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2017年2月21日 (火)

プレイバック秀吉・(13)極秘情報

「きんさん・ぎんさん 103才」

平均寿命80才。
今や日本は世界一の長寿国である。

秀吉が生きた戦国時代、
その平均寿命は推定でなんと28才以下。
この異常に低い数字は
乳幼児の死亡率の高さが原因である。

当時5才までの間に
80%以上の子どもたちが死んだという。
(全死亡に占める0〜5才児の割合・
江戸時代後期 1771〜1870の記録)

たとえ無事に成人できたとしても、
50才まで生きられれば運がいいと言えた。

「人間50年」
このころ人々の生命を脅かしたもの、
戦乱、飢え、そして病気。

「疫(えやみ・流行性感昌」「痢疾(赤痢)」
「イモヤミ(天然痘)」「疹子(はしか)」
現在では比較的治りやすい病気でも致命的だった。

今、織田軍団の前に
戦国最強の男・武田信玄が立ちはだかった。
この時すでに52才。
(元亀3(1572)年/信長39才・秀吉36才)

健康管理もまた、勝敗の大きなキーポイントであった──。


元亀3(1572)年・正月 浅井家菩提寺──。

信仰心の厚いお市は、浅井家のために戦い死んでいった
雑兵たちの墓が集まるこの菩提寺で、墓参を欠かしません。

お市と対面すべく朝早く訪れた秀吉は、
そこで幼い姫を見かけます。
名を茶々というこの姫と、秀吉はこの後に再会し
茶々は秀吉の子を産むことになります。

お市と対面した秀吉は、浅井長政は立派な武将ゆえに
織田信長との戦をやめて織田方に、と話をしますが、
信長を兄と思えなくなったお市に拒絶されます。


明智光秀に近江坂本に築城を許すと信長が言っていまして、
重臣の佐久間信盛に光秀とよく話し合えと命じるのですが、
織田家臣団の中にあって光秀が最初の城持ちとなることで
実質的に光秀の下につけられる信盛が反発します。

それは林 佐渡守も丹羽長秀も同様なのですが、
秀吉は、信長の家臣であり足利義昭の家臣でもある光秀が
最初に城持ちになることは、信長が将軍家に配慮した結果ととられ
義昭は多いに喜ぶかもしれません。

そんな信長の気持ちを代弁した秀吉ではありますが、
光秀の城持ちについて大喜びしているわけではありません。
もちろん、気持ちは佐久間や林たちと同様で
本当は納得できていないのです。

屋敷に戻った秀吉は、
おねに明智家へのお祝いをたくさん届けさせ
自らは堺の千 宗易のところへ行くと立ち上がりますが、

小一郎はそんな兄を見て、少し休めと勧めます。
「息せき切って働いている姿は、
 運が上向いてる時には頼もしく見えるものじゃが、
 下り坂の時にはうるさく見えるものじゃ」

ここは秀吉の“男”が見られるとき、と
小一郎は思いきり怠けろと笑います。
ちょっとツーンとしていたおねも、
明智屋敷にお祝いを届けにいきましょ、と笑います。

それからしばらく、秀吉はおねとゆっくり過ごします。
おかげで肩の力がふっと抜けたようです。


このゆっくりと骨休みする時間を使って、秀吉は
前田利家とおまつのために、祝言を信長に願い出て
ささやかに祝いの席を設けます。

それに参加した柴田勝家と丹羽長秀に、秀吉は
名前を一文字ずついただいて名を改めたいと言い出します。
信長は、改名を許します。
木下藤吉郎秀吉改め──「羽柴秀吉」。

おねは、それがいい名だとしながらも
改名するのは手柄を立ててから、と条件を出します。
光秀に先を越された口惜しさに名だけ変えたと言われたら
武門の恥だというのです。

その通りじゃ、とニンマリする秀吉は
羽柴秀吉の名を、それまで信長に預けることにします。


その羨望の的である光秀は二条城を訪問。

京の民に米を貸し、その利息を内裏に回すなど
もはや義昭のことを見限っている信長でありまして、
光秀が城持ちになったのが義昭への配慮という噂を
バッサリと切り落とします。

