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2013年12月15日 (日)

大河ドラマ八重の桜・(50)いつの日も花は咲く [終] 〜絶対にあきらめない! 今、福島・東北に誓う〜

今日は『八重の桜』最終回!
なので、『その時歴史が動いた』風にお届けします(^ ^)


人間のドラマ。
それを人は歴史と呼びます。

決断の時、
決行の時、

人は何を考え、
どのようにして動いたか。

その歴史の決定的瞬間を取り上げます。


そしてみなさん、いよいよ「その時」がやってまいります。


明治27(1894)年11月・広島陸軍予備病院──。

腹部に銃弾を受け、銃創ができている負傷兵。
“あぁっ……うー”などとうめいている彼に
新島八重は言葉をかけて励まし
中に運んで医師に処置してもらいます。

広島の陸軍予備病院に赴任した八重は
看護婦たちの陣頭指揮をとっていました。

日清戦争の開戦から3ヶ月。
第二軍司令部の大山 巌は遼東半島の金州城を落とし
兵を旅順へと進めます。


「八重さま……ちょっと来てください。私の手には負えへん」
泣き顔の看護婦に連れられて、八重がついていってみると
負傷したから運び込まれた中国人が暴れています。

相手は中国語しか話さないので、
看護婦たちは彼が何を喋っているのか分からないわけですが、
八重はそれでも、相手の目をしっかりと見て
「私はあなたを助ける」と心で伝えようとします。

ジュネーブ条約で、怪我をした人なら
日本人でも中国人でも助けると約束している、と言うと
先ほどまでさんざん暴れていた中国人は
こくりと頷き、おとなしくなります。

新たに負傷兵を運び込んできた日本人衛生兵は
戦地で女性がしゃしゃり出てくることに嫌悪感を抱き
介抱されている中国人を一瞥して
なぜ助ける必要がある? と言わんばかりですが、

「敵なればとて、傷を受くる者 仁愛をもって助けよ」
と、八重は司令官閣下・大山が出した訓示を高らかに宣言し
さんざんに言っていた衛生兵の口を封じてしまいます。

看護婦たちは、八重が衛生兵にビシッと言ってくれたことで
胸がスッとしていますが、
看護婦に対する偏見が未だ根強いことを思い知らされて
悔しい思いもしています。

初めてのことには、いつでも反対する人がいる、と
八重は看護婦たちを励まします。
「まず、やってみせんべ」


11月21日、旅順総攻撃の火蓋が切られました。
この日、日本軍の猛攻撃の前に清国軍は総崩れとなります。
難攻不落をうたわれた旅順要塞は1日で陥落したわけです。

日本から、蘇峰徳富猪一郎とその部下たちがやって来ました。
戦争の取材のためのようです。

八重は、戦争の勇ましさだけではなく
コレラや赤痢で亡くなる人々が大勢いることも
記事にしてほしいと蘇峰に伝えますが、

今は日本軍大勝利の記事を優先すべき時であり
日本の民もそれを望んでいるのだと
蘇峰は聞く耳を持ちません。

戦となった途端の蘇峰の変貌ぶりにとまどう八重です。

明治28(1895)年2月、日本軍は勝利を確実なものにすると
3月、日本側全権・伊藤博文らと清国側全権・李 鴻章の間に
講和条約調印に向けての会議が始まります。

陸軍予備病院の役割も終わりました。

負傷兵たちはみな退去し、病院内はガランとしています。
その中で、八重は看護婦たちの苦労をいたわり
亡くなった兵隊や職務に殉じた看護婦たちに
祈りを捧げることを提案します。

日清戦争では、赤十字社の看護婦668名が各地に派遣され
初めての戦時救護活動に力を尽くしました。


八重が山本家に無事戻ってきました。

「敵を憎まず、苦しむ人、悲しむ人に寄り添う……」
亡き夫・新島 襄が目指した世界を、
私は少しでも継げているのかと
襄の写真に向かって語りかけます。

──誰かが種をまかなければ、一粒の麦を地に落とさなければ!

