プレイバック真田太平記・(21)決裂犬伏の陣
慶長5(1600)年6月16日。
大坂城を出発した徳川家康は18日に伏見を出
上杉景勝討伐のために一路東に向かいます。
その家康の傍らには、山中大和守俊房と
山中内匠長俊が付き添っています。
一方、家康が近江を通過すると、
佐和山城の石田三成は三方へ使者を送ります。
三成の動きを注視していた甲賀山中忍び、
真田の草の者、伊賀忍びも一斉に動き出します。
近江長曽根の忍び小屋で、壺谷又五郎は
三成や景勝の動きを調べるように指示します。
翌朝、真田昌幸・真田幸村軍は
徳川軍と合流すべく碓井峠を進んでいます。
又五郎の密書を携えた向井佐助は
松井田の陣でようやく真田軍に追いつきました。
三成が上杉に使者を送ったということは
三成も挙兵に及ぶということでありまして、
昌幸は、三成からも景勝からも援軍の要請が来ないことに
多少苛立ちを見せます。
大谷吉継ですが、徳川軍に合流すべく
美濃の垂井まで進軍しますが、
三成からの談合要請を受けて
軍勢を垂井に止めたまま、単身佐和山まで戻ります。
三成は吉継に、家康に対しての
挙兵を考えていることを打ち明けます。
家康は、わざと大坂を空けて上杉討伐に向かうことで
そのスキを狙って三成が挙兵するだろうと見越していますが、
三成は、その誘いにあえて乗ってみるつもりです。
「無謀でござる!」
吉継は必死で三成を止めます。
三成には挙兵の名目がないというのです。
しかし、三成の意思は変わりません。
吉継は、そこまでの決意であるなら
三成と生死を共にしましょう、と
味方することを誓います。
昌幸・幸村は、上州高崎にまで進んできました。
吉継が三成に加担して挙兵すること、
そしてお江からの情報で、景勝の挙兵も
なみなみならぬ気持ちからのものであることを知り
頭を超回転させて、今後の動向を推理します。
7月、家康は江戸城にあり。
江戸城に滞在して動静をうかがっていたわけです。
三成が説得した長宗我部、長束、増田、大谷、
そして小早川らが敵に回ったことになり
家康も、三成はなかなかやるの、と
苦虫をかみつぶしたような顔です。
しかし、増田長盛から
三成挙兵、と別ルートで家康に知らせて来たわけです。
恐らく長盛の行動はどちらにもいい顔をしておけば
どちらが勝っても我が身は残る、というわけですが、
家康は、それはそれで使い道はあるかもしれない、と
とやかく責め立てるようなことはしません。
家康は、三成が表立って動かず水面下で動いていることから
その目論見が明らかになるまで、三成の動きにはかまわず
7月21日に江戸城を出立して会津に向かうことにします。
垂井に戻ってきた吉継は、ふと現れた又五郎に
西軍は勝てないとショッキングなことを言い置きます。
又五郎は、その情報を持って昌幸の元へ。
7月19日。
毛利輝元が西軍の総大将として大坂城西の丸に入ります。
そして前田玄以、長束正家、増田長盛の三奉行は
三成草案による13ヶ条の家康弾劾状を送りつけます。
さらには各地の諸大名にも同様の弾劾状を送り
決起を促すわけです。
三成は、徳川方にいる武将の妻子を人質として預かるべく
各地の大名屋敷に兵を送り、半ば強引に大坂城に拉致します。
真田幸村の妻・於利世とて同じでありまして、
大谷吉継の娘であっても例外なく連れていかれるわけです。
家康が江戸城を出た7月21日以来、
宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘、毛利秀元ら
3万の軍勢が伏見城に攻撃を仕掛けています。
伏見城を守る兵は、わずかに2,000──。
しかし15倍の戦力を持ってしても
なかなか手こずって城を落とすことができません。
西軍の戦意喪失を畏れた三成は
伏見城に総攻撃を命じます。
そして、伏見城内に西軍に寝返った者がおり
7月30日、伏見城はついに炎上して落城したのです。
昌幸・幸村は、下野犬伏に陣を構えていました。
そこに、三成からの使者が密書を持ってやって来ました。
西軍に加わってほしいと言って来たわけです。
昌幸は、幸村に命じて真田信幸に
江戸城から犬伏に来るようにと使者を送ります。
よる、信幸が到着し、昌幸は向井佐平次や矢沢頼幸に命じます。
「わしが呼ぶまでは誰一人として近づけてはならぬ」
これはもはや分身同然の又五郎が来たときも同様で
又五郎は陣の外で待たされることになります。
西軍は負ける、という真田家の運命も左右されるであろう
情報を持って来ているにも関わらず、
それを伝えられないもどかしさ。
又五郎はただ、黙って待ち続けます。
信幸は、三成が家康に勝って政権をとっても
たちまち立ち行かなくなると考えているのですが、
景勝に大きな恩義を感じている昌幸は
三成ではなく景勝に味方するつもりでおります。
家康と三成、どちらを残すのが豊臣家のためになるのか?
そう考える昌幸に、信幸はためらいもなく返します。
「豊臣家というより、どちらが天下のために相なりましょうや」
このまま西軍が勝って再び戦乱の世に逆戻りした時に
昌幸は、好機を狙って
表舞台に躍り出ようと考えているに違いない……。
真田家は、昌幸・幸村が西軍に与し
信幸が東軍として参陣することになりました。
分裂となったのです。
慶長5(1600)年7月19日、
西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に開城を要求し、鳥居元忠は拒絶。
伏見城の戦いが始まる。
慶長20(1615)年5月7日、
大坂夏の陣にて真田信繁が討ち死にするまで
あと14年9ヶ月──。
(『真田丸』では「(35)犬伏」付近)
原作:池波 正太郎
脚本:金子 成人
音楽:林 光
タイトル題字:池波 正太郎
語り:和田 篤 アナウンサー
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[出演]
渡瀬 恒彦 (真田信幸)
草刈 正雄 (真田幸村)
遙 くらら (お江)
榎木 孝明 (樋口角兵衛)
中村 橋之助 (向井佐助)
中村 久美 (於利世)
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中村 梅之助 (徳川家康)
夏八木 勲 (壺谷又五郎)
清水 綋治 (石田三成)
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佐藤 慶 (山中大和守俊房)
戸浦 六宏 (山中内匠長俊)
村井 国夫 (大谷吉継)
伊藤 孝雄 (上杉景勝)
丹波 哲郎 (真田昌幸)
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制作:榎本 一生
演出:大原 誠
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