プレイバック葵 -徳川三代-・(33)東照大権現
徳川家直系男子の命名には一種の法則がある。
徳川家康の「康」は、祖父・松平清康の「康」、
徳川秀忠の「忠」は、祖父・松平広忠の「忠」。
広忠の祖父は信忠、信忠の祖父は親忠と、
一代おきの諱(いみな)を継承していた。
三代将軍徳川家光の「家」は
祖父・徳川家康の「家」であるが、
おもしろいのは、家康の九男・義直、
十男・頼宣、十一男・頼房の命名である。
徳川義直の「義」は、源氏の流れを汲む
新田義重およびその一族のキーワードであり、
頼宣、頼房の「頼」は、家康が崇拝して止まない
源 頼朝の「頼」なのである。
家康は、徳川家の祖先が源氏であることを
わが子の命名によってアピールしたに違いない。
源氏でなければ将軍になれないからである──。
元和2(1616)年4月17日、
太政大臣従一位の徳川家康は駿府城で薨去。
棺は遺言通りただちに久能山に移され、
神式の廟所に祀られます。
葬儀は5月17日、
江戸増上寺でしめやかに執り行われました。
譜代の重臣の本多正信から隠居願いが出され、
5月21日、幕府から許しが出ました。
主君・家康の葬儀が終わって
ひと段落ついたと考えたのでしょうか。
引退した正信は相模甘縄城へ移り
半月後には家康の後を追うようにこの世を去ります。
享年79。
5月29日、竹千代の傅役として
武蔵川越城主・酒井忠利、書院番頭・青山忠俊、
安房勝山城主・内藤清次の3名が追加されます。
6月15日、京の高台院屋敷に
天海僧正はじめ詰問の使者が訪問します。
5月7日に、妙心寺にて
大坂城戦没者を弔う法要を営んだ高台院ですが、
この期間は家康薨去の喪中であり、家康よりも
大坂で死んだ戦没者を優先したと受け取られかねないわけです。
「お気に召さずば、いかようにも罰せられるがよい」
高台院はため息まじりにつぶやき、怒りを露にします。
自分は秀吉の政所である。子も孫も殺された今
だれが戦没者の御霊をなぐさめられるのか?
天海は慌てて、将軍は戦没者供養をとがめているのではなく
その時期が良くなかったと助け舟を出すのですが、
高台院は眉ひとつ動かさず、冷たく言い放ちます。
「太閤殿下にはお墓すらございません」
豊国廟が徳川の手によって取り壊されたことを
秀忠にはぜひ思い出してもらいたい、と言っていたと
天海に伝えます。
越後高田城主・松平忠輝は、家康六男ながら気性ことのほか荒く
大坂夏の陣に出馬途中の自軍を追い越した旗本を殺害し
家康の逆鱗に触れて上州藤岡に蟄居中でしたが、
今度は花井主水の不祥事で、
事件の事実を隠蔽し幕府をたばかったとのことで
忠輝を改易して伊勢朝熊に配流の処分を下します。
忠輝の改易は、蟄居中ながら
狩りを行い魚肉を喰らい遊興に明け暮れた
忠輝の反省の姿勢を見ての処分でもありました。
身内ながら法は曲げられぬと、秀忠は忠輝を見捨てます。
7月12日、伊勢に向かった忠輝は
小田原で剃髪を行い、僧となりました。
伊勢朝熊の金剛證寺は女人禁制、
もちろん魚も肉も御法度であります。
忠輝の妻・五郎八姫は、
伊達政宗の居城・仙台に引き取られていきました。
千姫の嫁ぎ先ですが、
生前家康は公家から選ぶと言っていたものの
豊臣秀頼に遠慮してか、上方へは行きたくないと言い出し
本多忠政の嫡子・忠刻と変更となりました。
本多正純は、秀忠が家康の遺言を
次々とひっくり返していることに腹を立てますが、
権勢は家康の時代から秀忠の時代へと移ったのです。
鳴いても喚いても、正純から権力はなくなりつつあります。
千姫は、2度目の結婚を恥じていますが、
母・お江は3度目の結婚で秀忠と出会っていますので
もはや笑い話でしかありません。
気楽に気楽に、と常高院は笑います。
9月半ば、千姫は江戸城から嫁いでいきます。
千姫が嫁ぐ直前、幕府にただならぬ密告があります。
すなわち、石見津和野城主・坂崎直盛が花嫁行列を襲い、
千姫を奪うという計画がある、とのことです。
坂崎は、関ヶ原で負けた宇喜多秀家のいとこにあたります。
そもそも坂崎は、家康の命により
后を亡くしたばかりの八条宮智仁親王へ
千姫を再嫁させるために骨を折ってきたわけですが、
秀忠はこれを破談にし、本多忠刻に嫁がせると決めました。
坂崎が言いたいのは、たとえ秀忠の時代であるにせよ
家康から正純を経由して坂崎に密命が下ったわけだから
先君の命令の方が重いのではないか? ということなのです。
言いたいことを言って城から下がる坂崎は、
彼の家臣たちに城中で暗殺されます。
これが坂崎事件の全容であります。
大坂夏の陣における千姫救出の事実はなく
横恋慕して千姫奪還の事実もありません。
秀忠は、忠輝事件と坂崎事件を受けて
武家諸法度の見直しを金地院崇伝に命じます。
忠輝事件では、家臣が主の罪を隠し続けて
結局は隠蔽と家臣が罰せられることになりました。
坂崎事件では、家臣が主の罪を訴え出て
主を殺害して幕府の意向に従いました。
つまり、家臣にとってお家が大事か、主が大事か。
大名にとって国家が大事か、将軍が大事か。
そこをハッキリとしていなければ、
またも同じような過ちが起きてしまうというわけです。
武家諸法度を起草した崇伝ですが、
家康の死後わずか半年で見直しするのは
畏れ多いことだ、と辞退します。
秀忠は崇伝に暇を取らせ、京に帰します。
元和3(1617)年3月15日、
家康の棺は駿河久能山の廟所から日光へ移ります。
4月8日、日光山の奥の院の岩窟に安置されます。
17日、落成したばかりの東照社において
壮大な遷宮の儀が執り行われました。
日光社を覆い尽くしたのは3万人、
こうして家康は東照大権現の名において神と崇め奉られたのです。
作:ジェームス 三木
音楽:岩代 太郎
題字:ジェームス 三木
──────────
[出演]
西田 敏行 (徳川秀忠)
田村 亮 (藤堂高虎)
石倉 三郎 (青山忠俊)
渡辺 いっけい (本多正純)
──────────
すま けい (伊達政宗)
神山 繁 (本多正信)
金田 龍之介 (天海僧正)
波乃 久里子 (常高院)
──────────
中村 梅雀 (語り・水戸光圀)
──────────
草笛 光子 (高台院)
林 隆三 (土井利勝)
樹木 希林 (お福)
岩下 志麻 (お江)
──────────
制作統括:川合 淳志
演出:重光 亨彦
| 固定リンク
「NHK大河2000・葵 -徳川三代-」カテゴリの記事
- プレイバック葵 -徳川三代-・(49)名君づくり [終](2017.12.19)
- プレイバック葵 -徳川三代-・(48)さらば秀忠(2017.12.15)
- プレイバック葵 -徳川三代-・(47)三兄弟(2017.12.12)
- プレイバック葵 -徳川三代-・(46)女帝即位(2017.12.08)
- プレイバック葵 -徳川三代-・(45)春日局(かすがのつぼね)(2017.12.05)
コメント