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2021年12月26日 (日)

大河ドラマ青天を衝け・(41)青春は続く [終] ~魂のラストメッセージ~

──こんばんは。徳川家康です。
いやぁ……今日で終わりとは寂しい限りだ。もっともっとこの目で見ていたい。しかし260年続いた徳川の世しかり、何ごとにも終わりはある。
渋沢栄一の物語を閉じるにあたって、ぜひ皆さんに感じていただきたいことがあります。真心を込めて切り開いた、彼らの道の先を歩んでいるのは、あなた方だということを……是非に──

大正8(1919)年、ドイツの降伏で世界大戦が終結。日本は、戦後処理のために開かれたパリ講和会議で、人種差別の撤廃を欧米各国に求める一方、中国の山東半島におけるドイツの権益を要求。“日本の侵略は世界平和の脅威” “日本のアジア支配の野望はアメリカとの戦争を意味するのか”──日本に対する各国の警戒が強まり、中国や朝鮮半島では反日運動が激しさを増しました。

飛鳥山の渋沢邸。孫の敬三は渋沢栄一が突っ伏しているのをみて「おじいさま!?」と駆け寄りますが、体調が悪化して突っ伏していたわけではありません。これほどまでに日本人がみんなから嫌われている現状にショックを隠し切れないのです。大戦が終わった今こそ、世界は共存共栄の平和に向かって力を合わせ、日本も大いに世界人類の幸せのために力を尽くすべき時なのです。しかし敬三の学友たちは、中国ともう一度戦争をして、アメリカとともに倒してしまえと言っているそうで、栄一は「そんなことは冗談でも口にしてはならぬ!」と敬三にくぎを刺します。

栄一は喜寿を機に実業界から完全に引退しました。しかしその気力は全く衰えず、長年手掛けてきた徳川慶喜の伝記本も完成しました。
毎朝6時には起床し入浴を済ませてから朝食。7時ごろからはもう客が続々と詰め掛け、公衆衛生や都市開発、社会事業と、毎日平均15時間は熱心に働いています。東京養育院への訪問も欠かしていません。たくさんの子や孫にも恵まれました。最初の内孫である敬三は、栄一の希望通りに仙台二高を卒業し、東京帝国大学経済学部で学びながら、跡継ぎとして栄一を手伝っています。


栄一は、悪化する一方だった日米関係を民のレベルで改善しようと活動を続けていました。「日米有志協議会」では、栄一はアメリカからたくさんの実業家たちを招いてもてなし、お互いを知ろうと努めます。総理大臣の原 敬からも、感謝の言葉が贈られるほど栄一の活躍はすさまじいのですが、やはり政府の外側から見た日本と、政府内部の人間の考えとでは一致することも少なく……。

 

大正10(1921)年、敬三は東京帝国大学を卒業。海外の事情もよく学べる横浜正金銀行で働きたいと栄一に相談します。第一国立銀行ではなく、まずは外で働いてみたいと言う敬三の意思はとても強そうで、栄一は敬三の好きなようにしろと答えます。ただ栄一は自分のわがままで、どうしても跡を継いでほしくて敬三の人生を変えてしまったんだと後悔しています。

栄一は病床に伏している大隈重信の見舞いに屋敷を訪問します。ワシントン軍縮会議が日本の分岐点になると思うと眠れず、栄一はワシントンに行く気はないのですが、胸がザワザワしていてのうのうと寝ていられないと大隈に訴えると、「寝ていろ! もちっと余生ば楽しめ」と返すのですが、今となっても政治家ではない栄一に頼らざるを得ないのは、とても残念であります。決してアメリカと戦争の道に進んではならん、と大隈に言われて、ワシントン会議に合わせて4度目の渡米をします。

「わが日本政府は海軍の軍縮について、これを前向きに検討する用意があります。何割に削減するかは 今申し上げるわけにはいかない」と海軍大臣・加藤友三郎は新聞記者の取材に応じますが、その横で栄一が軍備縮小には賛成だと言うので、駐米大使の幣原喜重郎が慌てて栄一の腕を引っ張って部屋の中に連れ込みます。栄一がどれだけ排日移民問題は今すぐ解決すべきだと力説しても、移民問題が議題に上がれば会議は紛糾する、まずは海軍の軍備制限問題に意見することから始めた方が得策だと、幣原は栄一の主張を受け入れません。それでも反論する栄一に、お伝えせねばならんことがあります、と幣原は襟を正します。「長生きしてください……原首相が暗殺されました。こんな時に首相が暗殺とは」

