言うと、泣き叫ぶ鳥羽法皇を残して息を引き取る。
源 為義は、息子・義朝の帰還を涙ながらに喜び、義朝はいよいよ源氏の名を京にとどろかせるときだと息巻いた。御所に呼ばれた義朝は、鳥羽院から今回の働きを褒められ、今後は京にとどまり励むよう言いわたされた。義朝は清盛と顔をあわせると、2人は平氏と源氏どちらが強いか言い合いになる。御曹司同士の戦いが幕を開けたのだ。
屋敷に帰った義朝を熱田神宮で出会った由良姫が訪ねてきた。義朝は東国で子どもをふたりつくったことを告げ、由良姫には嫡男を産んでほしいと言う。乱暴な言い方に反発しつつも、長年待ち続けた由良姫は涙を流し、ふたりは抱き合う。
一方清盛は、平 盛国に呼ばれて再び館に来ていた時子を見ると、「もうそなたでいい」といきなり求婚した。あんまりな言い方に非難する時子だが言葉とは裏腹に体当たりするように清盛に抱きついた。かくしてふたりの御曹司はめでたく結ばれた。
1147年、義朝と由良姫には嫡男が生まれた。のちの源 頼朝であった。そして清盛と時子にも子が授かった。のちの平 宗盛である。清盛が一門の繁栄を願うため祇園社を訪ねたが、そこで大きな事件が待ち受けていたのだった。

(13)祇園闘乱事件 〜神を射る男!〜
1147年、一門の繁栄祈願のため祇園社(現・八坂神社)を訪れていた平 清盛たちは、僧兵に武装したままの参詣をとがめられ、大乱闘を起こしてしまう。これが平氏一門の存続を揺るがす大事件・祇園社の争いの始まりだった。
日ごろ平氏をうとましく思っていた比叡山延暦寺の僧・明雲(腹筋善之介)が、清盛一党の厳罰を鳥羽法皇に直訴。平 忠盛は平 盛国らを検非違使(けびいし=現在の警察のようなもの)に差し出すが、明雲はかえって反発、清盛と忠盛を流罪にせよと僧兵たちが神輿を担いで強訴を始める。僧兵を阻んだのは源 為義、源 義朝ら源氏の武士たち。神聖な神輿を避けて矢を放ち威嚇する源氏軍勢だが、一本の矢が神輿に突き刺さる。この矢を放ったのは清盛だった。
この時代、神が宿るという神輿を傷つけることは許されることではなかったが、清盛はわざと神輿を狙って射たと言い放つ。事の重大さを悟った忠盛は清盛と共に自ら検非違使庁に蟄居(ちっきょ)する。
清盛たちの処分については、朝廷内でも真っ二つに意見が分かれる。流罪にして平氏の勢力を奪おうとする内大臣・藤原頼長に、信西は真っ向から反論。信西を信頼していた頼長は、思わぬ裏切りに怒りをあらわにする。出産間近の時子を案じた叔父の平 忠正は清盛の館を訪ね、不安がる清盛の長男・清太(丸山歩夢)を、やさしくなぐさめる。
検非違使庁の一室で忠盛と清盛は二人きりで語り合う。忠盛は白河院という強大な相手に一人で立ち向かった清盛の母・舞子の思い出を語り、清盛が迷信のごときものに立ち向かう時を待っていたこと、平氏の未来を清盛に託していることを告げる。
鳥羽院御所では清盛たちの詮議(せんぎ)が行われていた。そこに事件の証人として一人の僧兵が現れる。鬼若、のちの弁慶(青木崇高)だった。鬼若は、清盛がわざと神輿を射たと証言、頼長は清盛を流罪とすることを再度主張。一方、信西は清盛を「世に欠かせぬ男」と反論。詮議の後、迷う鳥羽法皇は得子に本音を語る。まだ自分は白河法皇の亡霊に悩まされ続けている、と。こうした寺社や武士の争いは元をただせば、白河法皇の悪政のツケだったのだ。
ついに鳥羽院は検非違使庁へ向かい清盛を直接問いただす。すると、清盛は確信を持って神輿を射たことを堂々と告げる。鳥羽院は手を開き自分も射てみよと清盛に言い、清盛は鳥羽院の胸を射るしぐさをしてみせる。胸をおさえた鳥羽院は、ふっきれたように清盛こそが乱れた世に報いられた一本の矢だと叫ぶ。
裁断は下され、忠盛と清盛は流罪をまぬがれた。喜ぶ平氏一門のなか、宗子の顔は晴れない。忠盛が清盛を守るのは亡き舞子のためなのだと改めて思うからである。そんな母の本音に平 家盛は気づく。
清盛の館では清三郎(のちの平 宗盛)が生まれ、騒動がおさまった喜びを清盛と時子がかみしめていた。そこへ家盛が訪ねてきて、今後は清盛ではなく自分が平氏を率いると宣言。仲むつまじい兄弟に亀裂が走る瞬間だった──。

