« 残すは2週間 | トップページ | バス停について本気出して考えてみた(212) »

2017年12月19日 (火)

プレイバック葵 -徳川三代-・(49)名君づくり [終]

時の流れを縦糸に、人の心を横糸に
長々とご覧いただいた『葵 -徳川三代-』も
いよいよ最終回であり、寂寥の感はうたた切なるものがあり。
長きに渡ってごひいきをいただいた
テレビ桟敷のお歴々には厚く御礼申し上げたい。

寛永9(1632)年1月24日、
二代将軍秀忠は江戸城西の丸にて薨去。
ご遺言によってお江の眠る増上寺に葬られた。
朝廷から贈られたおくり名は「台徳院殿」。

さて、最終回に当たり気になるのは
家光とその弟・忠長の確執……?
哀れ忠長は甲斐府中に押し込められたまま
父秀忠の葬儀にも列席が叶わず。

そして将軍家のお世継ぎ問題……?
家光長男は寛永9年2月に誕生したもののあえなく亡くなり
将軍レースは振り出しに戻った。
果たして四代将軍は尾張五郎八丸か紀伊長福丸か──。


作:ジェームス 三木

音楽:岩代 太郎

テーマ音楽演奏:NHK交響楽団
テーマ音楽指揮:シャルル・デュトワ
ピアノ演奏:小山 実稚恵
合唱:ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団

時代考証:大石 慎三郎
風俗考証:二木 謙一
建築考証:平井 聖
衣裳考証:小泉 清子

所作指導:瀬川 仙魚
殺陣・武術指導:林 邦史朗
馬術指導:水上 金光
    :田中 光法

能楽指導:喜多 六平太
古式泳法指導:荒川 汪
資料提供:水府明徳会 徳川博物館
    :秋月郷土館

撮影協力:日光東照宮
    :久能山東照宮
    :増上寺
    :茨城県伊奈町

──────────

[出演]


尾上 辰之助 (徳川家光)

酒井 美紀 (東福門院和子)

中江 有里 (孝子)

丹波 義隆 (酒井忠勝)
岩崎 ひろし (酒井忠世)

大柴 邦彦 (徳川頼房)
高杉 瑞穂 (徳川忠長)

緒形 幹太 (稲葉正勝)
浜田 学 (保科正之)

長谷川 明男 (朝倉宣正)
大場 泰正 (後水尾上皇)

飛田 航介 (松平信綱)
木内 晶子 (お振)

佐藤 二郎 (牧野信成)
明日良 (堀田正盛)
長棟 嘉道 (阿部忠秋)

すま けい (伊達政宗)

三林 京子 (阿茶局)

──────────

仲間 由紀恵 (お楽)
持田 理沙 (お万)

石川 瞳 (お夏)
藤原 ひとみ (明正天皇)
ひがし 由貴 (五葉)

タモト 清嵐 (千代松)
桑名 里瑛 (千代姫)
椿 真由美 (忠長の侍女)

観世 喜正 (シテ方)
観世 喜之 (シテ方)
鏑木 岑男 (ワキ方)

長沼 範夫 (後見)
小寺 佐七 (囃子方)
藤田 次郎 (囃子方)
柿原 光博 (囃子方)
鵜澤 洋太郎 (囃子方)

長谷川 竜介 (近習)
市瀬 秀和 (近習)
小林 拓未 (近習)
稲本 誠 (近習)

島田 ゆかり (女官)
瀬崎 友美 (女官)
唐木 ちえみ (女官)
佐々木 英子 (女官)
佐々木 緑 (女官)
田村 まどか (女官)
横尾 とも美 (女官)

中村 梅雀 (語り・水戸光圀)

浅利 香津代 (佐々介三郎)
鷲尾 真知子 (安積覚兵衛)

若駒プロ
劇団東俳
劇団ひまわり
テアトルアカデミー
宝映テレビ
エクスィードアルファ
グローバルビジョン

放映プロ
エンゼルプロ
セントラル子供タレント
 ─────
小淵沢町のみなさん

──────────

金田 龍之介 (天海大僧正)

