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2023年3月21日 (火)

プレイバック徳川家康・(13)三方ヶ原合戦

元亀3(1572)年10月3日、4万の大軍を率いて甲府を発した武田信玄は、途中から合流する諸将の兵と合わせて10月10日には遠江へ侵攻を開始した。その進軍は一つひとつ碁盤に石を置くような的確さで、只来、飯田の2つの城を落とし、久能城にかかってくると、家康も天竜川へ陣を進めた。

織田からの援軍は到着せず、このまま武田軍を迎えれば大波に飲み込まれてしまいます。枕元を黙って通り過ぎられたら末代までの恥と強引に出陣を決めたこともあり、家康に賛同する者が少ないのです。しかも織田の援軍を断つ目的で甲斐の山県三郎兵衛が侵攻して、砦を落とされてしまいました。家康は、織田の援軍到着まで一歩も動かないと決死の覚悟を見せ、本多作左衛門に信長への援軍の催促をさせます。

武田軍がいよいよ浜松城に接近してきました。信玄は家康が命がけで決戦に及ぼうとしているとは知らず、浜松の支城である田峰、作手、長篠の3城を攻略。ここまでくると徳川家中の者たちにも動揺が広がり、軍議の場では家臣たちは一様に、浜松城に戻って籠城をと家康に進言します。「決戦を避けよというなら、余は今日限り軍事を投げうって僧侶になるわ! 武田の軍一兵たりともここを通してはならぬぞ!」

軍議の後、なぜ今回は家康が頑固に野戦にこだわるのかと家臣たちの間で話題に上がります。52歳の信玄と31歳の家康とでは経験値が違うため布陣にも力の差が表れていることから、作左衛門はそれが家康には我慢がならないのだろうと吐き捨てます。信玄に欠けて家康に長けているものと言えば寿命だけのような気もしますが、ともかく生きるか死ぬかの瀬戸際にあることは間違いなさそうです。

竹之内波太郎の手下の金蔵によれば、信長は滝川一益・佐久間信盛・平手汎秀の軍3,000の援軍を送るそうですが、武田の大軍を前に焼け石に水かもしれません。波太郎は銀蔵を使って、織田軍12,000が押し寄せてくるとデマを流します。そして金蔵が運んできた鉄砲30丁を、前の分と合わせて浜松城に運び入れさせます。

12月初旬、織田の援軍が到着します。しかし浜松城の拠点である二俣城が2ヶ月の攻防の末、19日に落城します。これで浜松城は丸裸同然に武田軍の前に晒されてしまうことになります。21日、織田の援軍も含めての軍議で、武田軍が井伊谷を経由して東三河に向かうと予想し、家康は鶴翼の陣形(鶴が翼を広げたような横一線の陣形)を命じます。退路を断つ決意で戦に当たれと武将たちを叱咤します。

22日早朝、武田の大軍は粛々と天竜川を渡って三方ヶ原にかかると、慎重に慎重を重ねる信玄は物見の報告を待っています。敵は鶴翼の陣と報告を受けると、信玄は「死にに来たか」とニヤリ。わざわざ死にに出て来た者を、避けて通ることもないと、信玄は小山田信茂から徳川軍に攻撃を仕掛けていくことにします。武田軍はどの一隊が敗れても本隊には敵を寄せ付けない「縦隊魚鱗の陣」で臨みます。

徳川軍と武田軍が半里(約2km)ほどになりました。家康は石川数正軍から鉄砲を撃ち込めと命じ、鉄砲の音を合図に全軍が一斉に攻めかかります。徳川軍が少数ながら善戦する中、一益ら織田援軍は武田軍に押されて崩れつつあります。戦列を離れて家康に諫言しに来た酒井忠次と言い合いになりますが、ともかくほら貝を吹かせて家康自ら戦陣に立つことにします。

家康は武田軍に突進していき、敵兵を次々と斬り倒します。ふと周囲を見渡すと、武田勝頼の軍勢が、そして別の方角には山県昌景の軍勢が目に入ります。深く入りすぎたと慌てた家臣たちが家康の馬の尻を叩いて無理やり引かせますが、信玄はこの機会を逃すまいと家康をとことんまで追い詰めていきます。

