大河ドラマ春日局・(04)別離
【アヴァン・タイトル】
「天王山」。勝負の分かれ目の大事な場面を指すこの言葉は、山崎の合戦に由来しています。この時、天王山を制したのは秀吉ですが、彼が天下獲りに一番近いところにいたわけではありません。
本能寺の変のとき、信長の重臣でナンバー1の柴田勝家は越中魚津城で上杉軍と戦い、丹羽長秀は大坂城で四国攻めの準備。滝川一益は関東上野に進出したばかり。信長の盟友・徳川家康は少数の配下と堺に遊び、そして重臣としては格下の羽柴秀吉は備中高松で毛利軍と対峙していました。
その中で、光秀討伐のために最も早く行動を起こした秀吉の中国大返しの行程は、7日で187km。そのスピードは、一昼夜で55kmに及ぶこともあり、25,000の武装した大軍の移動としては、通常の3倍もの早さです。このスピードと機動力によって、秀吉はこの後、信長の後継者としてトップの座にのし上がってゆくのです──。
明智光秀の天下は、終わりを告げました。天正10(1582)年6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉と、秀吉に味方する諸大名の連合軍らに敗れ、本能寺の変よりわずか11日間の天下でした。14日には丹波亀山城も落ち、15日には光秀の本拠・近江坂本城に光秀の娘婿・明智秀満が自ら火をかけます。
主家が滅亡し、帰る場所を失ったお安親子は、謀反人のゆかりの者として秀吉に抑えられた山野で身を置くところもなく、敵の目を避けながらさまようしかありませんでした。かねは、竹筒に水をくんでこようとしたり、失意のどん底にある親子を笑わせて励ましたりと、侍女としての役割を全うしてくれます。
秀吉は光秀を追って近江に入り、坂本城が落ちた翌日の6月16日に、信長三男・織田信孝とともに安土城に入ります。しかし豪壮を極めた天下の安土城は、何者かによって焼かれ廃塵と帰していました。さらに斎藤利三が支配していた長浜城を取り返し、光秀との戦は一応は終結します。
そんな時、食べ物を調達に出ていたおかねが落ち武者狩りの賊に見つかり、襲われます。おかねも懐刀で応戦しますが、男ふたりに女ひとりでは力の差も歴然です。おかねを迎えに行ったおふくは、おかねが賊に襲われているのを目撃し、一目散にお安を呼びに走ります。おふくに話を聞いたお安は、出来丸とおふくにここに留まるように伝え、おふくが指さす方へ走ります。
「お逃げくださりませ……ここは私が」 全身に傷を負いながらも、おかねが戦っているのを見てお安は、ただただ夢中になって賊の懐に飛び込みます。何とか賊を倒し、おかねを助けようと抱き起こしますが、おかねは息も絶え絶えに京に向かうことを勧めます。光秀の首が京の粟田口に晒されているらしい、という情報をお安に伝えたのです。
「父上に無事お会いできますよう、お祈り致しております」 駆けつけたおふくと出来丸に告げ、足手まといにはなるまいと、おかねは自ら舌を噛み切って死を選びます。山中にいては、世の中の動きが全く分かりません。ひとすじの希望を持って、親子は京を目指します。
夜中、ようやくたどり着いた京・粟田口には、2体の亡きがらが磔にされていました。「父上……あれは明智の殿と父上では?」 兄の声に、雷に打たれたように固まって亡きがらを見つめるおふく。お安は、夫の変わり果てた姿に夫の無念を思い、大泣きします。しかしその様子が番をする兵士に気づかれてしまい、誰じゃ と近づかれたとき……。
フラリと天から舞い降りて番の兵士を殴って気絶させ、利三の遺骸を奪い取った男たちがいました。海北友松と東陽坊長盛です。友松、長盛と真如堂で合流したお安親子。友松に話を聞けば、勝龍寺城を出た光秀・利三主従は別々に坂本城を目指すものの、光秀は土地の者の襲撃を受け、そして利三は琵琶湖畔で羽柴勢と遭遇し、壮絶な最期を遂げたのだそうです。
友松が利三の衣服を改めていたら、懐から、友松が描き利三に差し上げたおふくの似顔絵が出てきました。父上は強いお方、どこぞで生きておられます! そう主張していたおふくですが、似顔絵が出てきたことを知ると、亡きがらが父のものだと理解せざるを得ません。「父上……父上……」 おふくは亡きがらに寄り添って泣き声を上げます。
おふくが見た父・利三の無惨な最期の姿は幼い心に焼き付き、おかねの死とともに、戦の酷さを一生おふくの胸に刻みつけることになります。卒塔婆を立て、長盛の読経で利三を御仏の元に送り出します。
これからの親子ですが、今むやみに動けば、秀吉による残党狩りでたちまち捕らえられてしまうに違いありません。かといって長盛の御堂や友松の家では人目につくため、友松が比叡山のふもとで一軒のあばら家を見つけてくれました。美濃の稲葉一鉄の元に戻れる時まで、友松の遠縁の者としてそこでしばらくひっそりと過ごすしかなさそうです。
「決して父上を恥じてはなりませんぞ」 今はただ、生きるために世を忍ぶだけだ、とお安は出来丸とおふくを正座させ、諭します。
