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2017年8月 8日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(11)天下分け目

城というものは、堀を巡らし石垣を築き
合戦に備えてあらゆる工夫が施される。

これを攻める側は、慣れぬ敵地に乗り込み
城方から丸見えの平地にさらされて
武器弾薬の補給も心もとなく
野入りして戦う不利を感受しなければならない。

よって城攻めには3倍以上の兵力が必要、
というのが戦国の常識である。

このような城攻めを得意としたのが太閤豊臣秀吉。
火攻め水攻め兵糧攻めと華麗なる策謀を駆使して
多くの城を落としてきた。

一方で、野戦を得意としたのが徳川家康。
一気に勝敗を決する早技には定評があった──。


慶長5(1600)年9月14日、
石田三成率いる西軍は美濃大垣城周辺に集結。
徳川家康率いる東軍は美濃赤坂村に布陣して
対峙すること半月。

三成の腹心・島 左近が
500人の手勢を率いて杭瀬川の野営軍を急襲。
東軍を翻弄しておよそ30の首をとりました。

これが関ヶ原の前哨戦とも言うべき戦いで
西軍はまず、鮮やかな勝利を収めました。


京極高次の守る大津城は、もはや本丸を残すのみで
妹のお初が大事と、大坂城の淀殿は
木食上人を大津城に派遣し
大津城開城を命じる書状を送りつけています。

前哨戦で勝利した西軍は、勢いに乗っているのは確かです。
逆に東軍は、少し意気消沈したところがあります。
西軍の鼻を折らんと、大垣城攻撃を主張するものあり
いっそ大坂城に向かわんと力を込めるものあり。

まとまる様子はありません。

家康は得意とする野戦に敵を引きずり込むため
本多正純に、忍びを駆使して佐和山城を攻める噂を流させます。

しかし、この場には徳川秀忠はまだ到着しておりません。
弟の松平忠吉がそれを聞くと、家康は目を剥き出しにします。
「見限る!」

実父が兄を見捨てたとあって、
松平忠吉はとても不安気な表情で
山に向かって「兄上!」と叫びますが、
その時秀忠軍はいまだに木曽路にあり。


大垣城の西軍本陣では、
いまくたばっている東軍を叩くには持ってこいと
みなが総攻撃を主張しています。

そんな時、かの噂がちらほらと……。

家康が夜にも佐和山城を攻めるらしい。と。
確かに荷駄隊が編成されているようですし、
関ヶ原から佐和山方面の道も
足場固めを始めているようです。


大垣城西南にある松尾山には、
輿に乗った大谷吉継の姿がありました。
三成の密命を帯びて小早川秀秋の陣に入ります。

豊臣秀頼が15歳になるまでは、
秀秋に関白職を譲り渡すこと。
播磨国一円を渡すこと。
江州において10万石ずつを
稲葉正成と平岡頼勝の両人に与えること。

赤いマントを身にまとった秀秋は
安国寺恵瓊・大谷吉継・石田三成・長束正家・
小西行長の連署による書状を受け取ります。

佐和山に向かう家康軍を吉継は迎え討つつもりなので
松尾山の秀秋はこのままここに留まって、のろしを合図に
敵の側面を突き崩して欲しい、と吉継に言われます。
「くれぐれも相違なかるべし」


「天下を二分する合戦なるに、徳川の本隊が間に合わず!」
豊臣恩顧の大名に頼って三成を倒したとあっては
家康の立つ瀬がありません。
何としても、徳川の手で勝利のきっかけを作らねばなりません。

家康は先陣を、四男忠吉に命じます。

そんな時、敵の主力が大垣城を出て
関ヶ原方面へ移動しているとの報告を受けます。
「しめた!」


関ヶ原は美濃国不破郡に位置し、かつては不破関がありました。
北に「伊吹山系」、南に「鈴鹿山脈」が裾野を広げ
西に「今須山」、東に「南宮山」を控えて
東西約4km、南北約2kmの高原盆地です。

この中を「中山道」が貫通し
東は木曽路、西は近江より京・大坂へ通じ、
中央の分岐点より西北へ「北国街道」、
東南へ「伊勢街道」と、東西をつなぐ交通の要衝でした。

慶長5年9月15日、
関ヶ原への一番乗りは石田三成勢6,000人で、
これが午前1時ごろ、まっすぐに西北の奥まで進み
「笹尾山」のふもとに陣を構えます。

ただし、関ヶ原の周辺にはかねてより野営の陣もあり。
西南の「山中村」あたりには大谷吉継勢4,100人と、
戸田重政・平塚為広ら合わせて1,500人。

「南宮山」には毛利秀元を中心に、長宗我部盛親・
吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らの30,000人余。

そして「松尾山」には小早川秀秋の15,000人。
その近くの平野には脇坂安治の1,000人、小川祐忠の2,000人、
朽木元綱の600人、赤座直保の600人。

三成に続いて到着したのは島津義弘勢1,500人で
三成勢近くの「小池村」に布陣。
三番手の小西行長勢4,000人は島津勢の右手に。

最後に到着した宇喜多秀家勢17,000人余は
「天満山」の前に五段構えの布陣。
こうして85,000人とも100,000人とも伝えられる
西軍の総勢が関ヶ原に集結したのは午前4時ごろでした。


東軍の先頭、福島正則勢6,000人が
関ヶ原に到着したのは午前5時ごろ。
深く前進して天満山の宇喜多勢と対峙。

中山道の北に田中吉政3,000人、筒井定次1,800人、
南に藤堂高虎2,500人、京極高知3,000人が布陣。

二番手の細川忠興5,000人、
加藤嘉明3,000人は北国街道沿いに。
黒田長政5,400人は「丸山」に。

三番手は徳川勢で、松平忠吉3,000人、井伊直政3,600人、
本多忠勝500人、ほかに古田重勝1,000人、織田有楽450人。
遊撃部隊として寺沢広高2,400人、金森長近1,100人、
生駒一正800人が控えて、

