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2020年8月 7日 (金)

プレイバック春日局・(11)関ヶ原前夜

広島県三原市。
戦国時代、ここは瀬戸内海の交通の中心であり
中国地方を抑える毛利一族の重要な拠点でした。

小早川隆景。 「三本の矢」で知られる毛利三兄弟のひとりが、三原城の主でした。
水軍を操り、莫大な富を手に入れ
毛利一族の全盛時代を築き上げるのに大きな力を発揮しました。

しかし世は戦国。
毛利一族にも着々と戦の波が迫ってきました。

中でも織田勢との戦は、小早川隆景の運命を大きく変えます。
本能寺の変による信長の死。
この時隆景は、後に天下を取る秀吉と
運命的な出会いをするのです。

隆景は秀吉方に与して毛利の存続を図ります。
そのために、秀吉の甥の秀秋を養子にまでしたのです。

隆景の死。
それは、関ヶ原という大きな時代のうねりに
秀秋をはじめ毛利一族を否応なく巻き込んでいくのです──。

 慶長5(1600)年7月。
石田三成は大坂城に93,000の軍勢を集めて
ついに反家康の兵を挙げ、7月19日、徳川家康が
会津の上杉景勝討伐に出陣中に伏見城を攻めます。

関ヶ原の合戦の幕開けであります。

 

京・三条西家に避難しているお安とおふく。

出産したばかりのおふくにとっては
早く元の身体に戻ることが先決ではありますが、
夫・稲葉正成の消息が分からない今、
おふくには全く元気が出ません。

見舞いにきた三条西実条は、
伏見城を5日囲んでいるらしい、とおふくの耳に入れます。
出陣前、正成は「小早川は徳川に味方する」と言っていたのに
現在は徳川を攻めているわけで、不安になるなという方が無理です。

実条は、おふくを励ますつもりで
「西軍有利」「小早川は西軍」「豊臣は安泰」と連呼しますが、
それが逆におふくを不安に陥れているという……(^ ^;;)

 

小早川秀秋の陣では、秀秋が徳川に
何度も何度も使者を送ろうとします。

心の中では徳川に同心するつもりでありながら、
図らずも伏見城攻めに加わっていることが家康に知れたら
それこそ裏切り者の誹りを免れないわけです。

しかし、西軍は大軍であり思ったより優勢だとして
今ごろ徳川へ義理立てする必要はない、と
一部の家臣たちが言い出します。
秀秋は「黙れぇーっ」と彼らを睨みつけますが(笑)。

 

「伏見城を攻めてはならぬと言うておるのではない。
 徳川勢の命を奪うことなく降伏を待つのじゃ」
大坂城では、茶々の前に石田三成が座しています。

今回の戦の大義名分は、豊臣秀吉亡き後
政権を恣(ほしいまま)にして豊臣秀頼を蔑ろにした
徳川家康を政権の座から引きずり降ろすことであり、
徳川が大人しく関東の一大名になればそれでいいわけです。

三成は、それでは手ぬるいと
徳川と雌雄を決して潰してしまわなければ
後々悔いを残すことになる、と主張します。
この戦は秀頼のためである、と。

「我らが勝ち戦をお信じなされて、この三成にお任せくだされ」
そう言われては、茶々は何も言えません。

 

下野・小山の陣──。

会津討伐軍を率いた家康は、下野小山に到着。
諸武将を集めて今後のことを話し合っていました。

西軍は毛利親子、石田三成、宇喜多秀家、
島津義弘、小西行長、大谷吉継、小早川秀秋ら
豊臣恩顧の大名が参陣して19日に伏見城を攻めていて、

大坂城では諸大名の妻子を人質に取って
細川忠興の妻・ガラシャはそれを拒んで自害しました。
いま、徳川に従っている諸将の中には
大坂に人質として妻子を取られている武将も多いわけです。

「その妻子の身の安全を図られたくば、直ちにここを去り
 徳川には味方せぬと西軍に伝えたらよかろう」
徳川には何の遠慮もいらぬ、と家康が言うと、
あいや! と福島正則が前に進み出ます。

家康の配慮はありがたいが、今回の会津攻めは
秀頼の命を受けた家康が行っているものであり、
その家康に弓を引くことは、つまりは秀頼に弓引くことで
豊臣家のためといいながら、豊臣を裏切っていることになる。

家康が幼い秀頼を盛り立ててくれるなら、
家康に従って石田三成討伐に向かうつもりである、と。
「今はまず西軍との決戦を期して軍を西に進められますよう」

 

江戸城に戻った家康は、しばらくは江戸に留まって
自軍の豊臣恩顧の大名たちの異心なきを見届けた後、
東海道を西に向かう予定です。

秀忠には中山道を西に向けて大軍を率いるように命じます。
場所は、東海道と中山道が交差する関ヶ原辺り……。
「遅れるな。必ず合流するのじゃぞ」

 

