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2013年1月 3日 (木)

(51-2)総集編第二回・保元平治の乱

(17)平氏の棟梁(とうりょう) 〜第2部開始! 武士の世を目指す!〜
平 忠盛(中井貴一)がこの世を去り、平 清盛(松山ケンイチ)が正式に平氏の棟梁となった。清盛は忠盛の館に移り住む。その館に一族郎党が集まり、清盛は「亡き父上の固き志を継ぎ、武士の世を目指す!」と宣言する。
棟梁の仕事は多岐にわたっていた。清盛は父の偉大さを改めて痛感するのだった。一方、棟梁の妻となった時子(深田恭子)は宴でふるまう膳の数を誤り、琵琶の演奏を頼まれても断るなど、清盛の機嫌を損ねることばかりを起こす。
そんな折、藤原家成(佐藤二朗)が訪ね、自身の別邸で催す歌会で清盛に一首詠んでほしいと依頼する。歌が苦手な清盛は信西(阿部サダヲ)を頼るが、あっけなく断られる。そのうえ、歌会でのふるまいが平氏一門の未来を左右すると言われ、清盛は重責を感じる。
そんな清盛の前に現れた源 義朝(玉木 宏)は、拍子抜けするほどさわやかに棟梁就任を祝い、側室となった常盤(武井 咲)を紹介。驚く清盛に常盤が自分の心の支えだと言う。一方、義朝の正室・由良(田中麗奈)はさびしげに一人で過ごす日々が続き、鬼武者(のちの頼朝)はそんな母を見て心を痛めていた。
そのころ、源氏の棟梁・源 為義(小日向文世)は、義朝の異母弟・源 義賢(阪本浩之)に源氏に代々伝わる太刀・友切を授け、東国に行き、義朝に対抗できる力をつけろと命じる。
朝廷にも暗雲がひろがっていた。もともと丈夫ではない近衛帝の体が思わしくなく、しかもお世継ぎもいなかった。帝(みかど)の健康を気遣う崇徳上皇(井浦 新)にむかい雅仁親王(松田翔太)は、帝が亡くなれば崇徳の子・重仁が帝となり、崇徳が政治に復帰できるのでは、とその心を見透かしたように言う。
相変わらず歌の宿題に悩む清盛は、三男・清三郎が書の稽古を怠けていると知り、時子のしつけを叱りつけた。そして先妻の明子なら棟梁の妻のつとめをもっとうまく果たせたはずと言い、時子を深く傷つけてしまう。
そんな清盛に義弟・平 時忠(森田 剛)は、時子が琵琶を弾かなくなったのは、結婚する前に清盛が「耳に残る明子の琵琶の音色をかき消されたくない」と言ったことを時子が覚えているからだと告げた。その言葉は清盛の心に深くつきささる。
歌会の当日、家成の別邸には鳥羽法皇(三上博史)、得子(松雪泰子)、崇徳上皇、雅仁親王、摂関家や、信西らが集まった。それぞれの思いが渦巻く政治の場の様相をおびて歌会は進み、やがて清盛の歌が詠まれる番になった。
その歌を見て、進行役の藤原成親(家成の子:吉沢 悠)が詠むのをためらうと、清盛自ら大声で詠みあげた。「重盛に 基盛それに 清三郎 清四郎みな われらの子なり」あきれる人たちに向かい清盛は、自分が家族や家人たちをなにより大事に思っていること、歌会よりケンカした妻に一刻も早く謝りたいという思いを述べた。堂々とした清盛の態度は歌会の客たちにさまざまな波紋を広げた。得子は清盛を「もろ刃の刃のごとき男」と評し、鳥羽院は「われらにもっとも足りぬものを持っている」と評した。
清盛が帰宅すると、時子は重盛らに請われて琵琶を弾いていた。そして重盛や基盛は時子が大事な母であり、傷つけることは父でも許さないと訴える。清盛はほほえんで時子の琵琶に耳をかたむけた。
一方、義朝は源氏の長の証である名刀・友切が弟に与えられたと知り、為義に詰め寄る。すると為義は、父の誇りを踏みにじる義朝に源氏を背負わせることはできないと断言し、義朝とたもとを分かつことになる。源氏も平氏も、世の大きな流れに、いやおうなく身内を巻き込んでいくことになる。

(18)誕生、後白河帝 〜保元の乱へ・序章〜
1154年、近衛天皇(北村匠海)の容体がいよいよ深刻になってきた。母・美福門院得子は、一心不乱に祈とうする日々。父・鳥羽法皇は、崇徳上皇を遠ざけてきたことの報いではないかと、わが行いを省みる。また、鳥羽法皇の側近で、平氏とも親しかった藤原家成が病床に臥(ふ)した。見舞いにきた清盛に、家成は実子・成親や養子・師光(加藤虎ノ介)を自分と思い相談するようにと告げ、鳥羽法皇のことを託した。そして後日、家成は世を去った。
ある日、清盛は崇徳上皇に招かれる。崇徳上皇は近衛天皇が死去した後、わが子・重仁(雄大)が天皇となり、自分が実権を持つ日も近いと考え、清盛に力を貸すよう説いた。しかし清盛は、平氏は鳥羽法皇とつながりが深いので、崇徳上皇にくみすることはできないと断る。崇徳上皇は「朕(ちん)にこの醜き世をおもしろう生きよと言うたのは、そちではないか」と激高。その情熱に、清盛は心動かされる。その直後、清盛は雅仁親王を見かける。雅仁は、一介の武士に頼る崇徳上皇を落ちぶれたと非難するが、清盛は崇徳上皇ではなく武士の立場が変わったのだと言い返した。
その夜、平氏一門は集まり、崇徳上皇につくか、鳥羽法皇につくかを議論するが、収拾がつかない。すると清盛は、鳥羽法皇と崇徳上皇の仲を取り戻させると一同に宣言する。
そのころ、鎮西(ちんぜい=現在の九州のこと)にある鳥羽法皇の所領を、弓矢が達者な巨漢が襲った。源 為義の八男・為朝(橋本さとし)である。素行が悪く鎮西に追放されていた為朝だが、この一件で鳥羽法皇の怒りを買ったため、為義は右衛門尉(うえもんのじょう)の職をとかれてしまう。為義が頼れるのは藤原摂関家となった。
ある日、為義は比叡山の悪僧たちを藤原頼長(山本耕史)の前に連行した。僧の一人、鬼若(のちの弁慶:青木崇高)は以前頼長を助けた自分を見逃せと訴えるが、頼長は一切受けつけなかった。綱紀粛正に厳しすぎる左大臣として「悪左府(あくさふ)」という異名までついた頼長を父・藤原忠実(國村 隼)はいさめるが、父といえども口出しすれば容赦しないと頼長は宣言した。
そして、近衛帝の容体が悪い中、関白・藤原忠通(堀部圭亮)は信西に相談する。子のないまま近衛帝が亡くなったら重仁・崇徳上皇の親子が権力を持つ可能性が高く、崇徳上皇と関係が悪い自分は失脚する恐れがあると。信西は忠通の不安に答えず屋敷に帰ると、雅仁が訪れていた。信西は雅仁の乳父であった。意気盛んな崇徳上皇の近くにいるのが嫌なため、信西の妻・朝子(浅香 唯)をともない美濃の青墓宿(あおはかのしゅく)へ行くという。この時勢に京を離れることを止める信西だが、雅仁は関係ないと言い捨て、旅立つ。
1155年、近衛天皇の容体はますます悪化、得子はますます多くの僧を集めて祈とうさせ、義朝は大きな護摩壇を寄進した。清盛は鳥羽法皇に謁見し崇徳上皇との和解を勧めた。鳥羽法皇の心は大きく動いていた。
芸事の盛んな場所である青墓宿を訪れた雅仁は、そこで出会った白拍子・乙前(かつての祇園女御(ぎおんのにょうご):松田聖子)の今様に、強く心を揺さぶられる。雅仁は乙前に「遊びをせんとや生まれけむ」という今様の歌のように、生き生きと生きる男(=清盛)を誰もが頼りにするが、自分は誰からも相手にされない、とさびしい真情をさらした。乙前は雅仁の中にみなぎる力がやがて世を動かすといい、雅仁の心を癒やす。
近衛天皇はついに17歳の若さで世を去った。平氏一門が動揺する中、清盛はこのことは鳥羽法皇と崇徳上皇の争いのはじまりではなく、和解のきっかけになると告げた。この数日前、妻を亡くし喪に服していた頼長は次の皇位継承者を決定する会議に出席できなかった。
会議には鳥羽法皇や信西、忠通などが集まり議論を重ねた。弔問に訪れた清盛は内裏の一角で雅仁に会う。雅仁は帝の崩御について、生まれることがすでに博打(ばくち)だが、生まれてこなければ勝負にならない、と告げ今様を歌いだす。その今様は清盛がまだ物心つく前に実母が歌っていたものであり、清盛は不思議な懐かしさを感じる。会議では鳥羽法皇が崇徳上皇の子・重仁を推し、崇徳と和解し共に政治を行いたいと述べると、信西が猛反対。崇徳上皇が復権すれば鳥羽法皇を許すはずはなく、大乱になる。あくまで鳥羽法皇が扱いやすい方を帝にすべきと主張する。そして継承者の行方は予想外の結末を迎える。雅仁が即位し、後白河天皇が誕生したのだった。

