プレイバック徳川家康・(07)初陣(ういじん)
家臣たちと馬で遠駆けに出る家康、すがすがしそうな表情です。弘治3(1557)年正月、先に元服を終えて竹千代は名を松平元信と改め、瀬名姫との婚礼を目前に今日も日課となった鍛錬に出ている。朝の修業は、まず裏の的場で30射、その後身体が汗ばむまで木刀を振って、それから小さな仏壇の前に座る。ここで規則を調えて、朝の食膳はその後であった。一汁二菜、玄米を少し硬めに炊いてひと口48回咀嚼。2椀食して皿まできれいにすすぎ、その後いつもは智源院に行き勉学に勤しむのだが。
瀬名(鶴姫)との婚礼の日取りが決まったと関口親永から知らせがあり、相談したいことがあり呼び出しを受けます。瀬名との政略結婚は側小姓たちの大きな不安材料であり、こちらの都合をすべて合わせて親永の言いなりになっていては、後に禍を呼ぶと鳥居元忠は反発しますが、親永は元信が駿府に来てから命の綱でありこれから舅となるお方だと、元信は食事を中断して親永の元へ向かいます。
婚礼は15日と決まり、瀬名は笑顔を見せて喜ぶ一方で元信は淡々と受けます。婚礼には義元は参列せず、息子の氏真が代理で来ることになります。瀬名を「駿河御前」と呼べとお達しがあるほど、義元は姪を可愛がっていますが、その実は氏真が弄んで捨てた女をもらい受けるわけで、それにも元信は礼を言わなければなりません。元信の脳裏に、雪斎禅師の言葉がよぎります。「怒るでない。肩の荷は重いほど良い」
元信は、義元に倣って婚礼を質素に執り行うつもりですが、駿河国主の姪の婚儀とあってできるだけ華やかに送り出したいと考える親永は、質素に執り行うと主張する元信に難色を示します。質素に過ぎたと言われるのは、思い上がったと笑われるよりはるかに将来のためになると元信は親永を説得します。瀬名は、元信がいいと考える方にしましょうと間に入り、親永はしぶしぶ承諾します。
元信が質素にと主張したのは義元に倣ったのもありますが、瀬名と過ごす館の建て増しで元信の懐事情が非常に苦しくなっていたためです。婚礼を派手に執り行うことは、国元の岡崎へそのしわ寄せが行き彼らの暮らしを苦しめることになるわけで、少しでも費用を減らすために、元信は招待する諸将たちも呼ぶ範囲を狭めるなどするつもりです。
城主の婚礼となれば国にとって一大行事ですが、城主が人質だと周囲にここまで気を遣わなければならないのかと、大久保新八郎はあきれ果てます。瀬名の気の強さは岡崎にも聞こえていて、元信はそれを承知しているのかと心配の声も聞かれますが、今さら異議を唱えても蜘蛛の糸にからまるようなものです。酒井雅楽助は、婚礼を機に松平広忠のお墓参りを義元に願い出ることを家臣たちに念押しします。
元信と瀬名は氏真に挨拶に出向きます。氏真は元信を“城なし”と呼び、今川の縁者として侮られないように忠告します。そして元服の名も、馬まで与えられた織田信長からもらった“信”だと非難します。瀬名のためという氏真にいたたまれなくなった瀬名は、自分への思いやりは今後は元信に注いでもらうと反抗し、氏真を激怒させます。「そなた出過ぎた女ぞ。二人とも下がれッ! この婚礼、氏真が壊してやるッ!」
関口屋敷に戻った瀬名は泣きじゃくります。氏真から話の大筋を聞いてとても驚いた親永は、瀬名に氏真の不興を買うようなふるまいは二度としてはならないとたしなめます。氏真のみならず、元信のためにもならないのです。しかし瀬名は、悪いのは氏真であり、元信は気の毒だと主張します。
その周囲にいくつもの不安の種を蒔きながら、松平元信は「駿河・遠江・三河」三国の太守・今川治部大輔義元の姪、関口刑部親永の娘、瀬名と結婚した。弘治3年の春である。その知らせは、直ちに尾張の織田信長の耳にも入った。日いちにちと賑わいを増している市のせいである。市は出入り自由で無論他国の間者も入ってくるが、逆に信長が放ってある間者も商人に紛れて流言や噂を広めることもできる。彼らは丹念に仲間の噂を調べて、多くの情勢を直接信長の耳に入れている。
市で物を売る民に声をかけて回る信長は、猿に似た小さい男が座っているのに気が付きます。今は針売りをしている木下藤吉郎です。藤吉郎は、今日中に信長の身辺に変事が起きると忠告します。「ことによるとお主の不幸せにはならぬ……かもしれぬ」 藤吉郎にニヤリとする信長ですが、これが、信長と後の秀吉との出会いですが、誇張した藤吉郎の言葉の裏に、信長はふとある不安を感じ取ります。
