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2013年1月 3日 (木)

(51-3)総集編第三回・海の都

(31)伊豆の流人 〜栄華を極める清盛 挑む頼朝! 新章へ〜
1164年、伊豆・蛭ケ小島(ひるがこじま)。そこに18歳に成長した源 義朝の子・頼朝(岡田将生)がいた。5年前、平 清盛(松山ケンイチ)によって流罪となった頼朝はここに流され、家人の藤九郎(塚本高史)とともにひっそり暮らし、地元の豪族・伊東祐親(すけちか:峰 竜太)は頼朝を厳しく監視していた。
京の清盛は、日宋貿易実現に向け、朝廷での力をのばして港湾の整備、瀬戸内海の開削などに乗り出そうとしていた。
その年の11月、後白河上皇(松田翔太)と対立する二条天皇(冨浦智嗣)に子が生まれた。そのため、滋子(成海璃子)との子を世継ぎにすることも難しく、頭を痛めた後白河上皇は、何かにすがるように仏教に深く帰依(きえ)するようになった。清盛は後白河上皇に蓮華王院(=三十三間堂)を献上し、嫡男・平 重盛(窪田正孝)を公卿にするよう働きかけ、実現させる。おくれをとった重盛の叔父・平 頼盛(西島隆弘)は病にふせる母・池禅尼(和久井映見)を見舞う。池禅尼は頼盛の境遇を憂い、また平家の繁栄とはうらはらにむなしい胸中を語った。
祐親は内裏を警固する大番役として京へ上ることとなった。家人たちに頼朝の監視を怠らないよう厳しくいいつける一方、娘の八重姫(福田沙紀)には、勤めを終えた後、美しく成長した姿を見るのが楽しみだと優しく声をかけた。
そのころ頼朝の館には地元の豪族・北条時政(遠藤憲一)が訪れ、自ら育てた野菜を届けるなど親交を深めていた。そんな頼朝のもとへ祐親の家人・伊三郎(やべきょうすけ)が八重姫を連れてきた。姫に京の作法を身につけさせるため、頼朝の教えを請いにきたのだ。そこで出会った頼朝と八重姫は、お互い意識したかのように見つめあう。
京では後白河上皇が癇癪(かんしゃく)を起こしていた。蓮華王院に二条天皇が訪ねてこないためだ。父である自分をないがしろにする天皇の態度に怒っていた。そのころ清盛は重盛を連れて二条天皇に謁見していた。そこで突然重盛は二条天皇に、父の気持ちを察して蓮華王院へ行くことを勧める。二条天皇は不快感を表し立ち去ると、清盛は激しく重盛をしかりつける。その夜、重盛は妻・経子(高橋 愛)と語り合う。かつて鳥羽法皇(三上博史)と崇徳上皇(井浦 新)の仲をとりもとうと力を尽くした清盛の姿を思い出し、今の父は修羅の道を突き進んでいるとしか思えないと話した。
京へのぼった祐親から頼朝の様子などを聞いていた清盛のもとへ、二条天皇が病になったという知らせが入った。
急ぎかけつけた清盛に、二条天皇は直ちに譲位の準備をするよう命じた。後白河上皇の院政が再開されるのを防ぐため、生後間もない順仁親王を即位させようというのだ。そしてまだ乳飲み子の六条天皇が誕生。その後まもなく二条は若くして崩御した。
清盛は重盛をともなって祐親ら大番役が警固する内裏を訪れた。公卿らも次々に弔問に訪れる中、にわかに比叡山の悪僧たちが鐘や太鼓を打ち鳴らしながら押し寄せてきた。彼らを引き連れてきたのは後白河上皇だった。蓮華王院に来なかった二条を弔うため、千人の僧を連れてきたのだという。そして悪僧たちが騒々しく読経を始めた。
清盛は読経をやめさせ、我が子の死に向き合えない後白河上皇を赤子同然だと一喝して引き下がらせた。上皇にもひるまず厳しく接する清盛の様は、重盛や祐親たちに強烈な衝撃を与えた。だが、後白河上皇は清盛のこうした態度に、底知れぬ野心を感じ取っていた。一方、重盛は修羅の道を進む父を支えようと決意を固める。そして清盛は大納言に昇任した。その喜びに浸る間もなく、清盛たちに池禅尼危篤の報がもたらされる。かけつけた清盛に、池禅尼は平家の行く末を託す。さらに頼盛にのみ、平家を絶やさぬように告げて生涯を終えた。
大納言となった清盛を見つめる祐親は、清盛の恐ろしさを改めて胸にきざんでいた。だが、そのころ伊豆では八重姫が頼朝と深い仲になっていた。

(32)百日の太政大臣
1165年、平 清盛は、娘婿である摂政・藤原基実(忠通の子:村杉蝉之介)の後ろ盾によって、武士として初めて大納言にのぼった。この前代未聞の出世は公卿たちの反発を買っていた。
大臣たちが列席する朝議で、清盛は都近くの港・大輪田泊を改修することを提案するが、藤原摂関家の左大臣・藤原基房(細川茂樹)は話を聞こうとしない。朝議の後で基実は清盛を気づかうが、そんな基実の態度を弟である基房や、藤原兼実(相島一之)は苦々しく思っていた。
後白河上皇の側近である藤原成親(吉沢 悠)はもっと清盛に歩み寄ることを提案するが、上皇はいずれ清盛が自分にひれ伏するだろうと不敵に笑った。
そんな折、後白河上皇に貢ぎ物を届けにきた清盛は、御所でかつて信西(阿部サダヲ)に仕えていた西光(加藤虎ノ介)と出会う。清盛は亡き信西の遺志を継ぎ、中国との交易を実現しようとしていることを告げると、西光は信西を殺した源 義朝の子・頼朝をなぜ死罪にしなかったのかと責めた。この後、西光は後白河上皇の近臣として仕えることになった。
一方、伊豆の源 頼朝は、監視役の豪族・伊東祐親の娘、八重姫と恋仲になっていた。祐親は大番役で京の清盛のもとに仕えており、留守であった。そんなとき、八重姫が頼朝の子を宿していることがわかる。頼朝は命にかえても八重姫とその子を守り抜くことを誓う。
京では清盛を思わぬ悲劇がおそった。清盛の後ろ盾であった藤原基実が突然病で亡くなったのだ。藤原摂関家を継いだのは、平家を憎悪する基房。朝廷での発言力を強めたい平家一門は、摂関家との対立を避けようと対策を練るが、解決策が見いだせない。そこへ、長年藤原摂関家に仕えた藤原邦綱(岡本信人)が訪ねてきた。亡き基実が持っていた広大な荘園を後家となった盛子(=清盛の娘)のものにし、平家を支える財にするという献策をして、一門を安心させた。
また、後白河上皇の妃である滋子は、上皇との子・憲仁が東宮(=次の天皇)になることが決まるので、清盛に東宮大夫として憲仁に仕えてほしいと持ちかけた。それは後白河上皇を支えよということだった。
そして清盛は内大臣にのぼった。清盛に祝いの言葉を述べる平家一門。清盛は更なる出世の意欲を告げ、藤原摂関家へ対抗するため宮中行事である五節の会にて極上の舞を献上するよう、長男・平 重盛と三男・平 宗盛(石黒英雄)に命じた。清盛の権勢はとどまることを知らなかった。内裏の警固にあたっていた祐親は清盛に呼びかけられただけで、心臓がはね上がる。清盛の威厳はそれくらい大きいものとなっていた。
伊豆では、頼朝が父になろうとしていた。親兄弟をなくし、二度と身内など得られないと考えていた頼朝は、八重姫が連れてきたわが子を抱き、感動で涙を流した。
ついに五節の宴の当日、用意周到に準備をすすめてきた重盛と宗盛の前で事件が起こった。藤原兼実らのいやがらせで舞姫がひそかに追い返されてしまう。あわてふためく宗盛。重盛も動揺を隠せない。
そんなこととは知らない清盛は宴席で演奏を鑑賞していると、背後から後白河上皇に話しかけられる。後白河上皇は、藤原基実の所領を平家が相続できたことや、清盛の出世などすべてが自らの策であったことを明かし、次の出世は実権のない名誉職・太政大臣であり、そこで清盛の政治家としての生命は終わりだと告げる。すべて上皇の手のひらで踊らされていた事実を知り、清盛は衝撃をうける。そのとき、舞台にあらわれた舞姫に清盛も上皇も驚き目をみはる。その舞姫こそは清盛の母親代わりであった祗園女御(松田聖子)であり、後白河上皇にとっては青墓宿であった今様の師・乙前であった。宴にきていた乙前を見かけた平 盛国(上川隆也)が急きょ、消えた舞姫の代わりを頼んだのだ。乙前の歌う今様、「遊びをせんとや生まれけむ―」を聞き、清盛は後白河上皇への怒りが収まり、新たな闘志が浮かんでくるのだった。
翌日、清盛は六波羅の館に乙前を招いた。二人は懐かしき双六遊びをしながら時の流れをかみしめる。清盛はサイコロの目で運命が変わる双六の面白みを改めて感じ、この世のいただきへ上るという自分の意欲を語る。
1167年、清盛は太政大臣となり、その権限を使い平家一門の地位をあげられるだけあげ、朝廷における平家の地位を盤石にした。そしてわずか百日で辞職し、政界を後にした。
一方、伊豆では頼朝と八重姫の子の存在を祐親が知り、二人の前に乗り込んできた。必死で許しをこう頼朝。八重姫は赤子を祐親に抱かせると、祐親は無言で外に連れ出し赤子の命を絶つ。このことが平家に伝われば、伊東一族などひとたまりもないと叫ぶ。頼朝はただ、自らの無力さを実感するしかなかった。

