プレイバック翔ぶが如く・第一部幕末編(04)黒船来たる
嘉永4(1851)年2月、島津斉彬は
薩摩藩・大隅藩・日向藩のうち72万8200石を相続し
薩摩守に任ぜられて薩摩藩主となりました。
そのころアメリカ合衆国の領土は、大西洋側からついに太平洋側に達し
ランプの原料となる“鯨油”を求め、捕鯨船団が太平洋に乗り出します。
その船団の補給基地として、また太平洋横断航路の中継地点として
アメリカは日本に目をつけたわけです。
一方、すでに産業革命を経たイギリスは市場の拡大を求め、
また、フランスはイギリスに対抗して中国から日本への進出を企て
東方進出を狙うロシアも、北から日本を目指していました。
太平洋の島国・日本が鎖国の夢を貪っている間にも、
近代的な軍事力を背景とする欧米諸国が
ひたひたと日本に迫りつつありました。
嘉永6(1853)年・江戸──。
江戸幕府第12代将軍・徳川家慶の病がにわかに重く、
この時、嫡男家定は西の丸にあり。
家定は生まれながら病弱で、
補佐するものたちにとっては大きな不安でありました。
老中の阿部正弘も、将軍薨去の折は
第13代将軍の座を継ぐことになるので、その覚悟を求めるのですが
家定は一生懸命に豆を煎っていて、それどころではありません。
「今日は格別に具合もよう豆が煎れた。食べてみよ」
西郷家に帰宅し、汗を拭っていた西郷吉之助。
吉之助さぁ! と大声で呼ぶのは大久保正助であります。
謹慎しているので、日中に出歩く正助も珍しいのですが、
見れば、帯刀しています。
これは……もしかして?
「じゃっどォ! お許しがありもして、謹慎が解けもした!」
生真面目な正助のことです。
お許しを得て、実家よりも先に
吉之助に晴れ姿を見せたかったのでしょう。
そして正助は、吉之助にもうひとつ土産話を持ってきました。
斉彬が江戸から帰国されるというニュースです。
これで正助は、斉彬のために思う存分働くことが出来
かつ父の赦免のための建白書を提出することが出来ます。
ホントは大喜びしたいのですが、今までくさっていた自分を
励まし、時には叱りつけながら何かと援助してくれた吉之助が
涙を浮かべながら喜ぶ様子を見て、
正助は手をついて礼を言います。
斉彬の江戸出立は5月2日。
しかしペリー提督率いるアメリカの東インド艦隊は
その2週間前に琉球に向かっています。
鹿児島からの早馬の知らせで、
それを斉彬が知ったのは5月29日。
備前(岡山)あたりにさしかかった時でした。
危機を察知した斉彬は、
屈強の者に早馬を使って江戸に知らせます。
「あるいは、阿部殿のもとにこの知らせが着くよりも前に
メリケンの船が江戸に押し寄せているやも知れぬ」
斉彬の不安は敵中します。
この知らせが江戸に到着するよりも早く
ペリー艦隊はその姿を浦賀に現したわけです。
ペリーはアメリカ総大将(=大統領?)の国書を携えていました。
7日以内に国書を受け取らなかったら
直ちに戦準備をして武力に訴える、と脅してきました。
ということは、今は浦賀に停泊している艦隊ですが
我々が国書の受け取りを断固として拒否すれば
いずれは江戸湾に姿を現すかもしれないということです。
そして、本当に都合の悪いことに
日本のトップ、征夷大将軍たる将軍は病床にあります。
阿部老中は、攘夷派たる水戸藩の徳川斉昭に指示を仰ぎますが
斉昭でさえ、すぐには決断できません。
まずは時間稼ぎにと、外国との窓口は長崎になっていると
アメリカ艦隊にもその通告をしますが、艦隊はこれを拒絶。
そして艦隊を打ち払おうにも、この時のために備えつけた大砲も
幕府からの資金不足のために弾が16発程度しか準備できず
試し撃ちの許可が今までに下りなかったために
扱える者もおらず、どれだけの威力かも分からず、です。
斉昭は、ひとまず国書を受け取っておき
中身を精査した上で今後のことを考えようと
阿部老中に提案します。
6月8日、ペリー艦隊はついに江戸湾に姿を現し
江戸の町は大混乱に陥ります。
斉彬が募集して応募し、斉彬とともに江戸に向かった
江戸留学生、大山格之助と有村俊斎は
この混乱の中におりました。
そしてこの騒ぎの中、病床にあった将軍家慶が薨去。
将軍の座は、嫡子家定が継ぐことになりました。
一方、ペリーは久里浜に上陸。
来春にまた来航すると言い置いて立ち去っていきます。
公家の近衛忠凞から斉彬に書状が届きます。
軍船建造について、幕府に口添えをと願い出ていた件につき
忠凞が強く伝達してくれたという吉報。
そしてもう一つの件も──。
「いよいよ敬子を江戸に送る時が来たようじゃ」
