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2013年12月 1日 (日)

大河ドラマ八重の桜・(48)グッバイ、また会わん

明治22(1889)年10月。

大学設立の寄付を集めに単身東京へ向かった新島 襄から
新島八重と約束したように
“当方無事”と書かれた葉書が送られて来ていました。
その葉書を見つめて、襄の事が心配な八重です。

東京では、熊本バンドのひとりだった小崎弘道が
薬を飲むための水を襄に持って来てやったりと世話を焼いています。
そんな時、襄が頼りにしていた大隈重信が襲われたと
蘇峰 徳富猪一郎が知らせてきます。

大隈重信は東京専門学校の設立者で
伊藤博文内閣の外務大臣でもあります。
閣議の帰り、大隈が乗る馬車に爆裂弾が投げ込まれ
右足の傷が深く、切断するしかないという診立てです。

大隈が提唱する条約改正案が、
外国に対して弱腰だと憤った愛国者が犯人らしいと言うと、
襄にしては珍しく、テーブルを叩いて怒鳴ります。
「愛国心とはそんなものではない!」

意見が違うものを力で封じ込めるならば、
何のための国会開設か分かりません。
しかし、神経を高ぶらせたのがいけなかったのか
襄は胸を押さえてせきこみます。

襄は、八重を安心させるべく
“当方無事”の葉書を送り続けるのですが、
八重が欲しているのは、襄がどこにいるかではなく
襄の容体がどんな状態であるかであります。

そういった部分のすれちがいに苛立ちを見せ始めたころですが、
襄の容体について知らせる手紙が同志社に届けられていました。
蘇峰がこっそり送っていたわけです。

会津藩家老だった秋月悌次郎が同志社を訪ねて来たのは、
まさにそんな時でした。
会津藩解体後、しばらく東大予備門で漢学を教えていた秋月は
熊本の第五高等中学からお呼びがかかったそうで、
今から赴任するところだったようです。

そもそも秋月が、
隠居しようと思っていた気持ちを先延ばしにしてまで
気持ちを奮い立たせて熊本に行こうと決意させたのは、
襄の『同志社大学設立の旨意』を新聞で読んだからなのです。

これから5年後の明治27(1894)年まで、
秋月は熊本で教鞭をとりました。
同僚教師のラフカディオ・ハーンは、その人柄について
“神のごとき人”と称しています。


襄は相変わらず群馬県前橋で募金活動を続けていましたが、
宿にたどり着く前に、息が荒くなり倒れてしまいます。

明らかに体調悪化であり、療養のために神奈川県大磯に移りますが、
養生しているわけではなく、無理して起きて仕事に励んでいます。
先生は養生しておいでか? と駆けつけた蘇峰に、
小崎は寂しそうに首を振ります。

苦しそうに息をしながら懸命に手紙を書き続ける襄。
その机の端には、八重に宛てた“当方無事”の葉書が──。

蘇峰は、大磯にいることを八重に伝えようと提案しますが
療養していると知ったら、八重は飛んで来るでしょう。
あくまでも、襄は東京で募金活動をしている、ということです。
「このうそに、もう少し付き合ってください」


その年の暮れ、山川家には
会津藩家老で二葉の夫であった梶原平馬の訃報が届きました。
最期まで、会津が破れた責めは自分にあると悔いていたようです。


“当方無事”と書かれた2枚の葉書。
八重は、その字体が次第に乱れ、
小さくなっていることに気づきます。

「八重を大磯に行かせんべ、なあ」
東京に行こう、と決意して山本覚馬の部屋に向かう八重は
部屋の内から山本佐久のこの言葉を漏れ聞いてしまいます。

大磯とは?
八重は覚馬に問いただしますが、覚馬はついに
体調を崩して大磯で療養していることを白状します。


「ご家族に、お知らせした方がよいでしょう」
心臓の病に加え腹膜炎を併発している襄の容体は
医者でさえも“よく持っている”と言わざるを得ません。
余命幾ばくもない危険な状態が続いています。

一切知らせるな、と襄に固く言われている小崎と
もう隠しておけないと電報を打ちに行こうとする蘇峰。
その二人が対立しそうになった、まさにその時
八重が百足屋(むかでや)に到着します。

