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2017年10月 3日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(27)義憤の開戦

ドラマは進んでますます佳境、
お待ちかね「大坂の陣」を前に
家康の宗教政策をザッと予習しておきたい。

織田信長は部力で寺院を破壊し、
焼き討ちを重ねて徹底的に宗教勢力を弾圧した。
豊臣秀吉は寺院の再建は許しつつ
刀狩りや検地によって無力化を断行。

これに対して家康は、厳格な寺院法度を取り決め
法律による締め付けを図ったのである。

家康は、慶長18(1613)年
キリシタン禁令を発して京や長崎の寺院を閉鎖。
高山右近、内藤如安(じょうあん)らを捕らえてルソンに追放。
同年、僧侶の最高位を示す紫の衣「紫衣(しえ)」の勅許に
幕府の同意を要する、と通告。

慶長19(1614)年には五山の僧侶に論文試験を課し
成績によって知行の額を増減。
優秀な学僧には学問料を授与。

家康の宗教ブレーンは、智楽院の南光坊天海、
南禅寺の金地院崇伝、儒学者・林 道春(羅山)。
宗教行政の責任者である京都所司代の板倉勝重も元は僧侶。
蒼々たるメンバーである──。


慶長19(1614)年4月12日
勅使武家伝奏が江戸城に到着します。
徳川秀忠を右大臣に任命し
五女・和姫を入内させ女御とする、とのお達しです。


5月21日、駿府城の徳川家康は、天海僧正や
金地院崇伝を呼び寄せて重大な密議を図っています。

山城国方広寺大仏殿の再建が落成し
来たる8月3日が開眼供養の日となったのですが、
それは家康自身が認めたことでありながら
おもしろうない、と横やりを入れているのです。

淀殿は築城の可約にも応ぜず、江戸に人質もおかず
幕命を軽く見ているようなところがあります。
そんな女ギツネを灸を据えたいところです。

「いっそ、開眼供養を差し止めますか」
本多正純の思い切った提案に、
重畳至極! と家康はニッコリ。

しかし林 道春は、それ相応の理由がなければと難色を示し、
方広寺大仏殿の再興は豊臣秀吉の遺命に基づく豊臣家の悲願で
もしも供養を差し止めれば由々しき事態が起こるかもしれない、と
天海僧正も反対の立場です。

豊臣家恩顧の大名たちは、
すでに亡くなっている者がほとんどです。
徳川へ謀反する者もおるまい、と
家康は供養差し止めの理由を考えろ、と天海に命じます。


7月10日、大坂城。
大坂城に天海からの質問状が届けられます。

供養の時、天台宗と真言宗はどちらが上座か、
もし天台宗が上席でなければ参列できない、というものです。
そして真言宗も、東寺と高野山のどちらを上座とするのか。
内紛が起きようとしています。

これが家康の差し金であると即座に理解する淀殿ですが
豊臣秀頼は、天台宗を上席とし、
真言宗の内紛は悶着を取り締まれ、と大野治長に命じます。
口惜しそうに扇子をパチンと鳴らす淀殿です。


18日、駿府城。
質問状に対する秀頼からの返書が届けられます。

家康はその内容を聞くや、
「まかりならぬ」と突っぱねます。
そしてさらに、難題をふっかけるのです。


「延期じゃと!?」
淀殿が声を荒げます。

26日に届けられた内容によれば
方広寺鐘銘に関東不吉の文言あり、というのです。
この取り調べが終わるまでは
開眼供養の差し止める、と言ってきたのです。

家康の逆鱗に触れたのは『国家安康』。
家康の二文字を切り裂き、のろいをかけたもの。
そして『君臣豊楽』は
豊臣家の隆盛を念じたものと解釈したのです。

片桐且元は、その銘文を作成した清韓に
家康調伏(呪い殺すこと)の意図を確認しますが
もちろんそんな意図はあろうはずもありません。


結局 延期を余儀なくされて、
8月20日、駿府城で激論が交わされます。

ここで大坂方はさまざまな言いがかりをつけられ
且元は駿府城に留め置かれ、
清韓は紫衣をまとっていたためか
その取り調べを受けています。


もはや後には引けぬ、と激昂する治長。
「勝ち目はなかろう」と力なく答える常高院ですが、
淀殿は徳川と戦うつもりになってきています。

諸大名は徳川家に対して恭順を示しつつ、
腹の底では徳川の専横を憎んでいるはず。
お家を取り潰されて浪人となっている者たちも
諸国にあふれている、と。

方広寺開眼供養をつぶされ、臨時の豊国祭をつぶされ
豊臣家は天下に恥をさらした。
太閤秀吉のことを思えば、もうこれ以上
淀殿はもう我慢がならないのです。


29日、駿府城。
淀殿の側近・大蔵卿局と正栄尼が
名代として家康に対面します。

無理難題を吹っかけられ続けているので
ふたりとも緊張の面持ちで家康を待ちますが、
対面所に入ってきた家康は好々爺で
難しい話は何もないから、と上機嫌です。

関ヶ原の合戦の後、
豊臣家を取り潰せと言う諸大名もある中で
秀吉の遺言で親代わりとして
秀頼を守り通してきたと恩を売る家康は、

方広寺銘文と、大坂城に招く浪人たちの疑惑について
とりあえずは追及していますが、
それはあくまでも形ばかりの追及でありまして、
否定する大蔵卿に「分かった」とそれ以上の詮索はしません。