林 隆三 (土井利勝)

樹木 希林 (春日局(お福))

──────────

制作統括:川合 淳志

美術:田嶋 宣助
技術:市川 隆男
音響効果:西ノ宮 金之助

撮影:熊木 良次
照明:中山 鎮雄
音声:小林 健一
映像技術:久保田 千尋

CG制作:大久保 英彦
記録:武田 朝子
編集:高室 麻子
美術進行:高山 祐二

演出:重光 亨彦


寛永9(1632)年2月、
徳川秀忠の遺命により遺金の下賜がありました。

徳川家光には金30万枚、
老中の土井利勝・酒井忠世には金2,000枚、
親族諸大名はもとより旗本の家臣にいたるまで
くまなく金銀が与えられたのです。

ところで、秀忠の遺金は分与されたわけですが
駿府城に眠る徳川家康の遺金はそのままにされています。
家光はそれを江戸城に移したいと考えていますが
久能山で預かっているからと忠長が認めません。

甲斐府中に蟄居と言っても、表向きは病気療養ですので
それを逆手に取って、駿府城主として認めないのでしょう。
家光は、もともと久能山の遺金は将軍が相続すべきもので
たかだか駿府城主が匿うのはもっての他、とため息をつきます。

家光は、同腹の弟には失意しか持っておりませんが
異母弟の保科正之は、その実直な性格を買っており
とても可愛がっております。

家光はその正之に、秀忠の廟所・台徳院廟を
柴の増上寺に建てる指揮をせよ、と命じます。

まだ未熟者ゆえ、ととまどう正之に、
実際の指揮は土井利勝に任せておけばいい、と笑います。
そういう、転ばぬ先の杖を用意してくれるのが家光です。
こうして4月、台徳院廟が落慶となりました。


8月、家光の計らいにより再び上洛した春日局は
女院御殿で家光妹の東福門院和子と対面。
さらに禁中に召し出されて従二位を賜ります。


10月12日、甲斐府中で謹慎中の徳川忠長について
家光は、台徳院殿供養の寺を勝手に建立したとして
所領である駿河と遠江を召し上げる改易の命を持って
使者を送ります。

20日、牧野信成以下3名の使者が
甲斐府中城に遣わされます。
所領65万石を没収し上野国高崎に流罪となりました。
「上意の儀しかと承った。遅れて生まれたのが無念じゃ」


寛永10(1633)年1月20日、
家康・秀忠のブレーンであった金地院崇伝が死去。
65歳。

ちなみに天海大僧正は……98歳!!

8月27日、淀殿の妹でお江の妹であった常高院が
京極忠高の江戸屋敷で逝去、64歳。
こうして戦国の華と謳われた浅井三姉妹は
それぞれの生涯を全うしたのです。


12月6日、
幽閉先の高崎城でひとり酒を呑む忠長。

侍女に酒を取りに行かせている一瞬の間に
自害して果てます。
28歳という若さでした。

将軍家骨肉の争いは、ついに悲劇を迎えたのです。


寛永11(1634)年正月、
諸大名からの年賀拝礼を受けるも家光は酒を1滴も飲まず。

2月25日、家光の腹心で春日局の長男である
稲葉正勝が急死します。
いわゆる過労死と言われています。
享年38。


5月9日、水戸藩徳川頼房と三男千代松が江戸城に登城します。
千代松は後の徳川光圀であります。

千代松と向かい合った家光は、7歳上の兄がおりながら
なぜ千代松が跡継ぎとなったのかを諭します。

尾張家・紀州家・水戸家の中で最初に生まれたのが
水戸の松平頼重でありました。
しかし頼房は尾張と紀州に遠慮して
実子誕生の届け出をせず。

尾張に五郎八丸、紀州に長福丸が誕生し
その後で生まれた千代松を
頼房はやっと跡継ぎとして届け出をしたわけです。

最も得をしたのは千代松、そして最も損をしたのは頼重です。
跡継ぎである千代松は、先に生まれたばかりに
家督を棒に振った頼重を軽んじてはならない、
兄弟仲よくせよ、と家光は諭します。