そんな襄の言葉を思い出して、フッと微笑む八重。
種はまだまいたばかりだ、と部屋の窓を開け放ちます。
「立ち止まってる暇はねえ」


日清講和条約で、日本は遼東半島を獲得。
しかしロシア・ドイツ・フランスの3国が
武力を背景に日本に返還を強要。
伊藤内閣はついに要求に屈します。

列強に屈した日本外交の弱腰が許せない、と
蘇峰は言葉を荒げる一方で、
弟の徳冨蘆花にとってはどこ吹く風、ですが(笑)。
「所詮兄貴は、大勢に流されて酔いしれてるだけたい」

ともかく、この時の屈辱と怒りは
日本を次の戦争へと駆り立てていくことになります。


明治29(1896)年5月20日。
八重の母・山本佐久は、静かにこの世を去りました。
享年85。

そして佐久の死の前後にも
新島登美も山本久栄も病で亡くなります。

それからしばらく経って、
賞勲局の役人が八重を訪ねてやってきます。
「新島八重を勲七等に叙し、宝冠章を授ける」

叙勲は、広島の病院で
看護婦たちを指揮した働きが認められたのです。
皇族以外の女性に初めて勲章が授けられました。

その知らせは東京にも流れ、
山川二葉や藤田(高木)時尾を通じて
警視庁の道場で剣術を教えている
藤田五郎(新選組の斎藤 一)の耳にも入ります。

「民間人で初めて勲章を授かるのが……会津のおなごだ」
二葉はどこか誇らしく、しかしホッとするように
喜びをかみしめています。


会津の名誉回復に尽力した山川 浩は、
会津藩主・松平容保が孝明天皇より賜った
御宸翰のことを弟の健次郎に託して
明治31(1898)年2月4日、世を去りました。

若い家老として会津藩の命運を背負い、
藩士たちを支え続けた生涯でした。

そして江戸幕府“最後の将軍”徳川慶喜にも
復権のときがようやく訪れました。
明治天皇に拝謁することが出来たわけです。


孝明帝御宸翰が会津松平家にあり、
そのことを書き記した書物を刊行しようとする
健次郎の動きは、大山や伊藤の耳にも入ります。
「世に出ては厄介じゃな」

義弟にあたる大山は、自邸に健次郎を呼びつけ
本の刊行を見合わせるように圧力をかけます。

しかし、慶喜が名誉回復をしたこともあって
容保も名誉回復されなければならない、と健次郎は強く主張。
今はならん、という大山に
薩長藩閥政府の大義が失われるからか? と迫ります。

「私は、亡き大勢の人々の無念を背負っています」
今は待ってほしい、と食い下がる大山に
永久に封印はできない、と健次郎は突っぱねます。

結局、山川 浩・健次郎兄弟が書き継いだ
『京都守護職始末』が刊行されて会津復権への道が開かれるには、
なお10年の歳月を要することになります。


会津を旅する八重は、
幼いころ、あるいは転機となった時に登った桜の木を見かけ、
よし、まだいけんべ、とハシゴで登ろうとします。

背後から声がしたので八重が振り返ると、
会津藩家老だった西郷頼母ではありませんか。
「まーだ木に登る気か!(笑)」

八重は、日本が今度はロシアと戦争をしようとしていることに
国が国に向かって剣を上げないという時は来ないのかと
会津で考えたくなって戻ってきたようです。

頼母は、戊辰の戦以来
会津の人たちがどんなに苦しいときでも
懸命に生きようとする人の姿、笑おうとする人の健気さが
胸に焼き付いて、心を揺さぶるようで、

そういう意味では、会津戦争から立ち上がって
八重が勲章をいただいたということは大きな意味があります。

「八重……にしゃ桜だ」
花は散らす風を恨まず、ただ一生懸命に咲いている。
花は散っても、時が来るとまた花を咲かせる。

何度でも何度でも、花咲かせろ──。


「私は……諦めねえ」


作:山本 むつみ


テーマ音楽:坂本 龍一
音楽:中島 ノブユキ


テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
テーマ音楽指揮:尾高 忠明
題字:赤松 陽構造
タイトルバック:菱川 勢一
       :小野山 和代


語り:草笛 光子

──────────

綾瀬 はるか (新島八重)


オダギリ ジョー (新島 襄)


風吹 ジュン (山本佐久)


玉山 鉄二 (山川 浩)


市川 実日子 (山川二葉)


勝地 涼 (山川健次郎)


中村 蒼 (徳富蘇峰)
水原希子 (大山捨松)


加藤 虎ノ介 (伊藤博文)
太賀 (徳富蘆花)


香野 百合子 (新島登美)
荒井 萌 (湯浅初子)

──────────

貫地谷 しほり (藤田時尾)


