プレイバック徳川家康・(10)三河一向一揆
駿府から無事救出した瀬名親子には、わざわざ岡崎城の北の築山に新しい御殿が作られた。そこの主となった瀬名は、御殿の名をそのままに築山殿と呼ばれていた。瀬名の父・関口刑部は、瀬名親子と鵜殿長照の二子との人質交換が済むと間もなく、氏真から切腹を命じられてすでにこの世を去っていた。
永禄6(1563)年・春、築山御殿では瀬名(築山殿)が父の位牌に手を合わせています。明日が四十九日ということもあり、家康も冥福を祈ろうとやってきます。父も連れてくればよかったと後悔する瀬名ですが、今は家康のそばにいられるのが夢のようです。ただ、1週間に一度しか顔を見せない家康は瀬名を築山御殿に押し込め、御殿から遠く離れた本丸で別の女がいるに違いないと嫉妬心をたぎらせます。
瀬名の疑念は見当はずれでして、独立したとはいえ、家康は弱小国の領主として戦乱の世渡りに多忙を極めていました。三河統一に向けて、今川の勢力下にある城を攻撃しなければなりませんが、久松佐渡を岡崎城の留守居役に、元康自ら戦の陣頭指揮を執って士気を上げるつもりです。久松を留守居役にするなら、元康の生母で久松の妻でもある於大を岡崎に呼ぶ声も上がります。
それはそれとして、元康は一向宗にはくれぐれも気をつけるように念を押します。加賀や能登、越後で一向一揆が発生して各所に大きな影響をもたらし。三河でそれが起きると三河統一の話は内側から崩れてしまう恐れがあったのです。そして織田信長が甲斐の武田とよしみを通じている情報が石川数正からもたらされ、元康は驚きます。
一度に3人側室を持った信長は、徳姫のほかに奇妙丸・茶筅丸(ちゃせんまる)・三七丸を儲けていました。徳姫は岡崎に送るとして、奇妙丸には武田から姫を迎えたいという意向を濃姫に伝えます。東の松平と武田を固めて美濃の道筋を開け、目指すのは京であると濃姫は信長の意向を即座にくみ取ります。武田から姫を迎えるのは熊の若宮・竹之内波太郎の発案で、京への道筋は木下藤吉郎に任せてあります。
藤吉郎が戻って来ますが、いつもの陽気さは影を潜め信長の前で恐懼します。濃姫の父・斎藤道三の墓前で義龍の首を供えるのが信長の悲願ですが、藤吉郎の決死の根回しもむなしく、義龍が毒殺されてしまったのです。信長は、義龍を地獄に送るのに毒も槍もないと笑い、濃姫も涙をぬぐいながらその死を喜びます。藤吉郎は信長の笑顔を見てようやく安堵できました。「そうか……美濃の道筋が開いたか」
瀬名は侍女のお万に、渡って来る家康のために七夕の祭りの席を設けます。お万は彦星に恋をしてはならぬと瀬名は笑っていますが、竹千代が織田の一の姫(徳姫)と婚約したと瀬名はつい口を滑らせてしまい、それを知らなかった瀬名は真っ赤になって石川数正を呼びつけます。元康の愛情を受けながらも、父の刑部を切腹させたという負い目が、義元の姪たる瀬名の心の中にこびりついていたのです。
やってきた数正は酒を呑んでいたようで、瀬名は苦言を呈しますが、元康の改名祝いで飲酒していたのです。今川義元からの諱を返上し、誰の力も借りないでやっていくという意思表示をした家康に。瀬名は、伯父の義元を討った織田と結ばれるのは恥辱以外の何ものでもありませんが、逆に岡崎では19歳まで家康を人質に取っていた義元を恨む者が多いと、数正はたしなめます。
築山御殿で過ごす家康に、改名は義元も喜んでいると皮肉を言う瀬名は、義元を討った織田を竹千代と結ばせたくないと反発します。強くなければ斬られ、生きるために斬る乱世。義元が他国に攻め入ってなぜ討たれたか、自分を人質に出せと言ってもおかしくないこの時に、愛娘を岡崎に送る信長の器量を家康は懇々と説きます。
しかし瀬名は、家康がそんなに弱い武将かとバカにし、感情的に盆を祭壇に投げつけて家康を立腹させます。亀姫のためにこしらえた七夕の祭りの飾りや祭壇がめちゃくちゃになってしまいます。家康と瀬名の諍(いさか)いは、夫と妻の最初の亀裂を生んだ。太平の世ならば幼い子供の婚約など決して取り急ぎはしない。が、その現実の厳しさを瀬名は理解しようとしないのである。
