プレイバック葵 -徳川三代-・(44)皇子降誕
『葵 -徳川三代-』も数えてはや44回、
(並べている封書の束を見せながら)
このように多くのお手紙をいただいた。
厚く御礼申し上げる。
とともに、疑念およびお叱りも多多あれば
ここに謹んで返答つかまつる。
タイトルバックに毎回出てくる見事な桜はどこにあるのか?
また、美しい滝はどこか?
──美しい滝は群馬県利根村にある『吹割(ふきわり)の滝』で、
高さ7m、幅30mにも及ぶこの滝は
東洋のナイアガラと称されている。
──美しい桜は、奈良県宇陀(うだ)町にある『瀧桜(たきざくら)』、
戦国の武将・後藤又兵衛の伝説から
「大宇陀の又兵衛桜」とも呼ばれている。
オープニングに登場する、
介さん格さんの本当の名前は何と言うのか?
──佐々宗淳(さっさ・むねきよ=演者 浅利香津代)、通称「介三郎」。
元は京都妙心寺の僧侶であったが、水戸光圀に見いだされ
大日本史編纂のため日本各地に資料収集の旅を行った。
『水戸黄門漫遊記』では佐々木助三郎となっている。
──安積澹泊(あさか・たんぱく=演者 鷲尾真知子)、通称「覚兵衛」。
常陸国水戸の武士ながら、光圀に見込まれて
歴史研究所『彰考館』の総裁となった。
『水戸黄門漫遊記』では渥美格之進となっている──。
訃報が二条城に届いたのは寛永3(1626)年9月18日でした。
徳川秀忠はただただ呆然と座したままです。
二条城から江戸城への帰国の采配や葬儀の指図など、
残された者のやらなければならないことが山積みですが
秀忠には気力がなく、徳川家光に全任することにします。
10月18日、お江の亡きがらは麻布野で荼毘に付され
芝増上寺に葬られます。
享年54、おくり名は崇源院。
秀忠が江戸城に戻ったのは、
盛大な葬儀の3日後のことでした。
秀忠は位牌を前に家光と徳川忠長を呼び
家光と忠長に命を伝えたお江の偉大さを説き
家光にも忠長にも己の命を伝えよと言葉を贈ります。
11月13日、中宮和子は宮中で皇子を生みます。
「皇子降誕」です。
「してやったり! わしの孫が天子様の世継ぎぞ!」
秀忠は感涙し、お江が生きていれば
どれほど喜んだことかと悔やみます。
家光は皇子高仁(すけひと)親王の生誕を言祝(ことほ)ぎ
後水尾天皇と中宮和子に金銀を贈ります。
そして12月11日、紀州和歌山城で
徳川頼宣に嫡男が誕生したそうです。
これで家光に嫡男がなければ、家康の遺命により
尾張家より五郎八丸か紀州家より長福丸か
養子を立てることになりますが、先走るなと笑います。
「四代将軍は、わしの子じゃ」
寛永4(1627)年4月14日、
家光は江戸城黒書院にて
勅使武家伝奏・三条西実条と中院通村と対面。
後水尾天皇が、
皇子降誕による金銀の進呈に礼を言いつつも
自らは天皇を退位してその高仁親王に譲位をしたいと
意思表示していることを伝えます。
秀忠は、後水尾天皇の本意が
どこにあるのかを調べさせます。
秀忠は日を改めて武家伝奏を西の丸に招き
天皇が退位の意向を示していることを確認すると
自分にも家光にも異存がないことをあっさりと言います。
朝廷側がしばしば用いる、天皇退位をちらつかせて
主導権を握ろうとする作戦を裏返して
天皇を退位させちまえ、というものであります。
内旨ゆえ決定ではない、という言い分も
もはや笑うしかありません。
武家伝奏は京に戻りますが、それ以降
天皇退位については一言も触れなくなってしまいます。
寺院法度の乱れが著しく、大徳寺妙心寺の出世、
浄土宗の上人号勅許が乱発されている現状を受け、
7月17日、紫衣(僧侶の最高位を表す紫の衣)の
元和元(1615)年以降に出された勅許を
全て取り消すことにします。
最高位にいた僧侶たちはパニック状態、
そして紫衣を与え続けた天皇はメンツを失う有り様です。