(14)家盛決起 〜弟の反抗〜
祇園事件から釈放された平 清盛を待っていたのは、厳しい表情の弟・家盛だった。清盛について悩む母・宗子を見かねた家盛は、祇園事件での兄の行動は嫡男にふさわしくない、自らが平氏の跡継ぎになると宣言したのだ。そして家盛は、悪評高い清盛に代わり、賀茂の祭りで舞を奉じるという名誉を得る。
一方、源氏では為義と義朝の間で不和が生じていた。賀茂の祭りで内大臣の藤原頼長の警固につくという為義に、義朝は自分は鳥羽法皇に仕える身であると断ったのだ。とりなそうとする由良御前の言葉にも義朝は耳をかたむけなかった。
賀茂神社の祭りの当日、家盛は見事な舞を見せる。その舞を見つめる頼長は、家盛が平 忠盛と正妻・宗子の子であるのに清盛におくれをとっていることを聞かされた。
祭りの後、忠盛の館で家盛の舞を平氏一同がほめたたえていると、頼長が家盛を自邸に招きたいという知らせが入り、一同は驚き喜ぶ。
そんな家族の雰囲気に入り込めない清盛は、義朝と市場で酒をくみかわしていた。そのふたりの前にみすぼらしい身なりの娘(武井 咲)があらわれ、酒を買ってくれという。義朝と清盛はその娘がたぐいまれな美貌であることに驚く。その娘・常盤はのちに源 義経の母となり、源氏と平氏に深く関わることになる。
忠盛は清盛の母・舞子が残した鹿角を大切に持ち続けていたが、そのことを知った宗子は真意を問いただした。舞子が罪なく白河法皇に殺されたことを忘れないためだと説明する忠盛に、宗子は家盛が哀れだと訴えつつも、すべてを受け入れて妻になったことを改めて語った。
一方、頼長は家盛を自邸に招き、家盛の舞をほめたたえ、そなたこそ平氏の棟りょうにふさわしいとその気にさせる。そして1148年、家盛は従四位下右馬頭(じゅしいのげ うまのかみ)に昇進する。なかば蟄居生活を送り、不満顔の清盛に妻・時子は跡継ぎの座などこだわるなと言う。再び家盛を招いた頼長は、血のつながらない兄・清盛をおしのけて平氏の棟りょうになることを酒に酔わせてそそのかす。
1149年、忠盛の館に平氏一門が集まっていた。そこに清盛の異母弟、平 経盛(駿河太郎)、平 教盛(鈴之助)もやってきた。ふたりは家盛こそが平氏の跡継ぎにふさわしいといい、平 忠正もこの場で跡継ぎを決めるよう忠盛に進言。家盛自らも跡を継ぐことへの明確な意思を示した。口を開かない忠盛を見て、清盛は屋敷を飛び出す。その後、忠盛は複雑な胸中を平 家貞にだけ語った。
頼長邸に招かれた家盛は、頼長が家盛を平氏の棟りょうに推したのは清盛より扱いやすいからであるという意図を聞きショックをうける。翌朝、家盛は宗子に、自分は棟りょうになりたかったのではなく、ただ母の笑う顔が見たかっただけだと告げる。宗子は自分が家盛を追いつめていたことを知り、自らを責める。
鳥羽法皇が熊野詣をするにあたり、その警固を平氏は命ぜられた。だが清盛は同行を許されず、家盛がその一行に加わることになった。無事に参詣をすませた帰り道に事件は起こった。馬上の家盛は、通りで遊ぶ幼き兄弟を目にし、仲良かった頃の兄・清盛との記憶をよみがえらせていた。思い出に浸り我を失う中、不覚にも馬から落ちてしまう。家盛の予期せぬ最期だった。