(19)鳥羽院の遺言
誰も予想していなかった後白河天皇が誕生し、朝廷は大騒ぎになる。後白河天皇の乳父(めのと)である信西はにわかに朝廷内で存在感を増していく。そんな波乱の始まりに、平 清盛は不安を抱く。またも期待を裏切られた崇徳上皇は鳥羽法皇に激しい恨みを募らせた。だがその一方、後白河即位を決定した鳥羽法皇自身も自責の念にかられていた。左大臣・藤原頼長は、帝を決める場に立ち会えなかったばかりか、亡くなった近衛帝を呪詛(じゅそ)していたという風聞が立ち、朝廷内での立場が危うくなっていく。
そのころ源 義朝は、息子の義平(波岡一喜)を差し向けて異母弟・源 義賢を討ち取り、源氏の棟りょうの証しである「友切」を奪い取る。これを聞いた源 為義は激怒。為義・義朝父子の関係は修復不可能となる。
ある日、清盛の館に時子の妹・滋子(成海璃子)がやってきた。その美しさに平氏一門は見とれる。平 時忠は滋子を貴人の妻にしたいと清盛に言うが、滋子は身分に関係なく好きな相手に嫁ぐと言い放つ。後日、清盛は池禅尼(いけのぜんに:和久井映見)を訪れ、滋子の強さをほめた。そして、決裂している鳥羽法皇と崇徳上皇を実の父子でなくても家族になれることを知る自分が和解させたいと語る。
1155年10月、後白河天皇が正式に即位。宴(うたげ)の席に崇徳上皇から祝いの歌が届けられる。しかし、実はその歌に新しい帝への憎しみが込められていることを見抜いた後白河天皇は怒って暴れだす。その姿に亡き白河院を見た鳥羽法皇は激しく取り乱し、これまで蓄積した心労もあいまって伏せってしまう。
見舞いに訪れた清盛に鳥羽法皇は、もしも何かあったときには御所を守れと命じるが、清盛は謝罪の気持ちを崇徳上皇に伝えてはと勧める。そして鳥羽法皇の写経を手に崇徳上皇を訪ねた清盛は、法皇がみずからの所業を悔いていることを伝える。しかし写経は、崇徳上皇によって破かれてしまう。
翌年になると、鳥羽法皇の病はさらに悪化した。そんな中、崇徳上皇の挙兵が都でうわさになり、信西は都中の武士に鳥羽法皇に忠誠を誓うための誓紙を出すように命じた。清盛はその命令に対し、平氏は鳥羽法皇と崇徳上皇のどちらにもつかず、二人を和解させることを改めて宣言するが、一門は不安にかられていた。池禅尼は平 忠正(豊原功補)に、いざというときは亡き忠盛の志を守ってくれと頼んだ。
一方、義朝は鳥羽法皇への誓紙を書くが、その直後に為義の家臣・鎌田通清(金田明夫)にその行為を責められる。源氏が仕える左大臣・頼長の立場がわからぬ現状で誓紙を書くことは危険であるからだった。しかし義朝は意に介さない。さらに通清は義朝に為義との和解を勧めるが、義朝は拒否する。その様子を見て義朝と行動をともにしてきた鎌田正清(趙 珉和)も義朝のもとを去った。
その後、やりきれない義朝は清盛を訪ねる。そこで清盛の子どもたちの仲むつまじい様子をうらやましく見つめた。義朝が鳥羽法皇への誓紙を書いたことを告げると、清盛は鳥羽法皇と崇徳上皇を和解させるべきだと反論。すると義朝は、この混乱こそが武士が出世する好機だと叫んだ。
そのころ、崇徳上皇のもとを美福門院得子が訪れていた。崇徳上皇が院政を行う最初の機会を奪った張本人だった得子は、息子である近衛帝がよう折したのは自分が無理に帝につけたからかもしれないと悔やみ、もう長くない鳥羽法皇との和解を崇徳上皇に訴えた。
今度は清盛を信西が訪ねていた。誓紙を書かない清盛に、世の流れは大乱に向かっていると告げ、自分がもっとも守りたいものはなんなのかを見定めろとさとす。その言葉は清盛に重くのしかかった。
7月、鳥羽法皇の危篤の報が都を駆け巡った。そして鳥羽法皇のもとへ崇徳上皇がかけつけた。しかし、警固の兵たちが崇徳上皇を通さない。強引に中へ入ろうとする崇徳上皇の前に立ちふさがったのは清盛だった。清盛は崇徳上皇に向かい、すでに遅かったこと、自分にも守るべきものがあることを告げ、剣を向けた。清盛は平氏一門を守るため、誓紙を書いていたのだ。そして鳥羽法皇は亡くなった。雨の中、濡れてさまよう崇徳上皇に近づいたのは頼長だった。鳥羽法皇の崩御により、くすぶっていた火種それぞれが炎をあげ、都を戦に巻き込んでいく。

