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2015年1月16日 (金)

プレイバック花神・総集編第五回「維新回天」

慶応3(1867)年4月14日、高杉晋作 死す──。

2日後、馬関から吉田清水への街道筋を
諸方から駆けつけた3,000人もの
会葬者の松明が列を作ります。
参加者のおよそ9割が庶民の身分でした。

そして歴史は晋作の死を越えて
更に激しい沸騰の時期に突き進もうとしていました。

9月19日、長州藩主の毛利敬親は
薩摩藩士・大久保一蔵を引見。
京都を占領し天皇を擁して幕府と戦うという
クーデターの計画を練ります。

ただ、長州藩としては表立って兵を送ることが出来ません。
そこで、毛利家分家の当主が京都に出頭という形にし、
その護衛のために兵をつけて長州から京都に動かせば
容易に入京できるわけです。

敬親は一蔵に、天皇を奪われないように念を押しておきます。


徳川慶喜を討つべしという密勅が下ったのは10月14日。
しかしその数時間前、慶喜は薩摩長州の意表を突いて
この密勅を無効にしています。

つまり、土佐藩の山内容堂の意見を取り入れて
政権を朝廷に返上する『大政奉還』を実行したわけです。

わずか数万石の収入で政権を返上された立場の朝廷としても
政治を動かせるわけがなく、徳川家の力を頼りにするでしょうし
薩摩藩の動きを封じるためには、とにかく大政奉還しかないのです。

この大政奉還により、
計画していた京都クーデターはいったん中止となりました。


そして大政奉還を立案した坂本竜馬は、
京都近江屋で、陸援隊の中岡慎太郎と酒を呑んでいました──。

世界の海援隊でもやろうかのう、と大笑いしていた竜馬は
階下でガタガタと音がするので
「こりゃ、ほたえな!」と注意した直後、
襖を開けて男たちが襲撃してきました。

竜馬は脳天を斬られ、中岡は足を斬られ、
それでも悶絶しながらも応戦。
しかし傷がかなり深く、そのまま落命してしまいます。
大政奉還から1ヶ月後の11月15日のことでした。


慶応4(1868)年正月3日 午後5時、
京へ押し登ろうとする幕府軍と
それを阻む薩長軍が上鳥羽村で激突。

薩長軍優勢の知らせで朝廷内の空気が一変する中、
岩倉具視は錦の御旗を薩長軍に掲げさせることに成功し、
それを見た幕府軍は、賊軍となるのを恐れて戦意喪失。

逃げ出すか、あるいは寝返って味方に砲撃を加える有り様で
幕府軍は総崩れとなります。
慶喜は大坂城を脱出し、
船に乗ってこっそり江戸へ逃亡します。


2月7日、大村益次郎は長州から京に入ります。

桂 小五郎としては、関東征討軍の
指揮を執ってもらいたかったわけですが、
東海道は薩摩の西郷吉之助が、
東山道は土佐の乾退助が指揮すると決まっていて
薩摩を主で立てるのが長州の方針となっています。

ただ小五郎にとっては、薩摩のやり方が
気に食わない部分もあるようです。

小五郎は、幕府体制を覆すのが目的であって
慶喜個人を罰するのは筋違いだと考えていますが、
金がない長州藩は、ともかく様子を見、
準備万端で江戸へ出立するつもりでした。

それを西郷吉之助は、あくまで慶喜の首を欲して
京にいる少数の兵で慶喜を追うと言って
関東に出兵してしまったのです。

益次郎の見たところ、江戸へ戦いを挑んで
軍事的には勝てる見込みはありません。
江戸には再診の武器を備えた陸軍と日本一の海軍で
場合によってはフランスも応援するかもしれません。

現在の、京・大坂の兵力は全て出払っているのでゼロ。
そこをもし攻め込まれたら、間違いなく全滅です。
いったんは丹波に撤退し、農民たちを集めて鉄砲を持たせ
遊撃部隊を作って再び京を襲撃するしか方法はなさそうです。


江戸開城を目前にした3月、北越戦争最大の抵抗者として
益次郎の前に立ちはだかる越後長岡藩家老の河井継之助が
江戸から長岡へ帰国の途につきます。


薩摩藩出身の総督府参謀・海江田信義がいる中で
のこのこ出てきた益次郎は、参謀たちを集めて
あれこれと指示を出そうとします。

海江田はそんな益次郎を受け入れ難く
邪魔に感じています。
恐らくは性格の不一致だったのでしょう。

指示も出し終わり、益次郎は過去の江戸大火の記録を見ながら
どこで火災が発生し、どのように燃え広がったかを研究します。

慶喜警護のために結成された江戸彰義隊も
新政府軍に江戸を攻められたとき、
どこに火を放って江戸を火の海にするか考えているはずなので、
益次郎としても、それを調べて食い止めなければなりません。


