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2020年7月31日 (金)

プレイバック春日局・(09)夫婦(めおと)模様

最近、京都近郊の遺跡で
戦国時代の大地震の痕が発見されました。

堅い粘土を突き破って進む砂の痕。
強烈な震動で、地中の砂が一気に地面に吹き出したのです。
これこそ、今から400年前、豊臣秀吉を震え上がらせた
「慶長の大地震」だと言われています。

いつの世も、人々の生活を脅かす地震。
秀吉が関白になった頃の近畿地方は、
毎年のように地震に見舞われています。

中でも、慶長元年の大地震はマグニチュード7.5。
関東大震災とほぼ同じ規模です。

特に被害が大きかったのは、
完成して間もない秀吉の居城・伏見城です。
建物の多くが崩れ、500名余りが死亡。
秀吉は命からがら庭に避難したといいます。

秀吉の元に天下が治まるかに見えた慶長元年。
揺れる大地は、戦乱の終わりがまだ遠いことを
人々に暗示していたのかもしれません──。

文禄4(1595)年、小早川秀秋は筑前名島城主となり
稲葉正成とおふくたちも秀秋に従って
丹波亀山から筑前名島へ移り、新しい生活が始まります。

ただ、豊臣秀吉の一言でまた国替えになる可能性もあります。
拾を立てる茶々や石田三成にとって秀秋は邪魔者であるので
ちょっとの失言やミスが元で引きずり降ろされないように
正成はただ、秀秋を必死にかばうのみです。

気苦労の多い正成の肩を、おふくは揉んであげます。
正成も、おふくの気遣いにホッとした表情を浮かべます。
「ひとりでもわしの気持ちを分かってもらえる者が
 そばにいるというのは、ありがたいことじゃ」

秀吉が命じた、徳川秀忠への輿入れを
受け入れようとしないお江与に、秀吉は大激怒。
茶々が必死に止めるのも聞かず、お江与の居室に乱入します。

秀吉は、この話は徳川にもしていることを伝えて
改めて、今年9月に秀忠への輿入れを命じますが、
お江与はあくまでも秀吉の道具ではないと主張して
輿入れしたくない旨をハッキリと伝えます。

「太閤の命に背くはいかなることか、覚悟しての返答か」
睨みつける秀吉に、その視線をしっかりと受け止めて見返します。
殺すと仰せなら、いさぎよう死にましょう──。

懐刀を取り出し、刀を抜いて自らの身を
刺そうとしたところで茶々が止めに入ります。
秀吉は怒り心頭のまま、居室を後にします。
「ええい……追って沙汰する」

その場に残った茶々にも反発するお江与ですが、
茶々は、秀吉の側室となって権勢を欲しいままにしたかったのは
単に秀吉を操ってみたかったというのも理由としてありますが、
秀吉の懐に飛び込んでお江与やお初を
守りたかったというのが正直なところなのです。

実は茶々は秀忠と対面したことがあるそうで、
秀忠なら今度こそお江与を幸せにできると見込んで
結婚を勧めたと告白します。
この話、忘れてくだされ、という茶々を見つめるお江与。

「姉上……江与は、徳川に嫁ぎまする」
自分が徳川に嫁ぎ、豊臣と徳川の和平が保たれるのなら
秀吉と茶々の役に立てるのなら、
姉が見込んだ秀忠を信じて、輿入れします、と。

一方、お江与を受け入れる側の徳川ですが、
徳川家康は少なくもと良くは思っておりません。

二度までも他家に嫁いだ女をよこすというのは
人をバカにした話だ、としながらも、
くれるというのを断るわけにもいかず。
いま豊臣と事を構えるのはマズいわけです。

まぁ家康は、北の方(=正室)というのは
顔を見たくなければ一生見なくてもいいし、
世継ぎは側室に生ませればいいし、
側室になる女はたくさんいるぞ、とボソボソつぶやきます。

文禄4(1595)年9月17日、
秀忠とお江与の祝言が伏見徳川邸で行われます。
秀吉にとっても家康にとっても、いっとき訪れた平和です。

茶々によればお江与から書状が来たそうで
秀忠の真心に触れてこの縁組に感謝しているとのこと。
それを聞いた秀吉は頷きながら、
早く姫を生んで拾と夫婦にさせたいものだ、と笑います。

拾に「秀頼」という名を与え、秀吉は秀頼に日本国を譲り
秀吉は明国から領地をもらって王様になるという夢を語ります。
すでに明に使者を送り、日本に来るようにきつく言っているそうで、
秀吉はその使者が来るのを首を長くして待ち望んでいます。