一度は気を落ち着かせ御殿に戻った家康ですが、瀬名らの姿はなく本丸へ引き返します。すると家康の居室の様子を庭から窺うお万がいました。理由を問う家康ですが、瀬名が家康の身辺に女の影がないかお万を偵察に送ったことぐらい分かっています。しかしお万は家康に恋をしたと打ち明け、主人の疑念を納得させるのも侍女の務めと家康がお万を側室としてもらい受けることにします。
瀬名との不和に心を痛める家康でしたが、恐れていた三河一向一揆が突発してしまいます。今川との戦に備えて砦を築く最中、寺から借りることにした兵糧の籾を、守護不入の地である寺であるのに年貢と称して家康の家臣が持ち出したのがことの発端でした。血気盛んな家康を怒らせることに、一揆の先導者の思惑がありました。宗門のためとなると一向宗の結束力は固く、大きな騒動となります。
一揆は籾を奪い返し、諭しに動いた松平家臣を拘束して斬り捨てるなどの狼藉を働きます。本多作左衛門は膿を出し切ってしまえと主張しますが、数正は冷静に、この一揆は民衆にとって「阿弥陀如来か領主か」つまり来世か現世か、仏が偉いか家康が偉いか、そのどちらの報いが怖いかの選択であると分析します。一向宗を選択し家康に歯向かう者は日に日に膨れ上がり、3,000にも達します。
その様子を見た随風は面白おかしく波太郎に報告しますが、これ
瀬名の疑念は見当はずれでして、独立したとはいえ、家康は弱小国の領主として戦乱の世渡りに多忙を極めていました。三河統一に向けて、今川の勢力下にある城を攻撃しなければなりませんが、久松佐渡を岡崎城の留守居役に、元康自ら戦の陣頭指揮を執って士気を上げるつもりです。久松を留守居役にするなら、元康の生母で久松の妻でもある於大を岡崎に呼ぶ声も上がります。
それはそれとして、元康は一向宗にはくれぐれも気をつけるように念を押します。加賀や能登、越後で一向一揆が発生して各所に大きな影響をもたらし。三河でそれが起きると三河統一の話は内側から崩れてしまう恐れがあったのです。そして織田信長が甲斐の武田とよしみを通じている情報が石川数正からもたらされ、元康は驚きます。
一度に3人側室を持った信長は、徳姫のほかに奇妙丸・茶筅丸(ちゃせんまる)・三七丸を儲けていました。徳姫は岡崎に送るとして、奇妙丸には武田から姫を迎えたいという意向を濃姫に伝えます。東の松平と武田を固めて美濃の道筋を開け、目指すのは京であると濃姫は信長の意向を即座にくみ取ります。武田から姫を迎えるのは熊の若宮・竹之内波太郎の発案で、京への道筋は木下藤吉郎に任せてあります。
藤吉郎が戻って来ますが、いつもの陽気さは影を潜め信長の前で恐懼します。濃姫の父・斎藤道三の墓前で義龍の首を供えるのが信長の悲願ですが、藤吉郎の決死の根回しもむなしく、義龍が毒殺されてしまったのです。信長は、義龍を地獄に送るのに毒も槍もないと笑い、濃姫も涙をぬぐいながらその死を喜びます。藤吉郎は信長の笑顔を見てようやく安堵できました。「そうか……美濃の道筋が開いたか」
瀬名は侍女のお万に、渡って来る家康のために七夕の祭りの席を設けます。お万は彦星に恋をしてはならぬと瀬名は笑っていますが、竹千代が織田の一の姫(徳姫)と婚約したと瀬名はつい口を滑らせてしまい、それを知らなかった瀬名は真っ赤になって石川数正を呼びつけます。元康の愛情を受けながらも、父の刑部を切腹させたという負い目が、義元の姪たる瀬名の心の中にこびりついていたのです。
やってきた数正は酒を呑んでいたようで、瀬名は苦言を呈しますが、元康の改名祝いで飲酒していたのです。今川義元からの諱を返上し、誰の力も借りないでやっていくという意思表示をした家康に。瀬名は、伯父の義元を討った織田と結ばれるのは恥辱以外の何ものでもありませんが、逆に岡崎では19歳まで家康を人質に取っていた義元を恨む者が多いと、数正はたしなめます。
築山御殿で過ごす家康に、改名は義元も喜んでいると皮肉を言う瀬名は、義元を討った織田を竹千代と結ばせたくないと反発します。強くなければ斬られ、生きるために斬る乱世。義元が他国に攻め入ってなぜ討たれたか、自分を人質に出せと言ってもおかしくないこの時に、愛娘を岡崎に送る信長の器量を家康は懇々と説きます。