閏4月20日、北越高田に集結した新政府軍は
海道経由で27日に鯨波へ至り、桑名藩と激突。
山道経由では旧幕府軍と交戦を続けながら
28日に小千谷を占領します。

そのすぐ近くにある榎峠から先は長岡藩ですが、
山県狂介らは、その峠に
長岡藩の兵がいないことを不審に思います。

時山直八曰く、
長岡藩は戦う気がないというのは本当ではないか、と。

土佐の岩村精一郎は
一気に長岡藩に攻め込もうと鼻息荒いですが、
山県は、いったん帰っている間に
勝手に攻め込むようなことはするなと忠告します。

しかし。

小千谷の慈眼寺で新政府軍(名代・岩村精一郎)と
長岡藩(名代・河井継之助)との話し合いが持たれまして、

長岡藩は旧幕府軍にも新政府軍にも属さない独立の藩を目指し
旧幕府軍と新政府軍の仲介を務めて会津藩との停戦交渉までも
果たすという方針を岩村に説明するのですが、

岩村にしてみれば、それは単なる時間稼ぎであり
時間を稼げば稼ぐほど相手の戦力が増強されるだけである、と
継之助の主張を理解せずに突っぱねます。

山県は、岩村と継之助が会見したという事実を事後に知り
岩村が対面したことで無茶苦茶になった事態を
軌道修正するために長岡に帰す前に捕らえよと命令しますが、
時は既に遅く。

この瞬間から、長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり
5月3日、新政府軍に対して開戦を決定します。

榎峠奪還を目指す時山の指揮で旧幕府軍に急襲しますが、
朝日山山頂で陣取っていた長岡藩兵らによって反撃され
この戦いで時山は戦死してしまいます。


益次郎や西郷吉之助も加えた軍議の席で
海江田がまたも騒ぎ出しました。

上野彰義隊を少数の兵でつぶそうという益次郎の案に
攻め手は3倍の兵力を持たなければ勝てないという
原理を持ち出して来たわけです。

「あんたは戦を知らんのだ」
益次郎は、多少嫌気が差しながら海江田に言うと
海江田は激昂、近くにいた薩摩藩士たちに抑えられます。

作戦を立てる苦労を、この海江田はまったく分かっていない。
上野を攻めるとも言っていないし、
夜討ちは、相手が逃げる際に放火をするから簡単には出来ない。
「海江田さん、あんた少し静かにしてくださらんか」

海江田の隣で黙って聞いていた西郷は
私利私欲のないこの長州人に任せてみようと思い
海江田を引っ込ませることにします。

このこともあり、海江田の心中は
大村益次郎憎しで固まりつつあります。


5月15日未明、諸藩の兵士が集結。
益次郎は、彰義隊討伐に向かうための地図を各隊に渡し
しかも道案内のために人を一人つける丁寧さで
次々と指示を出していきます。

それでも、海江田の肩を持って
やっぱり夜襲にしておけばよかった、などと
一斉に批判する薩摩藩兵たちですが、
指揮する益次郎は御用部屋に籠りっぱなしです。

彰義隊を追い込んでしまっては放火されるかもしれない、と
逃げ道を準備し、さらにはもしもの放火対策として
各所に兵を配置するという用意周到さ。
「計算し尽くしている。あとは待つだけです。そう、待つだけです」

正門にあたる黒門口や側門にあたる団子坂で両軍は衝突します。
長く続く雨の中で戦闘が行われ、
午前中は彰義隊有利で戦況が推移します。

佐賀藩伝令に、加賀藩邸にある佐賀藩所有のアームストロング砲を
5発発車して良い、という命令を出します。
午後1時、益次郎による最初の指令です。

上野山の方角に向けて
アームストロング砲が撃ち込まれ、戦況は一変。
彰義隊はほぼ全滅、山に火をかけ敗走を始めます。
心意気を表すだけの集団に終わってしまいました。


