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2016年9月30日 (金)

プレイバック真田太平記・(26)決戦関ヶ原

慶長5(1600)年9月15日、早暁。
決戦を前にした関ヶ原は濃い霧に包まれていました。

こっそり桃配山を下りた徳川家康は、
関ヶ原の東の方に本陣を張っています。
霧が晴れた時、敵の度肝を抜くためであります。

家康の首を狙う壺谷又五郎ら真田の草の者は
関ヶ原中央の森の中で息を潜めて隠れていました。

そして石田三成の本陣は
関ヶ原の最も北にある笹尾山にあり、
家康と同様に、霧が晴れるのを待っていました。

午前8時、決戦開始──。


井伊直政と松平忠吉が、まず先陣を切ります。
先陣を任されていた福島正則は
自分を差し置いて先に行かれてしまったことに怒り、
遅れてはならじと宇喜多秀家軍に攻め込みます。

黒田長政の一隊は、鉄砲隊を引き連れて
密かに三成の陣に近づいています。


東軍を完全に包囲する陣形をとりながらも、
戦闘が開始されてもなお、
東の南宮山に陣を張る毛利秀元、西の松尾山の小早川秀秋、
北に位置する島津義弘勢に動く気配がありません。

三成は、好機を逃さず突撃をと
それぞれの陣に使者を送ります。
予想外の展開に、三成はわなわな震えます。


「まとまりのない西軍に何ゆえ手を焼く!」
五分五分との報告に、日ごろはノンビリ屋の家康も
この時ばかりは鎧をパンパンと扇子で叩きまくり
落ち着かない様子です。

このままではいけない、と家康本陣の誰もが思った時
家康はある方向を大きな目で睨み、静かに命じます。
「松尾山に鉄砲を撃ちかけい!」


関東方にござる! との報告に、
小早川秀秋は一瞬思考回路が止まります。

もともとの約束では、西軍のために
動かなければ良いということだったので、
三成の要請にも乗らずにただ座っていただけですが、

しかし側近が、家康の催促だと説明して
これ以上、日和見は通用しないと悟ったのでしょう。
ついに西軍を裏切り、大谷吉継の側面を攻撃。

もはやこれまで、と吉継は切腹。

小早川をはじめとする諸大名が
次々に西軍から当軍へ寝返ったことで、
三成も本陣を支えきれなくなり
止むなく撤退、敗走することになりました。


討って出る好機の際には必ず動く、と約束した島津勢ですが
結局動かぬまま、西軍は総崩れとなり
島津勢は東軍の渦中に取り残されることになりました。

義弘は「逃ぐる!」と言いますが、
もともとは自ら志願して出陣した戦ではないものの
何もせずに逃げるのはプライドが許さなかったのでしょうか。
家康の本陣前を突っ切って戦線離脱していきます。

島津も思い切ったことをやるのう、と
家康の笑顔は引きつっていますが、
安心するのもつかの間、不気味な一軍が
家康本陣目がけて駆けてくるのが見えます。

又五郎たちです。

一軍を倒そうと、徳川本陣は
守備隊を次々と繰り出しますが、
それでも又五郎たちは斬って斬って突き進んできます。

又五郎が投げた槍は、家康が座る目の前に突き刺さり
驚いた家康は真後ろに倒れ、震えています。

そして高く飛び上がった又五郎。
それに合わせて高く飛び上がる山中長俊。

空中での一騎討ち。

取っ組み合ったまま落下しますが、
又五郎も長俊も、すでに死んでいます。

そして、長俊の死を嘆く山中大和守俊房は
黒々としていた髪が一気に白髪に変わり
それを目の前で見ていた家康は、
信じられないという様子で俊房を見つめたままです。


午後4時、関ヶ原に多数の死骸を残したまま
天下分け目の大戦は終わりました。

東軍の圧勝でした。


笠神の忍び小屋には
向井佐助とケガを癒しているお江がいますが、
そこに戦場に散らばっていた忍びたちが帰って来ます。

忍びたちが襲撃したのが影武者だったことをお江に伝えると
長良川で家康襲撃が失敗したことが、
家康を用心させ襲撃を難しくさせたのだ、と
お江は自分を激しく責めます。

さらに、関ヶ原に向かっていた忍びが戻ってくると
みな顔が青ざめます。
「西軍は負けまいた……負けまいた……」


9月17日、西軍敗退の知らせは
上田城にまで届けられます。

徳川の別働隊を上田城に引きつけて
参陣を遅らせたというのに、
最終的には西軍は負けてしまいました。
「わしが……わしが関ヶ原におったなら……」


敗走後、三成が引きこもった本拠の佐和山城には
裏切りの遅れという失態を取り戻すべく
全総力をかけて攻め寄せた小早川軍によって落城。
石田家は天守閣で、みな自害して果てました。