(33)清盛、五十の宴
1167(仁安2)年、乙前(祇園女御)は京にとどまり、後白河上皇に今様の稽古をつける日々を送っていた。後白河上皇は乙前に京にきた理由と平 清盛との関係を聞くが乙前はあいまいにしか答えなかった。
六波羅の清盛邸では清盛に、平 重盛らが、朝議で音戸の瀬戸の開削が決定したことを報告した。朝議には平 宗盛や平 時忠(森田 剛)も参加していた。清盛はわずか百日で太政大臣を辞任していたが、思惑どおりに事をすすめていたのである。精力的に働く清盛は、妻・時子(深田恭子)が五十の賀の宴をしたいと話しても、五十歳になるのが清盛自身のことだとは気がつかないほど、自らの夢にまい進していた。
清盛の義理の妹である滋子は、後白河上皇との子・憲仁親王(のりひと=のちの高倉天皇)が東宮になったことで権勢を強めていた。ある日、滋子は後白河上皇の前で見事な舞を披露した。舞の途中で雨が降っても平然と舞う滋子の姿に上皇の近臣・西光や藤原成親らも口々にほめそやした。
そこへ以仁(もちひと:柿澤勇人)と八条院暲子(あきこ:佐藤仁美)が訪ねてきた。以仁は後白河上皇の子であり、以仁の養母である八条院は鳥羽法皇と美福門院得子の娘、後白河上皇の異母妹だった。憲仁がすでに東宮と定められたにもかかわらず、彼らは以仁こそが嫡流だと訴えた。後日、滋子は実の兄である時忠を呼び出し、東宮のわが子憲仁の座を安泰にするため、平家の力を使い、以仁を邪魔立てするよう画策するのだった。
嚴島神社で清盛は神官・佐伯景弘(温水洋一)をたずね、嚴島神社の修復を申し出た。また、博多までしか来られなかった宋の船を京の隣・大輪田泊まで呼び込むという事業を進める中、その航路にある嚴島神社の存在が大きくなることを告げた。その壮大な構想に景弘は感激して言葉もなかった。
清盛の五十の賀の宴の日、六波羅の館に、源 頼政(宇梶剛士)がその子息、源 仲綱(須田邦裕)を連れてお祝いに訪れた。つとめで時間のない中、ひと言だけでもと訪れたのだ。仲綱は平家にこびるそんな父の態度に不満がつのっていた。
宴には平家一門が集まり、清盛にお祝いを伝える。そして壮大な酒宴がはじまった。清盛邸には常盤(武井 咲)も息子・牛若(のちの義経)をともなって訪れていた。常盤は一条長成の妻となっていたが、牛若は清盛こそが実の父と思っていたのである。清盛はにこやかに牛若の礼を受ける。また、熊野で生まれ育ち、清盛にとって末の弟になる平 忠度(ただのり:ムロツヨシ)も突然宴席にあらわれた。気さくな忠度は清盛ら兄たちと初対面ながらもすぐに打ち解け、熊のような風貌で祝い踊りを披露し、一門はおおいに盛り上がる。
そこに現れた藤原摂関家の藤原基房と藤原兼実兄弟。平家の栄華を心よく思わぬ彼らは、「嚴島の社を修復するには、雅(みやび)を解する心がなければ」と舞や歌で勝負を挑んできた。まずは基房、兼実が見事な舞を披露し、平家をうならせる。清盛は返礼として重盛と宗盛が舞を見せ、平 経盛(駿河太郎)が笛を吹いた。基房、兼実はその舞と演奏に目をみはる。兼実は次に和歌の勝負をもちかけた。清盛はその相手になんと会ったばかりの忠度を指名した。歌の名人として知られる兼実は見事に歌を詠むが、忠度も意外にも秀逸に歌を詠み、一同を感嘆させた。悔しさをかくせない基房は清盛に、嚴島改修の一件は絶対に認めないと言い放つ。すると、清盛は嚴島神社の修復した姿を描いた絵図を見せる。それは海上にうかんだ寝殿のような古今東西に例を見ない荘厳華麗なものだった。これは清盛が考えた画期的なもので、圧倒された基房と兼実は引き下がるしかなかった。
その後も宴はつづき、清盛はゆかいな気持ちになり踊り続ける。そこで奇跡のような光景が起こる。この愉快な日が終わってほしくないと願う清盛が扇子で夕日を仰ぐと、沈んでいた夕日が再び姿をあらわしたのだ。この奇跡は人々のあいだにまことしやかに伝わっていく。伊豆に赴任した源頼政は北条時政にこの話を伝えた。時政は頼政に源 頼朝のすっかり生気を失った姿を見せ、清盛の影響で赤子を殺されたことを伝えた。
そんな絶大な力を恐れられる清盛は、突然の病に襲われる。1168年、嚴島神社の修復に向かおうとするやさき、清盛は熱病に倒れ意識を失い、清盛危篤の情報が全国をかけめぐった。

(34)白河院の伝言
1168年、突然熱病におかされ意識を失い、病床に伏した平 清盛。薬師(くすし)の診断で原因は寸白(すばく=寄生虫)と判明したものの、手元の薬では治せず、祈るよりほかに手だてはない。万一の事態も覚悟し、今は落ち着いてなすべきことをせよと、時子は一門に命じる。
清盛危篤の知らせは、たちまち都のみならず、后の滋子とともに熊野詣でに向かう途上の後白河上皇や、果ては源 頼朝の暮らす伊豆にまで届く。そして平家一門のみならず、朝廷や貴族、諸国の武士など多くの人々の心に波紋を呼ぶ。後白河上皇の一行は、この一大事に御所を空けていては危ういと判断し、京へとってかえすが、その途上で大雨に見舞われ、足止めを食らう。
清盛が回復するまで一時的に長男・平 重盛が平家を率いることになった。しかし時子の弟・平 時忠は三男・平 宗盛に、清盛が亡くなった場合は棟梁になれとけしかける。重盛と違い宗盛は正室である時子の子だからだった。鉄壁に見えた平家一門にかすかな亀裂の兆しが見え始めていた。
死の淵(ふち)をさまよう清盛の意識は、時をさかのぼって胎児のころに飛び、生母・舞子(吹石一恵)の腹の中へとたどりつく。そして、白河法皇(伊東四朗)や祇園女御とのやりとりを見聞きする。横暴な白河法皇の子を宿した舞子を祇園女御は心配していた。
やがて白河法皇は養女とした璋子(たまこ:檀 れい)が病床に伏したことを知り、陰陽師に病状を探らせる。その病の原因が、舞子が宿した子にあると聞いた白河法皇は、舞子におなかの子、つまり清盛を流すことを命じる。何としてもわが子を守りたい舞子は、御所を抜け出し、偶然出会った平 忠盛(中井貴一)に助けられ、無事赤子(=清盛)を産み落とす。やがて忠盛と舞子は心を通わせるようになるが、舞子は捕らえられ、白河法皇の前に引き据えられた。
忠盛は白河法皇のもとに行き、自らの危険もかえりみず舞子を自分の妻にしたいと訴える。そんな忠盛とわが子を救うため、舞子は白河法皇に刃を向けて襲い掛かると、護衛の弓矢を全身に受けて息絶える。そんな光景を見続けていた清盛は、母を殺された怒りを押さえきれず、夢の中で白河法皇にぶつける。感情をあらわにする清盛に白河法皇は、お前も昇りきった果ての景色を知れば、わしのことが分かると語る。すると清盛は、あなた様に追いつくどころか、追いこして見せる──、と語ったところで、清盛は現実の世界に戻り目をさます。
病床の清盛の前には、後白河上皇が泥と雨にまみれながら立っていた。後白河上皇は好敵手としての清盛の生還を素直に喜んでいた。そんな上皇に向かい、お互い双六あそびがまだ終わっていないため、まだ死ぬわけにはいかないと清盛は告げる。清盛の手にはサイコロが握られていた。
清盛が回復したという知らせは瞬く間に広がった。喜ぶ平家一門だが、重盛と宗盛の対立の宿命など新たな問題があらわれはじめた。
源義朝が残した二人の子らはそれぞれ岐路を迎えていた。常盤は牛若に、いったんは実は源氏の御曹司であることを告げようとしたが、それをあきらめ、鞍馬に行き寺に入るように命じた。また伊豆で失意の日々を送っていた頼朝には、運命の女性・政子(杏)との出会いが迫っていた。

(35)わが都、福原
1168(仁安3)年2月。死の淵から奇跡的に生還した平 清盛は、第二の人生に踏み出した。その手始めに、比叡山延暦寺を収める僧侶・明雲(腹筋善之介)を呼び、明雲の導きで出家したいと依頼する。明雲は昔から朝廷への強訴などで敵対することが多かった山法師の自分になぜ頼むのかと清盛に尋ねると、白河法皇も手に負えなかったという山法師と今後は協力関係を築きたいからだと語った。
そして清盛は明雲の手により出家。集まった平家一門の前で清盛は頭を丸めた姿を披露、妻・時子もあわせて出家していた。清盛危篤の知らせを聞いて大宰府からかけつけた平 頼盛も清盛の姿に目を丸くした。清盛は一門の前で、海に近い福原(=神戸)に隠居することを表明。六波羅を平 重盛にまかせることとした。
後白河上皇は、清盛のこうした動きを警戒、滋子との子・憲仁親王を高倉天皇として即位させ、自らの威信を示した。滋子が皇太后になったことで、平家内にも変化が生まれた。滋子の姉・時子の子である平 宗盛が皇太后宮権大夫という要職につく一方で、同職にいた頼盛は辞任を余儀なくされた。さらに、頼盛は滋子への奉仕を怠り、後白河上皇は清盛を呼びつけてそのことを叱責した。清盛は頼盛を六波羅に呼び、大宰府と京とを往復する頼盛の大変さはわかるが、そのことは勤めを怠る言い訳にならないと言う。すると、頼盛は自分の不満を初めて訴えた。重盛や宗盛、平 時忠はすでに参議であったが自分はまだなれず、それは保元の乱の折に清盛に背いたからではないかと語る。そんな頼盛に、清盛はつまらぬことを考えず、自分の仕事に励めと言った。
一方、伊豆では、北条時政の館に、かつて源 義朝(玉木 宏)の家人であった豪族たちがあつまり、無為な日々を送る源 頼朝の身の上を嘆いていた。そして、時政の娘・政子の嫁入り話で一同盛り上がると、そこに政子がイノシシを背負って現れ、みんなを驚かす。政子は毎日野山を駆け回って遊んでいる男まさりな女性であったが、頼朝との運命的な出会いが迫っていた。
福原に移り住んだ清盛は、兎丸(加藤浩次)らと大輪田泊の改修計画を進める。都を離れて自由を手に入れた清盛は、さらなる日宋貿易拡大の夢へと突き進んでいた。そして平家一門にも変化が訪れていた。清盛の弟・平 教盛(鈴之助)が参議になったのだ。一門が喜びに沸く中、また出世でおくれをとった頼盛は不満を募らせていた。その頼盛に藤原摂関家の摂政・藤原基房や、以仁が接近をはかり、頼盛を参議にしたいと伝えた。清盛が福原に移った今、平家の隙をつこうという人々にとって頼盛は利用すべき存在だった。そして頼盛は念願の参議になったが、一か月後にはその官職をとかれてしまう。
心配した清盛は福原に頼盛を呼ぶと、頼盛は自分を平家から追い出してくれと訴えた。すると清盛は、目の前に広がる海を見せ、自らの野望を語った。福原に博多のような大きな港をもつ街にして、ここを都と定める。それは平家の都だと語る。朝廷の枠組みを超え平家一門の力で、貿易で得た富で国を豊かにする政治をおこない、そして武士の世をつくるというのだ。そのためには頼盛の力は欠かせないと説く清盛。頼盛はそんな清盛の壮大な野望にあきれながらも認めざるを得なかった。
そのころ、源頼朝も新たな明日を迎えようとしていた。山中をさまよう頼朝をもののけと勘違いした政子はつかまえた。それが二人の出会いであった。一方、京の鞍馬山では頼朝の弟である遮那王(神木隆之介)が寺で修行に励んでいた。
それはのちの源 義経だった。

