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2015年6月 2日 (火)

プレイバック翔ぶが如く・(16)吉之助帰る

文久元(1861)年12月・奄美大島──。

西郷吉之助(菊池源吾)に対して召喚状が届いたのは
愛加那との新居が完成した翌日のことであります。

島の人たちは、吉之助が薩摩に戻れると知り
お祝いの言葉をかけるのですが、
それを頭を下げて受けつつ、「では」と立ち去ります。

新居から愛加那と菊次郎がいなくなって
あちこち探しまわっている吉之助には、
正直それどころではないのです。

ふたりは、浜辺にいました。

「父さんを乗せた船は、まっすぐこン沖ば出ていくんどー」
父さんに会いたくなったら、ここに来ればいいんじゃな、と
まだ言葉の分からない菊次郎に、語りかけます。


文久2(1862)年1月、大久保一蔵は初めて京都に入ります。
島津久光上洛に関する勅許を得るためであります。

訪問した近衛忠煕は「困る」と一蹴。
各地の大名たちは昔から、幕府によって
京には立ち寄れない決まりになっているので
近衛にとっては、久光の考えていることが分からないわけです。

上洛のことは、亡き島津斉彬との約定があったにせよ
謹慎中の身である近衛には、どうしようもないことです。

一蔵は、そこをゴリ押しで
久光の思いを奏上してほしいと食い下がりますが、
今、朝廷と幕府の関係は
和宮降嫁の件で、ちとギクシャクしております。

幕府も今のところはおとなしくしてくれているのに
そこに久光が新たな火種を持ち込もうとしているように見え
近衛は決していい顔をしません。


一蔵の留守中、薩摩では
またも幕府から参勤交代の出府の催促が届きました。
藩主島津茂久に代わり、
久光が藩主名代として出府しようと言い出すわけです。

久光の狙いは京なのですが、藩主名代で参勤交代となれば
京で引き返すわけにも行かず、江戸まで行くことになります。
それでも、幕閣のバカ面を見てくるのも一興、と
久光はえらくご機嫌です。

時同じくして、脱藩して京に向かおうという者たちの動きが
各地で活発化します。
薩摩からは、西郷信吾や大山弥助、
森山新蔵の息子・森山新五右衛門です。


吉之助召還の船が奄美大島に到着しました。

この日が来ると覚悟していたと愛加那は笑っていますが
いざ家を出ようとすると、
無言で吉之助の着物の裾を握って離そうとしません。

吉之助も同じです。
愛加那と、菊次郎という初めての子どもを奄美に残して
薩摩に帰るのは、後ろ髪引かれる思いです。


京から帰ってきた一蔵は、
有馬新七が突出したという知らせを受けます。

しかも、久光の参勤行列とは別に京に入り
勅状を受け取り次第、堺所司代を襲って
そのまま関東に進む! という
戯けた建白書を出して突出したのだとか。

このままでは、幕府に対して歯向かうために
薩摩から出府するらしいと見られている久光は
ホントは幕政改革を促しに行くつもりなのに
そういった浪士たちの争いに巻き込まれ、

ありもしない疑いで
幕府からお咎めを受ける可能性があるわけで、
そうなっては久光としても薩摩としても利点はありません。
一蔵は、そうならぬよう各方面に調整をかけるしかありません。


吉之助が薩摩の土を踏んだのは、3年ぶりです。

吉之助は、実家に帰る前に
斉彬の墓前に参り、手を合わせます。

そして西郷家に戻った吉之助は
信吾の幼なじみ・岩山いとと対面します。
いとは西郷家できみ祖母さんの手足となって
甲斐甲斐しくお世話しているのです。


吉之助は翌日、久光とも対面します。

吉之助と久光の不幸な関係は、
この時の出会いから始まりました。

久光は斉彬同様、吉之助に御庭役を命じたわけですが
吉之助の目には、久光の行動は
どうしても亡き斉彬と比べて拙いように映るのです。

越前の松平春嶽を大老に、一橋慶喜を将軍後見職にという
久光の考えは、必ずしも不可能というわけではありませんが、
こういった勅状を得るには、予め幕閣に対して根回しが必要です。
根回しがなければ、あれやこれやと理由を付けて、
幕府は拒絶するに相違なく。

もし幕府が拒絶した時は、家老たちが京に留まって
自分たちの主張を認めてもらえるように
テコでも動かない覚悟なのですが、
京に留まる日数はどれぐらいで計算しているのか?

