プレイバック樅ノ木は残った・総集編 後編
伊達仙台藩62万石の当主・亀千代丸に毒が盛られたその夜。
家老の原田甲斐は伊達兵部邸に籠で駆けつけます。
「真夜中に……急用かな」と、兵部は怒るでもなく呆れるでもなく
甲斐が駆けつけることを予想していたかのような周到さです。
ただ、藩邸内で“食あたり”と多少ぼかして言った甲斐に
あくまでも他人事を装いつつも冷静に振る舞っていた兵部は
大罪! 主君殺しの謀略! と腹を立てて“みせ”ます。
甲斐は、亀千代に毒を盛ったのは医師の河野道円だと推測。
しかし道円が亀千代を害した(=殺害した)とて何の利益もないため
道円をそそのかした人物が別にいるのだろう、とも言います。
仮に亀千代が亡くなった場合、一番得をする人間は誰か?
その答えが、道円をそそのかした人物に違いなかろうという推測です。
道円に事情聴取をするのも一つの手ですが、
口封じのためか、すでに道円は切腹して果てています。
酒井雅楽頭と兵部との間に取り交わされた、
伊達62万石の半分を分ち与える、という証文──。
これが誰かの手によって盗み出され、
巡り巡って甲斐の手元に届きます。
署名書判は雅楽頭の直筆だと思われるため、
証拠としてはまず間違いなさそうです。
ただ、包囲網を徐々に狭めつつも
伊達藩の者が独自に兵部討ち取りに動いては
未遂で終わり、処刑されて散っていきます。
目が見えなくなった里見十左衛門は、
何もしなかった甲斐を散々に責めます。
ただ甲斐としては、上司同然の当主の後見職を斬ることは
62万石お取り潰しの口実を幕府に与えるだけであり、
そう易々とできたことではありません。
もし幕府よりも強大な権力者があったならば、
とっくに告発をしていますが、
幕府が最高権力であり、兵部はそれにつながっています。
何もしなかったのではなく、「何もできなかった」のです。
それゆえに、権力に訴える方法ではない別のやり方を
甲斐としてはこれまでずっと探ってきたわけです。
伊達安芸は、伊達式部との領地争いを国目付を訴えるそうです。
安芸と式部の領地争いで、
式部に有利な形で裁決したのが兵部であります。
さすがの安芸も、今度ばかりは抑えられなかったようです。
寛文11年2月、安芸は江戸に向かいます。
ついにサイは投げられました──。
甲斐は、安芸の行動力に感心しますが
その投げられたサイの目がどう出るか。
雅楽頭の答えは、すでに決まっているような気がしています。
甲斐は偽名を使い、老中・久世大和守の元を訪れ、
雅楽頭と兵部との間に取り交わされた証文を提示します。
甲斐としては、久世に斬られ証文を焼かれる覚悟はできていますが、
そうしたところで、この証文を見たのは甲斐一人ではありませんし
証文という性質上、雅楽頭と兵部のそれぞれに一通ずつ存在するもので、
仮にないものと図っても、もう一通をどう処分するかです。
甲斐の要求は、安芸の訴えを差し戻すことです。
久世は一応はその要求を呑み、力を尽くすよう約束しますが
老中と言っても久世一人ではないため、約束は不確かです。
27日、安芸と柴田朝意、古内義如が
老中板倉重矩邸に出頭を命じられます。
評定は開かれるのです。
久世は評定前に雅楽頭に会い、幕府の方針を改めて確認します。
伊達62万石の取り潰しは決まってはいますが、
久世は、その時期は今ではないと遠回しに伝えます。
つまり、雅楽頭が兵部に書き与えた証文を
甲斐らが窮地に陥った時に出してくる可能性は高く、
そうなれば、伊達の面々が私心で領地争いをしたというよりも
雅楽頭の画策により行われたことが露呈してしまうからです。
雅楽頭は、評定の席を板倉邸から自邸に移した上で
今回の評定に参加する5名を殺害に及ぼうとします。
簡単に言えば証拠を抹殺すればいいわけで、
そして世間には、甲斐が乱心して斬ったことにします。
一人ひとりが単独で呼ばれ、
それぞれ事情聴取を受けていきます。
その間にも暗殺団は準備を着々と進め
甲斐たちが控える間に刺客として突入。
アッという間に切り倒されます。
遠のく意識の中で、甲斐は
自身が乱心に及んだ上での刃傷であることにします。
雅楽頭は、証文が怖かった上で殺害に及んだわけで、
その証文と引き換えに命を失ったというわけです。
いや、この証文のおかげで、伊達62万石は安泰です。
雅楽頭に、勝ちました。
原田の屋敷は閉じられ、甲斐の子どもたちは言うに及ばず
まだ乳飲み子の孫までがそろって切腹。
母と後妻は他家へお預けの身となります。
そして兵部は、この騒動の首謀者として
土佐国に流罪となりました。
「わしは樅の木が好きだ──」
騒動後、樅の木の前に立った宇乃は
その木に甲斐を思い、涙を流します。
好きと言う言葉を伝えたくても、言葉を失っていた彼女は
今、その気持ちを表すべく、木をしっかりと抱きしめます。
──甲斐の墓は、宮城県登米市米谷の東陽寺にある。
延宝5(1677)年、
甲斐の七回忌に 世間の目をはばかりながら
139人の男女がこの寺へ集まった。
甲斐の元の家臣百人足らずに加えて、
中間・小物・町人の男女を含めて139人。
甲斐を慕うその人たちは密かに甲斐の菩提を弔い
そのことを後世に伝えようと連名状を書き残したのである。
その供養連名状は、今も残っている。
東陽寺の天井裏に厳重に隠されていたのが、
大正12(1923)年になって偶然発見されたのである。
原田甲斐の死を心から悼み、
禁を冒して密かな供養に集まった人々の名。
甲斐を供養するこの集まりは、今もなお続いている。
甲斐の墓は、本堂の真裏にある。
だから本尊を拝むふりをして、
実は甲斐の墓を拝むことができる。
長い間、人々は密かに甲斐の追悼をしていたのであろうか。
ともあれ、原田甲斐は寛文11年3月27日、
江戸・大手下馬先 酒井雅楽頭屋敷で死んだ。
享年53歳であった──
【完】
原作:山本 周五郎
脚本:茂木 草介
音楽:依田 光正
語り:和田 篤
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[配役]
平 幹二朗 (原田甲斐)
吉永 小百合 (宇乃)
田中 絹代 (津多)
辰巳 柳太郎 (洞水)
北大路 欣也 (酒井雅楽頭)
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制作:古閑 三千郎
演出:吉田 直哉・沼野 芳脩・大原 誠
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