徳川家康率いる20,000人は「桃配山」に。

さらに南宮山の毛利勢に備えて池田輝政4,500人、
浅野幸長6,500人、山内一豊2,000人、有馬豊氏900人。
東軍の総勢は75,000人とも100,000人とも伝えられ、
家康が桃配山の本営に陣取ったのは午前6時です。


関ヶ原には濃い霧がかかっています。

桃配山の家康は、毛利勢が山を下りないか監視を続けさせ
笹尾山の三成は、霧が晴れるまで待つしかない状態です。

一方、世継ぎ徳川秀忠勢38,000人の本隊が
宇都宮からの移動に手間取って
未だに木曽山中をさまよっていまして
関ヶ原の開戦に間に合うのは絶望的となっていました。

戦が始まってしまう、と馬で全力で駆ける秀忠ですが、
大軍は疲弊し、落伍者が続出しています。
榊原康政はしばらくの休息を提案しますが、
秀忠は家康の雷が怖くて、配下を気遣う余裕すらありません。


「合戦の火ぶたを切るのは、徳川の直臣たるべし」
忠吉の元に現れた直政は、忠吉を先導して
霧の濃いうちに福島勢、宇喜多勢の間に割って入ります。

頃合いでござる、と直政は
後ろからついてきた鉄砲隊を前に出し、
宇喜多勢に向けて発砲させます。
「引け!」

宇喜多勢から応戦の発砲があり、福島正則は大激怒。
しかも仕掛けたのが直政と聞いて、
名誉ある先陣を横取りされてさらに怒りが倍増します。
「おのれ……この正則を差し置いて!」

午前8時、決戦ののろしが上がります。

(西軍) 宇喜多秀家 vs 福島正則 (東軍)
鉄砲での応戦が終わると、歩兵が駆けていって激突します。

(西軍) 大谷吉継 vs 藤堂高虎 (東軍)
両軍とも騎馬隊が激突、そんな時
京極高知勢が大谷勢の脇に突っ込みます。

(西軍) 石田三成 vs 黒田長政・細川忠興 (東軍)
長政は、歩兵を前に進ませますが、
三成方の島 左近は、敵を十分に引きつけて発砲。
それに対して忠興は弓を雨のように無数に降らせます。


午前9時、霧は未だに晴れず。
勝っているのか負けているのか全く状況がつかめず
家康はイライラしています。

この際、本営を移すことにして
桃配山を下りることにします。


その間、よく攻撃していた左近を討ち取られて
三成は東軍への怒りを倍増させます。


毛利秀元勢が戦に加わるべく南宮山を下りたいと
ふもとに陣取っている吉川広家に使者を送りますが
吉川勢は今から昼食だから、一時は動けないとの返事です。

池田輝政や浅野幸長ら15,000人の軍勢がひしめいていて
何もしないでもそれを釘付けにしているだけでも
大きな手柄だと考えているのです。

出馬するつもりがないなら道を開けてほしいと
なおも食い下がる使者ですが、
毛利家としての先陣は広家と決まっているので
抜けがけさせまいと頑として受け入れません。

実は、広家は密かに東軍に内通しているのです。
出口に吉川というフタをすることで、
毛利軍を動けなくさせているのです。


午前10時、秀家はさらに騎馬隊を投入します。
その陣中、鉄砲隊として戦に参加していたのが
後に有名になる宮本(新免)武蔵ですが、
この時はまだ17歳の少年に過ぎません。

左近を失い、手薄になった三成勢。

三成は島津の陣営に使者を送り、助勢を依頼しますが
使者に立った八十島助左衛門が馬上から物言いしたもので
島津豊久が激怒して斬り掛かろうとします。
慌てて逃げ去る使者。

代わって、三成自ら島津陣営に走ります。
「先ほどはご無礼仕った」

その上で、西軍本陣は黒田・加藤嘉明・細川軍に
入れ替わり立ち替わり攻め立てられて難儀しているので
助力を賜りたい、と主張を繰り返します。

しかし、豊久は、各隊が
おのおのの持ち場で全力を尽くす約束で参陣したので、
前後左右、他の部隊にまで顧みる余裕はない、と突っぱねます。
それは島津義弘も同じ考えです。

愕然とする三成です。


本営を関ヶ原へ移した家康は
状況が分かるようになってきたからか
テキパキと指示を出します。

ただ、イライラしているのは家康も同じでして
寝返りを約束している秀秋が動かないことに
イライラは最高潮。
「小早川はどうした! あのコワッパめが!!」


作:ジェームス 三木
音楽:岩代 太郎
題字:ジェームス 三木
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[出演]
津川 雅彦 (徳川家康)
宍戸 錠 (本多忠勝)
田村 亮 (藤堂高虎)
勝野 洋 (井伊直政)
山下 真司 (黒田長政)
寺泉 憲 (松平忠吉)
──────────
竜 雷太 (蒲生郷舎)
佐々木 功 (細川忠興)
麿 赤兒 (島津義弘)
山口 祐一郎 (島津豊久)
細川 俊之 (大谷吉継)

江守 徹 (石田三成)
──────────
中村 梅雀 (語り・水戸光圀)
──────────
蟹江 敬三 (福島正則)
夏八木 勲 (島 左近)
財津 一郎 (安国寺恵瓊)
西田 敏行 (徳川秀忠)
──────────
制作統括:川合 淳志
演出:重光 亨彦

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