京の薩摩藩邸には、大軍を留めおくスペースがほとんどない
狭い場所でもあるので、それを考えているのか?
そして、大軍を留めおくには、それだけの兵糧が必要になります。

仮に兵糧や陣屋の当てがついたとしても、大軍を京に留めおくなら
京の物価は高騰し、民衆たちの反感を買うことになりますし、
幕府もそのまま放置しないはずで、イギリスやフランスに応援を頼み
薩摩が滞在する京を攻撃するのは目に見えています。

こういったことも想像できない薩摩は愚かものであり、
こういう状況で上洛しようとするのは所詮は無理な話なので、
上洛は延期すべき……と吉之助は歯に衣着せぬ発言です。

次第にイライラが出始めた久光は、
吉之助の発言についに怒りが頂点に達します。

帯刀は、今まで気づかなかったことを
気づかせてくれた吉之助に感謝しますが、
他の家老たちは、斉彬のお気に入りであったからと言って
久光に対して無礼な物言いを責め立てます。

しかし、吉之助が言いたい本質は──。

久光は、薩摩にとっては藩主の実父ではあるものの
一歩薩摩の外に出れば、官位もない久光は単なる久光に過ぎず
各方面からの人望が厚く、第一等の人物として慕われた斉彬と
同じことを成そうとしてもわけが違う! というわけです。

「そいが分からんようでは、所詮“地五郎”に過ぎもはん!」
(地五郎……田舎者)
という吉之助の発言は、
更に久光の怒りの火に油を注ぐ結果となります。

とはいえ、計画の不備を認めた久光は
上洛の日取りを少しだけ延期して食料調達に乗り出し、
吉之助には、不逞浪士たちの暴発を押さえるために
行列よりも先に北上させ、九州各藩の情勢を探索させます。


下関の白石正一郎邸で、食料調達に奔走していた森山新蔵と
月照を薩摩に送り届けるために一命を投げ打って事に当たった
福岡藩士・平野国臣と再会します。

新蔵に大坂の情勢を聞けば、各地から浪士たちが集まり
決起を起こすと意気盛んだったとか。
下関で待つようにとの久光の命令でしたが、
臨機応変たるべし、と吉之助は村田新八と大坂へ向かいます。

薩摩から下関に到着した久光は
吉之助の置き手紙を読んで、
自分の指図に従わない吉之助を批判します。


京の鍵屋に集まった浪士たちに、吉之助は
大坂の薩摩藩邸に向かうように説得します。

吉之助の名を言ってくれれば、確保している
薩摩藩の二十八番長屋に入れるという算段です。
それよりも、京都所司代による浪士狩りにでも遭ったら
計画そのものが倒れてしまうことになりかねません。

彼らの暴発を畏れた吉之助は、
住む場所を与え、食べ物を与え
暴発しないように心配りを怠りません。

ただ、吉之助にとって不幸だったのは
先乗り偵察を命じられたのが
情勢判断に甘さのある有村俊斎であったことです。
俊斎は大坂の薩摩藩邸に赴いて、彼の目に映ったままを
明石の薩摩藩陣屋に到着した久光に報告したわけです。

暴発しないように薩摩藩邸に集めたものを
俊斎が見れば「薩摩藩邸を不法に占拠している」、
西郷を先頭に、久光の到着を待って大坂城をも攻め落とす 等々、
わざとらしく有馬新七が言ったこともそっくりそのまま。

危惧する通りになった、と久光は
吉之助の捕縛を命じます。


文久2(1862)年3月16日、
島津久光が公武合体運動を推進するため兵を率いて上京する。

慶応3(1867)年10月14日、
徳川慶喜が明治天皇に『大政奉還』を上奏するまで


あと5年5ヶ月──。

(『篤姫』では「(34)公家と武家」〜「(36)薩摩か徳川か」付近)


脚本:小山内 美江子
原作:司馬 遼太郎「翔ぶが如く」「きつね馬」より
音楽:一柳 慧
題字:司馬 遼太郎
語り:草野 大悟
──────────
[出演]
西田 敏行 (西郷吉之助)
鹿賀 丈史 (大久保一蔵)

田中 裕子 (岩山いと)
石田 えり (愛加那)
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緒形 直人 (西郷信吾)
益岡 徹 (村田新八)
内藤 剛志 (有馬新七)
萬田 久子 (お房)
──────────
東野 英心 (森山新蔵)
大橋 吾郎 (小松帯刀)
大路 三千緒 (西郷きみ)
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柳生 博 (近衛忠煕)

高橋 英樹 (島津久光)
──────────
制作:吉村 文孝
演出:望月 良雄

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