(20) 〜決戦へ!〜 前夜の決断
1156年(保元元年)7月2日、鳥羽法皇が崩御した。あわただしく人が行きかう鳥羽院御所の門前には西行(藤木直人)の姿もあった。手をあわせる西行に平 清盛は戦になると告げる。
失脚の憂き目にあった左大臣・藤原頼長は崇徳上皇に接近。頼長は自分と組むことでいずれ天下の権を奪い返すこともできると崇徳上皇を説得した。しかし、その動きを察知した信西は、二人に謀反の疑いをかけ、武士たちに帝をお守りせよと発令。後白河天皇と崇徳上皇の雌雄を決する戦が始まろうとしていた。
諸国の武士が京に集結し、天皇方と上皇方へと分かれていくなか、清盛の館に平氏一門が集まるが、どちらにつくか意見がまとまらない。清盛は、武士の世を作るため、双方を待たせて戦の後の恩賞をつり上げるという方針を決定した。弟の平 頼盛(西島隆弘)は清盛の決定に不安をかくせなかった。
7月8日(戦の2日前)、京は日増しに騒然としていた。天皇、上皇それぞれのもとへゆかりの武士たちが諸国からも召し出されていた。鎮西にいた荒れ武者・源 為朝もその一人だった。圧倒的な存在感を放ちながら京の町を進む為朝の姿を鬼若が見つめていた。
清盛の作戦が功を奏したか、上皇方の藤原頼長や、天皇方の藤原成親・信頼(塚地武雅)らは清盛の動向に目が離せず、いらだち始めていた。
そのころ、源 義朝は、父・為義と決裂、後白河側につくことを決断。親子で戦うことの是非を問う鎌田通清に、為義はしかたないと答え、義朝の乳兄弟である鎌田正清には義朝側につく自由をあたえた。しかし正清は動かない。
そんな中、後白河天皇は清盛を自邸に招き、二人だけの密談を始めた。後白河天皇は清盛の策略を見透かし、たとえ恩賞をつり上げても戦勝後に清盛の思いどおりになどならないと告げ、サイコロで即座の決断を迫った。清盛はこの戦いにも後白河天皇にも勝ってみせると言い返した。
7月9日(戦の前日)、為義の前では為朝が存分に働いてみせると豪語する。それを為義は頼もしそうに見つめていた。一方、平氏一門にも頼もしい加勢があった。伊藤忠清(藤本隆宏)が豪勇で知られる弟・忠直(土平ドンペイ)を連れてきたのだ。しかし一門の顔は晴れない。評判の高い為朝が上皇方についたこと、そして清盛はそれとは反対に天皇方につくと決めたからである。清盛は後白河天皇が自分の志や武士の力を見抜いていたことを挙げ、平氏の今後を賭けることを決めたのだった。疑問を残しつつも棟りょうの言葉に従う一門だったが、頼盛はある決意を固めていた。
京の町が殺伐としてくると、義朝は正妻・由良と鬼武者(のちの頼朝)が避難している別宅に、側室の常盤と子どもたちを連れて行く。由良はいやな顔ひとつせず常盤を迎えた。一方、清盛は時子や子どもたちを故・藤原家成の娘、経子の元に預けた。そこで、後に夫婦となる長男・重盛と経子が出会う。そのころ、頼盛は腹心の家臣を集め、自分は清盛とたもとを分かち、上皇方につくと明かす。母・池禅尼は頼盛をいさめるが、頼盛は自分は兄・家盛のようになりたくないと反発する。
7月10日(戦の当日)、後白河天皇は高松殿、崇徳上皇は白河北殿に本陣を置き、まもなく始まる戦に備えた。清盛とともに出立する重盛・基盛に、時子は母として声をかけるとともに清盛に新たな子が宿ったことを告げる。一方、義朝も由良と常盤のもとで出立の準備をすすめる。常盤は親兄弟と戦うことの是非を改めて問い、由良は存分に働くようにと声をかける。
為義たちは崇徳上皇方の白河北殿で警備を固めていた。そこで鎌田通清は、息子の正清に好きなようにするがよいと話し、正清は後白河天皇方の義朝のもとへ向かうことを決断した。
六波羅の館で清盛は一門を集め、出陣を命じた。頼盛は秘めた思いを胸に別行動を起こそうとしていたが、頼盛の裏切りを見抜いていた叔父・忠正は、頼盛の裏切りを認めようとしない。やがて清盛の軍勢に頼盛軍が合流するが、一緒に来るはずの忠正が来なかった。忠正は、頼盛の代わりに崇徳上皇方についたのだった。平氏の絆を重んじる清盛は、忠正を連れ戻そうとするが家臣に止められる。そんな清盛に頼盛は忠正の伝言をつたえる。「お前とわしとの間に絆などはなっからないわ!」と。
そして清盛は300騎をつれて高松殿に参陣し、それを義朝が迎えた。清盛と義朝は身内と敵対する痛みをかかえながら「保元の乱」と呼ばれる戦を戦うこととなった。

(21)保元の乱 〜燃える平安京! 新しき武士の世の夜明け!〜
1156年(保元元年)7月10日深夜、ついに戦いの火ぶたが切られようとしていた。後白河天皇方には平 清盛以下300騎、源 義朝以下200騎などが陣をおく高松殿に集結。同じころ源 為義ら源氏勢や、平 忠正とその一党は崇徳上皇がいる白河北殿に入った。
義朝は死ぬ覚悟で戦う自分に今すぐ昇殿を認めろと主張、指揮をつかさどる信西は血気盛んな義朝にすぐさま昇殿と軍議への列座を認めた。そんな義朝に清盛は対抗心を燃やす。
藤原忠実は宇治で一人ぼう然としていた。藤原摂関家の栄華を取り戻すはずだったが、長男・忠通は天皇方、次男・頼長は上皇方に分かれて戦うことになり、悲痛な思いを感じていた。
それぞれの軍議の中で、天皇方の義朝と上皇方の源 為朝は、ともに戦慣れした武士らしく、「夜討ちこそが最上策」と提言。夜討ちを恥ずべき行為とする頼長がこれを退けたため、上皇方は夜明けを待つことになった。一方、天皇方の信西は、勝つためには手段を選ばずとばかり義朝の案を取り入れる。信西は義朝の献策を褒めあげると、清盛も負けじと発奮する。
清盛は早速一門に指示を出す。平氏の武功をあげるため為朝を狙えと。伊藤忠清とその弟・忠直、清盛の長男・重盛、次男・基盛が出陣。しかし弟の頼盛には、弱気になったものに兵は任せられないと即刻立ち去るよう命じた。
また、義朝のもとには、家臣・鎌田正清とその義父・長田忠致(長谷川公彦)が加わった。陣立てをする清盛、義朝らの前に後白河天皇が現れ、じきじきに言葉をかける。戦のいきさつを改めて語り、武士たちの力で勝利することが新しき世の始まりだと鼓舞した。
後白河天皇の軍勢は三方に分かれて白河北殿に向かった。突然の敵襲に頼長は動転する。義朝は白河北殿に向かう途中、賀茂の河原で敵軍となった弟・源 頼賢(永岡 佑)らと遭遇、白河北殿の南門では伊藤忠清・忠直が強弓の使い手・為朝と対戦した。為朝が射た矢は忠直のよろいを貫き、絶命する。一方、北門では清盛の前に叔父・忠正が立ちはだかった。無駄な血を流したくないという清盛に射かける忠正。ふたりの死闘が始まった。
南門で次々に敵を射たおす為朝の強弓。立ちはだかる鎌田正清に為朝は鋭い矢を放つが、身をていして矢を受けたのは為朝側についていたはずの正清の父・鎌田通清だった。深手を負った通清は為義の前に行き、為義の子はみな立派に戦っている、源氏の世はきっとくると告げて息絶えた。悲しみに我を失った為義は、指揮官の頼長を置き去りにして前線に出て、我が子・義朝に斬りかかる。応戦する義朝もさすがに父を斬ることができず、退却を決断する。
義朝は信西に使いをやり、御所に火を放つことを提案。信西は即刻火をかけよと命じる。清盛と忠正が戦う北門では兎丸(加藤浩次)たちが巨大な丸太で門を壊し、兵たちが突入。義朝の火攻めも始まった。
うろたえる頼長に、崇徳上皇は頼長を信じた自分が愚かだったと言い捨て、白河北殿を去った。後白河天皇側の勝利が決定的になる中、清盛はかつて白河法皇(伊東四朗)と対面した場所でもある白河北殿が焼け落ちていくのを、感慨を持ってみつめていた。