(15)嵐の中の一門 〜帰らぬ弟〜
1149年3月、熊野詣の帰途に落馬した平 家盛は、そのまま帰らぬ人となった。宗子は悲しみのあまりとり乱し、平 忠正は家盛が死んだのは平 清盛が神輿を射た報いであり、「お前が死ねばよかったのだ」と罵声を浴びせる。
後日、清盛の館を弟の平 頼盛が訪ねると、失意の清盛に家盛が落馬寸前に発した言葉を告げる。「兄上」というひと言だった。また自分は清盛が苦手であること、それでも伝えに来たのは、父母を同じくする唯一の兄・家盛のことを思ってのことだと伝えた。
平 忠盛は喪が明けるとすぐに鳥羽法皇に謁見し、変わらぬ忠誠を誓う。そして、高野山の宝塔再建という鳥羽法皇の命を受け、自分の名代を清盛に務めさせたいと申し出る。清盛は戸惑いながらも引き受け高野山を訪れると、そこで陸奥国(むつのくに)への長旅から戻ったという僧・西行、かつての佐藤義清と再会を果たす。
そのころ、藤原摂関家の兄弟争いは激しさを増していた。1150年に近衛天皇が元服すると、すぐに弟・藤原頼長は養女・多子(まさるこ:中田美優)を入内させた。兄・藤原忠通は対抗すべく、得子の養女・呈子(しめこ:伊藤麻実子)を自分の養女にし、入内に向けて動き始める。
一方、崇徳上皇の御所には権力争いから遠ざけられた兄弟が暮らしていた。兄・崇徳上皇と弟・雅仁親王である。歌ってばかりの雅仁親王に、政治に復帰する野心がないのかと崇徳上皇が問うと、雅仁親王は笑い飛ばし、野心があるのは兄ではないかと言い当てる。
家盛の一周忌がやってきた。供養のため家盛の愛用品を正倉院に収める支度をする忠盛に、宗子が清盛の生みの母・舞子の形見である鹿の角を差し出した。亡き舞子の志を遂げたいと忠盛が思っていたために家盛が死んだのだと宗子は感情をぶつけた。
ある日、清盛の館を西行が訪ねて来た。清盛は西行に、平氏一門は嵐のただなかにあるが、その嵐のもとは自分であり、自分に宝塔再建の大役は果たせないと弱音を吐く。西行は、清盛にしかできないことがあるはず、嵐の中に身を置いて務めを一心にはたすべきだと清盛を諭す。清盛はふっきれたように宝塔の再建に全力を注ぎ始める。
一方、源 義朝は藤原摂関家に言いなりの父・為義と衝突を繰り返していた。ある日、義朝は常盤が貴族の家人らしき男ともめているのに出くわす。実は忠通が呈子の入内を華々しいものにするため、見目麗しい女性を都じゅうから集めていた。そこで、病人の母を抱える貧しい家の娘・常盤に白羽の矢が立ったのだ。嫌がる常盤に向かい義朝は、呈子に仕えれば親孝行になると説得。常盤は集められた千人の中で随一の美女に選ばれ、宮中に入ることになった。
美福門院となった得子に呼ばれた忠盛は、この再建が落成のあかつきには、公卿の地位も夢ではないということをほのめかされる。しかしその直後、頼長が忠盛の前に現れ、家盛が死に至ったてんまつを告白する。家盛は自らが平氏の棟りょうとなるために全てを自分に差し出し、自ら平氏一門を売った小心者だと馬鹿にし、家盛の死を「犬死にだ」と笑い飛ばす。忠盛の心中には、やり場のない怒りが充満していた。
高野山に納める曼荼羅(まんだら)を彩色する様子を見つめていた清盛は、絵師にすすめられ、筆をいれようとしていた。そこへ忠盛があらわれ、清盛に今すぐ中止しろと叫ぶ。志のために家盛に犠牲を強いてきたと自らを責め、もはや自分が出世のために努力を重ねてきたことすべてが無駄だったと悔い叫ぶ。だが清盛は、曼荼羅の彩色を止めようとせず、そんな清盛を忠盛は幾度となく投げ飛ばす。それでも清盛は、自分は家盛の兄だと叫び、額から流れた血を筆につけ、曼荼羅の中央にある大日如来の唇を塗った。そんな清盛を忠盛はただ涙を浮かべながら、もはや見守るしかなかった。やがて、宗子もその場にきて曼荼羅に見入った。家盛が兄上によろしくと言っていると、宗子はほほえみかけると清盛はすでに疲労のあまり、深い眠りについていた。
こうして平氏一門が嵐を乗り越えて結束を深めた一方で、源氏一門の絆を危うくする事件が起きようとしていたのだった。