信長の予感が的中します。斎藤道三が死んだのです。討ったのは息子の義龍であり、それほど斎藤親子の仲は険悪になっていました。義元は信長を叩き潰して上洛する準備は整えており、もし上洛の際には道三は尾張に援軍を送る手はずだったのですが、いま美濃ははっきり敵に回ってしまいました。父の死に嘆き悲しむ濃姫に、信長は義龍の首を道三の墓前に供えることを約束します。「それまではいいか。忍べよ」
そのころ瀬名は元信の子を身ごもっていました。瀬名は、生まれたのが男なら竹千代、女なら亀姫と名付けてほしいとお願いし、元信は表情をこわばらせます。瀬名に娘が生まれたら亀姫と、亀姫に娘が生まれたら鶴姫と名付けるよう、幼いころから共に育った亀姫(吉良御前)と約束を交わしているのです。「お許しある時は、殿のお心に吉良御前へのこだわり無きものと、瀬名もいっそう安心できましょうほどに」
信長に呼ばれた濃姫は、しばらく遠ざけると宣告されます。新たに側室を探すためですが、濃姫は自分を遠ざければ美濃との間に和睦が鳴ると聞いて、致し方なく受け入れます。側室との間に生まれる子に教育を施すために、自ら強くならねばと気丈に振る舞う濃姫ですが、側室探しに出ていく信長に見送る時、密かに涙します。連れ添って10年、奇妙な夫の言動と愛に疑いは持たない濃姫ですが、今は辛い立場です。
美濃の変事を信長の情報網よりも先にもたらした藤吉郎は、今日も市で針を売っています。信長は人相や骨相すべてに通じている(と言っていた)藤吉郎の前に現れ、自分に子どもが生まれるか尋ねます。「あぁ……うん、生まれる生まれる」と軽く答える藤吉郎は、女探しについてこいと藤吉郎を引っ張っていきます。
信長が向かったのは、家臣のひとり生駒出羽守の屋敷でした。信長は出羽の妹のお類に茶を持ってこさせます。道理が通ると笑ってしまう藤吉郎に信長は警告し、さすが我がご主人様! と声をかけられます。しかしお前の主人ではないと一喝され、藤吉郎はしゅんとします。お類が差し出した茶を一気飲みした信長は、自分の子が産めるかと尋ね、「殿さまの子なら産んでみてもよいと存じます」と返事をもらいます。
続いて訪問したのは吉田内記の屋敷です。娘の奈々とは久しぶりの対面で、成長した姿に目を細めます。信長はここでも側室を持つ宣言をします。ひとりは侍女の深雪、もうひとりはお類、そして内記に奈々を所望します。ご冗談をと内記は固まりますが、それでも信長は一歩も引かず、颯爽と去っていきます。
信長の言動に藤吉郎は感心します。信長は臆病風に吹かれて義龍は戦い、奥方を遠ざける。そして閨(ねや)寂しさにいっぺんに3人の側室を抱えることにした大たわけな信長ですが、藤吉郎はさっそく針売りとして美濃に入り、その信長の乱行をばらまくことにします。美濃が終わったら今川へ。「早い方がよいと思います。では、これにてご免!」 変な男だと、信長は笑います。
元信のもとに、義元から岡崎墓参の許可が出たとの朗報が入ります。元信にとっても岡崎の家臣たちにとっても長い長い辛苦の末の、待ちに待った日です。元信は大きく伸びをして、嬉しさを噛みしめます。
12月8日、元信は10年ぶりに岡崎に入ります。しかしその帰郷は決して甘いものではなく、城主とはいえ城には入れないのです。元信は大樹寺に入り、広忠の墓に手を合わせます。涙を流す家臣たちに、「みな苦労をかけた」と元信は手をついて詫びます。悔し涙を流す新八郎、小夜、そして家臣たちの最後列でじっと様子を見ている竹之内波太郎です。
翌朝、元信は渡の里にある鳥居忠吉の館に入ります。忠吉は錠前つきの蔵に元信を案内し、大量の銭を見せます。元信が岡崎に戻ってきたら戦になるだろうと予測して、その軍費としてあらかじめ備えているのです。続く土蔵にも、馬具、胴丸、刀や槍の類がたくさんあります。これらはもし見つかってしまったら、その責めを忠吉ひとりがかぶるための策です。「わしはよい家人を持って幸せじゃ」
雅楽助が、信長が大高城に戦を仕掛けたと知らせに来ます。義元の上洛を阻止すべく義龍と手を取ったようです。大きな戦の口火となると、雅楽助はこのまま岡崎で待機することを義元に提案してはと助言します。一方忠吉は、それでは義元の疑いを深め、信長との戦の先鋒に使われるだけと、場合によっては駿府に引き返すことを勧めます。わしはいつでも昔の竹千代を助けるぞ──。元信は大いに悩みます。
