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Kassy号〜♪の車窓から 2011

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2013年12月 8日 (日)

(49)再び戦を学ばず

私は、同志社を単なる学校ではなく、ひとつの家族として
生徒たちとともに生きる場所にしたいと願ってきました──。

そう語った新島 襄は、もうこの世にはいません。
しかし、襄の思いは
新島八重をはじめ同志社に勤める外国人教師たちが受け継いで
しっかりと生徒たちに教えていくつもりです。

ただ、その生徒たちに異変が……。

教室を見渡すと、たくさんいたはずの生徒たちが
ほとんど、来なくなってしまっていました。
「戦が迫っていた」のです。

明治24(1891)年6月──日清戦争まであと3年。

列強に対抗するため、日本は一丸となって富国強兵に邁進。
その波は、この同志社にも及びます。

今年度の普通科入学者数は112人、
しかし来年度の普通科入学希望者は23人。
およそ2割にまで減ってしまっているのです。

前年『教育勅語』が発表され、全国の学校に配布されました。
親への孝行、兄弟への友愛など日本古来の道徳心を重んじるとともに
国家の危機には忠義をもって天皇に尽くすべし、との一条があり。

教育の名の下に、人を縛るようなことがあってはならない。
山本覚馬は危惧します。


日本赤十字社が作った篤志看護婦人会の京都支会で、
コレラやチフスの危険性について講義する医師の
通詞として八重が説明に立ちます。

「命の危険に身を晒して、患者を救うのです」
そう通訳した八重の言葉を聞いて、
生徒たちは一様に緊張した面持ちとなります。

確かに、会津戦争で身をもって体験している八重とは違い
錦絵の世界でしか伝え知らない彼女らにとっては
戊辰戦争など“勇ましい”としか思えないでしょう。
看護を学んでいても、どこか気持ちが浮ついているようです。


山川健次郎が山本家を訪ねてきました。
兄・山川 浩は呼吸器を患いながらも
かつて川崎尚之助がやり残した未完の仕事を引き継いで
会津に何があったのかを書き残そうとしています。

「京都守護職始末」。
松平容保の名誉を挽回しなければならない、
という強い意志を持ってです。

その兄の意思を知った健次郎が山本家を訪ねて来たのは
そう、この京で会津藩に何があったのかを
山本覚馬から聞き出すためです。
覚馬は静かに語り始めます。

──文久3年8月、あれは会津の命運を懸けた戦いだった。

長州派の公家たちが、
孝明帝のご叡慮でないことを勅命と偽り幕府打倒を企てた。
容保は全軍を率いて御所に向かい、長州を都から取り除いた。

しかし孝明帝の崩御をきっかけに、全てがそっくり裏返った。
今度は会津が勅命をもって都を追われた。

勤王の志は……薩長も持っていた。
薩摩の西郷(隆盛)、長州の木戸(孝允)、
彼らにも、思い描く日本の見取り図はあった。
戦をせず、国を滅ぼさぬ道もあったはずなのだ。

「大君の義。一心大切に忠勤を存ずべし」
ご家訓の一条に、会津は縛られてしまった。

いくつもの不運があった、はかりごとに乗せられもした。
それでもまだ、引き返す道はあったはずだ──。

つまり覚馬は、会津は道を誤ったと言いたいわけです。
健次郎は、義がある会津を貶(おとし)めるのかと激昂します。
八重は、亡くなった仲間たちのことを思うと
会津が間違っていたとは決して言えない、と漏らします。


同志社英学校 卒業式。

戦に向かって舵を切った日本へ巣立って行く生徒たちに
覚馬は、聖書の一節を心に深く刻んでほしいと伝えます。
『その剣を打ち変えて鋤となし、その槍を打ち変えて鎌となし
 国は国に向かいて剣を上げず、二度と再び戦う事を学ばない』

翌年、小崎弘道に同志社総長の職を譲り
学校運営から身を引いた覚馬は、
64年の苛烈な生涯を閉じました。


覚馬の死は、病床に伏す容保の元にも知らされました。

容保は、孝明帝からの御宸翰を
見舞いに来た山川 浩と健次郎兄弟に託します。

御宸翰は、会津が逆賊ではないことの証となるもので
それを早々に公表していれば容保の汚名はそそがれたはずですが
勅命を得た者が正義となる都の世界では、
この御宸翰があっては、それが元で
新たに戦の火種になってしまうことを危惧したのかもしれません。

「会津と薩長、義はどちらにもあった」
会津には辿るべき別の道があったのではないか、と
覚馬が生前、問うていたことです。

容保は、それを認めます。
武士の忠義を貫き通した代わりに、
会津を死地へと追いやってしまった、と。

しかしあの時、会津までが徳川を見捨てていたならば
この国にまことの武士などはいなかったことになります。
容保は、会津がいかに誇り高く戦ったかを知ってもらうためにも
いつか御宸翰を世に出してほしい、と願います。

松平容保、薨去──。


明治27(1894)年3月、
朝鮮半島南部で農民の反乱・東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発。
朝鮮政府は清国に、派兵を要請します。

これに対して伊藤内閣は8,000人という
大兵力を派遣する閣議決定を下します。

このころ、言論人の多くが開戦を支持。
財界人も軍事資金の献納を呼びかけ
開戦の機運は一気に盛り上がっていきました。

徳富蘇峰の国民新聞社も同様です。
しかしその中にあって、「何ば浮かれとっとか」と
冷ややかな目を向ける弟・徳冨蘆花の姿も。


そして8月1日、ついに日清両国は宣戦を布告。
その号外を受け取った八重は、一同がバンザイを叫ぶ中
意を決して大山 巌邸を訪ねます。

広島の陸軍予備病院に看護婦派遣を決めた赤十字京都支部。
敵味方の区別なく、傷ついた人を救護するつもりですが、
戦場で敵を助けることはない、と言う人たちがいます。
清国は赤十字の協定に加わってはいないので、
日本のみがその救護の義務を追うのは不適当だというわけです。

良いことを始めるのにためらう必要はない、と
八重は、敵を助けるななどという声を
大山に鎮めてもらいたいのです。

「敵なればとて、傷を受くるか病にかかりたる者を
 いたわり救うは人の常なり。
 仁愛の心をもってこれに対すべし」

出陣に際して、
全軍にこう訓示するつもりだと大山は言います。
その言葉を聞いて、ホッと安堵する八重。

八重は、赤十字の若い看護婦たちを率いて
再び戦へと赴くことになります。

──────────

明治25(1892)年12月28日、
山本覚馬が京都府京都市の自宅にて64歳で没する。従五位追贈。

明治39(1906)年4月1日、
篤志看護婦としての功績により
皇室以外の女性として初めて『勲六等宝冠章』を受章するまで


あと13年3ヶ月──。


作:山本 むつみ
テーマ音楽:坂本 龍一
音楽:中島 ノブユキ
題字:赤松 陽構造
語り:草笛 光子
──────────
[出演]
綾瀬 はるか (新島八重)
西島 秀俊 (山本覚馬)
オダギリ ジョー (新島 襄)
玉山 鉄二 (山川 浩)
勝地 涼 (山川健次郎)
──────────
綾野 剛 (松平容保)
中村 蒼 (徳富蘇峰)
──────────
反町 隆史 (大山 巌)
風吹 ジュン (山本佐久)
──────────
制作統括:内藤 愼介
プロデューサー:樋口 俊一
演出:一木 正恵


◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八重の桜』
第50回(最終回)「いつの日も花は咲く」

デジタル総合:午後8時〜
BSプレミアム:午後6時〜

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