プレイバック葵 -徳川三代-・(10)前哨戦
そもそも大名とは「知行1万石以上の領主」のことであるが、
慶長5(1600)年時点でも、ざっと240人いる。
これが東西に袂を分かち、天下分け目の合戦・関ヶ原に及んだ。
その始まりは奥州会津。
公然と服従を拒絶した上杉景勝を征伐するため
徳川家康は大軍を率いて関東へ下った。
その留守を狙って石田三成が挙兵し
これに西国の諸大名が加担して方々に火の手が上がった。
8月1日に伏見城落城、丹後の田辺城は現在も交戦中。
3日、北陸で前田利長と丹羽長重が開戦。
福島正則以下、豊臣秀吉恩顧の大名連合軍は8月23日に
岐阜城を攻め落とすと三成が籠る大垣城に迫りつつあり。
一方、伊勢路の西軍は安濃津城、松坂城、長島城にて交戦中。
ついでながら家康は未だに江戸城にて腰を据え
秀忠は宇都宮を発して西に向かいつつあり──。
岐阜城を落とした東軍は、
石田三成が籠る大垣城を横目に西北へ大きく迂回。
美濃赤坂に本営を構えます。
大垣城からわずかに4kmの地点です。
慶長5(1600)年8月25日──。
大垣城の石田三成は、大坂城の毛利輝元に
早馬を送って出馬を催促していますが
未だに動く気配なし。
焦る三成は、敵が大垣城を囲まず
関ヶ原付近に火を放つのを見て
大垣城を尻目に佐和山城を攻撃する兆しだと
わずかな手勢で佐和山に行って来ると主張。
実質的総大将の三成がチョロチョロと動き回っては
見苦しいし全軍の指揮にも大きく関わります。
島津義弘や小西行長は思いとどまるように説得しますが
「背に腹は替えられぬ」と出て行ってしまいます。
8月27日・江戸城──。
たった1日で岐阜城が陥落したことは
徳川家康のゴキゲンを大いに高めます。
その先陣だった池田輝政に
大軍が来るまで待つべしと書状を送り、
家康は松平忠吉に9月1日の出立を命じ
西に向かうことにします。
ちなみに宇都宮を発した徳川秀忠は、
このころ上州松井城あたりを進んでいます。
佐和山に戻った三成は、焦りを隠せず
落ち着き払う父や兄を前にウロチョロと動き回ります。
そこに、安濃津城、松坂城を
西軍の手で陥落させたと知らせが入ります。
三成は、食事もそこそこに
小早川秀秋を味方に引きずり出そうと、
兄・石田正澄とともに高宮に向かいます。
9月1日、家康は3万の軍勢を率いて江戸を出発。
3万といっても、精鋭部隊のほとんどは
秀忠につけているので、実質的には6,000程度──。
彦根の高宮本陣に到着した三成と正澄、大谷吉継は
秀秋に面会を求めますが、秀秋は病と称して出てきません。
もし秀秋が西軍に味方したら、毛利輝元も出馬する。
小早川と毛利の大軍が動けば、西軍の勝利は間違いないのです。
そのためには、家康をこてんぱんに成敗しなければなりません。
西軍に味方して勝ったら、北政所の甥にあたる秀秋には
関白職をお願いするつもりだ、と言って
どうにかおびき出そうと試みますが……、
「我が主は病にござります」
一向に埒があきません。
9月3日・大津城──。
3,000の軍勢を率いて大津城に戻った京極高次。
大津城に戻った、ということは
西軍を裏切ったということになります。
ただ、大津城の周辺は三成の領地であるので
大津城はすぐにも取り囲まれる可能性は高いのです。
6日、高次は籠城の意志を示すため、
自ら城下に火を放ちます。
小諸本陣の秀忠は、上田城の真田昌幸に
降伏を勧めて東軍への参陣を求めたところ
わざと返事を送らせ、挑発的な態度に出てきました。
ここまでバカにされては恥辱、と
上田城攻撃を主張する榊原康政と
一国も早く西に向かうべしと主張する本多正信。
徳川軍は38,000、真田軍はわずかに6,000。
後々のためにも上田城は叩き潰しておきたい、と
秀忠は上田城攻撃を許します。
9月8日、西軍の精鋭部隊は大垣城に続々と到着し、
7万人に膨れ上がっています。
一方、東海道を西進していた家康は、
浜名湖を過ぎて白須賀に到着します。