(22)勝利の代償 〜斬首せよ! 清盛〜
保元の乱で負けた崇徳上皇方はちりぢりになる。左大臣・藤原頼長は、逃げる途中で追っ手の矢により重傷を負う。崇徳上皇はあてもなく山をさまよい、やがて近臣・藤原教長(矢島健一)と二人きりになると、何一つ思いどおりにならない自分の人生を振り返り、泣き崩れた。
一方、勝軍の平 清盛や源 義朝たちは、戦いで落命した者たちを悼んでいると、後白河天皇があらわれ、武士たちをじきじきにねぎらった。やがて二人きりになると清盛は義朝の武勇をほめ、武士の世がやって来ると喜んだ。満足げな義朝は源氏の宝刀・友切の名を変えたいと告げると、清盛は義朝の不精ひげを見て「髭切(ひげきり)」と言う名を思いつく。
妻・時子の元に帰り喜びをかみしめる清盛だが、敗軍の将となって姿を消した叔父・忠正の行方が気がかりだった。義朝もまた、敵方についた父・為義に対して同じ思いをかかえていた。
ひん死の頼長は最後に父・忠実を訪ね、救いを求めるが、罪に問われることを恐れた忠実は門を開かない。自分の運命を悟った頼長は、舌をかみきり絶命する。翌朝、忠実の前に頼長が飼っていたオウムが舞い降り、「チチウエ」と繰り返し鳴いて息絶えた。忠実はオウムを抱きしめ泣き叫んだ。
敵ながら頼長の才を認めていた信西は焼け崩れた頼長邸を訪ね、日記を見つけた。そこには頼長の政治に対する熱い思いがつづられていた。
やがて、行方しれずだった忠正と息子たちが、伊藤忠清に連れられて清盛のもとへ戻る。残党狩を心配した清盛がひそかに捜索を命じていたのだ。抵抗する忠正を清盛は力ずくで押さえ、軽い罪で済むように頼むので、今後も平氏のために力添えをしてほしいと説得する。
一方、義朝にも為義が尾張で見つかったことが知らされた。妻の由良が探すよう命じていたのだ。もはや父子の縁はないと言って為義と会わない義朝。そして義朝に救ってもらう気はないという為義だが、義朝が殿上人となったことを由良から聞かされ、宿願がかなった喜びをかみしめた。
後白河天皇は崇徳上皇が仁和寺で出家し、忠正、為義がそれぞれ平氏と源氏の館にいることを知らされた。ただちに罪を定めよと命じる後白河天皇の前に美福門院得子が訪ねてくる。双六(すごろく)をしながら得子は後白河天皇の慢心を戒めて去る。悔しさをかみしめながら後白河天皇は笑みを浮かべた。
清盛は忠正の罪を軽減するよう信西に訴える。信西は世にとって最もよい判断をくだすから任せろと答える。
後白河天皇の前で崇徳上皇側についた敗者たちの処分が議論される。貴族たちの前で信西が次々と厳しい処分を提案する。藤原摂関家の長に復帰した忠通は、忠実の荘園も召し上げられることに抗議するものの認められず、出家した崇徳上皇は流罪となった。そして武士たちの処分は──。
翌朝、信西に呼び出された清盛は、叔父・忠正を斬首せよ、という命令を聞き、にわかに信じられなかった。

(23)叔父を斬る 〜清盛、涙の決断〜
信西は平 清盛に叔父・忠正の処分は死罪だと告げた。動揺して必死にあらがう清盛だが信西には通じない。清盛は平氏の後ろ盾となってくれていた藤原家成の息子・成親にとりなしを頼むが、成親は泣きながら自分の力では無理だと断る。しかし清盛が出ていくと、その目には涙ひとつなかった。
信西の仕打ちは源氏に対しても同じだった。信西は源 義朝に、父・為義や弟たちが死罪だと告げた。必死に許しをこう義朝に信西は、清盛は今後のことを考えて叔父を斬ると伝えた。怒りに我を失った義朝は、館にもどると由良をたたき、なぜ父を連れ戻したりしたと責めた。その様子を為義はぼう然と見つめていた。
清盛の館では平氏一門が今後の策を議論するがまとまらない。清盛は意を決して、忠正に斬首の沙汰を告げると、忠正は運命をすぐに受け入れ、清盛の手で自分を斬れと言う。
一方、義朝の館では悩み苦しむ義朝に為義が静かに語りかける。自分の悲願だった殿上人に義朝がなったことを親孝行だとほめ、義朝に源氏重代の家宝である刀で自分を斬ってくれと頼んだ。由良は鬼武者(のちの頼朝)に義朝が為義を斬ることを告げ、その場を見届けろと命じる。
忠正が上皇方につく原因となった清盛の弟・平 頼盛は、忠正に涙ながらに謝罪するが、忠正は平氏のためになら喜んで自分は斬られると静かに語った。
運命の日、忠正は一緒に斬られる運命になった息子たちにわびて館を出ようとする。そこへ何も知らない清盛の三男・清三郎が、忠正が作ると約束していた竹馬が完成したかをたずねてきた。忠正は帰ったらつくると告げ、一門が見送る中、処刑場の河原に向かった。
河原で西行も見守る中、清盛は宋剣を抜くが忠正の首へ振り下ろすことができない。忠正が何度も斬れと叫んだ末、清盛は叔父や、その子らを斬った。
一方、義朝も為義を斬るのをためらっていた。為義の斬れという叫びにも義朝はこたえず泣き崩れた。やがて義朝の家臣・鎌田正清が刀をとり、為義やその子らを斬っていった。
藤原師光から処刑の結果を聞いた信西は、冷静に首をさらすよう命じた。師光は信西の真意を見抜き、藤原摂関家を弱めるため為義を殺さねばならず、そのために平氏も源氏も両方血を流すことを求めたのだと感服した口調で話す。信西はそっと涙を流していた。
使命を終えた清盛を待っていたのは後白河天皇からの勝利の宴への誘いだった。かつては武士を軽んじていた関白・藤原忠通だが、今は武士の力を認めざるを得ないとして清盛に杯をあたえた。後白河天皇は白拍子を呼んで舞歌わせた。祝いが華やかになるほど心が暗く沈んでいく清盛は、やがて怒りをおしとどめ、後白河天皇に招待のお礼を言上した。
宴の後、その場に残り怒りを吐き出す清盛に、信西は「すべての重き荷を背負ってこの国の宝となれ」とさとし、信西の知力と清盛の武力で世を変えようと語りかけた。
そのころ、悲劇を通して棟りょうの妻としての自覚ができた時子は妹の滋子につとめにでるよう命じた。
また、義朝が為義を斬れずにいた一部始終を見ていた鬼武者は義朝に、元服して父を支えたいと申し出た。その言葉に義朝は思わず鬼武者を抱きしめ涙を流した。そして鬼武者は「源 頼朝」と名乗ることになった。
清盛は平氏一門を集め、平氏は一蓮托生であり、一門の繁栄を築きあげるのが一人一人の使命だと改めて宣言した。