降谷 建志 (藤田五郎)


小泉 孝太郎 (徳川慶喜)


長谷川 博己 (川崎尚之助(回想))
宮崎 美子 (西郷千恵(回想))


尾花 貴絵 (三崎絹子)
近野 成美 (寺田ヒロ子)
前野 朋哉 (山路愛山)
談莫 東 (蔡 敏明)
足立 智充 (圓能斎)
鈴木 梨央 (山本八重(回想))
田中 明 (西郷細布(回想))
豊田 留妃 (西郷瀑布(回想))
山岡 愛姫 (高木時尾(回想))


塩見 大貴
渡辺 早織
遠谷 比芽子
堀田 勝
出口 哲也
ミョンジュ
峯村 淳二
高橋 智也
染川 重樹
佐藤 正浩
長棟 嘉道
大竹 浩一
小野 孝弘


宝映テレビプロダクション
麗タレントプロモーション
フジアクターズ・シネマ
テアトルアカデミー
キャンパスシネマ
若駒スタント部
劇団ひまわり
エンゼルプロ
クロキプロ
劇団東俳


テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
テーマ音楽指揮:尾高 忠明
題字:赤松 陽構造
タイトルバック:菱川 勢一


時代考証:本井 康博
    :山村 竜也
建築考証:平井 聖
衣装考証:小泉 清子
衣装デザイン監修:伊藤 佐智子
特殊メイク:江川 悦子
 ─────
資料提供:門松 秀樹
    :野口 信一
    :高橋 一美
    :鈴木 崇資


撮影協力:福島県
    :京都府
    :栃木県那須塩原市
    :福島県川俣町


殺陣指導:林 邦史朗
所作指導:橘 芳慧
砲術指導:佐山 二郎
医事指導:酒井 シヅ
馬術指導:田中 光法
書道指導:望月 暁云
裁縫指導:上野 洋
茶道指導:小澤 宗誠


VFXプロデューサー:結城 崇史
会津ことば指導:新國 弘子
京ことば指導:井上 裕季子
薩摩ことば指導:中村 章吾
長州ことば指導:一岡 裕人
土佐ことば指導:岡林 桂子
熊本ことば指導:前田 こうしん
中国語指導:周 来友

──────────

反町 隆史 (大山 巌)


生瀬 勝久 (勝 海舟)


加藤 雅也 (板垣退助)


村上 弘明 (松平春嶽)


西田 敏行 (西郷頼母)

──────────

制作統括:内藤 愼介

プロデューサー:樋口 俊一
美術:山田 崇臣
技術:宮内 清吾
音響効果:三谷 直樹

撮影:大和谷 豪
照明:高橋 貴生
音声:中本 一男
映像技術:木川 豊
VFX:松永 孝治
記録:塩井 ヨシ子
編集:掛須 秀一
美術進行:山本 志恵

演出:加藤 拓


明治44(1911)年に出版された『京都守護職始末』。
旧会津藩・山川 浩、山川健次郎兄弟が
会津の汚名をすすぐべく書き残しました。

朝敵と見なされていた会津藩が
孝明天皇からひそかに信頼の証として
御宸翰を賜ったことが記されています。
この事実は世間を驚かせました。

新島 襄の死後、八重は
看護や慈善活動に身を投じていきます。
その傍ら、打ち込んだのが茶道です。
師範にまで上り詰め、女性茶人の先駆けとなりました。

昭和7(1932)年6月、茶会から帰宅した八重は突然倒れ
86年の生涯を閉じます。
葬儀は同志社の栄光館で執り行われました。
参列者およそ2,000人の盛大なものだったと言います。

昭和3(1928)年、松平容保の孫・勢津子と
秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王との婚礼が決まり
会津の人々は歓喜したと言います。
名誉回復を喜び行われた提灯行列は
会津祭りとして、今も引き継がれています。

戊辰戦争の敗北から立ち上がった会津魂。
八重をはじめ会津の人々の決して諦めない生き方は
永遠に語り継がれていくのです。


──完──


◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『八重の桜』

総集編第1章「ならぬことはならぬ」 1月2日(木)午後4:00〜
総集編第2章「鶴ヶ城決戦」     1月2日(木)午後4:55〜
総集編第3章「敗戦、そして新天地へ」1月3日(金)午後4:00〜
総集編第4章「いつの日も花は咲く」 1月3日(金)午後5:00〜

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