東の徳川と西の豊臣との命運を決した
「関ヶ原の合戦」から3年後の慶長8(1603)年、
徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任ぜられ
徳川の権勢は豊臣をしのぎ、揺るぎないものになっていました。
翌 慶長9(1604)年の春、ひとりの女が
徳川秀忠と、その正室・お江与の方に目通りするため
初めて江戸城の門をくぐります。
その名を「おふく」、後の春日局であります。
家康の三男・秀忠は徳川家の世継ぎとして江戸城にあり
解任したお江与の方の出産に備えて
生まれてくる子の乳母としておふくが召し出されたのです。
この時おふく26歳、おふくの生涯にとって
何度目かの大きな運命の岐路でした。
おふくと、その長男・千熊(8歳)は
徳川秀忠とお江与に目通りします。
秀忠は京からの長旅をいたわり、優しく接してくれますが
お江与は、おふくが乳母になることを承服できません。
おふくの父は斎藤利三で、お江与の伯父・織田信長を裏切り
本能寺に追い詰めた裏切り者・明智光秀の重臣です。
おかげで母・お市を始め、姉の淀、初がそれ以降
どんな苦しみを味わわされたか分かりません。
自分の乳で育てるか、どうしても乳母をと言うのなら
せめておふく以外の他の女を、と聞かないお江与に
秀忠は、父・家康が決めた乳母だからワガママは許されぬと
お江与の要求を突っぱねます。
おふくは美濃三人衆のひとり・稲葉一鉄の孫娘であり
文武両道に秀で、家康の信任もとても厚かった人物です。
本能寺の変当時はおふくはまだ幼子でもあり
おふくに何の罪があろうか、と秀忠は諭します。
おふくと千熊に、江戸城大奥の一室が与えられます。
もしお江与が男子を産めば、おふくは乳母として務め
千熊は小姓として別にお屋敷が与えられることになっています。
ただ、おふくはお江与が自分を
お気に召してくれないのではないかと少し不安がっていますが、
そんな弱気では乳母の大任は果たせぬとお勝は激励します。
幾度も運命に翻弄され、危機を乗り越えて来たおふくには
その時を、おふくなりに精一杯生きるしかありませんでした。
今も、いばらと承知で選んだ道を歩き出そうとしていました。
「あの時の地獄を思えば……」おふくはつぶやきます。
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