(16)さらば父上
源氏の棟りょう・源 為義は摂政・藤原忠通邸を襲撃し、藤原氏の長者の証である家宝・朱器台盤(しゅきだいばん)を奪う。為義に命じたのは、忠通の父・藤原忠実。次男の左大臣・藤原頼長を氏の長者にするためだったが、そんな藤原摂関家の言いなりになっている父・為義を嫡男の源 義朝は、盗賊と同じ行為だと非難する。
1151年、高野山再建を成し遂げた平 清盛には安芸守(あきのかみ)の任が授けられ、父・忠盛も念願の公卿まであと一歩となった。御所で忠盛と会った為義は、かつての約束どおり源氏と平氏のどちらが強いかを決めるまで地をはってでも生き残ると宣言する。
安芸守に任じられた清盛は郎党たちと安芸へ渡り、国府の官人や嚴島神社の社司・佐伯景弘(温水洋一)から歓待を受け、海の幸も、山の幸も豊かなこの地に強い愛着を覚える。一方、忠盛は突然、体調を崩し寝込んでしまう。心配する平 家貞に忠盛は、清盛の実母・舞子に言われた「夢中に生きていればなぜ生きているのかがわかる」という言葉を最近思い出すが、その答えがいまだにわからないと告げる。
朝廷では、藤原摂関家の兄弟争いがさらに過激さを増していた。左大臣・頼長が内覧(ないらん=帝に報告する文書を事前に読んで政務を代行する職)となり、大きな権力を持つようになった。頼長の兄である摂政・忠通は美福門院得子に弟・頼長への対抗策を相談すると、得子は逆に頼長をもっとあおればいいと告げ、一計を案じる。
宮中でも藤原摂関家の内紛はうわさになっていた。義朝の妻・由良は、仕えている鳥羽院の皇女・統子との会話で、摂関家の争いで夫・義朝と義父・為義がもめていることを話す。統子は家をまとめるのが妻のつとめと諭す。
安芸の視察を終えて六波羅にもどった清盛は、出迎えた妻・時子から、忠盛の病気を聞き、ただちに忠盛の館へかけつけた。忠盛はふだんと同じ様子で清盛を迎え、安心した清盛は安芸で感じた将来の展望を夢中になって語り、忠盛はそんな清盛をまぶしそうに見つめた。
義朝の館には、由良に招かれた為義が訪れ、孫である鬼武者(のちの源 頼朝)に弓を教えた。久しぶりに義朝とも親子らしい会話がかわされ、みなで夕餉(ゆうげ)を囲む。そこへ左大臣・頼長から貴族・藤原家成を襲えという命が届く。家成の家人が頼長邸の前で無礼を働いたというのだ。やめさせようとする義朝をはり飛ばして、為義は家成の襲撃に向かう。落胆した義朝は常盤に会いに行く。義朝が実は父・為義を恋しがっていることを常盤は見抜いていた。慰める常盤を義朝は思わず抱きしめる。
頼長の命令によって家成邸が襲われたことで、鳥羽法皇は烈火のごとく怒った。得子を通じて、忠盛に仕返しとして頼長邸を襲えという密命がくだった。これら全て、得子の策略だった。命に従うべきか迷う忠盛に、清盛は摂関家と院の小競り合いに巻き込まれるべきではないと語る。すると、忠盛は武士の世を作るために我らは戦ってきたのだと宣言した。
忠盛の館には平氏一門が集まった。忠盛は自分の身に万一のことがあったときのためとして、平氏一門に遺言を伝える。そして、清盛以下4人の息子たちに形見分けを行ったうえ、その席で、次期棟りょうは清盛だと正式に発表する。
1153年正月、清盛は安芸へ旅立った。見送りながらよろける忠盛を宗子が支えると、忠盛はあらためて宗子に今までの感謝の気持ちを伝えた。安芸の浜辺で休むところに突然、あらわれた忠盛と剣をかわす清盛。清盛の成長ぶりに感心した忠盛は、「強くなったな」と告げると、姿を消した。1月15日、忠盛は世を去った。忠盛が清盛や武士に残した功績ははかりしれないものがあった。


