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2015年1月 2日 (金)

プレイバック花神・総集編第一回「革命幻想」

今年の大河ドラマ『花燃ゆ』は
幕末〜明治時代の長州 萩が舞台です。

というわけで、その関連放送視聴録と致しまして
プレイバックシリーズでは、同じ幕末時代を
薩摩側から描いた『翔ぶが如く』(平成2年放送・全48回)を、
幕府側から描いた『徳川慶喜』(平成10年放送・全49回)、

それと『花燃ゆ』に関連性があると思われる
長州の姿を描いた『花神』(昭和52年放送・全5回)の総集編と
幕府側を描いた『勝 海舟』(昭和49年放送・全2回)の総集編を
つづっていきます。


まずは、幕末の長州を描いた『花神』からスタート。

っとその前に!
今年の『花燃ゆ』の主要キャラクターの演者さんと
同登場人物での『花神』の演者さんの比較をしてみましょう。
(前半は『花神』演者/後半は『花燃ゆ』演者。ともに敬称略)

(杉 文) 斉藤 友子/井上 真央
(吉田寅次郎) 篠田 三郎/伊勢谷 友介
(高杉晋作) 中村 雅俊/高良 健吾
(久坂玄瑞) 志垣 太郎/東出 昌大
(杉 百合之助) 久米 明/長塚 京三
(杉 滝) 津島 恵子/檀 ふみ
(杉 梅太郎) 小野 泰次郎/原田 泰造
(毛利敬親) 金田 龍之介/北大路 欣也
(周布政之助) 田村 高廣/石丸 幹二
(吉田稔麿) 山口 純平/瀬戸 康史
(伊藤博文) 尾藤 イサオ/劇団ひとり
(入江九一) 今村 民路/要 潤
(宮部鼎蔵) 高橋 悦史/ビビる 大木
(寺島忠三郎) 池田 秀一/鈴木 伸之
(品川弥二郎) 荒川 保男/音尾 琢真
(赤禰武人) 溝口 舜亮/阿部 亮平
(高須久子) 大橋 芳枝/井川 遥
(椋梨藤太) 内田 稔/内藤 剛志
(前原一誠) 江原 正士/佐藤 隆太
(金子重輔) 岡本 信人/泉澤 祐希
(桂 小五郎) 米倉斉加年/東山 紀之
(西郷吉之助) 花柳 喜章/宅間 孝行

『花神』放映は1977年と、もう38年前になりますが
現在もご活躍の方々がたくさんいらっしゃるので
イメージが湧きやすいでしょうか。

それでは、『花神』視聴録をどうぞ↓


一人の男がいる。

歴史が彼を必要とした時、忽然として現われ、その使
命が終ると、大急ぎで去った。

もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目
は、津々浦々の枯木にその花を咲かせてまわる事であ
った。

中国では花咲爺いの事を花神という。彼は、花神の仕
事を背負ったのかもしれない。

彼──村田蔵六、後の大村益次郎である。

──────────

原作:司馬 遼太郎

脚本:大野 靖子

音楽:林  光

テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
指揮:山田 一雄
演奏:花神合奏団
時代考証:相馬 皓
医学考証:酒井 シヅ
殺陣:林 邦史朗
振付:今井 栄子
茶道指導:西原 暉子
風俗考証:磯目 篤郎

語り:小高 昌夫 アナウンサー

──────────

[出演]


中村 梅之助 (村田蔵六)


篠田 三郎 (吉田寅次郎)


米倉 斉加年 (桂 小五郎)


高橋 悦史 (宮部鼎蔵)


南原 宏治 (佐久間象山)


大滝 秀治 (二宮敬作)


大木 実 (伊達宗城)
岡本 信人 (金子重之輔)
久米 明 (杉 百合之助)
小松 方正 (石井宗謙)
草野 大悟 (沼崎吉五郎)
内田 稔 (椋梨藤太)
三ッ木 清隆 (江幡五郎)
草薙 幸二郎 (佐世主殿)
山本 紀彦 (安達幸之助)

──────────

中村 雅俊 (高杉晋作)

金田 龍之介 (毛利敬親)

志垣 太郎 (久坂義助(玄瑞))

尾藤 イサオ (伊藤俊輔)

津島 恵子 (お滝)

愛川 欽也 (嘉蔵)

