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2022年10月14日 (金)

プレイバック北条時宗・(34)蒙古襲来① ~九百隻の大船団~

文永11(1274)年10月5日、蒙古との戦のはじまりは対馬──。「高麗の合浦を大船団が出発した」と越前敦賀の商人から知らせが入ります。北条時宗は緊急で寄合を招集します。

敦賀の商人の報告を時宗に伝えた北条実時は、あとの万事を安達泰盛に託し、寄合にはしばらく参加しないと宣言します。蒙古が迫ったこんな時に! と泰盛は実時を引き止めますが、高麗からの情報で「片腕の利かない日本人がいた」という情報の真偽について、調べようと考えているのです。引き止める泰盛を残し、さっさと引き上げる実時です。

その大船団の中に、クビライの秘書官・趙 良弼と北条時輔が乗っている船がありました。海の外から祖国を見た時輔は、美しい緑に火をかけるのかとつぶやきますが、趙 良弼は日本が選んだ道だと聞き入れません。蒙古の申し出が一方的だったのではないかと言う時輔に、趙 良弼は鼻で笑います。「日本が目を覚ましてくれれば、この島を傷つけずに済むのですが」

1,000にも及ぶ大船団、1艘に50人が乗船すれば5万の兵。予想をはるかに超える大軍に言葉を失う北条義政ですが、奥州攻めで28万、承久の乱で19万の武士が戦ったことを考えれば、5万は驚く数字ではありません。博多への通り道にあたる対馬はわずか100騎ですが、手薄と分かればむやみに攻撃はしないだろうと、時宗は対馬へ援軍は送らず、博多に集約させることにします。

しかし時宗の予想は大きく裏切られ、翌10月6日、蒙古軍は防備の手薄な対馬を徹底的に攻撃したのです。女こどもも容赦はしないすさまじい攻撃でした。地の利のある対馬で、かつ武勇名高い宗 助国は少ない手勢で勇敢に戦うも、80騎では如何ともしがたく、討ち死にしてしまいました。少弐景資は鎌倉へ早馬を走らせます。

 

報告を受け取った時宗は、正々堂々と戦をすることも、対馬と壱岐を犠牲にするのは仕方ないと考えていたことも、すべて甘かったと後悔します。時宗は北条宗政に博多下向を命じ、存分に戦って死んで来いと伝えます。それを立ち聞きしていた芳子は、時宗自ら行けと反発しますが、宗政は下知に従います。「それがしは死にませぬ。そして兄上も死なせませぬ」

宗政の博多下向の旅には、博多で戦う武士のために領地からの年貢米を届けるように時宗が命じます。これで執権館の兵糧の貯えは底を尽きますが、祝子ら女たちも我慢します。そして時宗は7代将軍惟康(これやす)王に、かねてから北条と対立していた足利とも手を結び、当主の足利家時を惟康王第一の側近として仕えさせることにします。幕府を一丸とするために、あらゆる手を打っていったのです。

義政はこういった時宗の獅子奮迅の働きを独走が過ぎると考え、このままでは時宗を支えきれないと危惧しています。北条時広も、対馬からの報告を受けた時宗の顔つきは尋常ではないと同調します。最悪な場合 九州は蒙古に奪い取られてしまうわけで、京と鎌倉だけでも守り抜かなければと言うのです。ギロリと睨んだ泰盛ですが、うーんと黙り込んでしまいます。

対馬を陥落させた蒙古軍はすぐには船を進めず、幾日も対馬の海上に滞在しています。博多の警護を見て前に進めないのだと楽観する者、進路を変えて京に攻め上るつもりだと言う者さまざまですが、佐志 房は必ず壱岐を責めると主張します。しかし平 頼綱は壱岐には兵を割けないと言い、菊池武房も同じ意見です。房は、みなは海の戦を知らぬ! と吐き捨て、軍議の場から出ていきます。

六波羅探題北殿の北条義宗のもとを実時が訪問していました。実時は蒙古への準備の件を伝えるのもそこそこに、隠密としてここに来たと打ち明けます。高麗の港に武士らしい身のこなしをした日本人がいて、左腕が利かなかったということを話し、改めて時輔の最期について確認します。義宗は蛇に睨まれた蛙のように身動きできず、ただ座っているだけです。

 