(24) 〜平安相撲復活!〜 清盛の大一番
1156(保元元)年7月、讃岐へ流罪となった崇徳上皇はひっそりと京を離れた。その姿をかつて崇徳上皇と親交のあった西行が見送っていた。
保元の乱の敗者たちが一掃され、後白河天皇のもとで実権を握る信西の政治改革が始まった。信西は手始めに内裏の修復に着手し、1157(保元2)年にはみごとに完成。満足げに内裏を見つめる後白河天皇に信西は、平 清盛ほか平氏一門がいかに貢献したかを語った。恩賞として平氏一門の官位はそれぞれあがることになったが、清盛の公卿昇進は見送られ、代わりに長男・重盛(窪田正孝)が従五位上にのぼることになった。満足げな清盛をよそに浮かない顔の重盛は、弟の基盛(渡部豪太)に本音を話す。大叔父・忠正を斬れと命じた信西につき従う父・清盛が理解できなかったのだ。
次に信西は、新しい内裏で相撲節会(すまいのせちえ)などさまざまな宮中行事の復興を計画し、その資金を得るために全国からあまねく税を取り立てることを徹底させた。そして清盛には、かねてより租税の集まりが悪い鎮西に行き、大宰府から相応の税を取り立てよと命じる。清盛は、見返りに大宰府を取り仕切る大宰大弐(だざいのだいに=大宰府の長官)の官職を要求し、さらに私利私欲のために平氏を使うつもりならば容赦しないというと信西は、この先自分の言葉がうそだったときには、首をはねても良いと覚悟を語った。
そのころ、後白河天皇とその皇子・守仁(もりひと:冨浦智嗣)は、玉座をめぐって対立。守仁の養母・美福門院が譲位を迫っていたが、後白河天皇は応じない。
清盛邸をたずねていた藤原成親は、本来政治に興味のない後白河天皇の真意をとらえかねていたが、清盛は後白河天皇が美福門院の心をもてあそんでいるのだと推測する。そして清盛は鎮西に向かい、大宰府を手に入れると大胆な宣言をして去っていく。清盛の妻・時子は、戦によって肝のすわった清盛ならば本当に手に入れるだろうと成親に告げる。
一方、清盛と同じく戦の始末で肉親を斬った源 義朝であったが、左馬頭(さまのかみ)という低い官職にとどまったままであった。恩賞をもらうべく信西を訪ねる義朝だが、信西に会うことすらできず、藤原師光に冷たくあしらわれてしまう。
鎮西にわたった清盛は、大宰府で接待を受け、珍しい宋の茶をふるまわれた。やがてあらわれた大宰府役人の長・原田種直(蟹江一平)に豊かな鎮西にしては京に届く租税が少なすぎることを問い詰めると、鎮西一帯の暴れ者たちを手なずけるために使うからだと言う。一旦、その場を去った清盛は元海賊の兎丸たちを引きつれ再度種直をたずね、彼らを使ってふらちな者をこらしめる手助けをしようと言っておどし、更に平氏一門と組みともに力をつけようと持ちかけ、私腹を肥やしていた種直を制圧した。こうして手にした米を清盛は相撲節会の資金にあてるため、信西に届けることとした。不服な兎丸に、これは自分と朝廷との相撲だと告げる。京に運び込まれる米を満足げに見る信西に、清盛は相撲節会の宴の膳も自分に用意させてくれと頼む。
また、藤原成親は自分の妹・経子(高橋 愛)と重盛の縁談を申し込む。清盛はどこかためらいのある重盛に、「今が一門にとってどういうときがわかっておろうな」と重盛に言い放つ。その言葉は清盛が亡き妻・明子を身分が低いながらも妻にしたいと父に申し出たときに、家臣・平 家貞(中村梅雀)から言われた言葉だった。家貞は感慨深く、その記憶を平 盛国(上川隆也)に告げると、盛国はその時より一門の背負っているものがはるかに重くなったからだと告げる。そんな盛国を家貞は頼もしく思うのだった。
一方源氏では、義朝の妻・由良の働きかけで頼朝(中川大志)が後白河天皇の姉・統子内親王(むねこないしんのう:愛原実花)に仕えることになった。しかし、その祝いの席で由良が突然病に倒れてしまう。義朝は相撲節会の準備に追われる信西をたずね、清盛と同等の国を願いでたが、信西は取り合わなかった。
後白河天皇が見守る中で相撲節会が開かれ、白熱した取り組みが行われた。その同じ日、平氏一門は重盛と経子の婚礼の宴を行っていた。盛り上がる一門をよそに、思いつめていた表情の重盛はいきなり婚礼の中止を申し出た。経子に不服はないが、叔父を斬ることを命じた信西と組むような父の跡を継ぐ覚悟ができていないからだと訴える。清盛は一向に動じず、重盛のたわごとを聞いている暇はないと重盛を庭に投げ飛ばす。そして経子にわびた後にそのまま宴を続けさせた。ぼう然とする重盛だった。
一方、相撲節会での後白河天皇は取り組みよりも、そこで供された美しい宋の器や茶に心をひかれていた。信西は膳を用意したのが清盛であること、相撲節会のために鎮西から財を届け、その際に見つけた茶を余興として膳にしたことを説明した。それを聞いた後白河天皇は清盛を大宰大弐にすると決めた。翌日、清盛邸をたずねた信西は清盛にそのことをつげ、手も触れずに勝った清盛の相撲をほめあげた。そして、後白河天皇は美福門院と守仁親王を内裏に呼び、玉座にいてはあいつと遊べない、と言ってあっさりと譲位を切りだした。
大宰大弐となった清盛は、内裏で義朝と出会う。信西によって不遇を味わう義朝は、用がすめばお前も信西に捨てられると清盛に言い放つが、清盛はそれでも今は他に道はないと言い返す。清盛と義朝、ふたりの宿命の対決が迫っていた。

(25)見果てぬ夢 〜はるか宋への道〜
1159(保元4)年2月、後白河上皇の姉・統子内親王が上西門院(じょうさいもんいん)という院号を授かり、源 頼朝は蔵人に取り立てられる。病床の母・由良御前はその知らせに喜びながらも、平氏との差を埋められずに苦しむ源 義朝を案じ、父を支えよと頼朝に言い聞かせる。
信西の政治改革は順調に進み、今度は官吏養成のための予算を捻出しようと奔走していた。その働きぶりに感心する平 清盛に、信西の妻・朝子は信西の逸話を語る。淡海(たんかい)という宋の僧侶と会ったときだった。見事に宋の言葉で話す信西に驚いた淡海は、博識の理由をたずねると、信西は遣唐使が再開されたときに備えているためだと自身の夢を語ったという。清盛は信西の壮大な夢に驚く。
朝廷は即位した二条天皇の親政派と譲位した後白河上皇の院政派に分かれて対立していた。その中でも自分の意のままに政(まつりごと)を行う信西を二条親政派は疎ましく思っていた。また、後白河上皇から過剰な寵愛(ちょうあい)を受けている側近・藤原信頼は後白河上皇を通じて近衛大将の位をねだるが、信西は強く反対。信頼は信西に憎しみを抱いていく。信西は藤原師光を通じて白楽天の「長恨歌」の絵巻を後白河上皇にとどけた。それは唐の玄宗皇帝が楊貴妃にのめりこんで国を滅ぼした話であり、信頼にいれこむ後白河上皇への戒めだったが、上皇は喜ぶばかりで真意にまったく気づかなかった。
ある日、清盛はやつれた義朝を見かけ、病床の義朝の妻・由良御前のために宋の薬を渡そうとするが義朝は断る。意地をはりながらも自分のふがいなさを恥じる義朝に清盛はかける言葉がなかった。
2月、上西門院の殿上始の儀で、頼朝は初めて清盛と対面することになった。清盛の杯に酒を供することになった頼朝は、その威厳に満ちた姿に圧倒されて酒をこぼしてしまう。悔しさと恥ずかしさでいっぱいの頼朝に、「やはり最も強き武士は平氏じゃ。そなたのような弱き者を抱えた源氏とは違う」と清盛は言った。怒りに震える頼朝が清盛をにらむと意外にも清盛は優しげな笑顔で頼朝を見ていた。頼朝が館に戻ると由良の容体が急変していた。義朝は宋の薬を求めて清盛の館へ走ろうとするが、由良がそれを制止。誇り高き源氏の妻として死なせてほしいと言い残して、息をひきとる。
程なく、信西に対して怒りを抑えきれない信頼は、同じく信西に対抗心を燃やす二条親政派の藤原経宗(有薗芳記)、藤原惟方(野間口 徹)を館に呼んでいた。信頼は、仕えるお方が違っても倒すべき敵は同じと言い、一同は打倒信西を誓う。
そのころ清盛は妻・時子に信西のことを話していた。広く薄く税をとりたてる信西の政策により、重税に苦しんでいた都の民の暮らしが楽になってきていた。清盛は、信西の国づくりに協力していこうと決意する。そして、義朝がのぼってくるのを待ち、一緒に武士の世を気づく夢を語る。
一方、失意に暮れる義朝は常盤のもとへいくが、由良を失った寂しさは癒やせない。そんな義朝を呼び出した信頼は、自分と手を組み信西の首を取れともちかける。義朝はあまりの事の大きさに思わず断り、その場を離れた。
館に戻ると義朝は、頼朝から清盛とはどういう男なのかを尋ねられた。義朝は若いころ競べ馬で清盛に勝った日のことを語り、負けて落ち込む清盛に「最も強き武士は源氏じゃ」と挑発し、怒りで立ち上がった清盛のことがうれしかったことを告げた。その話を聞き、頼朝は対面したときの清盛の笑顔の意味にようやく気づいた。義朝も話していくうちに、今度は清盛の前に自らが立ち上がる番ではないかと思い始め、そしてある決意を固めた。
信西は宋との交流を復活させ、使節を送るという積年の夢を実現しようとしていた。清盛は信西から、大願成就のために熊野神社へ詣でるよう命ぜられ、旅立った。これを好機と、信頼の館には信西と敵対する貴族たちが集まり、そこへ義朝も加わっていた。ある夜、算木を使い予算を計算する信西は、突然、無数に並んだ算木が迫りくる地響きのために揺れ始めるの見て、恐怖に震えるのだった。