 

浜松城ではお愛が指揮を執って、台所の女たちとともに飯の支度に大忙しです。しかし侍女のひとりが動揺からか壺を落として割ってしまいます。「みんな……落ち着いて」とお愛は優しく言葉をかけます。留守居役に呼ばれたとお愛ですが、用意していた灯台も強風にあおられて消えてしまいます。お愛もたちまち不安に陥ります。

必死に逃げる家康は、本多忠真が討ち死にし内藤信成が奮戦中と知り、三方ヶ原へ引き返すと言い出します。作左衛門は家康を浜松へ逃がすために身代わりになったと訴え、城から駆けつけた夏目正吉は家康を馬に乗せて浜松へ逃がします。その上で正吉は、家康の名を叫びながら敵中に突っ込んでいきます。

家康が命からがら浜松城に戻って来ました。作左衛門は家康が乗ってきた馬の鞍に糞がついていると大笑いしますが、家康は腰につけた焼き味噌だと怒って作左衛門を殴りつけます。家康は浜松城の城門を開けさせ、戻って来る者の目印になるようにありったけのかがり火を焚くように命じます。そうしてもなお、糞を漏らすなどと! と怒り心頭の家康に、ようやく元気が戻ってきたと安堵する作左衛門です。

湯漬けをかきこみながら、埒もない戦をしたと家康は作左衛門にもらします。その場で横になりいびきをかいて眠る家康ですが、武田軍の背後から鉄砲を撃つといきり立つ作左衛門に、後から加わった大久保忠世は自分が行くと伝えます。忠世と忠次と家康の寝顔をじっと見つめていた作左衛門は「全力を尽くして戦い、全力を尽くして眠る。これがお屋形の性根であったの」とつぶやきます。

鳴り響く太鼓の音と数多のかがり火、そして城門前をひっきりなしに往来する門番を見て、家康を追ってきた武田軍の足を止めることになります。そして場外に出た忠世隊は鉄砲を放つと大声を出し、野営中の武田軍は大軍襲来か!? と怯えて逃げ出してしまいます。その情報は山県軍から小山田軍に伝播し、武田軍は浜松城から撤収します。

この戦に勝ったとか8,000で3万の兵を追い返したなど、家康を慮(おもんばか)って励ます家臣たちに、家康は素直に負けを認めます。「が、負けても屈しなかったまでのことじゃ」 家康は、今まさに武田がこの地を通ろうとしているが、来年こそ我らの運命を決する年だと告げ、盃を交わします。家康の顔を見つめていたお愛は、目をつぶって手を合わせています。

長対陣は不利と見て陣払いした信玄は、24日野田城に向かった。世に言う「三方ヶ原の合戦」は、武田勢の損害400、徳川は織田の援軍を加えて1,180、家康の生涯で唯一の負け戦であった。数多くの戦死者が横たわる中を、波太郎と随風が立ち尽くしています。無残な戦ながら浜松城は無傷であり、運が強いながらいい経験をしたと波太郎はつぶやきます。

 

一方、岡崎城は厳戒態勢のまま元亀4年の正月を迎えていました。祝いの席に側室のあやめを同席させると言い出す徳川信康に、平岩親吉は難色を示しますが、瀬名は正室側室の和を願う信康をあっぱれと称えます。この瀬名の発言には、自分を退けてお愛を近づける家康への嫌味が含まれていたのは言うまでもありません。しかし信康は、分別はつくとあやめ同席の件を取り消し、瀬名を置いて出て行ってしまいます。

浜松城でも正月を迎えても厳戒態勢を説いていませんでした。岡崎城から大賀弥四郎が来て、家康は年貢の徴収状況について報告を受けます。あやめの話になり、正室徳姫の懐妊前に12月初旬に側室を迎えたと知り、家康自身が身を粉にしている時にと腹を立てます。家康は弥四郎に、父は怒っていたと信康へ伝えさせます。

