プレイバック武田信玄・(26)景虎と氏康
人はウサギ小屋だというけれど、それでもなお、
我が家いや我が城を持ちたいという思いは切実なものである。
ましてや、戦乱の狭間に生きるものであれば
いかなる攻撃にも耐える城への思いは格別であったろう。
北条氏康の居城・小田原城。
背後には箱根外輪山、前には相模湾が自然の要塞となっており
人はこの城をして「難攻不落」と呼んだ。
その子・氏政もまた父の遺志を継いで
その市街地まですっぽり包みこんだ大外壁を作り
都市そのものを巨大な城とした。
小田原城は特に籠城戦においても
天下に比類なき強さを発揮し、その構えは
後の大坂城、江戸城へと引き継がれていくのである。
一方、ここに戦国武将でありながら
全く違う発想を持った人物(=武田信玄)がいた。
彼は国内に一つも城を築かず、
御所風の優雅な雰囲気を持つ館に住んだ。
この人物がどういう思いで城を持たなかったのか。
それは彼が遺したと言われる次の言葉に集約されている。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
今川の居城・駿府城に到着した武田信繁は
武田信玄の名代として、当主の今川氏真に
亡くなった義元のお悔やみを申し述べます。
ただ、寿桂尼は預かっている武田信虎について
どうにかしてほしいと苦情の書状を書いたほどですので、
その答えを聞きたいわけですが、武田家としては特に意向なく
今まで通り身柄をお願いしたいと信繁は返答します。
そしてその足で、信虎の居室に向かい
約20年ぶりの父子再会を果たします。
信虎はかつて、信玄に「許す」と書状を送ったこともありましたが
本音は、やはりやりきれないというか許せない部分は正直あります。
信玄も、信虎を追放したことはむしろ
申し訳ないと考えるようになっていますが、
信虎を甲斐に戻す考えは全くありません。
信虎は、このままの甲斐では必ず滅びると脅し
京に上って将軍家を滅ぼし、天下に号令せよと信繁に伝えさせます。
全国を敵に回すために──手始めに、今川を攻めよとけしかけます。
信繁は、武田と今川の間には固い絆で結ばれた盟約があり
それがどんな人であれ壊れるようなものではないと主張。
父の口を封じます。
一瞬、寂しそうな表情を浮かべる信虎ですが、
信虎が未だにこんな風だと、
信玄としてもたとえ甲斐帰還に前向きであったとしても
甲斐領内には入れられないという判断を下すでしょうね。
夏の終わりごろ、長尾景虎はいよいよ関東に攻め込みます。
関東管領として、関東に正しい秩序を甦らせること、
それこそが彼が北条氏康を攻撃した第一義であります。
一方、攻め込まれる格好の氏康ですが、
氏康はさっそく三国同盟を使って信玄に救援を申込み
信玄は快諾して信濃に兵を送ると言ってきました。
とはいえ、三国同盟を心底信じているわけではなく
氏康は、現在行っている小田原城の工事を急がせます。
そして嫡男・氏政には3ヶ月分の食糧を準備させますが、
氏政にはそんな量で大丈夫か? と不安です。
もし景虎が大軍で半年も城を囲めば、
3ヶ月分の食糧だけでは持ちこたえられません。
氏康は、念には念を入れてやらなければならないのは
小田原城の工事であって、
それが完了すれば万全との姿勢は崩しません。
「守るは攻めるに勝てずと申しまする!」
「攻めるは守るに勝てずとも言う。守り万全なら攻められぬ」
ここにも、父と子の対決があるのですね。
信玄は三条夫人に、妹に書状を書いてほしいと言ってきました。
妹は本願寺顕如に嫁いでおりまして、そのつながりを使って
加賀・越中の一向宗門徒衆に越後国境を脅かす牽制をさせることで
景虎を上洛させないようにしたいわけです。
もし仮に景虎が上洛してしまっては、必ず一向宗は禁じられ
そのトップである顕如は罰せられるに違いありません。
そうならないためにも、転ばぬ先の杖なのです。
それよりも、三条としては
信玄が上洛するという決意を聞きたいわけですが、
上洛など一度も考えたことがない、と話題をすり抜けます。
上洛など考えない人が、上洛しようとする人を阻止する。
そんな分かりやすい矛盾を示しておきながら、