(26)平治の乱 〜武士の覇者は誰か? 平氏×源氏 決戦の時〜
1159(平治元)年12月9日、これまで信西に冷遇されていた源 義朝が、後白河上皇の側近・信頼らと結託し、ついに決起する。世にいう「平治の乱」のはじまりである。
三条殿にいた後白河上皇と上皇の姉・上西門院統子は源氏勢に幽閉され、義朝率いる源氏の軍勢は三条殿と信西の館を襲うが、信西はすでに逃げ出していた。義朝はさらに二条天皇をも内裏に軟禁したのであった。
三条殿を抜け出した信西の妻・朝子は清盛邸にかけこみ時子に状況を伝え、信西を清盛に救ってもらうよう頼み込んだ。紀伊にいた平 清盛は、早馬で駆けつけた伊藤忠清から事の次第を聞き、言葉を失う。すぐに熊野詣を中止し都へ戻るよう命じる。しかし熊野詣のため一同武装していないと平 重盛が心配すると平 家貞がひそかに用意していた鎧や弓矢を差し出した。平氏一門は必死に京へ向けて馬を走らせる。
内裏では、摂津源氏の頼政(宇梶剛士)が今回の所業の理由を義朝に問いただしていた。すると義朝は、武士の地位を高めるのは政治ではなく力であることを世に示すためだと答えた。そのころ信西は山中を必死に逃げていた。つき従う師光らが疲れきっているのを見て、ここに穴を掘り自分を入れてそれぞれ落ち延びよと命じた。
12月14日、内裏では諸官を任命する除目(じもく)が行われた。信頼は念願の近衛大将になり、義朝は播磨守に任じられた。身勝手に振る舞う信頼に、とまどう藤原成親たち。美福門院や藤原忠通は怒りをこらえていた。そこへ義朝の長男・源 義平(波岡一喜)が東国から到着し、阿倍野にて清盛一行を待ち伏せしたいと意気込む。
六波羅の清盛邸では、京に残った平 盛国らが方針について話し合っていた。平 頼盛は信西を救う必要はないと言う一方、平 時忠は信西は平氏にとって不可欠な方と言い、意見は割れる。そうした中、清盛が信西を見捨てるはずがないと時子が声をあげ、盛国は清盛の帰りを待つことを提案した。
京へ向かう途中の清盛たちは、阿倍野で待ち伏せしているという源氏勢とどう戦うか話し合っていた。一日も早く帰京し、信西を救いたいと言う清盛に、重盛は信西が滅ぼされた後で信頼と源氏を倒せばすべてが手に入ると主張した。清盛は信西との思い出を語り、友である信西を絶対見捨てないと決意を固めた。
穴に隠れていた信西は、そばで見守る師光に西光という法名を与え、自分に危機が迫っても決して助けようとは思わず、すべてを見届けろと命じた。信西は一人になり、自らの半生を思い返し、自分は一体何者になりたかったのかを考えていた。そして、いつか清盛が助けに来ると信じて、息を潜めた。だが、穴の中で衰弱した信西を見つけたのは清盛ではなく、源氏の者だった。覚悟を決めた信西は刀をのどにつきたてて自害した。
12月17日、京にたどりついた清盛は路上につるされているものにがく然とする。それは亡き信西の首であった。泣き崩れた清盛はやがて震える手と足で体を起こした。怒りに満ちた目で義朝への怒りを叫ぶ。「これがお前の出した答えならば──受けて立とう」平氏と源氏が雌雄を決するときがきた。

(27)宿命の対決 〜清盛vs義朝! 源平合戦幕開け〜
源 義朝の挙兵を知って、京に戻った平 清盛は、信西の死を知り、怒りに震えた。1159(平治元)年12月18日、清盛邸では一門が戦いの予感に身構えた。しかし、清盛は性急に動こうとしないばかりか、義朝に信西を討たせた張本人である藤原信頼に対し、恭順の意を示すよう一門に命じる。
内裏を占拠する義朝のもとには、東国から長男・源 義平のほか、次男・源 朝長(川村亮介)もかけつけ、三男・源 頼朝(中川大志)とともに守りを固めていた。東国武士の野蛮なふるまいや、遊んでばかりいて政治に全く興味がない信頼に失望した親政派(=二条天皇派)の公卿・藤原惟方と経宗は、自分たちの判断を後悔し始めていた。一方、内裏にいる藤原成親は清盛の長男・平 重盛の義兄であることから、どう転んでもわが身は安泰だと悠々としていた。
そのころ、内裏の一本御書所に幽閉されていた後白河上皇は、今様を歌いながら舞っていた。上皇の姉・上西門院統子はそんな上皇をたしなめるが、上皇は悲しみにかられて舞っていることに気づく。
何日待っても攻めてこない清盛にいらだつ源氏勢。そんな折、彼らのもとへ清盛の使いとして平 家貞が訪れた。警戒して信頼のそばに集まる義朝や成親たち。しかし家貞が信頼に差し出したのは恭順の意を示す証書・名簿(みょうぶ)だった。裏があるはずと疑う義朝だが、信頼は平氏をすっかり信じきっていた。
清盛邸では宴が始まる。そんな宴の最中に客人が清盛を訪れた。藤原惟方と経宗だった。二人は今回の謀反を清盛に詫び、自分たちは巻き込まれただけで謀反は信頼がすべて企てたことという。そして東国武士に占拠された内裏を平氏の力で変えてほしいと願った。清盛は二人の言い逃れに怒って脅した後、望みをかなえる代わりに協力を求めた。
清盛が策を練る中、時子が、一方、義朝にも常盤が、このまま仲の良かった二人が戦ってもいいのかと問うが、清盛も義朝も、平氏と源氏の棟梁であるふたりが戦うのは宿命だと答えた。
内裏では、藤原惟方と経宗が、源氏勢に酒をふるまい休ませるように信頼にすすめていた。信頼はすっかり気を許し、大半の兵たちが酔いつぶれる中、経宗は後白河上皇を内裏から救出し、仁和寺に届ける。一方、惟方は二条天皇を女人に変装させて脱出をはかり、六波羅に届ける。それを知った清盛は、都中に天皇が六波羅にいることを触れ回させた。翌朝、ことの次第を知った義朝は信頼のもとへ駆けつけ、信頼を「日本一の不覚人」と怒りをぶつける。これで源氏勢は、天皇に刃を向ける朝敵となってしまったのだ。
12月26日、二条天皇がいる六波羅の清盛邸には公卿方のほとんどが集まった。二条天皇はじきじきに清盛に声をかけ、信頼と義朝の追討を命じた。勅命をうけた平氏は官軍となり出陣の準備を始める。そんな中、三男・清三郎(草川拓弥)が連れてこられ、清盛から名を「宗盛」と改めることを命じられた。
平氏の動きに呼応して、義朝率いる源氏勢も意気が上がる。準備をすすめる義朝の前に常盤があらわれ、必ず勝っておなかの子を抱いてほしいと願う。義朝は常盤のおなかをなでて「牛若」と名付け、強き源氏の武者になると予言した。
義朝の子らが内裏の守りを固めるところに、平氏勢が押し寄せる。平 重盛は待賢門を破り、鎌倉悪源太と呼ばれる義朝の長男・源 義平と一騎打ちになる。内裏の各所でも戦いが繰り広げられた。清盛の弟・平 頼盛は父・忠盛から授かった名刀で奮戦。頼朝が宗盛に矢を放つと伊藤忠清がその矢を払いのけたものの、宗盛は腰をぬかす。内裏の一室では、無事を祈る常盤の前に大男があらわれた。短刀を男に向ける常盤だったが、男は常盤を救おうとする鬼若だった。
戦いがこう着状態に入ると、重盛も頼盛も忠清も軍勢に退却を命じた。報告を聞いた義朝は後を追って一気に攻めるよう命令する。追いかける源氏勢は賀茂川を渡り、平氏の本拠地・六波羅を攻め込もうとすると、対岸には大勢の平氏軍が待ち伏せていた。源 頼政は罠にはまった愚かさを嘆き、その場を去っていく。
やがて平氏軍の放った何千本もの矢に源氏勢は次々と倒れていく。見かねた義朝は、清盛との一騎打ちを望み、清盛を河原へと誘う。二人は馬上での斬り合いからはじめ、馬を降りて斬り合う。死闘の末、清盛が義朝の動きを制し、首もとに剣を突きつける。だが、清盛は「お前は負けたのじゃ、義朝!」と言い放っただけで、とどめを刺すことはなかった。義朝は力なく立ち上がり馬で去って行った。二人は、これがお互い会う最後だと知っていた。