そして、信長が与えた近江坂本は京への距離が近く
京対策のために光秀を坂本に配置したようです。
京、つまり将軍家への備え……。
「おいとまを頂戴いたしとう存じまする」

これからは、義昭直属の家臣という肩書きがなくなるので
遠慮なく義昭を攻撃できる立場にいることになります。
信長は、比叡山延暦寺の僧兵ですら皆殺しにする男です。
将軍を滅ぼすことは容易いことなのです。

義昭はすぐに対策を打ちます。
甲斐の武田信玄に書状を送り、
上洛して信長を討てと命じます。


12月。
信玄が、義昭の要請に応じて
総勢2万余の軍勢を率いて甲府を発した、
との知らせが全国を駆け巡ります。

そして間もなく、三方ヶ原合戦にて
徳川家康を撃破との知らせも……。

義昭は、六角承禎や一向衆と結託し
近江に向かって進軍中と聞き、
坂本城に入っていた信長は、急ぎ岐阜に戻ります。


武田軍は織田軍のように戦闘専属の部隊を持たないので
参加する雑兵はいわば農民兵ばかりであります。
農民兵の部隊を持つ軍隊は、常識的には
田植えが済む秋ごろ以降となります。

しかしそれが、こんな真冬に動くと言うことは……?

秀吉は、竹中半兵衛の臆測を持って岐阜城へ向かいます。
つまり信玄は重い労咳にかかっておりまして、
いのち尽きるまであとわずかゆえに、軍勢を急いで
京に向かわせているのではないか、というわけです。

念のため、武田軍に忍びを放ってみたところ
誰一人として信玄の姿を見た者はいないそうです。

ということは、姿を見せられないほど病が重いか
あるいは、すでにこの世にはおらず、
総大将なく軍勢だけが京に向かっているか──。

しかしその半兵衛の考えも、義昭に上洛の要請があったから
真冬に出陣したのではないかと光秀に全否定され
ちょっぴりふてくされた秀吉は、尾張中村の実家に帰ります。

そこで、死んだと思っていた
石川五右衛門と再会するわけですが、
五右衛門は、武田信玄が死んだこと
3年は死を秘めよとの遺言があったことを秀吉に話します。

盗人五右衛門は、信玄の遺骸から
守り刀である懐刀を頂戴してきたようで、
秀吉はそれを持ち、岐阜へ帰っていきます。


その情報を持ち込んだ秀吉は
信長に、羽柴秀吉、と声をかけられます。
その仕事、褒美に値するというわけです。

信長が最も畏れた男・信玄は上洛半ばで死にました。


秀吉が、木下藤吉郎秀吉から
羽柴藤吉郎秀吉に改名したタイミングで
小一郎は木下小一郎から羽柴小一郎秀長と改めます。

もともとは丹羽長秀から名前をそのままいただいたのですが、
いくら何でも畏れ多いということで、ひっくり返したのです。


脚本:竹山 洋
堺屋 太一「秀吉」「鬼と人と」「豊臣秀長」より
音楽:小六 禮次郎
題字:森繁 久彌
語り:宮本 隆治 アナウンサー
──────────
[出演]
竹中 直人 (秀吉)
沢口 靖子 (おね)
高嶋 政伸 (小一郎)
赤井 英和 (石川五右衛門)
涼風 真世 (おたき)

市原 悦子 (なか)

村上 弘明 (明智光秀)
斉藤 慶子 (吉乃)
頼近 美津子 (お市)
中村 あずさ (おまつ)
篠田 三郎 (丹羽長秀)
高松 英郎 (林 佐渡守)

宅麻 伸 (浅井長政)
中尾 彬 (柴田勝家)
大仁田 厚 (蜂須賀小六)
織本 順吉 (佐久間信盛)
──────────
玉置 浩二 (足利義昭)
渡辺 徹 (前田利家)
浜畑 賢吉 (細川藤孝)
野際 陽子 (美)
──────────
古谷 一行 (竹中半兵衛)

渡 哲也 (織田信長)
──────────
制作統括:西村 与志木
演出:黛 りんたろう

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