« 方向幕考(126)改 | トップページ | 知らぬ間に »

2017年7月 7日 (金)

プレイバック葵 -徳川三代-・(02)秀吉の遺言

明暦3(1657)年 春・水戸家駒込屋敷(別邸)──。

水戸光圀がカメラ目線で説明する。
脇で控える介さん覚さん(佐々介三郎・安積覚兵衛)。

そもそも歴史というものは、必ず誰かに都合良く作られる。
有り体に申せば時の権力におもねって作られる。
作り話をでっち上げ、あれも名君、これも名君、
戦があれば勝者が歴史に残り、敗者の歴史は闇に葬られる。

歴史の書物はウソだらけ穴だらけ、矛盾だらけ──。

そこで一念発起した。
ウソのない歴史を作りたい。
一片のくもりもない歴史をこの世に残したい。

慶長3(1598)年8月18日、太閤秀吉は他界された。
そして徳川家康は関ヶ原の合戦で
逆賊・石田三成の大軍を討ち果たす……?

その言い分こそ奇怪至極、
石田三成を“逆賊”呼ばわりするのはバカバカしい。
三成から見れば、家康こそが逆賊である。
三成には三成の申し分があるだろう。

『彰往考来』
往たるを彰らかにし、来たるを考う。
これぞ学問の神髄である。
いにしえの真実を極めるのに何の遠慮がいるだろうか!


前回の「関ヶ原の戦い」から2年遡って
慶長3(1598)年8月19日・山城国伏見城──。

長廊下を、石田三成が硬い表情のまま早歩き。
向かった先は、豊臣秀吉の嫡男・豊臣秀頼と生母・淀殿が待つ広間。
太閤豊臣秀吉が薨去したことへのお悔やみを申し述べるためです。

なお、朝鮮出兵で異国の地には多数の日本兵が出兵しているし
朝鮮国に悟られないようにするためにも、
秀吉の死はしばらく伏せ、年末に盛大に葬儀を執り行う予定です。

そして政治については、秀吉の遺言通り
五大老五奉行の合議制で執り行っていくことになります。
この10人から徳川家康と前田利家が抜きん出ていますが、
誓紙血判の上なので、豊臣に忠誠をという点では揺るぎません。


その帰り、長廊下でその徳川家康の姿を見かけた三成は、
サササと駆け寄って来ます。
「昨夜、太閤殿下薨去」
「むむ?」

万事はご遺言通りに、との言葉を残して
三成は先を急ぎます。

そしてその家康は、
秀吉の位牌に手を合わせる北政所と対面します。

もし事がある時には、“まんかかさま”のお力添えを、と言う家康に
自分は用済み、秀頼の生母の淀殿が力を持っているとため息。
しかし家康は、淀殿は側室、まんかかさまこそご正室、と
もし不都合が起こったら自分に相談してほしい、と伝えます。


伏見城の徳川屋敷では、家康嫡男の徳川秀忠が弓矢の稽古です。
しかし、お見事!というほど矢が的に当たりませんw

伏見城から下がった家康は、秀忠に秀吉の薨去を伝え
急ぎ江戸に戻って軍備を整えるように命じます。
慌てふためきながら、秀忠は夜、
伏見から江戸に向けて馬を走らせます。


徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家の四大老と
石田三成、浅野長政、長束正家、前田玄以、
増田長盛の五奉行による会議が行われています。

主題は朝鮮出兵で、朝鮮には秀吉の喪を秘めたまま
和睦の使者を送り全軍の撤収を図ることにします。

そして朝鮮出兵の采配をとった三成と長政、それに
所領が近く最多の将兵を渡航させている毛利輝元の三人に
帰国兵の受け入れに当たるように利家は要請します。

これらは、ただひとり上洛していない上杉景勝の到着を待って
五大老五奉行が揃ったところで連署証文を作成し、
発効することを確認します。


その夜、毛利輝元のところに
浅野長政以外の四奉行が集まります。

輝元、三成、長政の3人を博多へ送るということは、
その間に何らかの決起があるかもしれず、
五大老五奉行のうち8人が考えを同じくしていれば
何かと好都合、という三成の考えなのです。

相分かった、と輝元は二つ返事で承諾します。


冬、朝鮮出兵で苦戦した14万の日本軍が帰国。
筑前博多に上陸しました。

それを出迎えた三成は、後日
伏見城で慰労の茶会を開きたいと言いますが、
加藤清正、黒田長政、藤堂高虎らは
三成の言い様に腹を立てております。

三成をかばうのは小西行長です。


慶長4(1599)年正月・伏見城──。

淀殿は、秀頼とともに
正月10日に伏見城から大坂城へ移ることになりました。
諸大名もこぞって、大坂城へ移ります。

秀吉の死も公となりましたが、葬儀がまだ済んでいません。
淀殿は、秀吉の葬儀は秀頼を喪主に、
もし秀頼が無理なら三成を後見としてと主張しますが、
家康が、北政所を喪主に、と横やりを入れているようなのです。