(36)巨人の影 〜後白河法皇、誕生!〜
京の鞍馬寺では、源 義朝の子・遮那王が修行に励んでいた。この遮那王こそ、後の源 義経である。遮那王の母・常盤はあえて遮那王に自分の父が義朝であることや、平 清盛が父の敵であることを教えていなかった。それは遮那王を戦乱にまきこまないための配慮だった。
1169年、清盛は福原の別邸に後白河上皇を招き、千僧供養をおこなった。大勢の僧たちの中心には、僧侶たちを束ねる導師・比叡山延暦寺の明雲がいた。後白河上皇は、明雲と清盛の関係が突然、親密になったことを不審に感じていた。
清盛は大輪田泊の改修に本腰を入れるため、福原に移住。京の留守は任せたと、嫡男・平 重盛に平家の棟梁の座を譲り渡す。後白河上皇の近臣・藤原成親は平家の内情を探るため、義弟である重盛と酒をくみ交わした。重盛は自分が清盛の正室・時子の実の子でないため、平家の棟梁として認めない者もいるはずだと不安がっていた。成親は重盛を励ましつつも、重盛の気弱な一面を冷ややかに見つめていた。
4月、時子の妹であり、後白河上皇の妃・滋子は院号宣下を受け、建春門院となった。朝廷での建春門院の力は著しく増し、その兄・平 時忠や甥・平 宗盛が院の司に任じられるなど重用された。建春門院が時忠、宗盛らを集めて開いた酒宴の席で、建春門院の豪快な飲みっぷりを見て、時忠は宗盛にもっと自信をもつようささやく。建春門院の姉・時子こそが宗盛の母であり、宗盛こそが平家の嫡流と時忠は説いた。
福原の別邸では兎丸が大輪田泊の工事の難しさを話していた。清盛は先例がない工事だとあきらめるのかと挑発すると、兎丸たちは発奮して工事に向かった。清盛は海のことは兎丸に任せ、平家を重盛に任せたわけだが、心の奥で重盛の潔癖すぎる性格を危ぶんでもいた。
一方、伊豆では、源 頼朝のことを気にかける政子が遠巻きに彼を見ていた。以前、もののけと勘違いして頼朝を網でとらえたとき、彼は怒るどころか自分を殺してくれと頼む始末だったのだ。しかしそんな政子を父・北条時政が見とがめ、頼朝の正体も知らせず、二度とここへ近づかないようくぎをさした。
6月、後白河上皇は出家し、法皇となった。その戒師(かいし)に選ばれたのは園城寺(おんじょうじ)の僧たちであった。今まで帝や上皇が出家する際には比叡山延暦寺の僧が戒師をつとめていた。後白河は延暦寺をけん制するために、延暦寺と対立してきた園城寺をあえて選んだのである。これに反発した延暦寺の明雲たちは後白河法皇をやりこめる機会をうかがっていた。そこへ成親の知行国・尾張の役人が、比叡山延暦寺と関係を持つ寺社と衝突する事件が起きる。
対策をねる藤原摂関家や時忠ら公卿たち。そこへ後白河法皇があらわれ、成親を擁護し、悪いのは寺社側であると断罪した。ここぞとばかり明雲が率いる延暦寺の僧兵は、後白河の裁断に意義を申し立て、成親の流罪を訴えて京に押し寄せる。しかも、神輿(しんよ)をかついだ僧兵たちが向かったのは、後白河法皇のいる法住寺殿ではなく幼き高倉天皇がいる内裏であり、騒然となる。そのまま内裏にいすわる明雲たちと後白河法皇の攻防はこう着状態を迎え、公卿たちの議定も混迷した。
重盛は義兄である成親を守るため、出陣の準備をしていたが、福原の清盛から議定の結論にかかわらず兵を絶対動かすなという伝言が届く。比叡山延暦寺とのかかわりを良好に保つことが大事であり、この一件をうまく操ることで、平家の力を後白河法皇に思い知らせる良い機会だという理由だった。長引く議定に業を煮やした法皇は、重盛に兵を動かすよう命じたが、清盛のいいつけを守る重盛はこれを断る。結局、追いつめられた法皇は、延暦寺に屈し、成親を流罪にした。義兄を救えなかった重盛は館へ帰ると、妻であり成親の妹である経子に謝罪するが、経子は何も聞かずに重盛をねぎらった。
だが、納得できない後白河法皇は成親を呼び戻し、代わりに時忠に罪をかぶせて、流罪を命じる。平家と比叡山に怒りをぶつけたのだ。平家一門としては、時忠の流罪は受け入れがたいが、成親との義理もあり後白河に抗議もできない。比叡山延暦寺は再び強訴をおこそうとし、重盛は苦境に追い込まれる。事情を知った清盛は、福原に重盛と平 頼盛を呼び、六波羅に集められるだけの兵を集めるが決して動くなと命じた。
父の言いつけのとおり、重盛が館に多数の兵を集めると、後白河法皇や藤原摂関家の者たちは不安を感じて六波羅に集まってくる。思わぬ事態に重盛が動揺しているところに、清盛が福原からあらわれた。後白河は清盛に兵の意味を問い詰めるが、清盛は武家館に兵が集まり調練するのは日常のこととかわし、自分はこれから比叡山に登山にいくところだととぼける。こうした清盛の態度に、なみなみならない凄みを感じた後白河は、裁断を覆し、時忠の流罪を解き、成親は流罪は免れたものの官職を奪われた。結果的に一番の罰をおわされた成親は、平家を恨むようになる。のちに嘉応(かおう)の強訴といわれた一連の出来事は天下に清盛が欠かせぬことを示したが、裏を返せば清盛がいなければ何もできない平家に弱点があることもあらわにしたのである。

(37)殿下乗合事件 〜宋の使者〜
新しき国づくりをめざす平 清盛は、宋との交易の窓口を大宰府ではなく福原にするため、宋の要人を福原に招くことを考える。さらに正式な国交を開くため、その場に後白河法皇にも列席してほしいと願う。
宋から要人を招くためには、貢ぎ物として金(きん)が必要だった。そこで清盛は、奥州を治める藤原秀衡(京本政樹)を鎮守府将軍という要職につけ、その見返りに奥州特産の金を入手することに成功する。しかし、後白河を招くには問題があった。まず、法皇が宋人と面会することは前例がなく、先例を重んじる朝廷の猛反対が予測された。さらにせんだっての強訴の一件から、後白河との関係は悪化したままであった。
そこで清盛は、官職を解かれて暇を持て余していた平 時忠を後白河への使者として送る。人の心を読むことを得意とする時忠は、後白河に奥州の鳥の羽根を献上。新し物好きの彼の好奇心をたくみにあおり、宋人との面会の約束を取り付ける。
そんな平家の動きをいまいましげに見ていた摂政・藤原基房。ある日、基房は平家を陥れる機会を手にする。京の橋で鷹(たか)狩りから帰る途中の平 重盛の嫡男・平 資盛(すけもり:大西健誠)と鉢合わせした基房は、因縁をつけて従者たちに資盛を襲わせる。礼儀を重んじる重盛ならば、わが子が辱めを受けても摂政の基房には復しゅうすることはないと計算しての犯行だった。
基房の予想どおり、重盛はこの事件について礼節を欠いていた資盛を叱るのみだった。時子は、平家と藤原摂関家の一大事であり、訴えるべきだと主張するものの、重盛は聞き入れない。このことを知った福原の清盛や平 盛国は、重盛らしい公明正大な裁断だと評するが、その場にいた時忠は正しすぎることは間違っていることと同じだと非難した。
1170年9月、清盛はついに福原に宋国の使者と後白河を招き、対面させることに成功した。こうして、宋との交易を要とする国づくりが実現に一歩近づいた。法皇が宋人と会ったという前代未聞の出来事に朝廷は混乱するが、基房は再び平家の輿(こし)でも襲い、平家の土台をたたき壊せばいいと息巻いた。
そのころ福原では、新しき国づくりに専念するため、清盛が時忠に都での憂いを取り除くように命じていた。京・六波羅では平家一門が集まり、相変わらず基房への仕返しをすべきだと重盛を問い詰めていた。ほかならぬわが子が侮辱されたにもかかわらず、重盛は棟梁たるもの私心で物事を決める訳にはいかないとはねつける。
そんな折、事件は起きた。基房の輿を謎の武装集団が襲ったのだ。次々と従者たちの髷(まげ)が切り落とされて、基房も底知れぬ恐怖感を抱く。それはすべて時忠の策略だった。内裏に出仕した重盛は、基房をはじめ貴族たちが突然、平家に対して従順になっているので、何かがあったと察する。慌てて館に帰ると基房が襲われた一件は、すべて重盛の策略だったということになっており、平家一門はよくぞ復しゅうしてくれたと重盛を褒めたたえた。
重盛は妻・経子とふたりきりになると泣き崩れ、穏便に事をすませようとした自分を責め、父・清盛のように冷酷にはなれぬと嘆いた。
その後、都には赤い装束を身に着けた少年の一団があらわれ、平家を悪く言う人々を捕まえるようになった。彼らは禿(かむろ)と言い、しだいに人々は平家に恐怖感を抱くようになっていった。
一方伊豆では、源 頼朝が相変わらず毎日を無為に過ごしていた。側近の藤九郎は外に出ようとしない頼朝を北条時政の館へと連れ出す。宴(うたげ)が始まり、集まった東国武士たちが酒のさかなに都での平家の横暴についてうわさ話を始めた。そして、平家に独善的な政治を許しているのも、かつて平治の乱で源 義朝が浅はかな行動をとり、源氏が失墜したせいだとの話になった。それを聞いていた頼朝が突然、声を荒げた。「源氏は滅びぬ」と。