三成から秀秋に、
大津城の京極高次攻めに加われとの命令が届きます。

伏見城攻めでは西軍に属しながらも小早川には何の戦功もなく
三成の疑心を招く結果になりました。
今回はそういうわけにはいかないので、
何としてでも大津城を攻めなければなりません。

「攻めたければ勝手に攻めればええ! (出陣は)ならーん!!」
ワシは病じゃ! 重病じゃ!! と秀秋は喚き散らします。

 

大津城は京極高次の城ですが、高次の妻・お初は
茶々の妹でお江与の姉であります。

「何を血迷うたか三成!」
茶々は三成に戦をやめるように早馬を飛ばし
孝蔵主を大津城に向かわせます。

 

大津城の京極高次は、10日間だけでも西軍を釘付けにできれば
それだけ敵にも損失が出せる、と大津城に籠城の構えです。
ただ、たかだか数千の兵で籠城しても
結果は目に見えております。

お初は、茶々から戦にせず降伏すれば
城兵の命は安堵すると約束してくれているし、
お江与からも、もし高次が西軍に与したとしても
後で必ず家康に取りなすから降伏を、と言ってきているのです。

姉の松の丸も、徳川に何の義理立てかと高次を問いつめますが
高次には高次のプライドがあるようで、
徳川に味方すると決めた以上それは守りたいようです。
「二度と降伏のこと……高次聞きとうはございませぬ」

 

西軍は大津城攻めに15,000の兵を割き
残りはそのまま東に進みます。

主力である石田三成、小西行長、宇喜多秀家らは大垣城に入り
関ヶ原盆地の東口にあたる南宮山には
毛利本隊として吉川広家、安国寺恵瓊が。
また関ヶ原の西の山地に大谷吉継らの部隊が到着します。

家康は、関ヶ原の決戦前日の9月14日に
大垣城を東南に臨む赤坂に陣を構えます。

徳川が、三成の居城近江佐和山城を攻略して
大坂城を攻めるような動きを見せているので、
三成はそれを阻止するため、大垣城を出て
関ヶ原方面に陣を移すことにします。

 

小早川秀秋は松尾山に陣を敷いていました。
秀秋は、西軍を離反する時を失したまま
関ヶ原まで来てしまっていたのです。

雨の中を、徳川家臣の本多忠勝が来ました。
今後のことを確かめに来たわけです。

「徳川方への合力に異心はござらぬ」
東軍として戦ってくれますな、との再確認に大きく頷く秀秋。
徳川の勝利は、秀秋の働きひとつにかかっている、と
忠勝は秀秋を見据えます。

一方三成は、最後まで西軍を離反する者が出るのを恐れて
加増を条件に各大名の陣地を回っていました。
そして三成は小早川の陣にもやってくるわけです。

「三成が!? 何しに来た? 用はないッ」
断ったら怪しまれるでしょう、と正成の勧めで
イヤイヤながら対面することにします。

もし西軍が勝利を収めたら
秀秋には上方に大国を2国差し上げ
秀頼が15歳になるまで関白職をお願いしたい──。

 

三成の言葉に、秀秋は心を揺さぶられます。

正成は、秀秋が心変わりしそうなほど迷っているのを見抜き
讒言によって秀秋を陥れようとした三成と、
筑前36万石召上げを救ってくれた家康の
どちらを信じるのかと問いつめますが、

関白になれば天下を握ることができ
三成すらも抑えることができる、と
関白就任に執着心が芽生えてしまったのです。
「もはや徳川に合力する理由はのうなった」
明日は西軍のために戦う、と言って出て行きます。

 

カァー!! という鳥の不気味な鳴き声に起こされたおふく。
正成に何かあったのでは、と不安に押しつぶされそうなのです。
「いつになったら戦のない時がくるのでございましょう」


慶長5(1600)年7月25日、
徳川家康が会津征伐に従軍した諸大名を招集し、
今後の方針について軍議を催す。「小山評定」。

寛永6(1629)年10月10日、
おふくが上洛して昇殿し「春日局」名号を賜るまで

あと29年2ヶ月──。

 

原作・脚本:橋田 壽賀子 「春日局」
音楽:坂田 晃一
語り:奈良岡 朋子
──────────
[出演]
大原 麗子 (おふく)
長山 藍子 (お江与)
中村 雅俊 (徳川秀忠)
山下 真司 (稲葉正成)
香川 照之 (小早川秀秋)
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大空 眞弓 (茶々)
松原 智恵子 (お初)
伊武 雅刀 (石田三成)
橋爪 淳 (三条西実条)
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丹波 哲郎 (徳川家康)

佐久間 良子 (お安)
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制作:澁谷 康生
演出:小見山 佳典

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