岡崎に戻った弥四郎はありのままを信康に報告し、父は自分のことだけを見てくれていると信じていた信康は困惑しています。弥四郎はどんなことでも自分に相談するように勧め、今や信康と家康の橋渡し役になっている弥四郎を頼りにすることにします。弥四郎の忠義をありがたく感じた信康は、腰刀を弥四郎にとらせます。

夜、瀬名の居室に上がった弥四郎は、武田との戦は勝てるものではなく、このままでは家康と信康とも滅んでしまうと言い出します。しかも家康が、瀬名と自分(弥四郎)の不義密通に感づいたと伝え、信康を救いたければ武田の三河攻めの際に信康安泰を取り計らってくれるよう、今のうちに勝頼に使者を送るよう勧めます。「武田と今川は親戚であった。信康とて今川の血を引く我が子。何としても信康の命だけは」

 

野田城を取り囲んだ武田軍でしたが、城主菅沼定盈(正定?)と城兵900の頑強な抵抗により包囲から1ヶ月が過ぎました。ただそれも落城まで時間の問題です。そんな時、岡崎の弥四郎から書状が届けられます。三河旧領だけは信康に与えてほしい、それが通るなら家康からの援軍と見せかけて勝頼軍を城内に引き入れるとの内容に、築山御前とは並みの女ではないと三郎兵衛は笑います。

野田城からの使者と対面を済ませた勝頼は本陣に向かい、2日のうちに開城と進言に報告します。野田城明け渡しと知ると家康が取り返しに来るかもしれないと、信玄は野田城には三郎兵衛を残すことにします。

夜になると野田城から心地よい笛の音が響いてきます。対陣の長い信玄も、いつしかこの笛の音を楽しむようになっていました。その笛の音は誰あろう波太郎でした。そして波太郎の横には金蔵が鉄砲を構えています。月が雲に隠れて薄暗くなった時を狙って、1発発射します。信玄は「未熟者め」とつぶやくと、膝から崩れ落ちます。

野田城を助けるために3,000の兵を率いて出陣していた家康の元にも、この銃声の音は届いていました。ただ銃声が続かないところを見ると、さほどのことではないのかもしれませんが、念のため物見を走らせます。そして信玄はすでに言葉にもならないほどに衰弱していました。ここに来て病を発したのです。

家康の陣に向け、金蔵が矢文を放ちます。「先刻の鉄砲、信玄を討ち取ったとは思えぬが負傷はあったもの」 返ってきた物見の報告も合わせ、次の合戦に備えるように命じた家康は、すぐに信長に知らせをよこします。

信長は虎御前山に陣取っていました。武田の兵が撤収していった不審さから木下秀吉が調査したところ、もはや信玄は生きていないようだと信長に報告します。家康の探りと一致しました。家康が動けば信玄の病が癒えたと、三郎兵衛に三河の吉田城を攻撃させています。これまでの慎重さの武田軍の動きとは異なるわけです。

信玄が死んだとしたら との信長の問いに、秀吉は喪を隠して本国へ引き上げると即答します。負け戦で今や強くなった家康が信玄の死を知れば、無事に甲斐へ戻れなくなってしまいます。そして信玄を待ち望んでいる諸将たちの足並みが崩れ、信長の力がますます大きくなってしまうのです。「俺でも喪は隠す。家康へすぐに伝令を飛ばせ。駿河の武田勢をひと月攻めよと」

信玄の死は遺言によって3年間秘されたが、駿河の武田勢に素早く行動を仕掛けた家康によって、半信半疑であった大名たちは、鉄壁の武田に異変が起こったことを知ったのである。


元亀3(1572)年12月22日、遠江国の三方ヶ原で武田信玄と徳川家康の間で戦が起こる。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと30年1ヶ月──。

 

原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
池上 季実子 (瀬名)
役所 広司 (織田信長)
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武田 鉄矢 (木下秀吉)
佐藤 慶 (武田信玄)
江原 真二郎 (石川数正)
高岡 健二 (本多忠勝)
田中 好子 (あやめ)
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長門 裕之 (本多作左衛門)
竜 雷太 (随風)
竹下 景子 (お愛)
石坂 浩二 (竹之内波太郎)
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制作:澁谷 康生
演出:大原 誠

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第14回「父と子」

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