プレイバック真田太平記・(18)秀吉死す
慶長3(1598)年3月、
伏見の北にある醍醐三宝院において
太閤豊臣秀吉は盛大な花見を催します。
この時の秀吉はすでに五大老五奉行制を敷いていて
命が尽きるまでそう長くはないと悟った秀吉が
合議制を作り上げた裏には、一人の専横を防ぎ
ただわが子秀頼を盛り立ててもらいたいという思いからです。
宴の席で、徳川家康と酒を楽しんでいた秀吉は
朝鮮半島に出兵している部隊も
そろそろ疲れ果てている頃であろうと
日本に引き揚げさせようと考えているようです。
秀頼のことで忙しくなったから、というのが本音?
そこで秀吉は、家康の孫娘を
秀頼の嫁として欲しいと言い出します。
孫娘? と一瞬とぼける家康ですが、
家康の子である秀忠の娘
家康にとってみれば孫娘にあたる千姫のことです
「喜んで、もろうていただきましょう」
手を握って頭を下げる秀吉を
先ほどまで柔和な表情を浮かべていた家康は
冷ややかに見下ろしています。
小松殿の実家・本多家の先祖供養に向かうため
真田信幸とともに生い茂る草原の中を歩いていると、
元北条家の武士という男たちに囲まれてしまいます。
秀吉によって北条家は滅び、
沼田城代だったこの武士の兄は城を出て切腹。
言わばその恨みを、その後に沼田城に入った信幸が
受けてしまっているわけです。
とはいえ、信幸ひとりに数人の男では
信幸がどれだけ善戦したところで、勝てる見込みはありません。
そこに、私がお相手いたす、と笠を脱ぎ捨てた男が。
「……右近!?」
伏見の真田屋敷に戻った信幸と小松殿、そして鈴木右近。
そこに、屋敷にいた真田幸村と向井佐平次も加わります。
そもそも右近が出奔したのは、名護屋城出陣の時。
右近とお順の結婚のことを考えて、
信幸が右近を沼田に留守居役として残したことが
“役立たず”という烙印を押されたと誤解したのがきっかけ。
右近は、お順と言い交わした仲であったことも
偽りだったと正直に打ち明けます。
ただ、お順は右近と一緒になることを
喜んでいたようにも見受けられましたけど?
そのお順ですが、右近が出奔して2年後
病気で亡くなってしまったそうです。
自分の不甲斐なさから、方々に迷惑を
かけてしまったことを涙ながらに詫びる右近です。
「右近、沼田に戻って来んか。わしの側におれ」
8月になり、病床にあった秀吉の容体が急変。
一介の草履取りから身を起こし、ついには天下人となり
関白・太閤にまで昇りつめた秀吉が、
8月18日に亡くなります。
秀吉死去の様子をじっくりと聞いていた真田昌幸。
秀吉亡き後の天下は、家康と
彼と仲違いをしている五奉行たちによって
大きく影響を受けそうです。
秀吉によって朝鮮に送られていた部隊が
11月、博多に引き揚げてきました。
この戦で得たものは何もなく、
逆に豊臣家は戦で疲れ切っていました。
一方で、戦に出なかった徳川家は
秀吉亡き後の天下で相当な存在感を増していました。
大老の認可なく大名同士で勝手に婚姻を結んだ家康に
詰問の使者が派遣されたわけですが、
最初こそさんざんに言われていた家康が、後半
自分の命を狙って大老職から追い出す動きがあるのを盾に、
それこそ秀頼に代わって天下を動かせという
秀吉の遺命に背くものだと大声を張り上げて主張。
立場が逆転してしまった使者たちは、
秀頼の後見人たる家康に、頭を下げるしかありませんでした。
真田庄・お徳の屋敷だったところに住みついた樋口角兵衛。
そしてその角兵衛に引っ付いて離れないふたりの浪人。
角兵衛が酒に酔って寝ている間、
ふたりの浪人たちがヒソヒソ話しているのを
床下から壺谷又五郎が聞いていまして、
ふたりの男が山中大和守俊房の手下、
甲賀忍者であると察知した又五郎は
それをそっくりそのまま昌幸に報告します。
自分に歯向かうとは! と昌幸は怒り心頭ですが
又五郎は、角兵衛が騙され
利用されているように思うと私見を述べると、
ふたりのことは自分に任せてほしいと願い出ます。
酒から目を覚ますと、
庭先でふたりの男が殺されているのを見つけ
途端に腰が引ける角兵衛。
振り返ると、そこには又五郎が座っていました。
しかし角兵衛は、自分も真田の一族でありながら
昌幸が自分を捜そうともせず音沙汰ないことが不満で、
自分を叱ってくれさえすれば甲賀に心を売らなかったと喚きます。
「おとなしゅうしていてくだされ」
又五郎は、自分は甲賀者に騙されていただけで
主家を裏切るつもりはなかったということにさせます。
向井佐助が、いよいよ真田の草の者として
働けるときがやってきました。
母・もよは、自分に思い煩うことなく働けと背中を押し
又五郎は、これから忍者として働く以上、
女の色気に惑わされてはならないと
おくにという女忍びを当て、童貞を棄てさせます。
そして共に京へ。
下久我の忍び屋敷に到着した佐助は
他の忍びの者たちが京を案内してやると言って外に連れ出し
又五郎は伏見の方に行くと言い出しますが、
お江は、又五郎の様子が少し変に思えてなりません。
誰にも言うでないぞ、と念を押されて、
お江は又五郎に告白を受けます。
「佐助は、わしの……孫じゃ」
昌幸の判断で、角兵衛は
沼田の信幸に預けられることになりました。
信幸としても、それはとても嬉しいことなのですが
許しなく名護屋城にやって来たというような勝手な振舞いは
真田の存亡に関わるので、本家分家関係なく
そのあたりはしっかりと釘を刺しておかなければなりません。
角兵衛は、自分を親身に叱ってくれた信幸に感謝しています。
男の愛に飢えて生きてきたんですね。
秀吉が死んで半年。
家康に四大老五奉行が対立する
構図となってきた天下の様子ですが、
ますます対立が激化し始めています。
慶長3(1598)年8月18日、
豊臣秀頼を徳川家康ら五大老に託し、豊臣秀吉が病没する。
慶長20(1615)年5月7日、
大坂夏の陣にて真田信繁が討ち死にするまで
あと16年8ヶ月──。
(『真田丸』では「(30)黄昏」〜「(32)応酬」付近)
原作:池波 正太郎
脚本:金子 成人
音楽:林 光
タイトル題字:池波 正太郎
語り:和田 篤 アナウンサー
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[出演]
渡瀬 恒彦 (真田信幸)
草刈 正雄 (真田幸村)
遙 くらら (お江)
夏八木 勲 (壺谷又五郎)
榎木 孝明 (樋口角兵衛)
中村 橋之助 (向井佐助)
范 文雀 (おくに)
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中村 梅之助 (徳川家康)
長門 裕之 (豊臣秀吉)
清水 綋治 (石田三成)
御木本 伸介 (前田利家)
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紺野 美沙子 (小松殿)
花沢 徳衛 (横沢与七)
竜 雷太 (加藤清正)
津島 恵子 (北政所)
丹波 哲郎 (真田昌幸)
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制作:榎本 一生
演出:門脇 正美
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