早速、鶴丸城に呼び出された敬子は
斉彬の養女の契りを交わします。
そしてそのまま江戸に向かうことになりますが、
途中、京都の近衛家に立ち寄ることになっています。
最近、俊の様子がおかしいです。
元気がないというか、フッと倒れてしまうこともあり
一言話すにも、多少息切れしているところもあります。
吉之助が帰宅したというのに、出迎えもしません。
吉二郎は、ひどい夫婦喧嘩でもしたかと睨みますが
吉之助には全く身に覚えがありません。
家族総出で周辺を探して回ることにしました。
家の中を探していた吉之助は、もしやと思って
井戸の中に顔を突っ込んで見てみますが、姿はありません。
すると、垣の近くで俊が座り込んでいるのを発見しました。
「赤子ができもした……申し訳なかこつ」
祖父、父、母が相次いで亡くなった西郷家です。
これで赤子が産まれたら、また物入りだと
それで俊は申し訳ない気持ちでいっぱいのようです。
吉之助は、これで家族が増えると大喜び。
俊にも、気を遣わずに子どもを産めとエールを送ります。
俊は大粒の涙を流して、吉之助の胸に飛び込みます。
10月半ば、敬子一行は京の近衛邸に到着します。
一室に座している敬子を、物定めするかのように
上から下まで舐めるように見回す女性……。
彼女こそ、敬子の生涯に大きく関わることになる
近衛家老女の幾島であります。
幾島は何を語るでもなく、いきなり姫君教育を始めます。
困惑気味の敬子に、更に追い打ちをかけるように
敬子が近衛家の養女となり、名を「篤姫」と変えることを
その幾島に聞かされたわけです。
しかも、江戸には幾島が同行するらしいのです。
ということは、幾島は
敬子を近衛家の娘として教育しようとしているわけで、
待っているのは辛い辛い試練の道であります。
ともかく、生涯に大きく関わった幾島ではありますが
敬子との最初の出会いは、それはそれは最悪なものでありました。
嘉永7(1854)年正月2日、
阿部老中から斉彬に江戸出府を促す書状が届けられ
斉彬はその準備を始めます。
今回の江戸出府に際して
第2弾の江戸留学生を選出するのですが、
ひと働きもふた働きもできる若者を育てたい、と
斉彬は直々にある男の名を加えます。
「江戸行きに……おいの名が!?」
急きょ郡方に呼び出された吉之助は
上司の丸山から、江戸出府のお供衆に
吉之助の名が入っていたという話を聞かされます。
願書を出したわけでもないのに、驚きです。
さらに、殿が直々に書き加えられたという話を漏れ聞いて
吉之助は感激のあまり、口がポカーンと開きっぱなしです。
しかし、その喜びは少しずつ大きくなっていきます。
郡方を出たころは普通に歩いているつもりでしたが、
その喜びが大きくなるに連れてペースか早くなり
いつの間にか駆け出していました。
嘉永6(1853)年7月8日、
マシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に現れ
それを見た日本人は「黒船」と呼ぶ。
慶応3(1867)年10月14日、
徳川慶喜が明治天皇に『大政奉還』を上奏するまで
あと14年3ヶ月──。
(『篤姫』では「(7)父の涙」〜「(13)江戸の母君」付近)
脚本:小山内 美江子
原作:司馬 遼太郎「翔ぶが如く」より
音楽:一柳 慧
題字:司馬 遼太郎
語り:草野 大悟
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[出演]
西田 敏行 (西郷吉之助)
鹿賀 丈史 (大久保正助)
南 果歩 (西郷 俊)
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田中 好子 (喜久)
大路 三千緒 (西郷きみ)
蟹江 敬三 (大山格之助)
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樹木 希林 (幾島)
若林 豪 (阿部正弘)
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富司 純子 (敬子)
金子 信雄 (徳川斉昭)
三木 のり平 (新門辰五郎)
加山 雄三 (島津斉彬)
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制作:吉村 文孝
演出:平山 武之
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