(38) 〜徳子入内〜 平家にあらずんば人にあらず
後白河法皇と宋人との面会を成功させた平 清盛は、宋船を福原に直接、入港させようと考える。そのため、大型船が入れるように大輪田泊(おおわだのとまり)の改修工事を兎丸に急がせる。そのためには波よけの堤防が必要だったが、兎丸はその工法が分からず、試行錯誤を繰りかえしていた。
京では、清盛から「都でつとめを果たしてくれ」といわれた平 時忠が、「禿」と呼ばれる身寄りのない子を密偵として町中に放ち、清盛の国づくりに異を唱える者を容赦なく断罪した。その手荒なやり口を見て、時子は、このままでは平家が憎まれものになってしまうと心配する。
一方、伊豆では、政子が、源 頼朝が涙ながらにつぶやいた「わが身は滅びても、源氏の魂は断じて滅びぬ」という言葉を忘れられずにいた。彼女が真剣なまなざしで父・北条時政にその意味を問うと、頼朝の悲しい生い立ちを語り始める。源氏の御曹司である頼朝は父・義朝とともに戦った平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆に流されたこと。その後、伊東祐親の娘、八重姫と恋仲になり、赤子が生まれたが、清盛の怒りを恐れた祐親がその赤子を殺してしまったことを政子は聞かされる。初めて知った平 清盛という大きな存在に政子は恐れおののくのだった。
福原では兎丸が、大輪田泊に堤防をつくる手立てを考えつく。古い船に大量の石を積んで沈め、それらを積み上げるという方法だった。そんな折、時子が病との知らせが入り、清盛は京にある時子の館へかけつける。にわかに回復していた時子は、清盛の来訪を喜び、久しぶりにふたりは語り合う。時子は清盛に京へ帰るよう訴え、病の重盛や、時忠の強引なやり口など平家の不安要素をならべるが、清盛には届かない。それどころか清盛は、さらなる野望の実現にまい進していた。清盛は平家一門を集め、娘・徳子(二階堂ふみ)を高倉天皇(千葉雄大)に入内させたいと打ち明ける。大それた野望に一門は、驚きあわてふためくのだった。
清盛は高倉天皇の母であり、清盛の義理の妹・滋子に徳子の入内を打ち明けると、滋子は賛成した。しかし、最大の障壁は後白河法皇だということは清盛も滋子も分かっていた。そこで滋子は後白河法皇が今凝っている謎かけ遊びを伝えた。それは、どれだけ大きなものを食べたかを競うというもので、後白河法皇は嘘でもいいという条件で、誰かれかまわず仕掛けるが、誰も法皇に勝つことができないという。もし清盛が勝てば、変わり者の法皇なら、徳子入内を認めるかもしれなかった。
清盛は貢ぎ物として宋から取り寄せた羊を携えて後白河を訪ね、徳子の入内を願いでた。後白河法皇はそれには答えず、例の遊びを清盛に持ちかける。清盛は次に会うまで答えを考えさせてほしいと言い、とりあえずその場は引き下がる。
清盛が娘を入内させたいと考えていることは宮中に知れわたり、藤原摂関家など公卿たちの多くはあわてふためく。後白河法皇の子でありながら、冷遇されている以仁とその養母・八条院暲子は、清盛の野望を邪魔しようと策を練った。
ほどなくして、疫病が都を襲った。その疫病は清盛が法皇に贈った羊の病だといううわさがひろまる。法皇の側近・西光は、うわさは宮中の不満のあらわれと考え、入内を見送るべきだと法皇に進言する。藤原成親はそれでは公卿方の思うつぼだと反論した。
清盛は誤解を解くため、後白河法皇や滋子を福原に招待した。福原を気に入った様子の滋子と後白河に清盛は、福原を法皇の所領として献上すると申し出る。後白河法皇は、そこまでするお前の野心とはどのくらい大きいものかと聞くと、清盛は海のごとく果てしないものだと告げ、この野心こそが自分が食べたものだと、前に宿題になっていた答えを伝える。すると後白河は、そんな清盛を食べると告げる。誰がどんな大きなものを食べても、その相手を食べてしまうという答え、これこそがどんな相手に対しても、絶対に負けなかった後白河法皇の解答だった。しかし、それを聞いた清盛は自分を食べたとしても、すぐに法皇様のおなかを破って出てくると切り返す。これには見事な返答だと後白河法皇も認めざるを得ず、清盛の娘・徳子入内は聞き入れられることになった。
徳子が高倉天皇の妃となる儀式が盛大に行われ、平家は一層の栄華を極めることとなった。しかし八条院暲子など反発する人々も少なくない。時忠は禿を使い、平家に反発する者を厳しく取り締まった。これを見かねた兎丸は時忠をいさめるが、時忠はこう言うだけだった。「平家にあらずんば人にあらず」
一方、鞍馬寺で修行している遮那王はある日、僧都の使いで都に行った。その途中、五条大橋で遮那王の前に立ちふさがる巨大な男がいた。武蔵坊弁慶(青木宗高)だった。

(39)兎丸無念 〜五条大橋の決闘〜
1171(承安元)年12月。遮那王は京・五条大橋の上で、弁慶(かつての鬼若)と鉢合わせする。遮那王を、平家の密偵・禿だと勘違いした弁慶は容赦なく斬りかかる。それをたくみにかわす遮那王との攻防の末、弁慶は目の前の少年がかつて世話をした常盤の子・牛若だと気づき、思わず抱きかかえた。
大輪田の泊(=神戸港)の改修をおこなう平 清盛は、宋国の使者と後白河法皇の面会を成功させ、次は宋の高官を迎え、正式な交易を始めたいと考えていた。大願成就のために行った万灯会(まんとうえ)では、松明(たいまつ)の明かりを眺めながら、泊(とまり)の改修を一任している兎丸が民の信頼厚いことを実感。工事も順調に進んでいることに安堵(あんど)していた。
しかし兎丸は、禿を使った平 時忠の手荒なやり口と、それを黙認し続ける清盛に不満を募らせ、禿を野放しにすれば、痛い目を見るぞと、清盛に苦言を呈す。一方、福原での万灯会に招かれた西行(藤木直人)は、その後 京の時子を訪ね、清盛への不安な思いを吐露するのだった。
やがて清盛のもとに、宋の皇帝の名代とも言える宋・明州の長官が、3か月後に福原を訪れるという知らせが舞い込む。清盛は、それまでに泊の改修を完了せよと兎丸に命じる。早くても完成に半年はかかると見立てていた兎丸は反発するが清盛の意志は固かった。兎丸たちは何とか間に合わせようとするが、無理に急いだため、けが人が続出する。それでも現場の声に耳を貸さない清盛に、兎丸はいよいよ爆発。自らの利を追求しているだけだと清盛を責め、仲間とともに京に帰ってしまう。
五条大橋の下で仲間たちと酒を飲む兎丸。妻の桃李(柊 瑠美)は仕事を続けるように説得するが、兎丸は何十年にもわたる清盛との因縁や信頼関係を思い出し、裏切られた悔しさと悲しみにとらわれていた。そして平家をののしりながら酒を飲みつづけ、一人になった兎丸の前に禿があらわれた。悪事をやめるように説得する兎丸に禿は襲いかかった。
行方不明になったという兎丸を探しにきた清盛は、すでに息絶えていた兎丸を発見する。そこには禿の仕業だとわかる赤い羽根が無数に残されていた。清盛は無言で死体を抱きしめた。悲しみにくれる平家一門の前で、兎丸の葬儀を盛大におこなうよう命じた清盛の目に禿たちの姿がうつる。清盛を尊敬のまなざしで見つめる彼らには罪の意識はまったく感じられない。清盛は自らの行いを悔い、時忠に禿を始末するよう命じた。
亡き兎丸への思いや、自らが進む修羅の道を反省していた清盛は、難航する工事への対処として、海に経文を書いた石を沈めることを思いつく。経文とともに兎丸の志も海に沈め、新しい泊の礎にしたいと考えたのだ。それは人柱という無慈悲な風習を避けることでもあった。そして清盛や兎丸の家族や部下たちの目の前で、経文を書いた大量の石を積んだ船が海に沈んでいった。
やがて清盛は一年をかけて大輪田の泊を完成させ、宋国の使者を迎えることができたのである。