ワシントン会議で日本は欧米の提案を受け入れ、世界はわずかながら、軍縮へと進みました。しかし栄一が願った排日移民の問題は議題に取り上げられることなく、会議は終わります。それでも栄一は諦めず、平和を訴える旅を続けます。その旅の途中で、大隈重信の死を新聞で知りました。83歳でした。

 

大正11(1922)年、敬三は岩崎弥太郎の孫である木内登喜子と結婚。イギリスに渡り、横浜正金銀行のロンドン支店に勤務することになりました。洋行を前に父・篤二に挨拶を済ませた敬三は、栄一や家族に申し訳ないことをしたと悔やむ篤二を、許して家に戻してやってほしいと栄一に頭を下げます。

 

大正12(1923)年9月1日、関東大震災。兜町の事務所が全焼との知らせを佐々木勇之助から聞き、今まで作り上げてきたものすべてが燃えていると、栄一は言葉を発することすらできません。そんな中、篤二が戻ってきて家族の無事を確認しました。栄一は篤二の姿を見ると、ギュッと抱きしめて再会を喜びます。
翌朝から栄一の復興活動が始まります。屋敷内で使えそうなものは避難者に使ってもらい、政府要職の人たちに、栄一が救護所を開くと伝えます。しかし世間は物騒としていて、裕福な家を襲うという情報もあり、栄一が表へ出ては危険だと子たちは進言しますが、栄一がそんなことに耳を貸すわけはありません。「父上のいうようにさせてやろう。あれこそ渋沢栄一だ」と篤二は笑います。
アメリカ財界では赤十字その他を通じて寄付金の申し込み受付を始め、ニューヨーク絹織物業界から40万ドル、ワナメーカー氏も横浜の代理店を通じて25,000ドルの現金を送付してもらうなど、栄一の呼びかけに方々で応えてくれます。中華民国政府も多くの寄付金や品物が届き、栄一には感謝の思いしかありません。「友とは……ありがたいものだ」

日本人は不当に安い賃金で働くから俺たちの仕事がなくなるんだ! と、アメリカ議会で日本人に対する差別待遇をアメリカの国策とする議案が提出され、翌年「排日移民法」と呼ばれる新移民法が正式に上下両院を通過します。栄一の十年来の努力は、水の泡となりました。

 

大正14(1925)年、敬三夫婦に子供が誕生します。栄一にとって曽孫にあたるこの男の子には「雅英」と名付けられます。これを機に敬三家族は日本に帰国することにしました。そして、時代は昭和になりました。

 

昭和6(1931)年の夏、中国は異常な長雨で大水害となってしまいます。東京商工会議所、日華実業協会、赤十字社は手を組んで、中華民国水災同情会を設立、栄一は91歳にしてその会長にも就任します。募金活動に力を入れつつ、その機運が盛り上がらないと嘆く同情会副委員長の児玉謙次は、栄一にラジオを通じて日本国民に呼びかけしてもらえたらと提案し、敬三や兼子が止めるのも聞かずに引き受けることにしました。
そして9月6日の放送当日、渋沢屋敷には多くのスタッフが入り多くの機材が持ち込まれます。「中華民国の水災を救うために、みなさんのお力をお借りしたいのであります」放送が始まり、街中ではラジオを前に民衆が足を止め、栄一のメッセージにじっと耳を傾けています。隣国中華民国は、反日運動真っただ中だったにも関わらず、関東大震災の時には多くの義援金を送ってくれました。その中国が水災に遭い、罹災者は1,000万人を超えるとの報道もあります。「今度は……日本が立ち上がる番だ!」手を取り合いましょう。困っている人がいれば助け合いましょう。人は、人を思いやる心を、誰かが苦しめば胸が痛み、誰かが救われれば温かくなる心を持っている。助け合うんだ──。
募金は、驚くほど集まりました。しかし9月18日、満州にいた日本の関東軍が奉天郊外で鉄道を爆破。満州事変を引き起こします。同情会の救援物資は中国の厳重な抗議の意思表明のために拒絶されてしまいます。

栄一はほどなく病床につきます。「死んだら教えてくれよ」と最期まで兼子に冗談をいう栄一でしたが、ついに力尽きます。11月11日永眠。92歳でした。

 

後日営まれた「渋沢栄一子爵追悼式」では、敬三が遺族を代表してスピーチします。「実は祖父から、みなさんに宛てた伝言を預かってまいりました」と敬三が紙きれを取り出します。
──長い間お世話になりました。私は100歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度という今度は、もう立ち上がれそうにもありません。これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。死んだ後も私は、皆さまの事業や健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも他人行儀にはしてくださらないよう、お願い申します。渋沢栄一──


