プレイバック真田太平記・(20)迷い道
慶長4(1599)年9月9日、重陽の節句で徳川家康は
数十名という家臣を引き連れて大坂城内に乗り込み、
豊臣秀頼にお祝いします。
家康は、その場にいた前田玄以に
大坂城内の風紀の乱れを指摘します。
いくら自分が見知った存在であれ、豊臣の城に押しかければ
ひとりやふたり家康を引き止め問いただしたっていいのに
それをする者がひとりもいなかった、というのです。
玄以は改めて、数多の家来を引き連れての登城を問いただすと、
家康はここぞとばかりに主張します。
「本日登城するわしを襲い、
亡き者にせんとする動きありと聞き及んだ上の用心」
家康を亡き者にせんと計画したのは前田利長、浅野長政ら。
しかもその情報提供者が増田長盛、長束正家とあっては
疑いようもないことであります。
家康を襲撃するということは
これは豊臣家へ弓引くこと、つまり謀反につながりまして、
家康としては、そんな輩から
秀頼を守らなければならないと気持ちを強く持つところです。
長政は、自分はそんなことに加担した覚えはないと
北政所に訴え出ますが、北政所は長政に蟄居を勧めます。
「私も、この西の丸から出ようと思います」
空いた西の丸には、やはり家康に入ってもらうのが
最良ではないかと思うのです。
そして前田利長は、このまま引き下がっては前田の名折れで
家康の相手をしてみせようとたいそうご立腹ですが、
母の言葉で思いとどまります。
大老の前田家でさえ、家康に屈服せざるを得なかったのです。
慶長5(1600)年2月。
徳川家康は近江の職人たちを集めて大砲造りを始めたようです。
大谷吉継は、家康の目論見は大砲造りではなく
近江国で作ることによって
石田三成の怒りを誘いたいのではないか、と
真田幸村に打ち明けます。
幸村は、5ヶ月前の重陽の節句で
前田利長が家康を襲撃しようと計画しているらしいと
家康の耳に入れたのは、三成ではないかと考えています。
つまり、前田が疑いをかけられたことで前田が加賀で決起する。
それを鎮圧するために家康が加賀に出陣する。
その時を見計らって三成が挙兵しようという流れです。
真田信幸は、上杉景勝が気になっています。
越後では50万石だった景勝も
会津へ国替えとなって以降は120万石を抱え、
家康の上洛要請にもシカトを決め込むあたり
大きな問題に発展しなければ良いが、という心配です。
上杉の動向が気になっているのは、真田昌幸も同じです。
ただ、こちらは天下を揺るがす戦になってほしいという
信幸とは真逆の思惑があるからなんですけど(笑)。
もし三成と示し合わせての景勝の行動であるなら
必ず家康と戦が始まるでしょう。
三成と昵懇の吉継も挙兵するかもしれませんし、
家康を煙たがる西国の大名たちも挙兵するかもしれません。
戦乱をかいくぐって、真田が世に出る好機ともなります。
向井佐助は、大坂真田屋敷に入り
明日、壺谷又五郎が上杉の動向を知らせに会いに来るので、
幸村に屋敷にいてくれるように伝えます。
その後、忍び小屋に戻っていくのですが
甲賀忍者に付けられたことに気づきます。
しかし佐助はあくまでも気づいてないフリを装って
遊女街を通り、真田の忍び小屋近くまでおびき寄せ
忍び仲間に、逆に甲賀者をつけるようにいい置くと
スタコラサッサと歩いて行ってしまいます。
当然、佐助を追う甲賀者。
その甲賀者を追う真田の忍び。
途中、つけられたことに気づいたフリをした佐助が
岩陰に隠れますと、甲賀者も身を隠します。
そこに、甲賀者を追ってきた真田の忍びが
ニヤリとして来た道を引き返していきます。
自分も付けられていたのか、と気づいた甲賀忍びは
そのまま佐助を追っていくわけですが、
佐助は岩陰に隠れたままなので
逆に佐助は甲賀忍びを追う形になります。
佐助に協力した真田忍びは下久我の忍び小屋に戻り
又五郎とお江に、佐助の策の素晴らしさを褒め称えます。
夜、忍び小屋に戻ってきた佐助を、
勝手なことはするな! と又五郎が叱るわけですが、
佐助は、自分たちの忍び小屋の場所が見つかるかも
しれないというリスクを背負いつつ、
甲賀忍者の忍び小屋を見つけるという快挙。
祖父・又五郎としては、
叱らなければならないという気持ちと