しかし瀬名は、家康がそんなに弱い武将かとバカにし、感情的に盆を祭壇に投げつけて家康を立腹させます。亀姫のためにこしらえた七夕の祭りの飾りや祭壇がめちゃくちゃになってしまいます。家康と瀬名の諍(いさか)いは、夫と妻の最初の亀裂を生んだ。太平の世ならば幼い子供の婚約など決して取り急ぎはしない。が、その現実の厳しさを瀬名は理解しようとしないのである。
一度は気を落ち着かせ御殿に戻った家康ですが、瀬名らの姿はなく本丸へ引き返します。すると家康の居室の様子を庭から窺うお万がいました。理由を問う家康ですが、瀬名が家康の身辺に女の影がないかお万を偵察に送ったことぐらい分かっています。しかしお万は家康に恋をしたと打ち明け、主人の疑念を納得させるのも侍女の務めと家康がお万を側室としてもらい受けることにします。
瀬名との不和に心を痛める家康でしたが、恐れていた三河一向一揆が突発してしまいます。今川との戦に備えて砦を築く最中、寺から借りることにした兵糧の籾を、守護不入の地である寺であるのに年貢と称して家康の家臣が持ち出したのがことの発端でした。血気盛んな家康を怒らせることに、一揆の先導者の思惑がありました。宗門のためとなると一向宗の結束力は固く、大きな騒動となります。
一揆は籾を奪い返し、諭しに動いた松平家臣を拘束して斬り捨てるなどの狼藉を働きます。本多作左衛門は膿を出し切ってしまえと主張しますが、数正は冷静に、この一揆は民衆にとって「阿弥陀如来か領主か」つまり来世か現世か、仏が偉いか家康が偉いか、そのどちらの報いが怖いかの選択であると分析します。一向宗を選択し家康に歯向かう者は日に日に膨れ上がり、3,000にも達します。
その様子を見た随風は、攻めては引きすぐ押し返す波のようだと面白おかしく波太郎に報告します。その一揆衆の中に波太郎の手下の金蔵と銀蔵を目撃した随風ですが、家康自ら太刀を振るって戦う姿が民衆にまで浸透し、岡崎がなお結束することを波太郎は期待しているのです。一揆ごとき鎮圧できないようでは、松平も消えてなくなったほうがいいと波太郎の辛口コメントに、随風は苦笑します。
そこに矢文が飛んできました。織田の息子と武田の姫との婚儀がまとまったことを知らせるものでした。織田と武田が手を結べば乱世も終わりに近づくと波太郎はニヤリとしますが、それにしても乱暴な伝え方だと随風は皮肉を言います。
一向一揆に嵐は衰えず、年明けには民家を放火するという暴挙に出始めます。つかみどころのない者に先導されて自らの暮らしを破壊する動きに、何が信仰だ! 愚かな!と家康は激怒します。寺社を焼き払い、焦土に立たされた人間の弱さを思い知らせてやると、攻め手の兵たちに今夜はゆっくり体を休めて出陣に備えるように命じます。
飯をかきこむ家康を於大が訪ねます。一気に加担した家人を一人残らず忠罰すれば、騒動は収まっても松平は弱体化するわけで、それが彼らの目的なら、敢えて的を外して懇々と説得を続けるのがいいと諭します。一体化した時こそ家人とのつながりが生きてくるのです。家康を生んだのも御仏、一揆衆を生んだのも御仏であれば、鎮圧した際も僧よりも厳しく、家康が御仏の道を進んで許すことを勧めます。
家康たちは一揆衆ひとりひとりに説得をします。家康の姿に逃げ出した蜂屋半之丞でしたが、思い直して家康に槍を向けます。しかし家康は半之丞が松平党の子だからと攻撃しません。本当の仏であれば、一揆を続けて家を焼けば冬にはみんな飢え死ぬようなことをするだろうか。その場から逃げ出した半之丞は涙を流します。「ニセの仏にけしかけられて背いた俺を、なぜ突かぬのじゃ……殿の阿呆!」
半之丞や渡辺半蔵を中心に、いつになったら阿弥陀如来は法敵である家康に罰を下すのかという声が一揆衆の中から上がり始めます。春に田を耕せず夏にまで勝負がつかないと、待つのは餓死のみです。自分たちの信じる仏と家康のうしろにいる仏、どちらを信じていいのか分からなくなり始めます。半之丞と半蔵は意を決して岡崎城へ帰ると言い、他の一揆衆ともみあいになります。