(40)はかなき歌
1174年、大輪田泊はついに完成し、平 清盛が長年夢みていた宋との貿易が始められた。一門のさらなる発展をめざす清盛は、後白河法皇と建春門院滋子を嚴島神社に招き、2人に変わらぬ忠誠を誓う。嚴島神社のように横へ横へと広がることが清盛の目指す世の姿だと聞かされ、いまだ理想の姿を描けない後白河法皇は清盛に先を越されたのではないかと焦る。
伊豆では、かつて源 義朝につかえた上総常澄(きたろう)が大番役の務めの疲れか、急死。北条時政の館に集まった東国の武士たちは、諸悪の根源は平家にあると不満を募らせるが、源 頼朝は力なくその場を立ち去る。政子は頼朝を追いかけ、このままでいいのかと頼朝に問い詰めるが、頼朝はいらだちながらも相手にしない。なおも追いすがる政子は思わず源氏重代の太刀を転がし、直そうとする。そのとき頼朝は太刀にふれるなと叫んだ。頼朝の秘めた武士の魂が目覚め始めていた。
福原で宋銭を用いた取り引きを目の当たりにして、かつての信西の弟子、後白河法皇の側近・西光も珍しく協力的になり、その普及に努めていた。ある日、西光は信西がかつて復興させた相撲節会を行うため、清盛に協力を求める。しかし、宋との取り引きにまい進する清盛は、宮中行事などしている暇はないと一蹴。怒りを募らせた西光は日頃そりが合わない義弟の藤原成親とも、「平家憎し」で結託するのだった。
そんな平家の敵対勢力をとりなすのは、清盛の義妹でもある滋子だった。彼女は西光と成親の自尊心をあおってたくみに平家への協力をあおいだ。また滋子は後白河法皇の心のよりどころでもあった。今様の歌集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の編さんに取り組んでいた後白河法皇は、世に役立つものではないが心を慰めてくれる、そんな歌を残したいと滋子に漏らす。滋子はそれこそが後白河法皇の目指す世であり、その世がつづくことが自分の望みだと勇気づけた。
1176年春、後白河法皇の五十歳の宴が盛大に催され、平家一門も祝いの楽や舞などを献上した。後白河法皇は清盛に向かい、お互いが目指す世のためにお互いが必要であることを改めて告げた。平家が押しも押されもせぬ公卿となり、それが後白河法皇の世を支えていることを明確に示した宴となった。その蜜月関係を支えていたのが滋子だった。
しかし同年7月、滋子は病のため35歳の若さで亡くなった。その死を重く受け止める平家一門。清盛は滋子の死が朝廷のあり方を大きく変えることを予想しつつも、自らの道は変えないと決意を平 盛国に告げた。一方、後白河法皇は激しい喪失感にさいなまれて今様を歌い続けた。
建春門院滋子の死という賽の目が、清盛と後白河法皇の双六遊びの行方を大きく変えることになる。

(41) 〜決別の時〜 賽(さい)の目の行方
1176(安元2)年。平 清盛と後白河法皇との関係をとりもってきた建春門院滋子が急死した。今後も後白河法皇との関係を良好に保つため、高倉天皇の中宮となった清盛の娘・徳子が皇子を産むことを願う清盛だが、徳子に懐妊の兆しはなかった。そこへ、不穏な知らせが舞い込む。後白河法皇が、仏門に入っていた2人の息子を都に呼び戻し、高倉天皇の養子にしたというのだ。それは高倉天皇を政治の場から遠ざけるための布石のように清盛は感じた。
清盛は長男・平 重盛を後白河法皇のもとへさしむけ、法皇への忠誠心を訴えるとともに、四男・平 知盛(小柳 友)を蔵人頭にするよう頼むが、後白河法皇は受け入れない。
危機感を募らせた清盛は、友好関係にある比叡山の僧・明雲を呼び出し、いざというときには力を貸すよう念を押す。
伊豆では、源 頼朝のことが気になる政子が、頼朝に源氏重代の太刀を見せてくれと懇願した。その熱意に押された頼朝は太刀を見せ、強き父・源 義朝の記憶を話し始める。そんな父も清盛に敗れ、伊豆に流された自分にはもはや無念さしか残されていないと語る。そんな頼朝に政子は、東国武士のために立ち上がるべきだと訴えるが、頼朝は清盛という男の恐ろしさを語るのみだった。
1177年、後白河法皇は千僧供養のため福原を訪ねた。清盛とのわだかまりは消えたかに思えたが、後白河法皇は、「もうここへは来ない」と清盛に告げる。清盛はいざという時がきたことを覚悟した。
やがて明雲の命を受けた山法師による強訴が起きる。訴えの内容は、法皇の側近・西光の2人の息子を流罪にせよというもの。加賀守目代である息子・師経(清水 優)が加賀にある比叡山の末寺ともめた際、焼き打ちにしたことがその理由であった。
後白河法皇は重盛に強訴鎮圧を命じる。重盛は即座に兵を内裏に配置するが、清盛と比叡山との良好関係にも配慮し、あくまでおどしをかけるだけにしろと命じる。しかし、兵たちは強訴の集団と衝突する中で、神聖な神輿に矢を射てしまう。
内裏には矢が刺さった神輿が、運び込まれていた。神罰が下ると恐れる公卿たちは、比叡山の要求どおり西光の息子たちを流罪とする決定を下す。重盛は福原の清盛の元へ行き謝罪するが、清盛は逆によくやったと重盛をほめた。そもそも一連の事件は清盛が明雲と仕組んだもの。西光の息子を流罪にして西光の力を削ぎ、西光が仕える後白河法皇の力を削ぐという企てだったのだ。
清盛の王家に対する忠誠心を疑問に思う重盛は、清盛に真意を問うと、賽の目は変わるものだとはぐらかす。
一方、後白河法皇は今回の事件が清盛の企てによるものだと見抜き、側近の西光や藤原成親ともども平家に対する憎悪を深めていた。
この事件はすぐに伊豆にも伝わった。改めて平家の恐ろしさを感じた北条時政は政子を呼び出し、平家にゆかりのある家に嫁ぐことをすすめた。
京の鞍馬寺にいる遮那王は僧になるのをためらっていた。かつて五条大橋で武蔵坊弁慶と出会った際、自分が源 義朝の子であることを知ったからだ。平家を倒そうという弁慶の誘いをその時は断ったが、いつまでも遮那王の心に引っかかっていた。
誰もが清盛の力の前に屈するしかなかった。しかし平家への不満は募る一方であった。そんななか、京の鹿ヶ谷にある山荘には平家を憎悪する人々が集まっていた。その中には西光や成親、そして後白河法皇の姿もあった。

(42) 〜平家を討て!〜 鹿ヶ谷の陰謀
1177年4月のある夜更け、京・鹿ヶ谷の山荘には、後白河法皇のもと、藤原成親や西光など、平 清盛ら平家打倒を企てる不満分子たちが集まった。そこへ招かれた摂津源氏の武士・多田行綱(野仲イサオ)は企てを知り驚くが、西光と成親の説得により平家を撃つことを決意した。
一方伊豆では、北条時政が娘・政子を平家配下の山木兼高へ嫁入りさせることを決めた。政子は源 頼朝の過去を深く知ったため、捨て置けないと打ち明けると時政は政子の頬をたたき、必ず山木のもとに行けと厳命する。
京では後白河法皇らの陰謀が始まっていた。まずは、根も葉もない言いがかりをつけて、清盛と盟友関係にある比叡山の明雲を流罪にする。怒った比叡山の山法師たちが、力ずくで明雲を奪還すると、法皇は平家に山法師たちを攻めよと命を下した。
比叡山への攻撃に平 重盛は二の足を踏み、判断をゆだねられた清盛はほどなく福原から上洛した。清盛は今回の後白河法皇のやり口には裏があるのではと、いぶかっていた。
多田行綱は源氏勢を結集させようと源 頼政を訪ねて平家打倒の陰謀への協力を請う。その陰謀とは、後白河法皇を訪ねて御所にきた清盛を捕らえて人質にし、六波羅にいる平家を攻め滅ぼすというものだった。だが、頼政は断り、さらに簡単に倒せるほど平家はもろくないと忠告される。
陰謀の決行間近で緊張感がみなぎる後白河法皇の御所に、重盛の妻・経子が訪ねてきた。経子は成親の妹であった。計画が露見したかと不安になる成親だが、経子は父・家成の法要の相談にきただけだった。成親は平家を引き立てていた父・家成のことを思い出し、自分が親不孝だと述懐するが、西光はただ清盛への恨みを募らせるばかりだった。
決行前日の夜、後白河法皇に翌日来るように命じられた清盛は、なぜか亡き信西が殺された夜のことを思い出し、心がざわめいていた。そんな清盛を多田行綱がたずね、平家打倒の計画の全貌を告白した。証拠として行綱が白い布を差しだし、これは成親に「六波羅攻めの折に掲げよ」と言われた源氏の旗だという。清盛は怒りに震えていた。
翌朝、すぐさま成親と西光は捕らえられ、後白河法皇にもそのことが知らされた。清盛の前に引き出された西光はもはやこれまでと観念したのか、清盛に罵詈(ばり)雑言を浴びせ始める。そして清盛の国づくりは志ではなく王家への復しゅうだと叫ぶと、清盛は激高して西光を蹴倒し、何度も踏みつけた。
伊豆では、父・時政の願いどおり、政子は山木家へ輿入れすることになった。そして嫁ぎ先に向かう途中、ふと何かを思い立った政子は雨の中、頼朝のもとへと向かう。そしていきなり源氏重代の太刀・髭切を取り出して頼朝に向き直り、清盛が頼朝に太刀を渡した理由は、配流先でも「武士の心をなくすな」と頼朝に伝えたかったからではと叫んだ。志なかばで死んだ父・義朝への思いを自分に託していたのだと気付く頼朝。心を動かされた頼朝は政子を抱きしめ、二人で今とは違う明日を目指す決心をする。
頼朝が明日を見つけた、そのとき、清盛は明日を見失いかけていた。怒りがおさまらない清盛は西光を洛中引き回しの上、斬首せよと命じた。後白河法皇はさびしげに側近を失う悲しさを乙前にこぼすと、乙前は国のいただきを巡る壮大な双六遊びをするならば、後白河も清盛もいくつもの駒を失うのが道理だと告げた。