ほんの小さな光明でさえ与えてくれない信玄に、三条は発狂。
それが守護職の役目と言っても、もはや理解してもらえません。
信虎に贈られ、武田が城を落とす度に旗印を立てた
屏風の旗をたたき落としていきます。
信玄は氏康の加勢のために佐久に出陣します。
佐久から碓井峠を越えれば上野国であり、
すでに上野国に侵入している景虎の
背後に回り込むことが出来ます。
信玄出兵の知らせを受けた景虎。
武田勢の動きは鈍く、いちいち神社に立ち寄って
金倉城を10日以内に落とすと戦勝祈願していると聞き、
信玄には戦う気がなく碓井峠を越えて来ないと読んだ景虎。
信玄が碓井峠を越えず、小田原城の工事が完了する前に
小田原を攻めようと決意しますが、
関東管領として下知したのに、上野の武将たちは立ち上がりません。
武田に背後に回られてはたまったものではないからです。
越後の家臣とは違って、ハイッ! と指示しても
ポーンと気持ちよく返事が返って来ず、
関東武士の気持ちがなかなか掴めません。
仕方なくこの地でとどまることになり、正月さえも迎えます。
結局、小田原城を囲めたのは翌3月になってからでした。
敵の大軍に囲まれて、氏政はいきり立っておりますが
氏康は家臣の松田とのんびりと碁を打っております。
城の工事はすでに完了し、強固な城になっております。
敵は、小田原城を攻める方法がないのに気づき
なおもこの小田原に留まれば、昨年の秋に出陣しているので
兵糧は尽き、兵士たちは家にも帰りたがるでしょう。
ここに留まるのも、せいぜい1ヶ月というところ。
ここでの北条の戦い方は、敵の相手をせずひたすら待つこと。
ゆえに場内にいきり立つものがいれば火に油を注ぐことになるので
氏政に抑えて回るように命じます。
氏康の予測通り、景虎は
1ヶ月この地に留まり去っていきました。
その帰り道、鎌倉の鶴岡八幡宮にて
関東管領職を正式に継承。
前の関東管領・上杉憲政の養子となり
名を、長尾景虎から上杉政虎と改めます。
永禄4(1561)年8月。
「申し上げます。信濃より狼煙あり。
越後勢、春日山城を発ったようにござりまする!」
早馬の知らせに、信玄の眼光は鋭く──。
小田原城を囲み、帰国してすぐに信濃目がけて出兵するとは
景虎もなかなか焦っているようです。
考えてみれば、小田原城の攻撃では何の益も得られず
当然ながら家臣たちにも恩賞を与えられませんでしたが、
自らは関東管領職という名誉をもらっています。
ここで関東管領として戦に勝たなければ、
越後の領民たちに乱れが生じるかもしれません。
「決着をつける。今度の戦、死ぬか生きるかじゃ」
永禄4(1561)年閏3月16日、
鎌倉の鶴岡八幡宮にて、長尾景虎は山内上杉家の家督と
関東管領職を相続。名を上杉政虎と改める。
慶長20(1615)年5月7日、
大坂夏の陣にて真田信繁が討ち死にするまで
あと54年1ヶ月──。
脚本:田向 正健
原作:新田 次郎「武田信玄」
音楽:山本 直純
タイトル題字:渡辺 裕英
語り(大井夫人):若尾 文子
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[出演]
中井 貴一 (武田信玄)
柴田 恭兵 (長尾景虎)
紺野 美沙子 (三条の方)
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堤 真一 (武田義信)
井上 孝雄 (松田憲秀)
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岸田 今日子 (寿桂尼)
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平 幹二朗 (武田信虎)
宇津井 健 (直江実綱)
小川 真由美 (八重)
杉 良太郎 (北条氏康)
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制作:村上 慧
演出:大森 青児
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