浜村 純 (藤村孝益)
戸田 千代子 (お梅)
松平 健 (時山直八)
森塚 敏 (東条英庵)
小島 三児 (平太郎)
中井 啓輔 (小寺陶平)
今村 民路 (入江九一)
庄司 永建 (松根図書)
日恵野 晃 (田原七左衛門)
西園寺 宏 (東原良蔵)
小野 泰次郎 (杉 民治)
久松 保夫 (池田播磨守)
津田 恵一 (尾寺新之丞)
真田 五郎 (飯田正伯)
北島 和男 (山田浅右衛門)
南  治 (塾頭)
前沢 廸雄 (新右衛門)
江原 正士 (佐世八十郎)
森 康子 (金子の母)
松島 真一 (町人)
エリック・ガンター (ウィリアムズ)
斉藤 友子 (文)

 ─────

若駒
鳳プロ
早川プロ
プロダクション エムスリー
サン プロモーション
松浦企画
エディアラブ モデルプロダクション
K&M
俳協
現代制作舎
演劇集団銅鑼
劇団いろは
劇団ひまわり
劇団風
劇団文化座
劇団青年座
堅田喜佐久社中
藤間敬之丞社中

──────────

宇野 重吉 (緒方洪庵)


加賀 まりこ (お琴)


浅丘 ルリ子 (イネ)

──────────

制作:成島 庸夫


美術:小林 喬
  :岸川 淳一
  :田嶋 宣助

技術:設楽 国雄
  :高尾 禮充

効果:上田 光夫
  :萩野 勝男
  :岩崎 進

フィルム撮影:沼田 光雄


演出:斎藤 暁
  :村上 佑二
  :江口 浩之


弘化3(1846)年、大坂適塾の教室内。

教室と言っても、屋敷2階の座敷の部屋を
教室代わりに充てているので、
合宿所の宿泊部屋のような感じであります。

新入塾を引き合わせておく、と塾頭が紹介したのは
だるまのような男。
「村田蔵六デアリマス」と独特の言い回しが特徴の
長州藩出身の青年デアリマス。

適塾では、生徒1人に畳1枚が割り当てられ
入塾したばかりのものは
階下への階段のすぐ横の畳からスタート。

5日起きに実施されるテストで
いい点数を取ればいい場所に移れるし、
悪い点数であれば悪い場所に落ちる。
つまり、場所は個人の努力次第、というところなのです。

医師で蘭学者、適塾の主催者である緒方洪庵は
蔵六に『和蘭文法書集成 和蘭文典』(ガランマチカ)を貸し
筆写して自分用の文法書を作るように指示。
その後で、文典後編のセンタキスを学べば、
蘭語のおおよその仕組みが分かる、と教えてくれます。

用意もないでしょう、と
ロウソクを数本置いていってくれた洪庵に
22歳の蔵六は心底惚れ込んで、勉学に励みます。

その成果あって、蔵六はわずか1年で
成績順に8つに分けられたグループの第一級生になりました。
それから長崎に語学留学し、再び適塾に戻ってきた時には
その語学力は洪庵に迫るほどに成長し、塾頭の座に就きます。


嘉永2(1849)年、洪庵の代理として蔵六は
備前岡山の石井宗謙を訪ねるべく旅に出ます。
シーボルトに産科と外科を学んだ宗謙は
優秀な医者なのであります。

沼の茶店で小休憩をとった蔵六は
餅と茶を運んできた女の青い目を見て驚きます。
(異人だ……まさか)

しかし蔵六にとってもっと驚きだったのは
石井邸で宗謙と対面していた時にその女がいたことです。

楠本イネ、シーボルトの娘にして宗謙の妻。
宗謙に産科を学んだイネは、蔵六の宿に通い続け
解剖書の読めない部分の個人レッスンを受けます。

宗謙と不仲のイネは、どうしても岡山を出たくて
大坂適塾に志願してオランダ語を学び直したいと
蔵六に意見を求めますが、
ご無理でありましょうな、とつれない返事です。
「シーボルト先生ご門下の立つ瀬がなくなりましょう」

シーボルトのような、生のオランダ語学に対して
適塾はいわば自己流でありまして、
シーボルトの実娘が、別流の門下生になるというのは
かえって自身の学問を育てにくくなるわけです。