世に言う「紫衣事件」であります。
さらに8月24日には、公家衆法度の強化を通告。
そして中宮御所の食事にまで目を光らせるほどで、
たまりかねた朝廷は、前関白の九条忠栄を江戸に遣わせます。
譲位を翻意したと弁明する忠栄に、
天皇は幕府の良いなりであれば赤子でも充分だと
失言したようで、それも幕府から責められる結果になります。
金地院崇伝は、天皇が退位したときのために
天皇の隠居所となる予定の仙洞御所を造営する
準備に入るように進言します。
天皇退位のいざこざによほど疲れたのか
近衛信尋が関白職を辞任したいと言い出しますが、
寛永5(1628)年1月15日、
京都所司代板倉重宗は辞任を拒否。
東照大権現の13回忌にあたるこの年、
秀忠と家光は日光東照社に詣でる予定です。
そこで天皇の代替わりを報告し、
天皇が退位せざるを得ない環境を作り上げます。
幕府は家康の13回忌に免じて
寺院諸宗法度に若干の手心を加えますが、
紫衣事件に反抗した沢庵らを厳罰に処します。
本来の目的は、沢庵の後ろ盾である天皇の排除だったのです。
4月17日、秀忠は日光山東照社に参詣。
天皇はこれに多くの公家たちを遣わして
勅使をもって御製の歌を納めます。
あずさ弓
八島の波を おさめ来て
今はた同じ 世を守るらん
八島を治めてきた家康を称えた歌でありますが、
これまで武士の世は武士が守ってきたのだから
これからもどうぞ武士の勝手になさい、と
イジワルに解釈すれば、匙を投げたとも取れます。
6月2日、所領駿府に戻る忠長は、西の丸の秀忠を訪ねます。
忠長にとっては、現将軍の弟ながら
尾張義直、紀州頼宣、水戸頼房の下に置かれるのは
納得できないというのです。
宴で草履取りの役目を嫌い、家来にさせ
家光を前に「子を成さざるは将軍の器にあらず」と暴言を吐き
「忠長は正室の子なれば大坂城を賜って然るべき」とまで……。
「重ねて申し置く。そちは家光の家臣ぞ」
忠長を生かすも殺すも家光の存念次第、と
秀忠は忠長を見据えます。
6月10日、常陸国水戸の屋敷にて頼房三男が誕生──。
この子こそ、後の水戸黄門光圀であります。
ちなみに生母は側室お久の方です。
話を聞いた家光は、千代松と命名します。
後水尾天皇の退位が年内に決まれば
来年は高仁親王の立太子と即位の礼であります。
秀忠は家光に、そのための上洛を前に
徳川の世を永久に続かせるためには
諸大名の締め付けが肝要、と説きます。
武力を用いずに諸大名を抑える方法が3つ。
「改易」「国替え」と
「大名妻子を人質として参勤させること」であります。
これは外様大名のみならず、親藩譜代大名に至るまで、です。
そんな話をしていた時、京都御所から急報です。
6月11日、高仁親王は御所で薨去、と。
秀忠はひどく落胆します。
作:ジェームス 三木
音楽:岩代 太郎
題字:ジェームス 三木
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[出演]
西田 敏行 (徳川秀忠)
尾上 辰之助 (徳川家光)
大河内 奈々子 (千姫)
天宮 良 (井上正就)
森田 順平 (三条西実条)
丹波 義隆 (酒井忠勝)
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中村 梅雀 (語り・水戸光圀)
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波乃 久里子 (常高院)
林 隆三 (土井利勝)
岩下 志麻 (お江)
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制作統括:川合 淳志
演出:重光 亨彦
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