(43)忠と孝のはざまで 〜重盛泣く〜
平家打倒の陰謀は未遂に終わり、首謀者の一人である西光は、平 清盛の命で斬首された。平家では、残る首謀者・藤原成親をはじめ、陰謀に加わった者たちへの裁断が下されようとしていた。清盛は、成親が平治の乱でも平家に敵対したことを受け斬首に処そうとするが、平 重盛の必死の嘆願に根負けし、成親を流罪にとどめる。しかしわずかひと月後、成親は配流先で餓死する。
肩を落とす重盛に、成親を餓死させたとほのめかす清盛。こらえきれず重盛は、清盛の思い描く国の姿が見えないと訴えるが、清盛は黙って自分の国づくりを支えよと冷徹に突き放す。平家の嫡男でもあり、後白河法皇の近臣でもある重盛はますますつらい立場に追い込まれていた。重盛は後白河法皇を慰めるべく訪ねると、法皇は西光と成親の悲惨な最期を改めて確認し、うらめしそうに笑いながら清盛の中にもののけの血がうずいていると告げる。
伊豆では、恋仲になった源 頼朝と政子が北条時政に結婚の許しを請おうとしていた。時政は激怒し反対するが、頼朝は政子とともに源氏を再興したいという志を訴え、時政の心を動かした。
一方、京で暮らす常盤のもとに、息子の遮那王と弁慶が訪れ、平家を打倒すると宣言する。そして常盤の反対を押し切り、ふたりは平泉へと向かう。その途中、遮那王は父・義朝最期の地である尾張で自ら元服の儀式を行う。そこで弁慶は常盤からあずかった名前を伝えた。こうして「義経」が誕生した。源氏の魂は着々とよみがえろうとしていたのである。
1178年6月、清盛の娘であり、高倉天皇の后である徳子が懐妊したという待望の知らせが福原の清盛に届いた。清盛は喜び勇んで京にはいり、平家一門に安産祈願をさせる。そして11月、願いどおり皇子が生まれた。六波羅で平家一門をあげて催された祝宴には源 頼政も招かれていた。清盛は頼政を三位に出世させたと伝えると、頼政は涙ながらに礼を述べた。その後も祝宴はつづけられ、清盛も一門も上機嫌だったが、重盛は思いつめたように清盛を見つめていた。
明けて1179年2月、清盛は緊急に一門を集め、重大な決意を伝えた。皇子の外祖父となった今、誰かがまた平家を陥れるために鹿ヶ谷の陰謀のような企てをする可能性があるため、後白河法皇を平家の館に連れてくるということだった。
そのころ、後白河法皇は病床に伏す乙前を見舞っていた。乙前は後白河法皇と清盛の双六遊びの行く末が気がかりだと伝えると、法皇はまだ自分には手駒があると不敵につぶやいた。
やがて武装して法皇の御所に向かおうとする清盛や一門の前に、病に伏していた重盛があらわれた。清盛の意図を聞くと、自分は御所を守ると宣言した。清盛は自分の国づくりを子である重盛が阻もうとするのかと責め立てると、重盛は「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と叫び、もし法皇を攻め入るのならば、自分の首をはねろと泣いて訴え続けた。重盛の命がけの懇願に、清盛も折れざるを得なかった。だがこの重盛の一途な忠義、孝行こそが、後白河法皇のつけいる隙でもあった。

(44) 〜重盛ゆく〜 そこからの眺め
1179年、伊豆の源 頼朝は妻・政子と前年生まれた娘とともに幸福な日々を過ごしていた。東国武士たちは、頼朝の義父となることは平 清盛の怒りにふれるのではと北条時政を心配するが、時政は平家の世は長くは続かないという予言めいたことを口にする。
平 重盛はわが身をていして、父・清盛が後白河法皇を幽閉する計画を阻止するが、その後心労がたたり病に伏す。一方、清盛のたくらみに感づいた後白河法皇は、平家の力をそごうと画策。藤原基房と手を組み、清盛が嚴島詣でに行くようにしむける。清盛の留守中、その娘・盛子(八木のぞみ)が病死すると、後白河法皇は彼女が管理する藤原摂関家の所領を強引に没収した。嚴島でそのことを知った清盛は怒りにかられた。
ばく大な財産を失った平家一門は、棟梁・重盛の病状を心配し、棟梁の代理を立てるべきではないかと話し合う。平 時忠は、重盛の弟であり正妻・時子の子である平 宗盛を推すが、重盛の子・維盛(これもり:井之脇 海)を推す声もあり、なかなか結論が出ない。重盛は宗盛ら弟たちや維盛ら子たちを呼び、そう遠くない自分の死後、清盛の国造りと一門の将来を支えるため力をあわせるよう諭した。
清盛を苦しめるためには、清盛の子がねらい目だと見抜いた後白河法皇は、病床の重盛を訪ねた。重盛に、清盛と自分との間を取り持ってくれたことに感謝しつつ、これからも平家との友好関係を望むなら、これに勝ってみよと重盛に無理やりに双六勝負をしかけた。息も絶え絶えに賽を振る重盛。そこに清盛が現れ、2人の勝負をやめさせ、重盛を苦しめようとする後白河法皇に怒りをぶつける。すると法皇は清盛にある思い出を語り始める。
40年も前のこと、清盛に双六勝負を挑み、勝ったら清盛の子・重盛をもらうという賭けをした。結果は幼き重盛が自ら賽を振り、良い目が出て、たまたま清盛は負けをのがれた。詰まるところ重盛は、わが身を自ら守る運命であり、母や弟に先立たれ父は修羅の道を生きるもののけ、一人で生き一人で死んでいくしかないのだと後白河法皇は語る。清盛がどう喝すると、後白河法皇は40年前と同じ笑い声を残して去っていた。衰弱した重盛はすっかり生きる力を失い、一か月後に42歳の若さで亡くなった。
悲しみにくれる平家一門に、さらに後白河法皇は追い打ちをかけた。盛子の養子・藤原基通を権中納言にするという平家の推挙が無視され、基房の子が権中納言となった。それは後白河法皇が取り上げた盛子の所領が将来的には、基房の子に奪われることを意味していた。さらに亡き重盛の所領・越前を後白河法皇が召し上げてしまう。とうとう清盛は怒りが頂点に達し、数千騎の兵を率いて上洛した。
清盛はまずは関白・基房を左遷、反平家勢力を一掃して、彼らの知行地をわがものにするという暴挙にでた。そして、後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉。ついに清盛は治天の君を退け、武士が頂点に立つという悲願を成し遂げた。世にいう「治承三年の政変」である。
清盛は内裏に行き、娘であり高倉天皇の后である徳子に謁見する。妹・盛子や兄・重盛に対する後白河法皇の所業を憂いていた徳子は、清盛を激励した。その帰りに清盛は祇園女御に会う。祇園女御はついに頂にのぼった清盛に、そこからの眺めはいかがかと問う。上機嫌に答える清盛に、二度と会うことはないと言い祇園女御は去った。
12月、徳子と高倉天皇の子である言仁が、清盛の西八条の別邸に行啓した。うれしくてたまらない清盛は赤子である言仁を抱きかかえ、言仁がいたずらで穴をあけてしまった障子を大切に保管せよと言いつける。幸福絶頂にいる清盛は、その穴を満足げにのぞき込みながら、祇園女御の言葉を思い出していた。「いかがにございますか、そこからの眺めは」

(45)以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ) 〜平家追討せよ! 諸行無常はじまる〜
後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉し、平 清盛は武士として初めて天下の頂に君臨する。清盛は福原にいながら朝廷の人事権を掌握し、1180年、高倉天皇に譲位を迫り、孫の東宮・言仁を即位させようとする。
一方、今回の政変で長年の所領を奪われてしまったのは、後白河法皇の子・以仁王。ふさぎ込む彼の様子を見かねた猶母の八条院暲子は、源 頼政を呼びだし、武力決起して平家討伐をせよとたきつける。しかし老いた頼政は、平家に逆らうなど愚の骨頂と言って断る。
東宮・言仁の即位に際し、朝廷で何かと物入りになると、伊豆には早速増税の命が下る。国のためのはずの租税が、平家のためにばかり使われている現実に、北条時政は、いよいよ平家への不満が爆発するときがくると源 頼朝に示唆した。頼朝には徐々に武士としての心構えがよみがえりつつあった。
そのころ、源 義経と弁慶は奥州平泉で藤原秀衡のもとにいた。秀衡は、近頃の清盛の動きを警戒し、もし今後平家が平泉に押し寄せることがあれば、平泉の武力と財力を好きに使って応戦するがよいと、義経に言い含める。
各地で反平家の動きがさかんになる中、言仁が正式に即位して安徳天皇となった。清盛は慣例をやぶり、新院となった高倉上皇の嚴島神社への参詣計画を進める。しかし、寺社勢力は猛反発。日頃は仲悪しき寺同士も手を組み、結束を強めていく。
重盛が亡き後、平家の棟梁となったのは清盛の三男・平 宗盛だったが、この事態に狼狽し、弟の知盛や重衡(辻本祐樹)に対処を任せるのみだった。結局、平家の武力を恐れた寺社勢力は兵を挙げることはなかったが、高倉上皇の嚴島参詣は遅れ、清盛の不満は募った。清盛は、新しき帝が誕生するとともに福原へ遷都することを画策するが、思うように進まないことにいらだっていた。そこへ美しい白拍子の姉妹・祇王(尾上 紫)と祇女(花影アリス)が目通りを願い、優美な舞を披露した。清盛は現実逃避するかのように祇王にひきつけられた。
京では宗盛が宴三昧の日々を送っていた。母・時子は叱るが、宗盛は兄・重盛の冥福を祈る宴だといい時子をあきれさせる。また、源 頼政の子・仲綱の愛馬を奪ったうえ、馬の名を仲綱と呼んで辱めた。仲綱は頼政に怒りをぶつけるが、頼政はこらえるよう諭す。しかし頼政も心の葛藤が強くなっていた。
そして、以仁王と八条院暲子のもとへ、反平家への決意を固めた頼政と仲綱が訪れた。そこで八条院は源義朝の弟・源 行家(江良 潤)を引き合わせた。行家は平治の乱に敗れた後、熊野で身をひそめていたと言う。八条院はこのように諸国に潜む源氏に向けて、平家打倒の令旨をだすよう以仁王に迫った。そして、不当に権勢をふるう平家を追討せよという以仁王の令旨は、行家の手により伊豆の頼朝に届けられた。驚きながら令旨を読みあげる頼朝を時政や政子が見つめていた。再び源氏が立ち上がる時が迫っていた。
4月、内裏では安徳天皇の即位の儀が行われた。福原で浮かれて舞い踊る清盛の前に新たな白拍子があらわれた。その白拍子(木村多江)の美しさに清盛はたちまち虜になり、祇王らを置き去りにして彼女を抱きかかえて連れて行った。寝所で清盛は「仏」と名乗るその女性に向かい福原への遷都の夢を語り、「ここはわしの世じゃ」と告げる。清盛はたったひとりで暗闇の中にいた。