作:大森 美香
音楽:佐藤 直紀
テーマ音楽演奏:NHK交響楽団  テーマ音楽指揮:尾高 忠明
題字:杉本 博司  タイトルバック映像:柿本 ケンサク
衣装デザイン:黒澤 和子  語り:守本 奈実 アナウンサー
時代考証:井上 潤・齋藤 洋一・門松 秀樹

[出演]
吉沢 亮 (渋沢栄一)
笠松 将 (渋沢敬三)
大島 優子 (渋沢兼子)
泉澤 祐希 (渋沢篤二)
小野 莉奈 (穂積歌子)  田村 健太郎 (穂積陳重)
長村 航希 (佐々木勇之助)  内野 謙太 (阪谷芳郎)
八十田 勇一 (北里柴三郎)  ヒロ ウエノ (八十田明太郎)
大森 嘉之 (加藤友三郎)  三谷 昌登 (徳川家達)
平川 和宏 (児玉謙次)  石田 登星 (金子堅太郎)
瓜生 和成 (添田寿一)  筑波 竜一 (藤山雷太)
茂木 淳一 (松田アナウンサー)  リッキー・アンダーソン (ヴァンダリップ)
ドン・ジョンソン (ライマン)  ジェイミー・スカイ (イーストマン)
池田 朱那 (阪谷琴子)  今泉 マヤ (渋沢登喜子)
藤松 祥子 (渋沢敦子)  遠藤 健慎 (渋沢秀雄)
竹内 寿 (渋沢正雄)  山口 大地 (渋沢武之助)
越中 優人 (渋沢智雄)  岡部ひろき (渋沢信雄)
遥 (渋沢華子)  黒岩 紘翔 (渋沢雅英)
黒田 茉白 (渋沢博子)  内藤 恵菜 (渋沢純子)
小林 優仁 (渋沢栄一(少年)(回想))  山崎 千聖 (渋沢うた(少女)(回想))

高良 健吾 (渋沢喜作(回想))
橋本 愛 (渋沢千代(回想))
満島 真之介 (尾高長七郎(回想))
町田 啓太 (土方歳三(回想))

草彅 剛 (徳川慶喜(回想))
堤 真一 (平岡円四郎(回想))
和久井 映見 (渋沢ゑい(回想))
小林 薫 (渋沢市郎右衛門(回想))

池田 倫太朗  高橋 岳則  蔵原 健  中村 大輝
鷲尾 英彰  グレゴリー・クアランタ  ゼガ  デリック・ドーバー
ジョン・オオクマ  樋口 結衣  柳下 晃河  平 洋太
田口 智晶  カンパニーデラシネラ  フジアクターズシネマ

石丸 謙二郎 (原 敬)
近藤 芳正 (幣原喜重郎)
朝倉 あき (大隈綾子)
大倉 孝二 (大隈重信)
北大路 欣也 (徳川家康)

撮影協力:群馬県安中市・福島県南会津町・群馬県みなかみ町・埼玉県嵐山町
資料提供:大庭 裕介・木村 昌人・田村 政実
    :渋沢史料館・渋沢栄一記念館・日本ラジオ博物館・日本カメラ博物館
    :米国立公文書館・北多摩薬剤師会・東京大学総合研究博物館・総務省統計局統計資料館
    :東京都健康長寿医療センター・China Dialogue・Sherman Grinberg Film Library・Alamy
    :北里柴三郎記念室・横浜こどもの国・築地本願寺

振付:小野寺 修二  アクション監修:諸鍛冶 裕太  所作指導:橘 芳慧
建築考証:三浦 正幸  馬術指導:田中 光法  芸能指導:友吉 鶴心
書道指導:金敷 駸房  国旗考証:吹浦 忠正  医事指導:富田 泰彦
農業指導:君島 佳弘  佐賀ことば指導:神崎 孝一郎  武州ことば指導:新井 小枝子
英語指導:塩屋 孔章  昆虫採集指導:佐々木 洋  藍作指導:松由 拓大
裁縫指導:小林 操子  剣術指導:楠見 彰太郎  三味線指導:坂田 舞子

制作統括:菓子 浩・福岡 利武
プロデューサー:板垣 麻衣子・橋爪 國臣
美術:神崎 篤  技術:東川 和宏
音響効果:平田 悠介  撮影:山口 卓夫
照明:阿刀田 琢  音声:吉野 桂太
映像技術:遠藤 啄郎  VFX:松永 孝治
CG:髙松 幸広  助監督:柿田 裕左
制作担当:宮田 亮  取材:加納 ひろみ
編集:大庭 弘之  記録:森 由布子
美術進行:佐藤 綾子  装置:楠永 怜
装飾:酒井 亨  衣装:早船 光則
メイク:馬場 五代  かつら:佐藤 翔
特殊メイク:江川 悦子

演出:黒崎 博

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