北越戦争は、もっと困難なものでありました。

新政府軍の前に、兵力の足りない長岡藩兵は押され
5月19日に長岡城を奪われてしまいます。
しかし7月24日深夜、継之助率いる長岡藩兵は
八丁沖の沼を渡るという意表を突いて長岡城を奪い返します。

寝ていた山県は、突然現れた長岡藩兵に慌てふためき
よろめきながら逃亡していきます。

勢いに乗って攻撃する継之助ですが、
その作戦の途中、左膝に被弾し重傷を負ってしまいます。
これによって長岡藩兵の士気は大いに低下し
奪い返した長岡城は、新政府軍によってまたも陥落。

北越戦争は、最終的に新政府軍の勝利に終わり
継之助ら長岡藩兵は会津へ向かって逃げ始めます。

「松蔵……長々有り難かったでや」
福島只見に着いた継之助は、8月15日夜
下男の松蔵にいたわりの言葉をかけます。

そして、自ら入る棺桶を松蔵に作らせ
火葬するための薪を積み、火を焚かせます。

翌16日、河井継之助死す。


継之助が夢見た独立国家は露と消えましたが、
この時期、北海道は箱館に独立共和国が
誕生していました。

旧幕臣・榎本武揚、大鳥圭介、土方歳三らは
箱館五稜郭に立てこもって新政府軍に対抗。

明治2(1869)年5月11日、
新政府軍の箱館総攻撃が開始され
土方はわずかな兵を率いて出陣します。

単騎、参謀府に向けて突入した土方は
無数の鉄砲玉を受け、落命します。
35歳でした。

その6日後、五稜郭は降伏し開城します。


益次郎の大坂ゆきを、小五郎は真っ向から反対します。
しかし、益次郎に言わせれば
「それは、私でなければダメでしょう」

大坂に作らなければならない軍事施設は
陸海軍の練兵場、鎮台、兵学校、兵器工場、火薬庫……。
それぞれの予定地の実地見分をする必要があります。

ただ、東京ではなく大坂に軍事施設を作らなければならないのも
一同にしてみればあまり納得できる話でもありません。
陸奥で反乱が起きても、東京は近いが大坂は遠いわけです。

益次郎は、陸奥・蝦夷は
今後10年は反乱は起こさないでしょう、と予想。
その代わり、危ないのは──薩摩。

足利尊氏は、建武の中興の功労者でありますが、
離反して九州まで落ち、次々に味方を増やして再び上洛。
ついには室町幕府を開くに至りました。
「人望があったんでしょうなぁ……西郷のように」

一同、アッと息を呑みます。

ただ、小五郎はそんなことを言っているわけではありません。
命の危険があるから中止をと進言しているのです。
海江田が、益次郎の命を狙っているようなのです。

しかし、益次郎は
やはり私が行きましょう、と笑います。


7月、神代直人ら3人の男たちが長州藩を脱藩して
京の町に現れ、海江田の元に集まります。

海江田も、そして神代直人も
益次郎に対しての印象は決していいものではなく、
……なんて軽く言えるほどのものではなくて。

神代は、軍政改革をして武士をなくしてしまおうという
益次郎の考えに恨みを抱き、
海江田は、これまでの自分への仕打ちに対しての恨みがあり、
まぁ、完全に恨みの対象になってしまっているのです。

「大村益次郎を斬っちゃる」
神代の一言で決まりました。


7月27日、益次郎一行が東京を出発します。
小五郎の手配で、一行が東海道を進むと触れを出しておいて
実際はその裏をかいて中山道経由で大坂に向かうのです。
おかげで、東海道には刺客がたくさん、という噂も……。

8月13日、京に到着した益次郎は精力的に行動します。

明治陸軍の原型となる調練方法を伏見練兵場で決め
宇治朝日山のふもとに火薬庫の建設地を定めます。
さらに、大坂に於ける陸軍施設、
天保山に於ける海軍基地も検分。

益次郎の京の定宿は、三条木屋町にあります。
十数日の調査を終えて、9月3日に京に戻ってきました。

宿では、長州藩の静間彦太郎と
江戸麹町に開いた私塾「鳩居堂」時代の教え子である
安達幸之助が、益次郎を待っていました。


そして運命の、9月4日──。

益次郎の定宿が刺客たちに取り囲まれます。

彼がいるであろう、離れの明かりを確認した上で
玄関から宿の主に、益次郎との面会を求めます。

しかし益次郎は、夜分だから会わないと突っぱねます。
もし公用なら明日役所で、私用なら明後日に宿で、と
危険に晒されているにもかかわらず
自身のスケジュールを教えるという……。