(28)友の子、友の妻 〜平治の乱終結! 義朝、常盤の運命は〜
1159年12月、源 義朝は軍勢を失い、三人の息子ら数人と東国へ落ちのびようとしていた。しかし山中で三男の頼朝がはぐれてしまう。
一方、謀反の首謀者である藤原信頼は後白河上皇を頼り仁和寺に逃げ込んだが、そこへ平氏の軍勢が踏み込んだ。信頼は捕らえられ、藤原成親とともに清盛邸に連れてこられた。清盛はこの謀反人たちの処分を任されていた。清盛は長男・重盛の義兄である成親は許したが、信頼に対しては斬首を命じた。武士の判断により貴族が処分できるほどに、時代は変わっていたのだ。
そのころ義朝一行は美濃の青墓にいた。戦で深手を負った義朝の次男・朝長は足手まといになると命を絶つ道を選び、長男・義平は義朝と別れ北国へ下るが、やがて平氏に捕まり斬首となった。
そして義朝は家人・鎌田正清と逃避行を続け、1160年1月、尾張にいる正清の舅・長田忠致を頼る。温かい出迎えに安心する正清だが、義朝は忠致の背信を悟っていた。やがて囲まれた義朝と正清は刺客たちと斬り合った後、お互いに刺し違えてついに果てる──。
二人の死を知った清盛は、更に義朝の嫡男・頼朝の追討を命じる。そして2月、平 宗清(梶原 善)がついに頼朝を捕縛した。連行された頼朝は、清盛と生涯2度目の対面を果たす。清盛は頼朝に源氏一門の悲惨な最期を語ると、頼朝は泣き崩れた。頼朝が下がった後、重盛が清盛に意向を聞くと、新しき国づくりを邪魔するものは友の子であっても許さぬと言い放った。
頼朝が幽閉されているところに清盛の三男・平 宗盛が訪れた。戦場で頼朝に矢で狙われて腰を抜かした宗盛は、頼朝に悪口を言い放つ。そこへあらわれた池禅尼は宗盛をたしなめ下がらせると、頼朝が檜(ひのき)と小刀を所望した理由を聞いた。頼朝は卒塔婆(そとば)をつくり、父・母や兄たちの菩提を弔いたいと答える。そして亡き母の教えに従い、源氏の誇りを持って沙汰を潔く受け入れると覚悟を語った。
そんな頼朝に家族思いの息子・家盛の面影を見た池禅尼は清盛に助命を進言する。情に流されるわけにはいかないと拒否する清盛だが、池禅尼は断食をしてまでも清盛に助命を迫る。その一方で、信西の最期に立ち会った西光が清盛を訪ね、信西の敵である義朝の子・頼朝の首をはねるように切々と訴えるのであった。
そのころ、常盤は生まれたばかりの牛若(のちの源 義経)ら三人の息子とともに鬼若にかくまわれていた。ある日、常盤は三人の子を救うために六波羅の清盛のもとに行くことを申し出る。鬼若は止めるが常盤の決心は固かった。
清盛と対面した常盤は、子らの命を助けてほしいと懇願する。平氏一門の中には、彼女を側女(そばめ)にすればよいという者もいるが、清盛は否定する。妻・時子は、清盛が迷っていることを見抜き、義朝は敵である前にかけがえのない友だったことを考えて裁断するべきと清盛に助言する。
相変わらず断食を続ける池禅尼は、家貞に真情を語っていた。本心では頼朝の命を奪いたくない清盛を、おもんばかっての行動だったのだ。
そして裁断の日、庭に座す頼朝に清盛は、義朝が残した源氏の家宝「髭切」の太刀を見せる。尊敬する父が大切な太刀を失くす程まで追い詰められていたことを知り、衝撃を受けた頼朝は生きる望みすら失い、早く斬られることを望んだ。そんな弱々しい頼朝を見て、清盛は同情を通り越して怒りすらわいてきて、頼朝に義朝の姿を重ねたたきふせる。一緒に武士の世を望んだ最愛の友・義朝の死を嘆くとともに、ひとりで武士の世を切り開く自らの苦しさを語った。頼朝に誠の武士の姿を遠くで見ておれと、流罪を言い渡した。そして清盛は常盤をたずね、子どもを守るために生きろと命じた。
やがて頼朝は配流先の伊豆に向かった。藤九郎(塚本高史)という若者とともに。
そして清盛は武士としてはじめて公卿にのぼり、一門の繁栄を着実に築きあげていった。