趙 良弼は、女こどもにまで手をかけることで“兵を用いる”意味を思い知らせ、この戦について時宗に届くのを待つために海上で滞在していると時輔に説明します。愕然とする時輔は、次の目的は壱岐か博多かを尋ねますが、趙 良弼はそれには答えず、日本が和睦を申し入れない限り、攻撃の手を止めるつもりはないと穏やかに言います。

対馬の民が蒙古兵に攻められ、次々と倒れていく……。そんな夢を見た時宗はガバッと起きます。ひどい汗です。苦しみを自分にも分けてほしいという祝子に、苦しいのは対馬の民、九州の兵だと言う時宗。「もし博多の防御が破られたなら、わしは己の首をクビライ・カアンに差し出すことで、この戦を収める。覚悟しておけ」

時宗はその内容をしたためた書状を泰盛に託しますが、泰盛は書状を手にするや否や破り捨ててしまいます。自分一人の首で収めて日本の民を守りたい時宗と、民が生きるということは時宗も生きるということだと反発する泰盛で殴り合いの大げんかになります。かけつけた義政と時広が慌てて止めに入りますが、ふたりのわだかまりは消えないままです。

館に戻った泰盛は、イテテとほほに手を当てています。様子を見に来た松下禅尼に泰盛は、この戦に安達からも誰か行かせなければならないと伝えます。この鎌倉を守るためには、安達が立たねばならぬ時がくるやもしれぬ──そうつぶやす泰盛が北条の世は終わると考えていると見て、松下禅尼はゾッとしたものを感じ取ります。翌日、泰盛は甥の盛宗を養子として博多に向かわせます。

 

蒙古の大都では、穏やかな日々が送られていました。クビライは大都が完成した今でも草原での暮らしを変えようとはしません。皇太子・チンキムは、大都は十分豊かなのにこれ以上国を大きくすることに疑問を持っていますが、インドやアラブ、地中海への海の道が開けば蒙古は世界に豊かさと平和をもたらせるとし、そのためには日本に従わせなければならないと自説を曲げません。

謝 国明は博多の民を集め、戦ってはならないと説きます。戦は武士の仕事であり、我々は戦で傷ついた町を立て直すため、いったん避難しようと訴えますが、民衆たちの反感を買ってしまいます。石を投げつけられても、宋を捨てて来た者に日本の誇りが分かるかと毒を吐かれても、謝 国明は切々と説き続けます。博多の町には続々と武士たちが集まり、人々は戦が迫る恐怖に恐れおののいていました。

房は博多から松浦に戻ります。松浦党の館にも続々と兵たちが集まりつつあります。房は水軍松浦党の使命を「海によってつながった者同士を守ること」と桐子や勇らに教えます。だからこそ壱岐を見殺しにはできないと、房も桐子も、松浦党らしく戦い再び戻って来いと言って留(とまる)を壱岐へ送り出します。

対馬に長く逗留していた蒙古軍が再び動き出します。船内では戦の用意に余念なく、武具の手入れや確認作業が行われています。それらを眺めていた時輔は、日本の海を眺めています。その視線の先には、うっすらと見えてきた壱岐がありました。

対馬から壱岐に進んだ蒙古軍は、壱岐国の北部・勝本と西部・湯ノ本に上陸し、守護所から駆け付けた守護代・平 景隆の軍勢とむごい戦闘が始まります。たまらず景隆は樋詰(ひのつめ)城に立てこもり、蒙古軍は城を取り囲みます。送り込まれた留は景隆を助け出そうとしますが、敵兵に取り囲まれた景隆は刀を首に当て、自刃します。怒りに満ちた留は敵兵に飛び込んでいきます。


脚本:井上 由美子
高橋 克彦「時宗」より
音楽:栗山 和樹
語り(覚山尼):十朱 幸代
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[出演]
和泉 元彌 (北条時宗)
渡部 篤郎 (北条時輔)
柳葉 敏郎 (安達泰盛)
木村 佳乃 (桐子)
西田 ひかる (祝子)
池畑 慎之介 (北条実時)
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渡辺 徹 (北条義政)
江原 真二郎 (高 師氏)
川野 太郎 (少弐景資)
うじき つよし (竹崎季長)
小西 博之 (菊池武房)
修 宗迪 (趙 良弼)
バーサンジャブ (クビライ・カアン)
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藤 竜也 (佐志 房)
石橋 蓮司 (北条時広)
富司 純子 (松下禅尼)
北大路 欣也 (謝 国明)
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制作統括:阿部 康彦
演出:吉村 芳之

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