よくやった、という褒めてやりたい気持ちとが交錯して
何とも言えない表情を浮かべています。
翌日、又五郎は佐助を引き連れて大坂真田屋敷を訪問。
そこで庭掃除をしていた向井佐平次と対面させます。
始めこそ、キョトンとしていた佐平次と佐助ですが、
お互いに親子であることを又五郎が教えてやると
2〜3歳の佐助の思い出しかない佐平次は
「あの佐助が……」と絶句しています。
ワシはもう用はない、と又五郎は幸村の元に向かいますが、
実はこの時、又五郎─佐平次─佐助と
3世代が揃っていたんですね。
ちょっと嬉しいです。
二人きりになった佐平次と佐助。
佐助に父上と呼ばれ、佐平次は涙ぐみます。
「初めて父と呼ばれた」
沼田城から信幸が、火急というより
大事な用で上田城に帰ってきました。
上杉のことです。
度重なる家康からの上洛要請も
ことごとく蹴って拒み続ける景勝ですが、
もはや両者は決裂しかないと信幸は見ています。
というのが、上杉家ではこの3月、
上杉謙信公の23回忌ということで集まったのですが、
その時、家康討伐について話し合われたというのです。
上杉家重臣の直江兼続と対立していた上杉家臣が
会津を去って徳川に乗り換えたというので
この情報がたちまち家康の耳に入ることになったわけですが、
当然、上杉討伐について
昌幸にも出陣命令がくるでしょう。
「その時は父上、お受けなされませ」
家康から景勝へ、最後通牒ともいうべき書状が届けられます。
内容は相変わらず、上洛の要請です。
景勝は兼続に、返書の内容として
家康への弾劾をしたためさせます。
それは兼続によって更にまとめられ
直江状という形で家康に届けられたわけです。
6月2日、家康は上杉討伐を遂に発表。
7月初旬に奥州に出陣すべしと諸大名に触れを出します。
6月7日、大坂にいた幸村は
真田本家に加わるべく上田城に戻ってきました。
北から上杉、西から石田が攻めてくれば
徳川は挟み撃ちとなります。
上杉と一緒に戦いたいという大名が加わり
徳川とは戦いたくないという大名が加われば
ひょっとすると、ひょっとします。
ただ、上杉からは援軍をよこせとか
力を貸せとかいう話が来ないのが不思議です。
幸村は、今回の戦が豊臣と徳川の戦ではなく
豊臣の家臣同士の戦であることを指摘した上で、
力を貸すなら信幸がいうように徳川ではありますが
もし昌幸がどうしても上杉に味方するというのなら
自分は父に従う、と言ってきました。
昌幸は、大恩ある上杉を敵に回すのは申し訳ないが
今回ばかりは家康に味方せざるを得ないか、と
幸村の主張を受け入れます。
同じ主張でも、幸村がいうのと信幸がいうのとでは
父の立場としては違うのですねw
関ヶ原の戦いの序章ともいうべき会津攻めが
いま始まろうとしていました。
慶長5(1600)年4月14日、
直江兼続は上杉景勝の意向を受けて上洛を拒絶する
手紙(直江状)を送り、会津攻めは決定的となる。
慶長20(1615)年5月7日、
大坂夏の陣にて真田信繁が討ち死にするまで
あと15年──。
(『真田丸』では「(34)挙兵」付近)
原作:池波 正太郎
脚本:金子 成人
音楽:林 光
タイトル題字:池波 正太郎
語り:和田 篤 アナウンサー
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[出演]
渡瀬 恒彦 (真田信幸)
草刈 正雄 (真田幸村)
遙 くらら (お江)
中村 橋之助 (向井佐助)
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中村 梅之助 (徳川家康)
夏八木 勲 (壺谷又五郎)
村井 国夫 (大谷吉継)
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紺野 美沙子 (小松殿)
津島 恵子 (北政所)
伊藤 孝雄 (上杉景勝)
丹波 哲郎 (真田昌幸)
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制作:榎本 一生
演出:永野 昭
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