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2017年7月 4日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・[新] (01)総括関ヶ原

徳川家康──。

三成が挙兵に及べばもっけの幸い。
誰と誰がこれに加担するのか
時を与えてじっくりと見極めようぞ。

後で十把一絡げに葬れば、手間も省ける!


淀殿──。

さては家康殿、豊臣家孤高の家臣に
言いがかりを付け追放に及ぶ所存と見ゆる。

ええい、そうはさせまい!


石田三成──。

家康殿の不忠と専横はおのおの方も熟知しているところなり。
おめおめとこれを見過ごさんか、豊臣家の行く末は
荒波に翻弄さるる小舟のごとくなり。

三奉行いま立たざれば、やれ腰抜けよ臆病者よと
子々孫々まで嘲らるるは必定!


お江──。

殿方が戦をなさるのは、
古今東西の倣いゆえ致し方ござりませぬ。
どうかご存分にお働きくださりませ。

されど、豊臣家と事を構えるは烏滸の沙汰にござります。


徳川秀忠──。

我慢できぬわ!
秀忠はこの宇都宮で立ち腐れか!


作:ジェームス 三木

音楽:岩代 太郎

テーマ音楽:NHK交響楽団
テーマ音楽指揮:シャルル・デュトワ
ピアノ演奏:小山 実稚恵
合唱:ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団

時代考証:大石 慎三郎
風俗考証:二木 謙一
建築考証:平井 聖
衣裳考証:小泉 清子

所作指導:瀬川 仙魚
殺陣・武術指導:林 邦史朗
馬術指導:水上 金光
    :田中 光法
茶道指導:鈴木 宗鶴

撮影協力:静岡県
    :静岡市
    :富士宮市
    :山梨県小淵沢町
    :茨城県伊奈町

語り:中村 梅雀

──────────

[出演]


津川 雅彦 (徳川家康)

岩下 志麻 (お江)

草笛 光子 (北政所)
神山 繁 (本多正信)

蟹江 敬三 (福島正則)
小林 稔侍 (片桐且元)

佐藤 慶 (増田長盛)
宍戸 錠 (本多忠勝)

田村 亮 (藤堂高虎)
寺泉 憲 (松平忠吉)

勝野 洋 (井伊直政)
山下 真司 (黒田長政)

石田 太郎 (大久保忠隣)
清水 綋治 (榊原康政)

佐々木 功 (細川忠興)
磯部 勉 (池田輝政)

渡辺 いっけい (本多正純)
渡辺 裕之 (浅野幸長)

大橋 吾郎 (京極高知)
天宮 良 (井上正就)
伊藤 敏八 (船越景直)

早坂 直家 (加藤嘉明)
斎藤 志郎 (田中吉政)
平松 慎吾 (織田有楽)

坂口 進也
阿部 六郎
伊藤 紘
本田 清澄
竹本 和正
佐和 たかし

──────────

江守 徹 (石田三成)

──────────

夏八木 勲 (島 左近)
細川 俊之 (大谷吉継)

財津 一郎 (安国寺恵瓊)
竜 雷太 (蒲生郷舎)

内藤 武敏 (石田正継)
高橋 惠子 (おりん)

香川 照之 (宇喜多秀家)
黒沢 年男 (長束正家)

麿 赤兒 (島津義弘)
山口 祐一郎 (島津豊久)

鈴木 一真 (小早川秀秋)
津嘉山 正種 (石田正澄)

神山 寛 (前田玄以)
なべ おさみ (吉川広家)
菅生 隆之 (小西行長)

たかお 鷹
若林 久弥
重水 直人
西田 聖志郎
草見 潤平
池田 武志

池上 尚吾
西村 譲
石川 武
小林 和之
大地 泰仁
植村 喜八郎

浅野 雅博
吉野 正弘
羽柴 誠
清水 秀則
崎山 裕一
紗山 裕之助

大高 力也
九太朗
竹村 直毅
崎本 大海
石塚 大樹
吉武 怜朗

若駒プロ
エンゼルプロ
劇団東俳
劇団ひまわり
テアトルアカデミー
プロダクション・タンク

山梨県
 韮崎市のみなさん
 長坂町のみなさん
静岡県
 御殿場市のみなさん

──────────

小川 眞由美 (淀殿)

西田 敏行 (徳川秀忠)

──────────

制作統括:川合 淳志

美術:田嶋 宣助
技術:市川 隆男
音響効果:西ノ宮 金之助

撮影:熊木 良次
照明:中山 鎮雄
音声:小林 健一
映像技術:久保田 千尋

CG制作:伊達 吉克
記録:武田 朝子
編集:高室 麻子
美術進行:高山 祐二

演出:重光 亨彦


慶長5(1600)年7月30日・大坂城──。

淀殿にお茶を点てる北政所。
北政所は、石田三成には口出ししないようにと言います。
徳川家康と三成、いわば豊臣家家臣同士の争いなので
どちらにも取り込まれないように、と釘を刺しているのです。