ふたりは全面降伏し、主である松平家長老の大久保新八郎は一揆衆のために謝罪をします。これで一気に解決の方向へ進み始めました。降伏したものはお構いなしと聞いて続々と家臣団が帰参すると、騒ぎを生業としていた渡り法師たちは方々へ散っていきます。「わしは待っていたぞ。この日をな」
家康は、この三河一向一揆を通じて「人間とは弱いもの、乱世に一国を率いて立つ者は弱さに迷う者のためにも強くならねばならない」と学びます。その強さが指導力となるのです。頷く数正ですが、そこにお万が現れます。戸惑う家康と、家康をまっすぐ見つめるお万。数正はそっと身を引きます。
数正は知恵を借りようと作左衛門の屋敷を訪れます。主君の女出入りをさばくために禄を食むわけではないと吐き捨てる作左衛門ですが、数正は名うての癇癪持ちである瀬名のことが引っかかっているのです。作左衛門はぐいっと酒を飲み干し、いい機会だからうんと困らせてやれと意地悪そうに笑います。それができないなら瀬名の機嫌でもとっていろ、と。
家康はお万を瀬名から離し、城内に留め置いていました。お万と一夜をともにした家康が、城の通用門から出てくるところを作左衛門は見咎めます。声が高い! と家康は作左衛門をたしなめますが、声が大きいのは生まれつきと開き直ります。夜な夜なお万と会っている夜、欠かさず寝ずの番に当たっていた作左衛門は、お万が家康を殺そうとしていたと見抜き、問い詰めます。
「ただ殿をお慕わしゅう……と申しましても、生きてあっては主を裏切ることに」 主とは瀬名のことであり、目の前で現実を見せつけられた家康はひどく衝撃を受けます。作左衛門は、お万の忠義心はあっぱれであり、お万の命だけは助けてほしいと頭を下げます。お万は目に涙をいっぱい浮かべて戻っていきます。
女遊びは慎めというのかと家康は反発します。作左衛門は「おやりなされどしどしと!」とけしかけ、家康はまだ未熟者だから達人になれとニヤリとします。瀬名への気兼ねは家中の者たちへの波風を避けるものながら一人前に女に手を出す家康に、作左衛門は決死の覚悟を固めた女に立ち向かえるかと諫めます。それが気に入らないならお手打ちをと迫る作左衛門を、家康はじっと見据えます。
手厳しい諫言はいちいち胸に堪えて、手堅い家臣にまた一つ教えられた家康は、新たな気持ちで新たな情勢へ立ち向かってゆく。家康の悲願「三河統一」のための障害である今川の前線基地・吉田城攻めに出発したのである。
永禄6(1563)年、空誓が中心となって浄土真宗の本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の松平家康と戦う。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと40年──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (松平元康(徳川家康))
池上 季実子 (瀬名)
役所 広司 (織田信長)
藤 真利子 (濃姫)
林 与一 (今川氏真)
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武田 鉄矢 (木下藤吉郎)
竜 雷太 (随風)
江原 真二郎 (石川数正)
高岡 健二 (本多忠勝)
東 てる美 (お万)
宮口 精二 (鳥居忠吉)
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大竹 しのぶ (於大)
長門 裕之 (本多作左衛門)
石坂 浩二 (竹之内波太郎)
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制作:澁谷 康生
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第11回「興亡の城」
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