「一歩も引いてはなりませぬ」
淀殿は、三成にそう声をかけます。

淀殿たちと同じく北政所も大坂城西の丸に移りますが、
しかし家康は伏見城から動きません。
淀殿たちが大坂城に移るのが秀吉の遺言であれば、
家康が動かないのもまた、秀吉の遺言なのです。


島津義弘、島津忠恒が伏見城の三成に呼び出されます。
慶長3年12月10日、家康と歓談し茶会を開かれたかを詰問し
そこで密議がなかったか、なかったなら
誓紙を持ってそれを誓えと迫ります。

三成は何としても、
家康に味方する大名たちを抑制したいのです。

そこに家康が入ってきて
三成は立ち上がり退席していきます。

三成が島津に、誓紙血判を迫ったと知ると
家康は義弘を見据えます。
「三成に誓紙を出すなら、構えてわしにも出してもらうぞ」


予定通り、淀殿と秀頼、傅役の利家、そして三成らは
伏見城から大坂城に移り
家康は伏見城に残留して政務に当たりますが、
大坂城から伏見城の家康を糾弾する使者が発せられたのです。

「やっと来たか。ハッハッ。祝着じゃ」
鷹を手入れしていた家康は、
今にも吹き出しそうなほど愉快そうに笑顔を見せます。

使者たちは、家康が秀吉薨去以来、遺言に背く動きが多々あり
特に徳川と諸大名が縁組みを結ぶなど
豊臣家を蔑ろにするものである、と主張。

よって大老職を解任すべし、といきり立つ使者たちですが
秀吉が決めた大老職を勝手に解任されることこそ
秀吉の命に背くことだ、と家康は涼しい顔です。

申し開きを大坂城で、と迫る使者たちに、
「断る!」と目を剥き出しにする家康。

諸大名と婚を通じて届け出を忘れたのは家康の失態、
しかしそれを不忠とあげつらい、大老職を勝手に解くのなら
こちらから大老職を辞めて江戸に引きこもる! と
使者たちを怒鳴り上げます。


これで家康の逆臣は確定されました。

あくまでも大坂城登城を拒むなら、断固として討つべし。
正義は我らにあり、と利家を説得する三成に、
遅れて上洛して来た上杉景勝はポツリとつぶやきます。
「正義が勝ち負けを決めるのではない。勝ち負けが正義を決めるのだ」

大坂城には、四大老五奉行が集まり、
他に小西行長、長宗我部盛親などの諸将も入ります。
一方で、加藤清正、黒田長政、福島正則らが伏見城に入城。
伏見に入った諸将たちは、三成を目の敵にする者たちばかりです。

秀吉の心を己の心と信じ、豊臣のために粉骨砕身働いてきた三成は
自分には落ち度は一切ない、という自身で満ちあふれています。
これまでの働きは四大老も認めるところなのですが、
三成に人気がないのは、他の部分なのです。


淀殿にお茶を点てる北政所。

北政所は、石田三成には口出ししないようにと言います。
徳川家康と三成、いわば豊臣家家臣同士の争いなので
どちらにも取り込まれないように、と釘を刺しているのです。

淀殿は、もし動乱が起きて家康と三成が争い、
家康が勝利したら豊臣家は滅亡すると危惧しています。
ただそれは三成の主張をそのまま受け売りしているわけです。

淀殿とお江の方は姉妹だし、
淀殿の子の豊臣秀頼とお江の子の千姫は従兄妹同士でかつ許嫁。
豊臣と徳川の縁戚関係は亡き豊臣秀吉が決めたことなので、
それは家康も重々承知していることです。


1月下旬、秀忠は江戸城を出発。
一触即発の京・大坂へ向かいます。


作:ジェームス 三木
音楽:岩代 太郎
題字:ジェームス 三木
──────────
[出演]
津川 雅彦 (徳川家康)
岩下 志麻 (お江)
神山 繁 (本多正信)
田村 亮 (藤堂高虎)
上條 恒彦 (上杉景勝)
石田 太郎 (大久保忠隣)
──────────
山下 真司 (黒田長政)
香川 照之 (宇喜多秀家)
黒沢 年男 (長束正家)
保坂 尚輝 (大野治長)
佐藤 慶 (増田長盛)

江守 徹 (石田三成)
──────────
中村 梅雀 (語り・水戸光圀)
──────────
北村 和夫 (前田利家)
宇津井 健 (毛利輝元)
小川 眞由美 (淀殿)
草笛 光子 (北政所)
西田 敏行 (徳川秀忠)
──────────
制作統括:川合 淳志
演出:重光 亨彦

|

« 方向幕考(126)改 | トップページ | 知らぬ間に »

NHK大河2000・葵 -徳川三代-」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 方向幕考(126)改 | トップページ | 知らぬ間に »