淀殿は、もし動乱が起きて家康と三成が争い、
家康が勝利したら豊臣家は滅亡すると危惧しています。
ただそれは三成の主張をそのまま受け売りしているわけです。

淀殿とお江の方は姉妹だし、
淀殿の子の豊臣秀頼とお江の子の千姫は従兄妹同士でかつ許嫁。
豊臣と徳川の縁戚関係は亡き豊臣秀吉が決めたことなので、
それは家康も重々承知していることです。


三成は、家康に挙兵するには相当な軍資金が必要になるから
大坂城に蓄えられているご金蔵からの支援を
秀頼と淀殿に願い出ます。

しかし、豊臣家の威光に関係なく
戦が始められようとしているとして、
秀頼傅役・片桐且元は断固として拒否。

淀殿も、黙って奥に戻って行きます。


9月14日、赤坂・家康本陣──。

家康は得意とする野戦に敵を引きずり込むため
本多正純に、忍びを駆使して佐和山城を攻める噂を流させます。

しかし、この場には徳川秀忠はまだ到着しておりません。
弟の松平忠吉がそれを聞くと、家康は目を剥き出しにします。
「見限る!」

この時、秀忠軍はようやく木曽路に入ったばかりで
夜を日に継いでの行軍ではありますが、
悪路でなかなか進めずにいたのです。

「天下を二分する合戦なるに、徳川の本隊が間に合わず!」
豊臣恩顧の大名に頼って三成を倒したとあっては
家康の立つ瀬がありません。
何としても、徳川の手で勝利のきっかけを作らねばなりません。

家康は先陣を、四男忠吉に命じます。

そんな時、敵の主力が大垣城を出て
関ヶ原方面へ移動しているとの報告を受けます。
「しめた!」


関ヶ原は美濃国不破郡に位置し、かつては不破関がありました。
北に「伊吹山系」、南に「鈴鹿山脈」が裾野を広げ
西に「今須山」、東に「南宮山」を控えて
東西約4km、南北約2kmの高原盆地です。

この中を「中山道」が貫通し
東は木曽路、西は近江より京・大坂へ通じ、
中央の分岐点より西北へ「北国街道」、
東南へ「伊勢街道」と、東西をつなぐ交通の要衝でした。

慶長5年9月15日、
関ヶ原への一番乗りは石田三成勢6,000人で、
これが午前1時ごろ、まっすぐに西北の奥まで進み
「笹尾山」のふもとに陣を構えます。

ただし、関ヶ原の周辺にはかねてより野営の陣もあり。
西南の「山中村」あたりには大谷吉継勢4,100人と、
戸田重政・平塚為広ら合わせて1,500人。

「南宮山」には毛利秀元を中心に、長宗我部盛親・
吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らの30,000人余。

そして「松尾山」には小早川秀秋の15,000人。
その近くの平野には脇坂安治の1,000人、小川祐忠の2,000人、
朽木元綱の600人、赤座直保の600人。

三成に続いて到着したのは島津義弘勢1,500人で
三成勢近くの「小池村」に布陣。
三番手の小西行長勢4,000人は島津勢の右手に。

最後に到着した宇喜多秀家勢17,000人余は
「天満山」の前に五段構えの布陣。
こうして85,000人とも100,000人とも伝えられる
西軍の総勢が関ヶ原に集結したのは午前4時ごろでした。


東軍の先頭、福島正則勢6,000人が
関ヶ原に到着したのは午前5時ごろ。
深く前進して天満山の宇喜多勢と対峙。

中山道の北に田中吉政3,000人、筒井定次1,800人、
南に藤堂高虎2,500人、京極高知3,000人が布陣。

二番手の細川忠興5,000人、
加藤嘉明3,000人は北国街道沿いに。
黒田長政5,400人は「丸山」に。

三番手は徳川勢で、松平忠吉3,000人、井伊直政3,600人、
本多忠勝500人、ほかに古田重勝1,000人、織田有楽450人。
遊撃部隊として寺沢広高2,400人、金森長近1,100人、
生駒一正800人が控えて、

徳川家康率いる20,000人は「桃配山」に。

さらに南宮山の毛利勢に備えて池田輝政4,500人、
浅野幸長6,500人、山内一豊2,000人、有馬豊氏900人。
東軍の総勢は75,000人とも100,000人とも伝えられ、
家康が桃配山の本営に陣取ったのは午前6時です。