家康は、佐和山城落城と同時に
大坂城西の丸に詰めていた毛利輝元宛に書状を送り
所領の安堵を約束。
輝元は大坂城を家康に譲り渡すべく、長州へ引き揚げます。


9月20日、
大津の家康本陣に、中山道を駆けつけた
徳川秀忠がようやく到着します。

3万もの大軍を預かっておきながら
遅れるな、という言いつけに背いたことを
家康は激しく叱責します。

しかも上田を攻めよとは命じなかったのに
時間をかけて上田城を攻撃したことが、
この遅参の直接の原因であるわけです。

秀忠は、言い訳も何も言い返すことができません。

家康は無情にも、わが子に切腹を命じますが
本多忠勝は家康を説得し、必死に引き止めます。
「よき教訓として、人の上に立っていただかなければなりません」

忠勝の顔も立て、秀忠には謹慎を命じることにします。

家康本陣を出た秀忠。
その中には、真田憎しで固まります。


東軍による落ち武者狩りは続き、
逃亡を図っていた小西行長、安国寺恵瓊、
そして三成も発見され、捕縛されます。


俊房は、
今回の戦で3度も忍びから襲撃を受けたことをうけ
忍びの仕組みを一から組み替え直すことにします。


笠神の忍び小屋には、関ヶ原にいた忍びが
受傷してよろめきながら戻ってきました。
お江は又五郎の消息について訪ねてみますが、
長俊との対決までを語ります。

佐助は、又五郎のことだから、関ヶ原の家康本陣近くに
何かメッセージを残しているかもしれないと
急いで関ヶ原に向かうことにします。

夜遅く、関ヶ原に到着した佐助たちは
又五郎の遺骸を発見。

首が何者かに取られてしまっていました。


9月27日、毛利輝元に変わり
徳川家康が大坂城西の丸に入ります。

まず、今回の戦には豊臣秀頼と生母・淀君は
何の関わりもないので、お咎めなし。

穏やかな表情の家康がそう言っていたと
大野修理が淀君に伝えると、
淀君は秀頼を抱き寄せて泣きます。

さらに家康は、日本の地図を前に
諸大名の処分を決め始めます。

長宗我部盛親、毛利輝元、宇喜多秀家といった大名の名前に
赤で斜線を引いていくわけですが、
上田の真田昌幸には斜線ではなくバッテン。
秀忠もそうですが、徳川を苦しめた真田を
家康も恨んでいたのかもしれません。


ちょうどそのころ、京の六条河原では
西軍の諸将たちの処刑が行われていました。

三成もその対象で、42歳の短い生涯を終えました。


真田の草の者たちは、又五郎たち
死んでいった草の者の墓を作り手を合わせます。

お江は佐助に、又五郎が
佐助の成長を楽しみにしていたことを伝えると
墓前で、佐助は泣き崩れます。


真田信幸の元には、
義父・本多忠勝からの書状が届けられていました。
「急ぎ上洛せよ──」

信幸は、上洛せよということは
真田本家の処分についてであろうと推測。
分かっていることは、昌幸と真田幸村は敗者、
そして自分が勝者であるということです。

どのような処分が下されるのか。
一刻を争う事態だと察知し
急いで大坂に向かうことにします。


慶長5(1600)年9月15日、
徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原の戦いで
徳川が勝利を収める。

慶長20(1615)年5月7日、
大坂夏の陣にて真田信繁が討ち死にするまで


あと14年7ヶ月──。

(『真田丸』では「(36)勝負」〜「(37)信之」付近)


原作:池波 正太郎
脚本:金子 成人
音楽:林 光
タイトル題字:池波 正太郎
語り:和田 篤 アナウンサー
──────────
[出演]
渡瀬 恒彦 (真田信幸)
草刈 正雄 (真田幸村)
遙 くらら (お江)
夏八木 勲 (壺谷又五郎)
榎木 孝明 (樋口角兵衛)
中村 橋之助 (向井佐助)
──────────
中村 梅之助 (徳川家康)

加藤 武 (本多忠勝)
村井 国夫 (大谷吉継)
清水 綋治 (石田三成)
石橋 蓮司 (猫田与助)
──────────
紺野 美沙子 (小松殿)
佐藤 慶 (山中大和守俊房)
戸浦 六宏 (山中内匠長俊)
細川 俊之 (大野修理)
岡田 茉莉子 (淀君)
丹波 哲郎 (真田昌幸)
──────────
制作:榎本 一生
演出:大原 誠

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