(46)頼朝挙兵 〜目覚めよ! 清盛〜
不遇の皇子・以仁王が諸国の源氏に宛てた平家打倒の令旨が、伊豆の源 頼朝にも届いた。頼朝は源氏が再び立ち上がり、平家を攻めるときが迫っていると感じつつも、戸惑いを隠せない。そんな中、使者の源 行家は、この挙兵には源 頼政も参じていると伝える。北条時政らに鼓舞され、頼朝はついに戦支度を始める。
そのころ平 清盛は、福原の新都建設計画に没頭していた。そのかたわらにはいつも、仏御前がいた。それまでちょう愛をうけていた祇王と祇女はすっかり取り残されていた。その姿を見ていた亡き兎丸の子・小兎丸(高杉真宙)は、清盛の目指す国づくりに疑念を抱く。
5月、以仁王の館にいた源 頼政は、上洛した清盛から呼び出される。よもやたくらみが露見したかとおののく頼政に、清盛は楽しげに福原遷都の計画を聞かせる。そして、亡き源 義朝とともに目指した武士の世をつくるため、協力を請うのだった。
その後、清盛は体調を崩した息子・知盛を見舞う。病床に伏していた知盛は、近ごろ馬が駆け回る音がよく聞こえると告げる。そのひと言が発端となり、清盛は以仁王のたくらみを知ることになる。露見したことを知った以仁王はすぐさま園城寺に難を避け、頼政もあとを追った。頼政までが以仁王側についたことを知った清盛は激怒する。平家側の厳しい追討から逃れ続け疲労困ぱいする以仁王と頼政。頼政は宇治川で奮戦するが敗走。やがて頼政は自害、以仁王も討ち死にし、全国に拡大する前に以仁王の乱はあっけなく終わった。
頼朝は神妙な面持ちでその知らせを聞きながら、己の初陣・平治の乱のことを生々しく思い出していた。そして、心の中で何かが騒ぐのを感じるのだった。
乱が鎮まった後、清盛は遷都計画をさらに急ぐ。誰もが反対するなか、内裏が出来上がらぬうちに遷都を強行。安徳天皇や高倉上皇、徳子らは福原にうつった。本当に遷都する必要があったのかと疑問をぶつける高倉上皇に、清盛はすべてを任せるよう諭す。
評判の悪い遷都のうわさは伊豆にも届いた。頼朝は東国武士たちの不満の声が高まっていることも聞き、清盛の目指した武士の世とは何なのかと、ふつふつと疑念がわきあがってくる。
福原の清盛を西行が訪れると、清盛は仏御前のために祇王と祇女を踊らせる座興を行った。そのむごい仕打ちを見た西行は、昔の清盛や義朝と将来を語り合った思い出を話し、おもしろき世をつくりたいと願った清盛の世とはこれかと問い詰める。そこへ平 頼盛が急報として、高倉上皇の政治を摂政・基通に託したいという願いと、都を京へ戻したいという声が高まっていることを告げた。逆上し自分を見失った清盛はすべてを自分の思いどおりにするのだとわめき散らし、恐怖からその場を逃げ出そうとする仏御前を、射殺させようとする。それはかつて清盛の母が殺された姿に重なる光景だった。清盛はうなされたように自分が暗闇の中にいることを告げて助けを求めた。さらにそこへ、伊藤忠清(藤本隆宏)が頼朝の挙兵を知らせにとびこんできた。清盛は自らの剣を握りしめ、武士らしい闘志を込めた表情に一変した。頼朝の挙兵こそ、清盛が暗闇を抜け出すきっかけになったのである。清盛の体に流れる武士の血が、久方ぶりに騒ぎ始めていた。

(47) 〜源平対決〜 宿命の敗北
1180年、源 頼朝が打倒平家を掲げて挙兵。武士の心を取り戻した平 清盛は、すぐに孫の平 維盛を総大将、伊藤忠清を軍師に任命し、頼朝追討を命じる。
頼朝たちは石橋山に陣を構えて援軍を待っていたが、平家の追討軍である大庭景親(木下政治)と伊東祐親から攻撃を受け大敗を喫する。逃亡した頼朝たちは洞窟に身をひそめ、隠れていると、敵方の武将・梶原景時(浜田 学)はあえて頼朝たちを見逃し、九死に一生を得る。
頼朝挙兵の知らせは奥州平泉の源 義経へも届いた。義経は義兄・頼朝のもとへはせ参じたいと藤原秀衡に願い出るが、その身を案ずる秀衡は猛反対。そのとき、弁慶が自身の頭上の的を射よと義経に命じ、自分たちの運と度胸を試してみよと言いだす。そして義経は見事に的を射ぬき、ついに秀衡が折れることになった。
各地でも次々に源氏武士が決起。平家一門も追討の準備をすすめ、福原の清盛の前に集まった。清盛は戦のかたわら福原の内裏建築も進めていたが、一門の誰もが、未だ遷都に疑問を感じていた。しかし、清盛は国づくりを成し遂げることこそが真の勝利だと言い放つ。
下総(=今の千葉県)で態勢を立て直していた頼朝のもとへ、二千騎という大軍を率いた上総広常(高杉 亘)が参じた。しかし頼朝を侮るような高飛車な態度の広常に、頼朝は去るよう命じる。その毅然とした態度に広常は感服し、こうして頼朝は東国の名だたる武士たちの心を捉えていった。そして父・源 義朝の悲願であった武士の世をつくるため、義朝が居をかまえた鎌倉を源氏の本拠地とし、平家軍に備えよと一同に話す。
京の六波羅では平家軍の総大将・維盛と忠清が出陣をめぐって口論していた。日柄が悪いため出陣を延期しようとする忠清を押し切り、維盛は強引に出陣をした。
鎌倉に入った頼朝のもとを政子が訪ねてくる。すると平家軍が駿河へ入ったという報が届き、くつろぐ暇もなく頼朝は出陣を命じる。
富士川をはさんで頼朝の源氏軍と維盛の平家軍が対峙した。甲斐源氏の二千騎と合流し、数を増した源氏軍とは対照的に、平家軍は兵糧不足に悩み、四千騎の大軍が半分に減っていた。また平家軍に合流するはずの軍勢たちは源氏に阻まれていた。追いつめられた維盛は兵の士気をあげるため、遊女を連れてこいと命じる。
一方、清盛は内裏の速やかな完成を祈願するために、厳島神社を訪れていた。戦況を心配する佐伯景弘に清盛は、自分は父の悲願である武士の世をつくらねばならないと告げる。そして福原に内裏をつくり、自分の血を引く帝をたてて政をおこなうことを、友である義朝の子に見せてやるという思いを語った。
一方、富士川では酒宴に興じていた平家軍は、水鳥が飛び立つ音を敵襲と間違え慌てふためき、総崩れとなってしまう。圧倒的勝利を手にした頼朝は逆に平家のあまりの弱さに失望するものの、清盛と対峙すべく京に兵を進めるように命ずる。だが、北条時政たち重臣から、鎌倉に戻り、足元を固めることが先決であると進言を受け、聞き入れる。そこへ義経が奥州から参上、頼朝は運命の対面を果たす。
六波羅に逃げ帰った維盛と忠清の前に現れた清盛は激怒した。維盛を殴りつける清盛に、忠清は自らの死をもって責任をとりたいと言う。そして首をはねられる覚悟で忠清は、「平家はもはや武門ではござりませぬ。殿ご自身が、もはや武士ではありませぬ」と痛烈に清盛を批判する。忠清の言葉に衝撃をうける一門と清盛。激情にかられた清盛は宋剣で忠清を斬ろうとするが、剣の重さに振り回され尻餅をついてしまう。一門が絶句して見つめる中、清盛の心の中には父・平 忠盛のある言葉がよみがえっていた。「おのれにとって生きるとは何かを見つけたとき、心の軸ができる。心の軸が体を支え、心を支えるのだ」清盛は今、心の軸を失っていた。

(48)幻の都 〜福原、さらばわが夢〜
富士川の戦いで平家軍は大敗した。平家はすでに武門ではないという伊藤忠清の言葉は、平 清盛や一門の心に強く刻まれた。ぼう然と部屋にたたずむ清盛に平 盛国は声もかけられない。そして介錯を願う忠清に、盛国は平家の危機である今、忠清がいかに重要かを説き、思いとどまらせた。
一方、富士川の戦いから無事帰還し、鎌倉に入った源 頼朝は、戦で手柄を立てた者に領地を与えるなどして、着々と東国武士を配下につけていた。
すでに、各地で源氏が蜂起。寺社勢力にも謀反の兆しが見えていた。福原では病に倒れた高倉上皇が快方に向かう様子がなく、清盛が見舞いに訪れると、徳子が高倉上皇の心労を告げ、上皇の病の理由が遷都にあるのではと訴えた。
公卿たちも不安にかられていた。藤原兼実は、都を京に戻すべきと強く主張。ほかの公卿たちも重盛存命の折は秩序が保たれていたと愚痴を言いだす始末。それを平家の棟梁・平 宗盛は黙って耐えながら聞いていた。
後日、宗盛は一門を集め、清盛に還都を申し出る。当然のごとく拒否する清盛だったが、いつになく宗盛も一歩も引かない。そして、ふがいない自らの半生を省みながら、自分の役目は、今父上をお諫めすることだと涙ながらに訴える。さすがの清盛も返す言葉がなく、ついに京への還都を決めるのだった。
幼き安徳天皇のために清盛が建てた福原の新内裏では、五節の舞が安徳天皇に献上された。華やかな宴の中、さまざまな思いを胸にひとり涙する清盛。本拠として10年あまりを過ごした福原を、ついに清盛は後にする。清盛が夢みた福原の都はわずか半年で幻となった。
六波羅で各地の反乱への対応を自ら指図していた清盛は、ある日自分がしてきたことや武士の世とは何だったのかを思い返していた。一方、鎌倉では頼朝も清盛が目指した武士の世とは何だったのかをはかりかねていた。
そんな頼朝と政子のもとへ源 義経と弁慶が訪ねてきた。義経は頼朝に今回の挙兵の理由を尋ねると、頼朝は父・源 義朝の武勇を知らしめるためだと答えた。そして義朝と清盛が切磋琢磨(せっさたくま)してきたいきさつを語り、敗れてしまった父に代わり、力で平家を倒して真の武士の世をつくるという決意を打ち明けた。それを聞いた弁慶は激しく同意した。弁慶は源氏と少なからぬ因縁があり、義朝や清盛の若き日を知っていたのだ。そして清盛が若き日、故意に神輿に向けて矢を射た祇園闘乱事件の真相を語ると一同は驚がく。そして、清盛のすさまじい生きざまを知り、その志を理解した頼朝は、自らの進むべき道を改めて定めるのだった。
そのころ、大事件が起こっていた。南都(=今の奈良県)の僧兵の反乱を鎮圧するために向かった清盛の五男・重衡が、あやまって東大寺の大仏を含めた南都の寺たちを炎上させてしまったのだ。
平家一門が緊張した面持ちで集まり、清盛も「天は平家を見放した」と気弱な発言をした。そこへ鎧兜姿で帰ってきた重衡は悪びれもせず自分の戦果を語った。事態の深刻さと屈託のない重衡の笑顔に清盛は困惑しつつ、「重衡。ようやった」とほほ笑んだ。
だが、この南都焼き討ちの代償はあまりにも大きかった。