家康最大の誤算と言えば、
世継ぎ徳川秀忠勢38,000人の本隊が
宇都宮からの移動に手間取って
未だに木曽山中をさまよっていることです。

戦が始まってしまう、と馬で全力で駆ける秀忠ですが、
大軍は疲弊し、落伍者が続出しています。
榊原康政はしばらくの休息を提案しますが、
秀忠は家康の雷が怖くて、配下を気遣う余裕すらありません。


関ヶ原には濃い霧がかかっています。

桃配山の家康は、毛利勢が山を下りないか監視を続けさせ
笹尾山の三成は、霧が晴れるまで待つしかない姿勢です。

「合戦の火ぶたを切るのは、徳川の直臣たるべし」
忠吉の元に現れた直政は、忠吉を先導して
霧の濃いうちに福島勢、宇喜多勢の間に割って入ります。

頃合いでござる、と直政は
後ろからついてきた鉄砲隊を前に出し、
宇喜多勢に向けて発砲させます。
「引け!」


宇喜多勢から応戦の発砲があり、福島正則は大激怒。
しかも仕掛けたのが直政と聞いて、
名誉ある先陣を横取りされてさらに怒りが倍増します。
「おのれ……この正則を差し置いて!」

午前8時、決戦ののろしが上がります。

(西軍) 宇喜多秀家 vs 福島正則 (東軍)
鉄砲での応戦が終わると、歩兵が駆けていって激突します。

(西軍) 大谷吉継 vs 藤堂高虎 (東軍)
両軍とも騎馬隊が激突、そんな時
京極高知勢が大谷勢の脇に突っ込みます。

(西軍) 石田三成 vs 黒田長政・細川忠興 (東軍)
長政は、歩兵を前に進ませますが、
三成方の島 左近は、敵を十分に引きつけて発砲。
それに対して忠興は弓を雨のように無数に降らせます。


午前9時、霧は未だに晴れず。
勝っているのか負けているのか全く状況がつかめず
家康はイライラしています。

この際、本営を移すことにして
桃配山を下りることにします。


毛利秀元勢が戦に加わるべく南宮山を下りたいと
ふもとに陣取っている吉川広家に使者を送りますが
吉川勢は今から昼食だから、一時は動けないとの返事です。

池田輝政や浅野幸長ら15,000人の軍勢がひしめいていて
何もしないでもそれを釘付けにしているだけでも
大きな手柄だと考えているのです。

出馬するつもりがないなら道を開けてほしいと
なおも食い下がる使者ですが、
毛利家としての先陣は広家と決まっているので
抜けがけさせまいと頑として受け入れません。

実は、広家は密かに東軍に内通しているのです。
出口に吉川というフタをすることで、
毛利軍を動けなくさせているのです。


午前10時、秀家はさらに騎馬隊を投入します。
その陣中、鉄砲隊として戦に参加していたのが
後に有名になる宮本(新免)武蔵ですが、
この時はまだ17歳の少年に過ぎません。

左近を失い、手薄になった三成勢。

三成は島津の陣営に使者を送り、助勢を依頼しますが
使者に立った八十島助左衛門が馬上から物言いしたもので
島津豊久が激怒して斬り掛かろうとします。
慌てて逃げ去る使者。

代わって、三成自ら島津陣営に走ります。
「先ほどはご無礼仕った」

その上で、西軍本陣は黒田・加藤嘉明・細川軍に
入れ替わり立ち替わり攻め立てられて難儀しているので
助力を賜りたい、と主張を繰り返します。

しかし、豊久は、各隊が
おのおのの持ち場で全力を尽くす約束で参陣したので、
前後左右、他の部隊にまで顧みる余裕はない、と突っぱねます。
それは島津義弘も同じ考えです。