6月20日、31歳の家光は江戸を出発。
30万の大軍を率いて上洛します。

京都二条城到着は7月11日、
18日には宮中に参内して明正天皇に謁見し
即位を祝ったのです。

8月20日、江戸城に帰着した家光は
江戸の庶民にも惜しみなく金銀を与え
その徳を称えられます。


家光は、家康没後20年を記念して
日光東照宮の改築に着手します。

通常であれば諸大名に金を出させるところ
家光は、今回は徳川が全ての金を出し
末代までの誉れとする決断を下します。

ちなみに落慶は1年半後の寛永13(1636)年4月、
総経費568,000両、携わった延べ人数450万人──。


遡って寛永12(1635)年3月11日、
対馬城主・宗義成による国書改ざん事件が発覚。

朝鮮への返書に、日本国王と記し直したのです。
天皇が別にいるのに国王と名乗るのは憚られると
今後は「日本国大君」と記すように徹底されます。

6月21日、家光は武家諸法度を大改正し
参勤交代の制度を確立させます。

この年の冬、幕府は
長崎に出島を築きオランダ人を居住させます。
これはいわゆる鎖国政策の一環であり、幕府は
キリシタンの弾圧を強め、海外貿易を独占したのです。

10月29日、家光側近の
松平信綱・堀田正盛・阿部忠秋が老中に就任。
若手の登用の一環です。
ちなみに堀田正盛は春日局の親戚です。

寛永13(1636)年5月24日、
陸奥仙台城主・伊達政宗が江戸桜田の屋敷で逝去。
享年70。

7月6日、家光は水戸の千代松を召し出し
「光圀」の名を与えます。

寛永14(1637)年閏3月5日、
家光側室のお振が姫君を出産、千代姫と名付けられます。
千代姫は後に尾張家に嫁ぎ、
嫡男五郎八丸(のちの尾張光友)の正室となります。

10月、長崎天草で島原の乱が勃発。
天草四郎率いるキリシタンバテレンの反乱と言われていますが
虐げられた農民たちの一揆でもあります。
老中松平信綱は、翌寛永15(1638)年2月に鎮圧します。

11月、幕府は老中の上に大老職を設置し
初代大老に土井利勝・酒井忠勝を任命します。
大老とは名誉職であり、事実上の高齢者の棚上げか?


家光には数名の側室がおり、お振の他に、
六条家の娘・お万、御台所鷹司孝子が京から呼び寄せたお夏、
春日局が浅草寺で見かけた、古着屋の娘・お楽──。

果たして寛永18(1641)年8月3日、
お楽の方が待望の男子を出産。
江戸城内は朗報に沸き返ります。
家光38歳。

誕生の子には、竹千代と名付けられます。
後の四代将軍徳川家綱であります。


【葵紀行】

輪王寺大猷院(りんのうじ たいゆういん)。
家光の廟は、死後も家康に仕えるように
日光東照宮の方角に向けて建てられています。

二天門から奥の方へ進むと、唐門の奥に
拝殿、相の間、本殿がつながっています。
家康を深く尊敬していた家光は東照宮に似せない作りに
するよう言い残して亡くなりました。

狩野派の画家たちが描いた140体の竜。
唐獅子は、狩野探幽と永真が描きました。

さらに石段を上りますと、奥の院。
家光のお墓です。
家光亡き後350年の今年、初めて公開されました。

東照宮と並ぶ不滅の文化財・輪王寺大猷院です。


──完──

|

« 残すは2週間 | トップページ | バス停について本気出して考えてみた(212) »

NHK大河2000・葵 -徳川三代-」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 残すは2週間 | トップページ | バス停について本気出して考えてみた(212) »