八重が部屋に入ると、襄は静かに眠っています。

襄、と呼ばれて目を開けると、そこには八重がいます。
「会いたかった、八重さん」


日本の宝が消えようとしていると危機感を持った蘇峰は
襄が重体に陥ったという電報を各所に打ちます。

その知らせが舞い込んだ同志社では、
生徒たちに公表され、みな動揺を隠し切れません。
「祈りましょう。主が、私たちの先生をお救いくださるよう」

かつては対立し続けた外国人教師たちも一様に祈ります。


学生は型にはめず
まことの自由と国を愛する人物を育ててください。
多くの同志たちに助けられてきました。
天を怨まず、人を尤めず、ただ、感謝あるのみ──。

私は、神の力が私に働いて
自分に与えられた神の恵みの賜物により
福音の僕とされたのである。
すなわち、聖なる者たちのうちで最も小さいものである私に
この恵みが与えられたが
それは、キリストの限りない愛を
全ての人に宣べ伝えるためである。

詠み上げ終えた小崎は、
八重と襄を二人きりにするために部屋を出て行き
同席していた蘇峰にも退室を促します。

しばらくは様子を見ていた蘇峰も、部屋を出て行き
八重は襄と二人きりになれました。

「あなたに話したいことはまだたくさんあるのに、
 残された時間は、あとわずかです」

戦の傷も、犯した罪も、悲しみも、
みんな一緒に背負ってくれた。
私を愛で満たしてくれた。
私を妻にしてくれて……ありがとなし。

今はまだ別れたくない、と八重の目から大粒の涙です。
「八重さん……泣かないで」
泣いてなんかいねぇ、と強がる八重です。

グッバイ……。
また……会いましょう……。

襄の名を呼ぶ八重の声が、
いつまでもいつまでも響いていました。

──明治23(1890)年1月23日午後、新島 襄 永眠。

1月27日、襄の死を悲しむようにしとしとと降り続ける雨の中
同志社で行われた葬儀には4,000人が参列。
襄の棺は、東山の若王子山頂に葬られます。


「八重、東京に行ってこい」
突然の覚馬の提案です。

何でも日本赤十字社が、
篤志看護婦人会を作ることになったそうです。
山川捨松が中心になって動き始めたのだとか。

しかし八重は京都を離れるつもりはありません。
自分が同志社にいないと、亡くなった襄が寂しがるでしょう。
もしかしたら、襄を亡くして気持ちが失せていたのかもしれません。

情けねぇヤツだ! と覚馬は杖を床に叩き付けます。
「新島 襄の妻は、こんな意気地のねえ女だったのか!!」
恐ろしい目で睨みつけられた八重は、脅えたまま兄を見ます。

赤十字の看護の神髄は、敵味方の区別なく
傷ついた者に手を差し伸べることにあり、
苦しむ者、悲しむ者に寄り添い、慈しみの光で世を照らす。
これはまさに、襄が作ろうとした世界そのものであります。

覚馬としては、その世界に八重が身を置いてこそ
襄も喜んでくれるのではないか、と言いたかったのかもしれません。


東京の大山 巌邸に赴いた八重は
同じ考えで集まった女性たちの中に入っていきます。

カルブ医師の指導のもと、
看護法を学んでいく女性たちの中にあって
八重は会津戦争で実際に看護に当たっていた経験を持つせいか
医師たちからの評価も非常に高いです。

捨松が留学した際に、襄に背中を押してもらったお陰で
学問の面白さを知ったと八重に伝えます。
八重は、襄がこんなところにも学問の種をまいていたかと思い
篤志看護婦人会に入って看護の勉強をし直すことにしました。


その年の11月、第1回帝国議会が開かれました。


京都に戻った八重は、生徒たちにお菓子を焼いて
相変わらずの生活を送っていました。
佐久はそれに呆れながらも、ホッとしている様子です。

「襄がこごに残したものを、守っていかなくては」
まだまだこれからだ! と微笑む八重です。

──────────

明治23(1890)年1月23日、
新島 襄が急性腹膜炎により死去。
最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」。

明治39(1906)年4月1日、
篤志看護婦としての功績により
皇室以外の女性として初めて『勲六等宝冠章』を受章するまで


あと16年2ヶ月──。


作:山本 むつみ
テーマ音楽:坂本 龍一
音楽:中島 ノブユキ
題字:赤松 陽構造
語り:草笛 光子
──────────
[出演]
綾瀬 はるか (新島八重)
西島 秀俊 (山本覚馬)
オダギリ ジョー (新島 襄)
玉山 鉄二 (山川 浩)
市川 実日子 (山川二葉)
勝地 涼 (山川健次郎)
──────────
中村 蒼 (徳富蘇峰)
池内 博之 (梶原平馬)
北村 有起哉 (秋月悌次郎)
──────────
生瀬 勝久 (勝 海舟)
反町 隆史 (大山 巌)
風吹 ジュン (山本佐久)
──────────
制作統括:内藤 愼介
プロデューサー:樋口 俊一
演出:加藤 拓


◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八重の桜』
第49回「再び戦を学ばず」

デジタル総合:午後8時〜
BSプレミアム:午後6時〜

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