しかも、事情はどうあれ岡山を出たいがために
適塾を志願するとは、動機があまりにも不純です。
蔵六は、イネの考えを突っぱねます。


嘉永3(1850)年、蔵六は
塾頭まで務めた適塾を辞めて長州に帰る決意を固めます。

洪庵は、医学書も田舎ではなかなか手に入らないからと
大坂に残るよう説得を続けますが、
長男である蔵六には、それ以外の選択肢はあり得ないのです。

適塾の塾頭は、各藩の藩医召し抱えの声がかかるほどの
名誉職なのですが、蔵六にはそれも魅力的とも思えません。

ちょうど同時期、蔵六が帰ろうとしている長州では
らんらんと目を輝かせて旅を続ける若者がいました。
19歳の松陰 吉田寅次郎であります。

幼い頃に吉田家を継いだ寅次郎は、藩の英才教育によって
18歳にして山賀流兵学師範となります。


嘉永4(1851)年正月、
周防の鋳銭司村に戻ってきた蔵六は、
琴という妻を娶ります。

琴は、お医者さんの妻になったんだからと
蔵六の手伝いができるように
包帯の巻き方などを自分から学ぼうとします。

そんなけなげな琴に、蔵六も優しいまなざしを向け
優しく教えながらも事に愛おしさを感じます。

が……。

お琴は軽いヒステリー体質を持っていまして
練習では上手に包帯を巻けたはずなのに
「できない! 私にはできない……」と喚きます。

よしよし、俺がやる、と蔵六が優しく代わろうものなら
たちまち「よってたかって私のことをバカにして!」と
手術道具を投げて暴れ出します。

またはじまった──。

蔵六は慌てて家の中を逃げ回ります。


晩春、江戸留学を許された寅次郎は
江戸の佐久間象山の学問所の門を叩きます。

門下生になった寅次郎は、東北奥羽旅行計画に熱中。
熊本藩士・宮部鼎蔵、南部藩きっての秀才・江幡五郎が
寅次郎に同行する予定です。
出発日も、兄の敵討ちを果たすという別名目の江幡のために
赤穂浪士が仇を討った日である12月15日に定めます。

ただ、旅行するには必要な過書手形(=関所手形・通行手形)を
用意し忘れた寅次郎は、藩から手形が発給されるのを待つよりも
出発日を優先させるために脱藩の道を選びます。

140日にわたる東北旅行を終えて江戸に戻った寅次郎は
脱藩の罪を問われて国許の長州・萩 松本村に送り返されます。

長州藩は、江戸時代の後期から改革派と保守派が激しく対立しており
互いに主導権を奪い合っていたわけですが、当時は保守派が台頭していて
寅次郎ら改革派は表舞台から遠ざかっていました。

保守派の代表格・椋梨藤太は、改革派の力を削ぐべく
寅次郎の処遇について、断罪に処したいところですが、
彼自身の才能を惜しがった藩主の毛利敬親が
寅次郎の政治的生命はなくさないように計らったため、
藤太も仕方なく、寅次郎に恩情をかけることにします。

表向きは別家預かりということにして、
実際は実家の杉家で過ごすように計らってくれまして、
杉家の親や兄妹たちは寅次郎を温かく出迎えてくれます。
「ここはあなたのうちですよ」

嘉永6(1853)年正月26日、浪人となった寅次郎は
敬親の内意を受けて、諸国修行の旅に出発します。


日本に、激震が走りました。

アジアに市場を求めるアメリカは、
太平洋航路の中間寄港地点として
日本の開港を切実に要求してきたわけです。

6月9日、アメリカ側代表のペリーは
幕府代表と久里浜で会談。

アメリカ国書を幕府側に渡し、その返答を聞きに
来春、さらに強大な艦隊を編制して日本に来ると威嚇して
12日、ペリーは去っていきます。

アメリカ艦隊を、象山とともに見た寅次郎は
「これが西洋か」と驚愕します。


蔵六と出会ったことで学問への熱意が書き立てられたイネは
医学の基礎を習った二宮敬作に会うため
岡山を出奔して長崎に来ています。

敬作は、シーボルト事件に連座して
故郷の宇和島で逼塞しておりますが、
藩主・伊達宗城から、藩政改革と軍制の近代化のために
蘭学者を紹介してほしいと頼まれ、イネに相談してみます。

イネの頭には、村田蔵六という名前の男がひらめきますが
今は村医者として故郷に帰っているはずです。
医者として呼ぶのではないだけに、
イネも蔵六が引き受けるかどうか不安です。

