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2014年12月16日 (火)

プレイバック黄金の日日・(50)関ヶ原

慶長5(1600)年7月、
徳川家康が伏見から江戸へ動き始めます。

表向きの名目は東北の上杉討伐でしたが、
その真の狙いは反徳川勢力の頭目である石田三成に
挙兵の機会を与えることでした。

三成が招集する豊臣勢力と決戦を交わし
豊臣政権を武力で転覆しようとする
家康の最初の誘導戦略であります。

このチャンスを逃すことなく、三成は立ち上がります。

「合戦が起こる。天下を分ける戦が起こる」
水で満たされた堀を眺めながら、
納屋助左衛門は厳しい表情です。

佐和山に引き下がった三成に代わって
奉行所で留守役だった兄の石田正澄が大坂に出陣し
堺奉行所は事実上閉鎖されて
堺は昔のように自由を取り戻します。

とはいえ、堺の会合衆のそれぞれに
ひいきにしている武家大名があり、
その武家が徳川方か豊臣方かによって
味方する勢力が異なってくることになります。

助左衛門は会合衆を前に、
堺はそのどちらにも味方しない
独立した中立の立場を貫くことを提案。

“どちらにも味方しない”ということは、
そのどちらも敵に回す危険性を孕んでいますが、
その時こそ、自分たちだけの力で戦おうと意思表示します。

同調した会合衆たちは、来たるべき時のために
堺に柵を築き始めます。


家康が伏見を去ると同時に、
三成が家康討伐の策を胸中に抱いて
佐和山から密かに大坂入りします。

家康討伐にあたっては、秀頼に出馬をあおぎ
徳川に味方しようとする豊臣恩顧の大名たちの
目を覚まさせたい三成ですが、
それを淀殿は許可しません。

そして、そういった情報は
関東で陣を張っている家康の元に逐一もたらされています。

小山の陣に詰めている諸将に、家康は
大坂に残してきた人質の妻子たちのこともあるし
もし三成に味方しようとする者は
遠慮なく立ち退くようにと言い置きます。

しかし、動く者はひとりもおりません。
細川忠興は、妻のガラシャに
もし敵の手に渡るようなことがあれば
自害をするように言いつけてきた武将もおります。

果たして、細川ガラシャのいる屋敷が
増田長盛の軍勢に囲まれます。

人質となりましょう、というガラシャでしたが、
忠興が自害せよと命じたと家来から聞き
クリスチャンである彼女は自害できないため
侍女に長槍で一思いに討ってもらいます。


美濃国・不破郡関ヶ原。
東西4キロ、南北2キロの狭い盆地に
東西より20万の兵が押し出して
天下分け目の決戦が繰り広げられます。

9月15日、関ヶ原には濃い霧が立ちこめていました。
その霧の中で、石田三成率いる西軍85,000と
徳川家康を総大将とする東軍104,000の兵が対峙。

午前8時、笹尾山にいる三成軍の島 左近の一番銃で
決戦の火蓋が切られます。

午前11時、戦況は西軍有利の状態で展開。
後退を続ける味方の兵の不甲斐なさに業を煮やした家康は
桃配山を下り、自ら最前線に出て指揮を執ります。
三成は、この様子を笹尾山から見下ろして勝利を確信します。

しかし形勢は一瞬にして逆転。
西軍であるはずの小早川秀秋が突如として反転。
松尾山から大谷刑部の陣地目がけて下りてきます。

小早川軍の裏切りで大谷軍は壊滅。
この事態で西軍から寝返りが続出し、東軍は俄然攻勢に転じて
午後2時までの間に西軍はついに全軍総崩れとなります。

三成、小西行長、安国寺恵瓊など
みな散り散りとなって戦場を離脱。

島津義弘率いる薩摩軍は決死の敵陣突破を敢行、
家康本陣をかすめた島津隊はそのまま関ヶ原を南下し
伊勢路に入って堺の港を目指して潰走します。
1,600人ほどの島津勢のうち、
堺の東ノ口の大橋にたどり着いたのは80余名でした。

「門を開けてはなりませぬ」
会合衆が集結する場で、
助左衛門は意を決したように言います。

しかし、島津兵は堺に攻め込んできたわけではなく
堺の街中を通って港から薩摩へ帰る途中の敗走兵です。
会合衆の半分は、門を開け兵を通して
かつ船を貸してもいいと考えています。

理念よりも情を取った心優しき会合衆に
胸討たれた助左衛門は、開門を決意。
開門し、握り飯を振舞い
全員を船に乗せて出航させます。


徳川方・井伊直政軍の追っ手が堺に来ました。
門を開け島津勢を引き渡せとガヤガヤしていますが、
今度は門を開かず、柵の内から鉄砲で撃ちかけます。

しばらくは応戦を続けますが、
やがて諦めたか、井伊軍は撤退していきます。

エイ、エイ、オー!
エイ、エイ、オー!

小太郎の勝どきが、堺の町に響きます。


関ヶ原の野戦で圧勝を収めた家康は
ただちに軍を佐和山に押し進め、
三成の居城を攻め落とし一族をことごとく討ち滅ぼして
大阪城に入ります。

関ヶ原合戦の報告を果たした家康は、
淀殿が、堺が大坂に抗っているという話をすると珍しく同調。
徳川に反抗した町であるので、
直ちに町ぐるみで全滅させると宣言します。

家康の不気味な笑みを見た淀殿は
家康という男の恐ろしさを垣間見ます。


夜、遠くから無数の松明が近づいてくるのが
堺の物見櫓から見えます。
ついに、堺の町が家康軍に包囲されたのです。
「とうとう来たか」

同じとき、逃亡中の石田三成は
伊吹山の山中をさまよい、古橋村におりました。

そしてその東、春日部村の山中には
小西行長が行く手を失っています。
伊勢山中を安国寺恵瓊が逃亡中です。


堺は、最後の時を迎えようとしていました。

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原作:城山 三郎
脚本:市川 森一
音楽:池辺 晋一郎
語り手:梶原 四郎
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[出演]
市川 染五郎 (助左衛門)
栗原 小巻 (美緒)
林 隆三 (今井宗薫)
江藤 潤 (小太郎)
小野寺 昭 (小西行長)
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近藤 正臣 (石田三成)
島田 陽子 (細川たま)
李 礼仙 (お仙)
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児玉 清 (徳川家康)
神山 繁 (安国寺恵瓊)
藤村 志保 (淀君)
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制作:近藤 晋
演出:宮沢 俊樹

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