(29)滋子の婚礼 〜後白河院の恋〜
1160(永暦元)年、平 清盛はついに公卿(くぎょう)の座にのぼった。それは武士として誰もなしえなかった偉業であった。新しい世の始まりは清盛と後白河上皇の長い双六遊びの新たなる始まりでもあった。
六波羅の清盛の館には衣装も立派に様変わりした一門が集まっていた。清盛が公卿になることで一門もそれぞれ出世し、平家と呼ばれるようになった。
一方、筆頭家人の平 家貞は病にふせっていた。清盛は唐果物を持って家貞を見舞うと、病床の家貞は、唐果物が食べたくて宋との交易をさかんに進めてきたと告白。欲こそが力の源であり、欲のために生きて死んだ者たちの思いを清盛は背負って生きろと告げた。そして家貞はほどなく亡くなった。
安芸の嚴島の社で参拝した清盛は、何を祈願したかをたずねられると、もっと強くなることと答えた。宋の銭を使いおもしろき世にしようとするために政治の頂点に立つ力を求めていたのだ。そして清盛は朝廷で開かれる公卿議場の場に参議として列座する身分となった。
そんなある日、清盛は美福門院得子に呼ばれ、思い描く国造りを聞かれた。清盛は宋と取り引きし、宋銭を国中に広め、さまざまな品を巡らせ豊かな世にすることを訴えた。美福門院は驚きながらも清盛の考えを支持する。実は美福門院は病を得ていたが、そんなそぶりを見せずに清盛に思いを託していたのだ。そして11月、美福門院は息をひきとった。
清盛は二条天皇に近づくため、妻である時子の妹・滋子を入内させようと画策していた。そのころ、滋子は上西門院の女房として宮中に勤めていた。平 時忠は清盛の意を察して、二条天皇のもとへ入内しないかと妹・滋子にもちかけるが、自分は好きな人の妻となると言って拒否する。
後白河上皇は清盛から贈られた宋の青磁器を投げ捨てて、怒りをあらわにしていた。清盛が二条帝に気を配り、自分をないがしろにしていることに、腹を立てたのだ。
不満がたまった後白河は宴を催した。そこに居合わせた滋子は、今様を歌いまくる後白河上皇の姿に目をとらわれていた。その夜、院御所で滋子は朗らかに今様を歌いながら廊下を歩いていた。すると後白河に引き止められ、朗らかに歌うなと怒られる。しかし滋子は動じず、後白河は弱く情けない、歌のほかにぶつけられるものを見つけろと説教する。後白河は滋子の無礼を怒りながらも、心ひかれ、やがて滋子を抱きしめた。
数か月後、清盛は怒って、滋子を呼びつけた。滋子は後白河の子を宿していたのだ。平家一門は大騒ぎ。滋子は後白河への真剣な思いを語り、時子も滋子の意思を尊重したいと言うが清盛は許さなかった。
また、上西門院も滋子の婚礼に反対した。滋子の巻き髪が上皇の妃にふさわしくないという理由だった。滋子はなんとか巻き髪を直そうと試みるが失敗に終わり、ついには婚礼をやめると言いだした。そんな滋子を清盛は、困ったように見ていた。後白河は滋子の心変わりを知ってひどく落ち込んでいた。無関係を決め込んでいた清盛は一計を案じ、滋子を連れ出す。
数日後、院御所では婚礼の宴が催された。あらわれた新婦の滋子は宋の衣装を着て、巻き髪を宋風に美しく結いあげていた。古いしきたりにこだわらない、清盛の発案だった。みんなが滋子に見とれ、後白河はいとしげに滋子の手を取った。そんな二人を清盛はほほ笑ましく見ていた。

(30)平家納経 〜怨霊を鎮めよ! 進め嵐の厳島へ 第二部完〜
1161年、崇徳上皇は配流先の讃岐で静かに悔恨の日々を暮らしていた。崇徳の弟・後白河上皇は滋子との間に憲仁(のりひと)親王をもうけていた。
平 清盛の命により、兎丸たちが博多から宋の高価な品々を持って帰ってきた。清盛は兎丸を遅いと叱るが、兎丸は文句があるなら博多を都の隣に持ってこいと言い返した。
清盛の義弟・平 時忠は平家の血をひく憲仁を次の帝にしようと画策し、強引に清盛の次男・基盛と弟・教盛
(鈴之助)を計画に引き込んだ。しかしそのたくらみはすぐに二条天皇に知れ、清盛は帝から厳しく糾弾される。怒り心頭の清盛は、六波羅に戻るとすぐに三人の官職の返上を命じた。
崇徳上皇は、保元の乱での自らの所業を省み、写経を弟・後白河上皇に送る。しかし、これを気味悪がった後白河上皇から受け取りを拒否されたうえ、折悪く息子・重仁親王死去の知らせも届く。二重の衝撃を受けた崇徳上皇は、これまでの不遇な人生を振り返るうち、恨みが頂点に達する。ついには日本国の大魔王となると、呪いの言葉を唱え始める。
そのころ、平家では基盛が不慮の事故で落命した。嘆き悲しむ清盛たちに西行は、「基盛が亡くなった頃、怨念のかたまりが讃岐から飛んでいくのを見た。基盛の死は崇徳上皇の怨念のせいでは」ということだった。
ある日、藤原摂関家の長・藤原忠通は、息子・基実(村杉蝉之介)とともに清盛を訪ね、基実を娘婿にしてほしいと頼んだ。摂関家の存続を願う忠通は、かつての誇りを捨て、見下していた武士に力添えを期待したのであった。
清盛はみんなを集め、 一門で経典を嚴島神社に納めることを命じた。それは、平家繁栄を祈願するためであり、保元・平治の乱で失われた人たちを弔うためでもあった。清盛はこの国最高の技と材料、莫大な財と労力を注ぎ込み、絢爛豪華な三十三巻の経典を完成させた。そして、平家一門はそれを嚴島の社に納めることとなった。その最中、時忠は帝を呪詛した疑いをかけられ、出雲に流罪となり、これもまた崇徳のせいではないかと時忠はつぶやいた。清盛はそんなことはないと言い捨て、時忠を送る途中の福原(神戸)の海を見つめた。
平家一門と西行は船で安芸へ向かった。その途中、突然海が嵐にあい動揺する一門は、これも崇徳の呪いかと思い、経典を海に沈めて怨念をしずめようとするが、清盛は兎丸らになんとしても嚴島へ向かうよう命じる。そのころ讃岐では崇徳上皇が呪いつづけていた。必死に船を航行させる兎丸たち、西行はひたすら経を唱えた。そして夜明けをむかえると、崇徳上皇は朝日に溶けいるように息をひきとった。
かくして清盛は嚴島の社にたどりついた。そして納経の儀式が進む中、清盛の脳裏にはある記憶がよみがえっていた。兎丸が博多を都の隣に持ってこいと言ったこと、清盛が気をとめた、福原の海こと。そして清盛は興奮を抑えきれずに言った。「博多を都の隣に持ってくるぞ」と。清盛の新たなる目標が見つかった瞬間だった。


作:藤本 有紀
音楽:吉松 隆
テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
     指揮:井上 道義
     ピアノ演奏:舘野 泉
題字:金澤 翔子
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松山 ケンイチ (平 清盛)
玉木 宏 (源 義朝)
松田 翔太 (後白河上皇)
藤木 直人 (西行)
深田 恭子 (時子)
三上 博史 (鳥羽法皇)
豊原 功補 (平 忠正)
金田 明夫 (鎌田通清)
森田 剛 (平 時忠)
成海 璃子 (滋子)
藤本 隆宏 (伊藤忠清)
田口 浩正 (平 貞能)
窪田 正孝 (平 重盛)

松田 聖子 (乙前)
山本 耕史 (藤原頼長)
田中 麗奈 (由良御前)
阿部 サダヲ (信西)
井浦 新 (崇徳上皇)
加藤 浩次 (兎丸)
武井 咲 (常盤御前)
塚本 高史 (藤九郎)
堀部 圭亮 (藤原忠通)
吉沢 悠 (藤原成親)
塚地 武雅 (藤原信頼)
青木 崇高 (鬼若)
横山 めぐみ (御影)
細川 茂樹 (藤原基房)
温水 洋一 (佐伯景弘)
岡田 将生 (源 頼朝・語り)

小日向 文世 (源 為義)
和久井 映見 (池禅尼)
宇梶 剛士 (源 頼政)
上川 隆也 (平 盛国)
松雪 泰子 (美福門院 得子)
國村 隼 (藤原忠実)
中村 梅雀 (平 家貞)
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制作統括:磯 智明
    :落合 将
プロデューサー:櫻井 壮一
演出:柴田 岳志・渡辺 一貴・中島 由貴・佐々木 善春

本文のストーリーは、NHK公式ホームページ『平 清盛』の
あらすじ欄よりそのまま引用しました。
なお、出演者名(敬称略)は総集編の出演ではなく、
該当期間の本編に出演し、ピンクレジットで紹介された方を
順不同で並べ替えたものです。

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