(49) 〜盛者必衰 清盛死す!?〜 双六が終わるとき
平 清盛の五男・重衡が南都を焼き打ちにしたことにより、天下の人心はもはや平家からまったく離れていた。各地で謀反が相次ぎ、平家は次第に四面楚歌となっていく。さらに不幸なことに、病床にふしていた高倉上皇が世を去ってしまう。高倉上皇は最期まで后である徳子の行く末を案じながら、21歳の若さでの崩御だった。
高倉上皇の崩御は、上皇の父・後白河法皇の院政が、約1年半ぶりに復活することを意味していた。鳥羽離宮での幽閉を解かれ、久方ぶりに清盛と対面した後白河法皇は、清盛がおこしたクーデター、「治承三年の政変」も自分のシナリオどおりだったことをにおわせ、清盛をがく然とさせる。平家一門も、法皇は幽閉されながら世を操っておられたのだとぞっとする。
清盛は、高倉上皇をなくしたばかりの娘・徳子のもとへ時子を行かせ、法皇の後宮に入るよう説得させる。しかし、徳子はかたくなに拒否。それでもあきらめず、「また別の手を打つ」という清盛を、時子はやさしくとりなし、励ますのだった。
一方、鎌倉の源 頼朝のもとには、梶原景時をはじめ、続々と武士たちが集まる。頼朝は彼らを御家人(ごけにん)と呼び、新たな「武士の世」の政治体制を作り始めていた。
京の上西門院統子(愛原実花)の館では高倉上皇をしのぶ歌会が催された。上西門院は後白河法皇の姉であり、高倉上皇は甥にあたる。その歌会には西行の姿もあった。西行は戦乱で多数の人が亡くなったことを詠み、それこそが高倉上皇の心労のもとであったことを嘆いた。そして歌会の後、かつて待賢門院に仕えていた堀河局(りょう)と、久方ぶりに再会する。昔は恋の歌をかわした二人だった。世の行く末を嘆く堀河局に西行は今宵を楽しもうと誘う。
ある日、西行は清盛をたずね、鎌倉での頼朝の町づくりを語った。頼朝は源氏の守り神である鶴岡八幡宮の参道沿いを中心に、次々と住いや道が整えられ、そこに御家人たちを住まわせ、新しい仕組みのもと統率していた。そのことを聞いた清盛は、貴族の世が終わりを告げ、武士が覇を争う世が到来したことを実感。ある決意をもとに後白河法皇をたずね、双六の勝負を申し込む。負けた者が勝った者の願いを聞き届けるという約束ごとで。双六をしながら二人はこれまでのお互いを振り返った。若き日から二人はまさに双六のようにお互いが賽をふりながら数々の勝負を続けてきたのだ。そして今宵の一戦で勝ちをおさめ清盛は、勝者として望みを語った。それは後白河法皇との双六勝負はこれで最後にしたいということだった。「これより先は、すでに朝廷に力はなく、武士同士が覇権を争う世である。武士はもう王家の犬ではない」と告げると、後白河法皇は寂しげな表情で現実をうけとめた。
その後、清盛は頼朝への闘志を燃やし、源氏討伐の準備を整えていた。そんな折、清盛は突然の熱病に倒れ、危篤状態に陥る。同じ頃、伊勢にある西行の庵にある男が訪ねてきていた。それは清盛の生霊だった。

(50)遊びをせんとや 生まれけむ [終] 〜壇ノ浦へ! 平家最期のとき〜
突然の熱病に倒れた平 清盛は生き霊となって、遠く伊勢・二見浦にいる西行の目の前に姿を現す。はじめはひどく驚く西行だったが、話を聞くうちに事態を理解し、清盛の霊に死期が近いことを説く。京では高熱にうなされている清盛を、平家一門が祈るように見守っていたが、手の施しようもなかった。
一方、後白河法皇は清盛危篤の報に接し、思いつめたように今様を歌い、踊り続ける。「♪遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけん♪」
生に執着する清盛の様子を見かねた西行は、思いやりあふれる言葉で諭す。そして西行の言葉でようやく自分の寿命を受け入れた清盛は一門の前でむくっと立ち上がり、「―きっと、わが墓前に、頼朝が首を供えよ!」と言い遺し、1181年の春、絶命する。64年の生涯だった。
西行は京の平家一門を訪れ、清盛の遺言を伝える。二見浦の庵で清盛と交わした最後の会話がみんなへの遺言だったのだ。西行の姿はいつしか清盛そのものとなり、それぞれに遺言が伝えられた。
その後も、平家は一連托生の強い絆のもとにそれぞれ戦った。源氏軍の侵攻により、都落ちを余儀なくされたのは1183年。この都落ちはそれぞれの行く末に多大は影響をもたらした。平 頼盛は清盛の遺言を受けて、平家の血を守ろうと考え鎌倉の源 頼朝を頼った。侍大将の伊藤忠清は伊勢で戦ったが捕縛され、斬首となった。その後、態勢を立て直した平家だが、一の谷で平 重衡は捕らえられて斬首となり、逃亡した平 維盛は後に入水して果てた。
壇ノ浦でも多くものが西海に散った。総大将の平 知盛は勇猛果敢に戦い、最後は錨を体に巻きつけて海に沈み、平 宗盛は死にきれずに海でもがいているところを捕縛され、のちに斬首された。建礼門院徳子は捕らえられ、のちに出家して一門の菩提を弔う生涯を送った。平 時忠は配流された能登国で生涯を終えた。そして時子は安徳天皇(田中悠太)を抱き、「海の底にも都はござりましょう」と言って海に身を投じた。鎌倉のとある館では捕縛された平 盛国の姿があった。盛国はひと言も発せず、飲食を断ち、餓死による自害を選んだ。亡くなった盛国を弔う琵琶法師はかつて禿の長として京を震撼させた羅刹(吉武怜朗)だった。
平家を滅ぼした頼朝が、次に退けねばならなかったのは、弟・源 義経だった。身内同士で殺し合う苦しみをよく知る頼朝は、幾度もしゅん巡するが、最後には弟の追討を決意する。
1186年、頼朝のもとへ西行が訪ねてきた。西行は頼朝にも清盛の遺言を伝える。「まことの武士とはいかなるものか見せてみよ」という言葉をうけ、頼朝は自分の進むべき道を定めた。
1189年、奥州藤原氏を頼ろうとした義経は衣川で兵に襲われ、孤軍奮闘するも、弁慶は多数の矢を受け立ち往生し、義経は自害して果てた。
1190年、頼朝は上京し、後白河法皇と対面した。後白河法皇は老いを感じさせるうつろな目で頼朝を迎えた。その一年あまりの後、後白河法皇は亡くなり、頼朝もその7年後に死んだ。そして頼朝が開いた幕府が滅んだ後の足利の世となって清盛が目指した国と国との交易が行われるようになった。
そして、海の中を落ちていく宋剣がある。その剣をつかんだのは、若き日の清盛だった。清盛は兎丸の声に導かれ、海の中にある館に入っていった。すると清盛の前に平家一門が笑顔で待っていた。「海の底にも都はありまする」、時子の声に振り向いた清盛は、夢中で遊ぶ子どものような笑みをたたえていた。


作:藤本 有紀
音楽:吉松 隆
テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
     指揮:井上 道義
     ピアノ演奏:舘野 泉
題字:金澤 翔子
──────────
松山 ケンイチ (平 清盛)
松田 翔太 (後白河法皇)
藤木 直人 (西行)
深田 恭子 (時子)
森田 剛 (平 時忠)
成海 璃子 (建春門院 滋子)
藤本 隆宏 (伊藤忠清)
田口 浩正 (平 貞能)
梶原 善 (平 宗清)
窪田 正孝 (平 重盛)
西島 隆広 (平 頼盛)

岡田 将生 (源 頼朝)
杏 (政子)
塚本 高史 (藤九郎)
神木 隆之介 (遮那王/源 義経)
青木 崇高 (弁慶)
福田 沙紀 (八重姫)
吉沢 悠 (藤原成親)
加藤 浩次 (兎丸)
細川 茂樹 (藤原基房)

加藤 虎ノ介 (西光)
温水 洋一 (佐伯義弘)
武井 咲 (常盤御前)
吹石 一恵 (舞子)
木村 多江 (仏御前)
相島 一之 (藤原兼実)
佐藤 仁美 (八条院 暲子)

松田 聖子 (祇園女御/乙前)
京本 政樹 (藤原秀衡)
宇梶 剛士 (源 頼政)
りょう (堀河局)
遠藤 憲一 (北条時政)
峰 竜太 (伊東祐親)
和久井 映見 (池禅尼)
上川 隆也 (平 盛国)
伊東 四朗 (白河法皇)
──────────
制作統括:磯 智明
    :落合 将
プロデューサー:櫻井 壮一
演出:柴田 岳志・渡辺 一貴・中島 由貴・
   佐々木 善春・橋爪 紳一朗・中野 亮平

本文のストーリーは、NHK公式ホームページ『平 清盛』の
あらすじ欄よりそのまま引用しました。
なお、出演者名(敬称略)は総集編の出演ではなく、
該当期間の本編に出演し、ピンクレジットで紹介された方を
順不同で並べ替えたものです。

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