敬作は、そういうこともふまえて
洪庵から蔵六に依頼しようと考えています。

それで、実際にオファーがあったらしく。
まずは妻に、ということでお琴に相談してみますが、
あぁやだ! といつものヒステリックに。
お武家サンの妻になるのは御免だわ! と聞きません。

「武家の世は、もう終わる」
蔵六がポツリとつぶやきます。

清国とイギリスが戦ったアヘン戦争のようなことが
この日本でも起きる可能性があり、
諸外国と戦う場合、武士だけでは戦えまいと考える蔵六は
士農工商の身分制度もなくなって、一つになると考えています。

さっきまで喚き散らしていたお琴は
カラカラと笑い出します。
そして、宇和島行きを許しますが
自分はこの鋳銭司村にいる、という条件です。


ペリー来航の衝撃は、宇和島へも及んでおりまして
蔵六は、黒船を目の当たりにした宗城から、
あの黒船に勝てる軍艦作りに着手するため
蒸気船と砲台を作るように命じられます。

宇和島藩も大胆であります。
軍艦作りを医者に依頼したかと思えば
裏長屋に住む器用貧乏の嘉蔵という男に
蒸気機関を作らせようと白羽の矢を立てたのです。

嘉蔵は、自分が軍艦を作れるかと不安がりますが
船に乗ったら船酔いし、蒸気船の原理を書物で読んで
理解しただけの蔵六が作るというのだから、
嘉蔵なら蒸気機関作りはできます、と太鼓判を押します。


嘉永7(1854)年正月14日、ペリーは予告通り
7隻の大艦隊を率いて江戸湾に姿を現します。
幕府はその恫喝に屈し、3月3日
下田と函館の開港を約した日米和親条約調印。

停泊中の黒船に乗り込んで、アメリカに渡ろうと
密航の国禁を犯した寅次郎と金子重之輔。

櫂で船を漕いで何とかミシシッピ号に乗り込みますが、
漢字が読める船員がいなかったために、
更に先に停泊中のポーハタン号に向かうことにします。

風が強く何度も押し流されながら、
必死の思いで漕ぎ続け、
ようやくポーハタン号にたどり着きます。

寅次郎は、条約は締結されたので
黒船はすぐにアメリカに帰るものと思って密航を企てましたが、
通詞曰く、少なくとも3ヶ月はここにいるのだそうです。
3ヶ月もここに留まるのなら、寅次郎の夢は……終わりです。

9月18日、
アメリカ密航に失敗した寅次郎らと、それに連座した象山が
5ヶ月間 江戸天満町の牢に入れられ、
象山は信州松代へ、寅次郎と重之輔は長州萩へ護送されます。

しかし、重之輔は労咳に蝕まれていました。
安政2(1855)年1月11日、岩倉獄で病没。
25歳という若さでした。


語学をやり直せ、という敬作の勧めで
イネは宇和島に赴いて蔵六について学問しています。
しかし、あまりに勉強するものだから夜更かしも多々。

「夜更かしはいけん、身体に毒じゃ」という蔵六に
私は子供ではないとイネは反発。
蔵六との生温い関係を断ち切ってしまいたいイネは
「村田さまは大嫌いでございます!」と言ってしまいます。

利害関係でなければ、感情でつながる人間関係に於いて
感情でつながる人間関係ほどもろいものはありません。
ただ、蔵六には複雑に絡み合う糸のような人間関係は
まっぴら御免でありまして、その結果が
生温い関係に落ち着いているとも言えます。


9月、嘉蔵が作った蒸気機関は、
蔵六の作った洋式船に積み込まれて据え付けられました。
宗城も乗り込んでの試乗会です。

動いた! 動いた! と大喜びする殿様と家来衆に
蔵六は眉をピクリとも動かさずに言ってのけます。

進むのは当たり前です。
当たり前のところまで持っていくのが技術です。
技術とは、ある目的を達成するための計算のことで
それを積み重ねていけば、船なら船でこうして進むんです。
進むという結果に驚いてもらっては困る。
進まなかったら、それこそ驚きです。
それが技術です!