大蔵卿と正栄尼は、家康の勧めで江戸城に向かいます。


9月7日、未だに駿府に留め置かれる且元は
家康の勘気を解く3通りの方法を正純から言われます。

秀頼が大坂城を出て他の所領に移ること、
他の大名と同じく江戸に参勤すること、
淀殿を江戸に向かわせて人質となること──。


江戸城でも盛大な歓待を受けた大蔵卿と正栄尼は
大坂城に帰ってきて、ありのままを淀殿に報告します。
にわかには信じられぬ、とため息をつく淀殿ですが、
信じられぬのは獅子身中の虫、と且元の名を上げます。

江戸から大坂に向かう大蔵卿らは伏見で且元と対面しますが、
正純が提示したその三か条を大蔵卿に示したのです。
さらには且元は、家康との密命により
自分の息女を正純の息子に嫁がせることにしたそうです。

大蔵卿と正栄尼は、急いでそのことを知らせようと
伏見から夜船を乗り継いで急いで帰って来たそうで、
淀殿と治長は、明日帰着する且元を待ち構えることにします。


18日、帰着した且元に目通りを許す秀頼ですが、
すでに大蔵卿から聞いていた三か条を突っぱね
「受け入れねば取り潰されまするぞ!」と絶叫する且元を置いて
淀殿も秀頼も大広間から出て行きます。

豊臣家家臣たちの様子も変です。
且元だけが浮いた存在になっています。

それ以降、且元は病と偽って大坂城に出仕をせず
且元を暗殺して首を家康に送りつけようと話していた
治長や弟の大野治房も、襲撃の準備を始めます。


10月1日、駿府城。
治長・治房兄弟に屋敷を取り囲まれた且元が
京都所司代に援軍を求めているという知らせが
家康の元に届きます。

家康は京都所司代に且元の脱出に手を貸してやれ、と
援軍を差し向けさせます。

大坂城では呼びかけに応じて浪人たちが入城しはじめ
城内にいた織田信雄は9月27日に大坂城を退去して
山城龍安寺に入ったそうです。

それを聞くと家康は、近隣諸国の
近江・伊勢・美濃・尾張の諸大名に出陣を命じます。


高台院は戦を止めるために京から大坂入りを図りますが
警護兵が何としてもそれを食い止め、
もはや大坂に近づくことすら出来ません。
腹立たしい、と珍しく冷静さを欠く高台院です。


4日、江戸城。
江戸に参勤中の西国の諸大名たちの中には
帰国したがっている者もおりまして、
それをどうするか話し合っていたところに
お江が飛び込んできます。

もし淀殿に無礼があったなら
自分が髪を切って詫びる、と騒ぎ立てるお江は
姉と千姫のことが心配で心配でならないのです。

秀忠に追い出されたお江は、愛娘を思って号泣します。


6日、大坂城には長宗我部盛親、毛利勝永、
増田長次、後藤又兵衛らが入ります。

家康への恨みをこの時に晴らすと鼻息荒い男たち。
そこに、紀州九度山を脱出した真田幸村も
夜にも大坂城に入る模様、との知らせに大喜びです。


家康から、江戸城に留まれとの命を受けた秀忠。

ただでさえ関ヶ原合戦に遅参して
あまねく天下に恥をさらした秀忠は
大坂の陣でも後れをとれば恥の上塗りであり
今すぐに出陣すべしと躍起になっているのです。


作:ジェームス 三木
音楽:岩代 太郎
題字:ジェームス 三木
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[出演]
西田 敏行 (徳川秀忠)
尾上 菊之助 (豊臣秀頼)
田村 亮 (藤堂高虎)
石倉 三郎 (青山忠俊)
渡辺 いっけい (本多正純)
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神山 繁 (本多正信)
保坂 尚輝 (大野治長)
馬渕 晴子 (大蔵卿局)
金田 龍之介 (天海僧正)
波乃 久里子 (常高院)

津川 雅彦 (徳川家康)
──────────
中村 梅雀 (語り・水戸光圀)
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草笛 光子 (高台院)
林 隆三 (土井利勝)
小林 稔侍 (片桐且元)
小川 眞由美 (淀殿)
岩下 志麻 (お江)
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制作統括:川合 淳志
演出:重光 亨彦

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