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2017年7月25日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(07)弾劾状

歴史というものは、時の権力者に都合良く書かれる。
さまざまの思惑で削除あり、改ざんあり、ねつ造あり。
戦があれば勝者の歴史が残り、敗者の歴史は抹殺される。

石田三成については、出自さえ定かならず。

豊臣秀吉に見いだされて御小姓となり、
経営の才を発揮して佐和山194,000石の大名になるも
生まれつきの律儀さ生真面目さが災いして必ずしも人望高からず。
朝鮮出兵では賦役と論功行賞を巡って
加藤清正・福島正則・黒田長政らの怨みを買った。

三成は、石田正継の次男にして
兄・石田正澄は堺奉行であった。
妻・おりんの姉は、上田城城主真田昌幸の正室である。

三成には三男三女あり、長女と次女は家臣に嫁ぎ、
三女・辰姫は津軽信牧の側室に。
嫡男・重家、次男・重成、三男・佐吉については
諸説がいくつもあり、おいおい真実を探索したい──。


慶長5(1600)年7月12日・佐和山城──。

石田三成が挙兵の意志を明らかにし
最初の謀議を行ったのが、佐和山城でした。

無謀だ、どうみても勝ち目無し、と主張するのは
敦賀城主・大谷吉継。
しかし、三成に惚れた吉継は、家康と戦って
三成とともに見事に散りたいと言って三成を喜ばせます。

勝ち目が無い根拠は、三成はさほど高い位の大名ではないですが
吉継からみて残念なのは、三成には人望がないこと、なのです。
権力を持ち過ぎてしまい、大名を呼び捨てにしている。
そんな三成に果たしてついてくる大名がいるのか?

三成は、耳が痛い忠告はサラッと流し、
三成に従わずとも豊臣秀頼には従わざるを得ない、と
コチラ側が有利であるという考えは変えません。


大坂城に移った三成は、
増田長盛・長束正家・前田玄以の3奉行たちの説得に当たります。
「家康殿の不忠と専横はおのおの方も熟知しているところなり。
 おめおめとこれを見過ごさんか、豊臣家の行く末は
 荒波に翻弄さるる小舟のごとくなり」

3奉行が今立ち上がらなければ、やれ腰抜けよ臆病者よと
子々孫々まで嘲られるのは必定、と三成は必死に口説きます。

正家と玄以は同心するとその場で返事しますが、
長盛だけは、大筋では合意するも
秀頼のお墨付きが出てから同心したいと返答。
三成は、それは本末転倒と
3奉行の連署血判を秀頼に提出せよ、と長盛に迫ります。

島 左近は、とりあえず連署は後回しにして
奉行から家康へ、三成に挙兵の動き有りと内通させます。
他の大名たちは動く兆しが見えず、三成のみのようだと添えれば
家康は関東から大坂へ引き返すこともないだろう、と。

その間に、家康打倒の仲間を増やしていく作戦なのです。
三成は、その内通の役目を長盛にさせます。


江戸城では、会津攻めどころか
徳川家康は8日間も城内に留まっております。
榊原康政率いる先発隊3,000を差し向けています。

そして江戸城には、前田利長の母・芳春院(おまつ)と
細川忠興三男・忠利を人質として預かっております。
ただ、会津の戦が終わり次第、2人とも
実家に返上する、と家康は約束します。


3奉行に出馬を促された毛利輝元は、
広島城から大軍を引き連れて大坂城に到着。
17日には西の丸に入って腰を据えます。

そして家康への弾劾状『内府違いの条々』も完成しました。

一、五大老五奉行のうち前田利長と石田三成を罷免させたこと
一、利長生母を人質にとり江戸に送ったこと
一、何の咎なき上杉景勝を討ち果たすべく出馬したこと
一、奉行に相談なく大名の知行を増減させたこと
一、伏見城の留守居を追い出し私兵で占拠したこと
一、禁を犯し、五大老五奉行以外の大名と誓紙のやり取りをしたこと
一、北政所御座所たる大坂城西の丸を占拠し自ら居城していること
一、大坂城西の丸に本丸同様の天守閣を築いたこと──