小早川秀秋から書状が届き、
内応を約束する約定を提出したのです。
ただ、秀忠に宛てて書状を送っていたのですが
その返事が未だに来ないことを不審がります。
9日、上田城を攻めあぐんだ秀忠は
真田の術中に陥ったのを悟って小諸へ引き揚げます。
そしてみだりに戦の口火を切って軍令を破ったということで
真田攻めに当たった者たちを処分することにしますが、
もとは攻撃の下命があったからこそ攻撃したので
その処分は納得できるものではありません。
打ち首処分の者たちの断末魔が、
秀忠の耳に否応にも入ってきます。
そこに、8月28日に江戸から送った家康からの書状が
長雨による川の増水等に阻まれて、ようやく秀忠の元に到着。
「9月10日ごろまでに美濃赤坂に着陣いたすべし」
それを読んだ秀忠は、顔色が真っ青になります。
10日というのは、明日です。
秀忠は、真田には構わず小諸から西に進むも
難所という難所ゆえ、進軍はなかなか進みません。
9月11日・清洲城──。
家康はゆっくりと清洲城に入りますが
7日時点で上田城を攻撃中、という情報から
秀忠が遅参する知らせを受け、たちまち不機嫌になります。
「まだ信州におるのか! あの……たわけがー!!」
時間稼ぎのため、家康は風邪を引いたと偽り
清洲城で逗留、赤坂入りを日延べすることにします。
一方で、徳川の救援を待っている大津城は
本丸でも火の手が上がり、いよいよ危うくなっていますが
京極高次・お初以下、よく持ちこたえています。
その状況を知った淀殿は、増田長盛に命じて
大津城での戦を止めさせ、お初も松の丸も助けよと命じますが
豊臣家の家臣同士の争いに、豊臣家が口を差し挟めません。
大人の事情ってやつですね。
9月13日、秀忠本軍はようやく木曽路に入ります。
昼も夜も行軍し、兵たちも疲弊しつつありますが、
秀忠には、家康からの厳命がある以上
それどころではありません。
三成の元に、小早川秀秋から参陣を約束する書状が届き
色めき立つ西軍諸将ですが、
美濃赤坂の岡山村に、家康の馬印が立ったと知らせが入ります。
三成は、家康が美濃に到着したことが信じられません。
このままでは味方の士気にも関わります。
島 左近の案で、500ほどの手勢で
杭瀬川を渡り、赤坂本陣に奇襲で攻めかかります。
その攻撃を食い止めた徳川軍ですが、
左近はさっと撤退すると、それに引きずられて
川を渡って攻撃に転じます。
そこに待ち構えていたのは、西軍の鉄砲隊です。
次々に射撃され、倒されて行きます。
作:ジェームス 三木
音楽:岩代 太郎
題字:ジェームス 三木
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[出演]
津川 雅彦 (徳川家康)
岩下 志麻 (お江)
宍戸 錠 (本多忠勝)
神山 繁 (本多正信)
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竜 雷太 (蒲生郷舎)
小野寺 昭 (京極高次)
細川 俊之 (大谷吉継)
津嘉山 正種 (石田正澄)
佐藤 慶 (増田長盛)
夏八木 勲 (島 左近)
江守 徹 (石田三成)
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中村 梅雀 (語り・水戸光圀)
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波乃 久里子 (お初)
小林 稔侍 (片桐且元)
蟹江 敬三 (福島正則)
財津 一郎 (安国寺恵瓊)
小川 眞由美 (淀殿)
西田 敏行 (徳川秀忠)
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制作統括:川合 淳志
演出:重光 亨彦
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