愕然とする三成です。


三成の表情には焦りが見え隠れしています。
思うように西軍が動いてくれないイライラは
一気に小早川へ向きます。

未だに松尾山を動かない秀秋へ、
三成はのろしを上げて催促を続けます。


本営を関ヶ原へ移した家康は
状況が分かるようになってきたからか
テキパキと指示を出します。

「小早川はどうした! あのコワッパめが!!」
ただ、イライラしているのは家康も同じでして
寝返りを約束している秀秋が動かないことに
イライラは最高潮。

しびれを切らした家康は、
松尾山に大筒を打ち込ませ最終通告とします。


玉を打ち込んだのが徳川勢と知って、
秀秋はようやく思い腰を上げます。
「我が敵は大谷吉継なり!」

こうして松尾山から小早川が下り
大谷勢に向けて突進していくと、
家康は安堵の表情で笑います。

小早川勢に攻めかかられた大谷軍は、
藤堂勢に向けていた軍勢を
反対側の小早川にも向けざるを得なくなり
総崩れに陥ります。


「小早川め……気は確かか!?」
さらに、脇坂安治、朽木元綱、
小川祐忠、赤座直保も同じく寝返ります。

三成は、目の前に起きている現象が
にわかに信じられずうろたえます。


午後1時。

「これでよい……これでよい」
家康はつぶやきます。

寝返りの小早川勢の攻撃を受けた大谷吉継勢は敗退し
吉継は切腹して果てます。

「逃げて生き恥をさらすな!」
無数に戻って来る兵たちに大声を出す秀家ですが、
もはやコントロールできません。
宇喜多勢は支離滅裂に陥っているのです。

そして小西行長勢は関ヶ原からの逃走を図ります。

「ことは終わった……」
無念の三成は、再起をかけて佐和山に戻ります。


さて、西軍諸将が関ヶ原から脱落して行く中
戦場に取り残された島津勢。

三成と行長が逃亡し、
宇喜多勢は総崩れとなったとの豊久の報告に、
膝を叩いて立ち上がった義弘。
「さあて、どげんすっか」

逃亡するにも、
東西南北、みな敵に囲まれてしまっています。
義弘は、戦らしい戦をせずに引くのは武門の名折れと
いっそ家康本陣に突っ込んで果てることを提案します。


家康本陣では、南宮山の毛利勢も逃亡する報告があり
家康が大喜びしています。
本営はまさにほのぼのムード、そんな時に
向こうからココに向かって突き進む軍勢を発見。

島津軍です。

死ぬことを覚悟した軍勢ほど恐ろしいものはありません。
しかも相手は誰とも全く戦っていない、新しい軍勢なのです。
柿を食べていた家康は、馬上の人になり刀を構えます。

家康の目の前にまで押し出して来た義弘は
徳川軍に雄叫びを上げて右に大きく迂回して
戦線離脱していきます。

逃亡の最中、豊久は振り返り
銃弾を浴びせて直政を負傷させますが、
結局は逃げ遅れて落命。


午後2時。

6時間の激闘の末、東軍の圧勝で終わります。


午後5時。

家康は東軍諸将を集めて感謝を述べます。
祝杯! と盛り上がる諸将ですが、
まずは敵方にある諸将の妻子を救出した上で
後日改めて祝杯をあげたい、と結びます。

秀秋を呼んだ家康は
小早川の合力がなければ勝利はなかった、と笑顔です。
かつて伏見城攻めで徳川を敵にしたことを
払拭するほどの戦功だと褒め称えます。

冷たい視線を向ける諸将たち。

家康は、明朝に関ヶ原を出発し
近江佐和山に向かって三成居城を攻め落とせと命じます。
寝返りは戦功ではありますが、本当に徳川として
仕えるつもりがあるのか試しているのです。


佐和山城攻防戦は、攻め方15,000、城方2,000余、
5倍以上の兵力で攻め込まれては
さすがの名城でも支えきれず。

三成の父・石田正継、兄・石田正澄、
そして正妻のおりんは城とともに命運を共にします。
関ヶ原からやっとの思いで佐和山にたどり着いた三成は
城が焼け落ちていくのを目撃します。


佐和山の落城を見届けた家康は草津へ移ります。

ご機嫌な家康に、正純は
遅参していた秀忠が草津に到着したことを告げます。

さっと表情が曇る家康。
「追い返せ。顔も見とうないわ!」

秀忠は、夜を日に継いで行軍したのに
雨に、そして川に阻まれて進めなかっただけなのに
自分の落ち度ではないのに、と悔し涙を流します。


9月21日、石田三成は洞窟の中から発見され
生け捕りにされます。

「お主を生け捕りにしてかように引き据えてみたかった」
三成を嘲る正則に、三成は皮肉たっぷりに言い、
寒かろうと陣羽織を差し出す長政には、
心の底から感謝を伝えます。

しかし、着座した秀秋には猛犬の如く吠えます。

「汝にふた心あるを知らざるは三成痛恨の極みなれど
 義を捨てて約に違い、寝返りを打った汝は
 武人の風上にも置けぬ卑怯者なり!」
秀秋は何も言い返せません。

入ってきた家康と秀忠。

10万の軍勢を率いて挙兵したことは壮大にして雄渾なことで
武人としては思い残すこともあるまい、と引導を渡します。
「さらばでござる」


9月26日・大坂城──。

家康はじめ東軍の諸将たちは
関ヶ原の戦いの報告を兼ねて秀頼に挨拶します。


9月30日、三成、行長、恵瓊らは
逆賊の見せしめとして大坂堺市中を引き回され、

そして10月1日、斬首の刑に処せられます。

筑摩江や
 芦間に灯す かがり火と
  ともに消えゆく わが身なりけり

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