作:藤本 有紀
音楽:吉松 隆
テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
     指揮:井上 道義
     ピアノ演奏:舘野 泉
題字:金澤 翔子
──────────
松山 ケンイチ (平 清盛)
玉木 宏 (源 義朝)
松田 翔太 (雅仁親王)
藤木 直人 (西行)
吹石 一恵 (舞子)
深田 恭子 (時子)
三上 博史 (鳥羽法皇)
加藤 あい (明子)
豊原 功補 (平 忠正)
金田 明夫 (鎌田通清)
森田 剛 (平 時忠)

松田 聖子 (祇園女御)
檀 れい (待賢門院 璋子)
りょう (堀河局)
山本 耕史 (藤原頼長)
田中 麗奈 (由良姫)
阿部 サダヲ (高階通憲)
井浦 新 (崇徳上皇)
武井 咲 (常盤)
加藤 浩次 (兎丸)
青木 崇高 (鬼若)
国広 富之 (藤原長実)
平田 満 (高階基章)
矢島 健一 (藤原教長)
岡田 将生 (源 頼朝・語り)
杏 (政子)

伊東 四朗 (白河法皇)
小日向 文世 (源 為義)
和久井 映見 (宗子)
上川 隆也 (平 盛国)
松雪 泰子 (美福門院 得子)
國村 隼 (藤原忠実)
中村 梅雀 (平 家貞)
中村 敦夫 (平 正盛)
中井 貴一 (平 忠盛)
──────────
制作統括:磯 智明
    :落合 将
プロデューサー:櫻井 壮一
演出:柴田 岳志・渡辺 一貴・中島 由貴

本文のストーリーは、NHK公式ホームページ『平 清盛』の
あらすじ欄よりそのまま引用しました。
なお、出演者名(敬称略)は総集編の出演ではなく、
該当期間の本編に出演し、ピンクレジットで紹介された方を
順不同で並べ替えたものです。

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NHK大河2012・平 清盛」カテゴリの記事

コメント

はじめまして!
もっと平清盛見たかったです
視聴率だけが残念

──────────

いちろんさーん。初めまして!
Kassyです。どうぞよろしくお願いいたします!


>もっと平清盛見たかったです
ストーリーの難解さは別問題として
物語も骨太だったし、音楽も素晴らしかったし、

物議をかもした“画面の汚らしさ”も、
朝廷内の鮮やかな世界と薄汚れた武士世界の
身分の差を現す一つの対比手法と考えれば
特に気になる部分ではありませんでしたし、

後々平氏が、三位以上の公卿となって平家となり
薄汚れた格好から艶やかな格好にかわるという
過程も楽しむ(特に一気に見れる総集編などで)ことが
できたでしょうから、

“汚いから見る気になれない”という単純な感想では
片づけられない部分なのだろうと思います。

Kassyが思うに、本放送では
多くの視聴者に受け入れられませんでしたが、
恐らくは後々、評価される作品なのだろうと思います。


>視聴率だけが残念
NHKだからこそ、視聴率は関係なく
いいものはいいものとして制作していく必要があるし、

逆にNHKだからこそ、視聴者の受信料から
番組制作にお金がいっているわけで、
視聴率の低い番組は作ってはならないという
厳しい目もあるのでしょう。

民放局のように、視聴率がビジネスに
密接に関わりある放送局とは違うので、
なかなか扱いが難しいですよね。

投稿: ★いちろん | 2013年1月11日 (金) 03:50

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