その使者は、一年後の
文禄5(1596)年8月に大坂に来ますが、
使者が持参した明の国書が
秀吉の和睦の条件を無視していて和議は決裂。

翌 慶長2(1597)年正月、
秀吉から再度朝鮮出兵の命が出されます。

秀秋には、宇喜多秀家や毛利秀元とともに
総大将の大任が命じられます。
石田三成たちの腰抜けを見返してやる、と秀秋は笑いますが、
正成は少し不安を感じています。

おふくは正成の子をみごもっておりました。
正成はその子を見ずして朝鮮に渡ることになります。

前回の「文禄の役」では戦の酷さ、無意味さに加え
明軍・秀吉軍とも疫病に悩まされたこともあり、
今回の出兵で無事に帰って来れるかどうかは分かりません。

おふくとお安は、正成の無事を願いながら見送ります。

正成が出陣して3ヶ月後の慶長2(1597)年4月、
おふくは京の稲葉屋敷で男子を出産します。

夫のいない寂しい出産ではありましたが、
母・お安に見守られて
正成の言いつけ通り、幼名を「千熊」と名付けます。

おふくの出産と同じ時期、お江与も
4月11日、伏見徳川屋敷で女子を出産します。
家康が「千」と名付けてくれます。

お江与が出産したと知ると秀吉が駆けつけます。
そして千姫を見るや否や、高らかに宣言するのです。
「千姫は秀頼がいただき申す!」

ご異存あるまいな、と秀吉に睨まれて
チラリと家康の表情を見、頷くのを確認してから
秀吉に手をつき承諾します。

お江与は、自分が腹を痛めて産んだ子なので、
成人するまで手元で育てたいと言い出し、
成人した暁に、改めて縁談話を、と言うのですが、

「生まれてくる子どもは徳川の家の子じゃ」
家康が静かに諭し、有無を言わせません。

今後“生まれてくる子は徳川の子”という言葉に
お江与は翻弄されることになります。
「次は男子を産みまする。徳川を継ぎ
 生涯手放さずに済む世継ぎを産みまする」

 

朝鮮へ出陣してはや1年が経ちました。

海北友松に会ってきたお安の話では、
いま秀吉は醍醐寺の三宝院で花見を催しているとか。

それは贅を尽くした花見で盛大らしいですよ、という言葉に
朝鮮では苦しい戦いを続けているというのに、
朝鮮の民だって苦しんでいるというのに、
そのような時によくそんなことを、とおふくは嘆きます。

「おかかと夫婦になって37年。おかかには苦労ばかりかけた」
秀吉は懐紙で涙を拭きながら、照れ隠しに笑います。

後で合流した秀頼と楽しげに遊ぶ秀吉ですが、
急ぎお耳に入れたき儀が、という家臣の話を聞いて
膝で扇をバンバンと叩いて怒りを露にします。
「即刻、朝鮮より秀秋めを……ええい、呼び戻せ! 」

秀秋が京に帰還するという話に、
おふくは喜び、お安は安堵します。
ただ、他の武将たちは未だに朝鮮にいるのに
秀秋だけがなぜ、という心配もおふくにはあります。

そういう形で帰ってきた正成の表情は、
おふくが想像していた以上に厳しいものでした。
着替えてすぐに伏見城に行く、という正成に
おふくの不安は的中します。

「殿が太閤殿下のご勘気に触れ、呼び戻されたものじゃ」
明軍の襲来に血気にはやった秀秋は
敵陣に深入りし多くの犠牲を出した上に、
他部隊を危機に晒したことを咎められたのです。

秀秋を守るのが正成の役目なので、その責は負いますが
もとは秀秋を邪魔者扱いした石田三成の讒言によるもので
三成の思うままにはさせないつもりです。
たとえ正成が切腹しても、秀秋を守り抜くつもりです。

おふくは、今の状況を受け止めるだけで精一杯です。
目に涙を浮かべながらも、気丈に振る舞います。

「千熊……わしの代わりに母上を大事にしてくだされ」
スヤスヤと眠るわが子につぶやく正成。
おふくは正成の胸に飛び込み、号泣します。

慶長3(1598)年4月、
秀秋・正成主従は、秀吉の待つ伏見城に入ります。


慶長3(1598)年3月15日、
豊臣秀吉が京都醍醐寺・三宝院裏の山麓において花見を催す。

寛永6(1629)年10月10日、
おふくが上洛して昇殿し「春日局」名号を賜るまで

あと31年6ヶ月──。

原作・脚本:橋田 壽賀子 「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
──────────
[出演]
大原 麗子 (おふく)
佐久間 良子 (お安)
長山 藍子 (お江与)
中村 雅俊 (徳川秀忠)
山下 真司 (稲葉正成)
香川 照之 (小早川秀秋)
──────────
大空 眞弓 (茶々)
吉 幾三 (海北友松)
ガッツ 石松 (東陽坊長盛)
──────────
藤岡 琢也 (豊臣秀吉)
香川 京子 (寧々)
丹波 哲郎 (徳川家康)
──────────
制作:澁谷 康生
演出:兼歳 正英

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