安政3(1856)年、蔵六は32歳になっていました。

宇和島に来て足かけ3年になりまして、
軍艦も蒸気機関も作り上げた今、
宗城の江戸参勤交代に合わせて
蔵六は江戸に出て行きたいと考えるようになりました。

江戸で名を挙げたい、という気持ちからではなく
兵法書の翻訳の人手が足りないというので
それに名乗りを上げて自分を試したいわけです。

そして、できれば宇和島へは戻らず
江戸に居着きたいと考えています。

それを知った敬作は、蔵六ほどの人材を
宇和島で埋もれさせるのはいかにも不憫だと
蔵六の江戸行きは引き止めませんが、
その代わりにイネも一緒に連れて行ってほしいと言い出します。

そもそも、蔵六が江戸行きを決意したのは
単なる師弟の関係から男女の関係に発展してしまったがために
蔵六がイネから離れるためでありまして、
江戸にイネがついてくると、話が変わってくるわけです。

江戸に出た蔵六は私塾「鳩居堂」を麹町に開いて
蘭学・兵学・医学を教えます。


時代が大きく変革するとき、その事業は
3種類の人間群によって引き継がれ、完成する。

最初に「思想家」が現れ、非業の死を遂げる。
吉田寅次郎がこれにあたる。
次いで「戦略家」の時代に入る。
これまた天寿を全うしない。
最後の段階に登場するものは「技術者」である。
技術者である蔵六の出番は、まだない。

いま、長州 萩にひとりの乱暴者が現れました。
高杉晋作であります。
先述の時代では第2期「戦略家」に該当します。

野山獄に蟄居する寅次郎の周辺に
彼に教えを請おうと若者たちが集います。
松下村の名を取った“松下村塾”は寅次郎で3代目です。

晋作が松下村塾に通い始めて半年経った、
安政4(1857)年10月。
ハリスは江戸城に入り、通商条約締結を求めます。

安政5(1858)年正月、老中堀田正睦が自ら上京。
条約締結の勅許を得ようとします。

「私はこの条約に反対する」
条約案の写しを入手した松下村塾では
さっそく議論が始まりますが、
寅次郎はハッキリと反対を表明します。

鎖国の維持を言っているわけではなく、
条約を強要されて屈服し、締結するようでは
もはや亡国しかありません。


4月、彦根藩の井伊直弼が大老の座に就きます。
井伊は独断で条約を締結し、
条約反対の立場の大名や家来たちを断罪に陥れ始めます。
安政の大獄の始まりです。

松下村塾の中にも
井伊大老を討つべしという主張が出て来始めますが、

寅次郎は、井伊を討とうと江戸に集結している仲間に
後から加わって長州が2番手に甘んじることよりも
井伊の手先となって動いている老中の間部詮勝を
長州だけで討とうと言い出します。

ただ、そのあまりに恐ろしい考えに恐れをなした藩庁は
寅次郎を再び野山獄に投じます。

そして、寅次郎の更なる計画は
無意味だと主張する久坂や桂 小五郎らによって
結果的に門人たちを引き離し
寅次郎の松下村塾は事実上、崩壊します。


突然、寅次郎は幕府の命により
江戸に送られることになりました。

藩もあまりに突然のことで
なぜ江戸送りとなったかは見当がつかないという有り様で、
藩や松下村塾周辺では大騒ぎとなります。

考えを主張できるいい機会だ、と笑っていた寅次郎は
評定所でその思いを説いていくわけですが、その考えは
寅次郎が企てた大罪を知れば納得してもらえるはずだと
全て白状してしまいます。

大原重徳卿を長州に招かんとしたこと、
老中間部詮勝を待ち伏せする計画を立てたこと──。

待ち伏せしてなじって、それが聞き入れられなかった時は
刃を加えて殺害に及んだだろう? と詰め寄られた寅次郎は
「なじるだけでした」と言ったところで時はすでに遅く。
寅次郎は老中襲撃の罪で捕らえられてしまいます。


幕府の蕃書調所(洋学研究機関)で調べものをしていた蔵六は
赤子殺しの下手人の女の人体解剖の依頼を受けます。
女人の解剖は事例が大変少なく、誰もメスを取りたがらず
みな蔵六を推挙するそうです。

「やってみましょう」
二つ返事で蔵六は引き受けます。


安政6年10月27日、
松陰吉田寅次郎は斬首刑に処されます。
享年30でした。

身はたとひ
 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
  留め置かまし 大和魂

2日後、小塚原へ急ぐ2組の男たちの姿がありました。
寅次郎の遺骸を引き取りに向かう、小五郎や伊藤俊輔ら。

そしてもうひとり、この日処刑される
女囚の解剖に向かう蔵六です。

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