刺客たちは土足で上がり込み、一直線に離れへ突入。

大好きな湯豆腐をホクホク食べていた益次郎たちは
急な襲撃で身を翻すしか方法がなく、
益次郎は額と腕、大腿部に重傷を負います。

とっさに押し入れの中に身を潜めて、襲撃をやり過ごします。

静けさが続くと、押し入れからそっと出てきます。
大腿部の傷がかなり深手で、
動く度に激痛が走って思わず声を上げます。
「手術でだいぶ人を切ったが、痛いものだな」


益次郎受難の知らせは、アッという間に小五郎の元に届きます。

重傷を負った益次郎は、いったん長州藩邸に運び込んで
治療を受けているのだそうです。
「くそっ……あれほど京都は危ない危ないと注意していたのに!
 あの人は危険ということに対して神経が1本欠けている!」

そして、手を直接下したのは
乗り遅れの攘夷浪人だというのはおおよそ見当がつきますが、
その者たちに指図し煽ったのは誰だか容易に想像できます。

弾正台長官たる者が
私怨で、新政府にとって一番大事な人を暗殺しようとした。
益次郎を除いて、誰が西洋式軍隊と軍制を作れるというんだ!
それが一番肝心なことだというのに、それも分からないのか!


そして、鋳銭司村のお琴の元にも
横浜のイネの元にも知らせが入ります。

お琴は、誰が行くもンか! と叫んで泣き崩れ、
イネは、横浜から京までおよそ120里の距離を
駕篭を乗り継いで、わずか8日で京に到着します。

入院している病院に到着したイネに、益次郎は
「何をしとるんですここで。あなたは産科じゃありませんか」
とつれない態度ですが、内心はとても嬉しいのです。


10月2日、益次郎は
担架に乗せられて高瀬舟で京から大坂に向かいます。
その担架をかついだ若者の中に、
のちに陸軍大将を務めた児玉源太郎や寺内正毅がいました。

10月27日午前8時、右大腿部の切断手術。

手術の経過は、しばらく良好でした。
イネが握ったおにぎりをほおばり、
イネにひげを剃ってもらい、
イネに医学書の翻訳を施す……。

しかし、結局手術は手遅れでした。
11月4日午後4時、危篤状態に入り

翌5日──。

イネ、イネの娘・お高、
手術の執刀医でオランダの軍医ボードウィン、
緒方洪庵の次男で浪華仮病院長の緒方惟準らに見守られて
46年の波乱の生涯を閉じました。

危篤の知らせを受け鋳銭司村からお琴が駆けつけましたが、
大坂に到着したのは亡くなった翌朝で
夫の死に目には間に合いませんでした。

益次郎の葬儀は
故郷・鋳銭司村で執り行われることになり、
棺は海路、長州へ。


──吉田松陰、高杉晋作、村田蔵六と連なる系譜がある。
革命の思想家、行動家、それを仕上げる技術者の系譜である。

村田蔵六は、歴史が彼を必要とした時、忽然として現われ、
その使命が終ると、大急ぎで去った。

もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は、
技術を持ってそれを普及し、津々浦々の枯木に
その花を咲かせてまわる事であった。

中国では花咲爺いの事を花神という。
彼は、花神の仕事を背負ったのかもしれない──。


──完──


原作:司馬 遼太郎
脚本:大野 靖子
音楽:林  光
語り:小高 昌夫 アナウンサー
──────────
[出演]
中村 梅之助 (村田蔵六(大村益次郎))
米倉 斉加年 (桂 小五郎(木戸孝允))
西田 敏行 (山県狂介)
田中 健 (天堂晋助)
大竹 しのぶ (お里)
金田 龍之介 (毛利敬親)
──────────
中村 雅俊 (高杉晋作)
秋吉 久美子 (おうの)
志垣 太郎 (久坂義助(玄瑞))
中丸 忠雄 (海江田信義)
波乃 久里子 (木戸松子)
花柳 喜章 (西郷吉之助)
篠田 三郎 (吉田寅次郎)
──────────
浅丘 ルリ子 (イネ)
加賀 まりこ (お琴)
高橋 英樹 (河井継之助)
──────────
制作:成島 庸夫
演出:斎藤 暁・村上 佑二・江口 浩之・
   門脇 正美・三井 章

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