事あるときは、伏見城を頼むと家康に念を押されていた
島津義弘が、豊久ら手勢300を引き連れて伏見城に駆けつけます。
しかし留守居の鳥居元忠は、そんな話は家康から聞いていないと
援助も断り、退散されよと鉄砲を撃ちかけます。

敵に回ってもいいのか!? という豊久の叫びに、
お答え申さず! と断固として断る元忠。
これまでじゃな、と義弘は家康を見限り、撤兵します。
「家康は我らに、恥をかかせた」


家康打倒の兵を挙げるように迫るため
三成は、諸大名から人質をとります。

しかし細川忠興屋敷では、妻のガラシアが
人質にはならず、屋敷に火を放ち自分を討てと命じます。
ガラシアは、燃える屋敷の中で
家臣に胸を長槍で刺されて命を落とします。

左近は、無理矢理人質を取らなくても
それぞれの屋敷で軟禁する手法もあったと三成に注進します。
ガラシアの姿勢が、自害して果てる人質たちが
増えることにならなければ良いが、と心配しているのです。


7月18日、大坂城西の丸で作戦会議が開かれます。

新たに大坂方に加担する大名は
小早川秀秋、島津義弘、小西行長、長宗我部盛親など。
このままいけば、総勢は95,000に膨れ上がる予定です。

19日、伏見城攻撃を以て開戦とし、宇喜多秀家と秀秋ら
40,000の兵に島津軍が加わってこれにあたります。
総大将の毛利輝元と奉行増田長盛は
大坂城に残って秀頼の補佐にあたります。


19日、ついに伏見城への攻撃が始まります。

同日、徳川秀忠軍は江戸城を出発。
この時点で徳川方は、大坂のこの動きを全く関知せず。
そして午後になってようやく、大坂からの急報が舞い込みます。
「石田三成に不穏な動きあり。挙兵の謀議を策しつつあり」

7日前の書状なので、すでに挙兵しているかもしれません。
家康は、初陣となる松平忠吉に、書状の読み方を教えます。
まずは書状が本物かどうか、花押をよく見て確かめる。
次に内容が本物かどうか──。

本多忠勝曰く、三成お得意のかく乱戦法だ、と。
つまり徳川を釘付けにし、動けなくし、
上杉討伐を遅らせて時間稼ぎをしようとするものです。

徳川がとる道は、急いで大坂に取って返すか
このまま江戸に留まるか、構わず会津に出陣するか。
忠吉は、会津に攻め入って上杉を滅ぼし
そのまま大坂へ反転して三成を討つことを提案します。

「三成が挙兵に及べばもっけの幸い。
 誰と誰がこれに加担するのか
 時を与えてじっくりと見極めようぞ。
 後で十把一絡げに葬れば、手間も省ける!」

上杉征伐は予定通りに行い
伊達政宗、最上義光、佐竹義宣に使者を遣わして
今すぐに会津に攻め込めと命じたのです。


21日、秀忠に遅れること2日、
家康本隊が江戸城を出発します。

これに、大坂から馳せ参じた
福島正則、池田輝政、細川忠興、黒田長政、藤堂高虎ら
豊臣家恩顧の大名たちが合流。

探り合って停滞していた世の中が、一気に動き出します。


作:ジェームス 三木
音楽:岩代 太郎
題字:ジェームス 三木
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[出演]
津川 雅彦 (徳川家康)
岩下 志麻 (お江)
神山 繁 (本多正信)
宍戸 錠 (本多忠勝)
三林 京子 (阿茶局)
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佐藤 慶 (増田長盛)
鈴木 京香 (細川ガラシア)
細川 俊之 (大谷吉継)
財津 一郎 (安国寺恵瓊)
夏八木 勲 (島 左近)

江守 徹 (石田三成)
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中村 梅雀 (語り・水戸光圀)
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宇津井 健 (毛利輝元)
小林 稔侍 (片桐且元)
小川 眞由美 (淀殿)
西田 敏行 (徳川秀忠)
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制作統括:川合 淳志
演出:尾崎 充信

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