忠吉の意見を取り入れざるを得ず、駿府に戻った元信はさっそく義元に呼び出されます。将軍足利義輝を助けるために信長が上洛を宣言したからと、そろそろ腰を上げなければと義元は上洛の準備に入ります。まずは小手調べとして元信に初陣として織田の寺部城を攻撃せよと命じます。岡崎党の中には織田に通じている者もいるらしく、そんな家臣たちに煽(おだ)てられて信長に寝返っては困るのです。
裏切ったらどうなるかと脅される元信ですが、裏切る気は毛頭ありません。元信は裏切らない証として、武功名高い祖父の松平清康にあやかり、元信から元康に改名したいと義元に願い出ます。氏真に言われた元信の信は信長の信であるというのが念頭にあったのかもしれません。あっぱれなる心がけと義元はこれを認め、武功に励めと叱咤します。
初陣から激しい戦が予想され、雅楽助は瀬名にもしものときの覚悟を求めます。元康を守るのが家臣の務めという瀬名に、岡崎党はこれまで義元に万全の用意を認められてこなかったと弁明し、それだけに全力で戦うのは難しいと示します。そして元康が岡崎に入れるように口添えを依頼。瀬名は家来の分際で命令してきたと雅楽助に腹を立てます。
元康は波太郎と随風と対面していました。元康を縛るものは、岡崎に残った家臣たちの今日までの堪忍です。そのためには妻も子も捨て、ただ戦うのみです。いまこの身があるのも、天が自分に期待しているからかもしれません。随風は、竹千代は成長したと笑います。随風に紹介された波太郎は、元康の母・於大とかつて戦いのない日の将来を誓い合ったこともあり、くれぐれも用心して生き抜けと激励します。
熊屋敷で、波太郎が用意した鉄砲のため仕打ちをした信長は、寺部を攻撃してくる元康を叩くべきかどうかを波太郎に相談します。信長としてはまず最初に叩いておいて恐れさせておきたいわけですが、叩けなかった時は……。「おもしろい芽は摘まぬがよい。花も見ぬうちから毒草と決めてかかるはおろかなこと」 波太郎は、義元の出陣は3~5月で兵力3万と占い、勘定はできた! と、信長は立ち上がります。
元康の初陣は、岡崎衆を率いて寺部城主・鈴木日向守重辰を攻めることでした。瀬名はあれやこれやと心配していて、元康は我が子を身ごもっている瀬名の身を心配します。元康が助かるために家来たちに人垣を作ってもらってまでも助かるように言いますが、居並ぶ家臣たちはその発言にムッとします。元康の号令で、家臣たちは一斉に立ち上がります。
「小手調べの初陣」と義元は言った。しかし、すでに寺部城には力不足と見れば叩き潰せと信長の命令が飛んでいる。岡崎衆を合流してこれに向かう元康の一帯は、いわば独立行動隊である。しかも攻略に失敗した時は凱旋も認めずと義元は言っている。勝利か斬り死にか。行く手にパックリと死神が口を開けて待っている初陣である。
永禄元(1558)年2月5日、加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻撃し、家康の初陣を迎える。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと45年──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (松平元信(徳川家康))
池上 季実子 (瀬名)
役所 広司 (織田信長)
藤 真利子 (濃姫)
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武田 鉄矢 (木下藤吉郎)
成田 三樹夫 (今川義元)
林 与一 (今川氏真)
宮口 精二 (鳥居忠吉)
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小林 桂樹 (雪斎禅師)
竜 雷太 (随風)
石坂 浩二 (竹之内波太郎)
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制作:澁谷 康生
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第8回「桶狭間」
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