おふくが4歳にして世を忍び、みじめな暮らしに耐えているとき、もう一人、不幸な運命を歩み始めている娘がいました。後におふくが乳母として仕えることになる、徳川家光の生母・お江与です。お江与は、織田信長の妹・お市の方の三女で、この時、姉の茶々・お初とともに、母が輿入れした柴田勝家の領国、越前北の庄城に入ります。姉の茶々は、後に秀吉の側室となる淀殿です。
茶々は、自分たちの父は浅井長政ただひとり、どうして勝家のような男と再婚するのか、と母を睨みつけて反発します。それがいくら信孝の勧めで勝家の元に嫁いだと言っても、元はといえば明智光秀の謀反がなければ、母も自分たちもこのようなつらい目には遭わなかったわけです。茶々は、光秀の一族郎党への恨みを終生忘れないように、と言います。
比叡山にも初雪が降りました。天下の形勢は秀吉に傾きつつあるものの、秀吉と勝家・信孝の反目が穏やかでなかったため、友松の美濃入りを見送っていましたが、11月2日、秀吉と勝家の間に和睦が成ったため、友松が美濃の稲葉一鉄の元に行ってみることにします。
しかし友松が美濃入りを果たした時には、秀吉は突如として美濃を攻めます。一鉄としては、逆臣を疑われないようにするために、秀吉に人質を出して従わざるを得ません。こんな時に美濃に来られて、と友松を気遣う一鉄ですが、友松はポロリとお安親子のことを口にするのです。「わしがさるところにお預かり申してございます」
ただ、秀吉の傘下に入らなければ成らない稲葉家では、今はお安親子を引き取ることは不可能です。「兄妹と言うたとて、みな己を守ることしか考えておらぬ」 乱世じゃ、と一鉄は深くため息をつきます。そこで一鉄は、お安の母の実家である京の公家・三条西家で預かってくれるよう頼むことを思いつきます。
三条西家当主の公国とお安は従姉妹同士なのです。公家と言っても、そんな厄介者は預からないでしょうが、相当な金を出せば、内情が苦しい公家は断らないでしょう。しかも公家なら、秀吉でも簡単に立ち入ることが出来ない領域で、承知してくれたとしたら、隠れ家としては最高の場所なのです。一鉄は友松に、お安親子の処遇について頼み頭を下げます。
薪を取りに行っていたお安親子。帰って来ると、長盛が供を連れて来ていました。長盛がその供をお安たちの前に連れ出し、笠を取らせると、なんとおふくたちの兄の斎藤利宗だったのです。今は出家して「隆法」と名乗る利宗は、山崎の合戦で兄・利康の最期を見届けた後、利三と離ればなれになり、ひとり世を儚んで一族を弔うために出家の道を選んだそうです。
そしてふと母のことが気にかかり、手を合わせたいと長盛を頼って下山した結果、このような再会になったことに、利宗自身とても驚いています。そこに美濃から京の三条西家経由で戻ってきた友松は、三条西家で預かってくれるという好返事ではあるのですが、お安とおふくのみ、という条件なのです。利宗は長盛が預かり、出来丸は友松が預かることにします。
「4人がともに暮らす方が目に立つ、かえって危ない」 それよりは、一人ひとりの無事を考えてそれぞれが単独で生き、いずれは一緒に暮らせる時が来るだろう、と友松は言うのです。別れ別れになっても生きていさえすれば必ず会える。お安は子どもたちをゆっくり諭します。「必ず生きていてくだされ、それだけが母の願いじゃ」
謀反人のゆかりの者という運命を背負ったお安親子には、今、肩を寄せ合って生きる自由も許されませんでした。翌日、お安は5ヶ月余りを隠れ住んだあばら屋を出て、利宗、出来丸と別れを告げて三条西家へ向かいます。これからどんな暮らしが待っているのか。お安の胸には、暗く重く不安がのしかかっていました。
天正10(1582)年6月17日、
斎藤利三が潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で磔刑に処される。
寛永6(1629)年10月10日、
おふくが上洛して昇殿し「春日局」名号を賜るまで
あと47年3ヶ月──。
原作・脚本:橋田 壽賀子 「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
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[出演]
佐久間 良子 (お安)
織本 順吉 (稲葉重通)
川津 祐介 (稲葉貞通)
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吉 幾三 (海北友松)
ガッツ 石松 (東陽坊長盛)
五大 路子 (かね)
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藤岡 琢也 (羽柴秀吉)
大坂 志郎 (稲葉一鉄)
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制作:澁谷 康生
演出:兼歳 正英
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『春日局』
第5回「忍ぶ宿」
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