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2023年4月 7日 (金)

プレイバック徳川家康・(17)無血の勝利

天正元(1573)年、秋。ふたたび武田勢の不穏な動きが家康のもとに伝えられた。浜松城に連なる人の波、男たちはそれぞれに米俵を担いで運び入れています。浜松城を攻撃する武田軍が米を略奪する前に早くここに運び入れねばならないと、運び入れる人夫を呼び止めてまでその意義を説明します。足首を痛めた人夫の代わりに家康自身が米俵を担ぎますが、家臣が慌てて駆けつけ米俵を受け取ります。

夜になっても城門に立ち陣頭指揮を執る家康に、本多作左衛門は「殿直々のお指図ではみなが息抜く暇もございませぬわい」と笑います。米を取られたことで領民たちは不満の声を漏らしていると本多忠勝は報告しますが、家康は召し上げたつもりはなく領民のために保管しているのです。百姓が恨みの声を上げるほど家康は強引に米を集めた。この日も積み込みが終わるのを見届けて本丸へ戻った。

武田勝頼が密かに遠江に動き出す今、上洛の機会をうかがう上杉謙信は、その際には家康に武田に戦を仕掛けさせる考えです。織田信長にも同様の依頼をしているはずですが、浅井攻めにかかりきりの信長は武田攻めに加われそうにありません。謙信は武田信玄とは好敵手ではありましたが、その子勝頼と縁で手を結ぶ可能性もあるわけで、武田の攻撃に対して織田の援軍はあてにしてはならないと家康は考えます。

その織田信長は、近江浅井の小谷城をようやく陥落させていたところです。信長の妹で妻のお市と3人の娘たちを羽柴秀吉に預けた城主浅井長政は、切腹して果てます。そしてお市母子は虎御前山の信長本陣に保護されました。子らのために生き続けるのは意味のあることだと信長は説得を続けますが、お市は「お返事はもう申し上げました」と反発して、一切聞く耳を持ちません。

しびれを切らした信長は刀を取り首を刎ねようと近づきますが、お市は今度は仏門に入りたいと言い出します。お市は信長が自分を斬れないことを分かっていて信長を困らせているのです。口先では仏門に入ると言いながら、腹の中では死ぬことを考えているお市の見張り役として信長は秀吉を呼び、お市を岐阜まで送り届けるように命じます。

秀吉の陣屋までの道中、長政の御首級(みしるし)がどうなったかと秀吉に尋ねるお市は、死者を辱めることは仏の道には添うまいと手を合わせています。しかし秀吉は、首を討ち取ってすぐに首実検してやらなければ死臭とウジでいっぱいになるわけで、それは物事に執着した人間への仏罰と諭します。お市は秀吉を睨みつけますが、間近に転がる雑兵の死体に湧くウジを見てお市は顔が青ざめます。

 

浅井を滅亡に追いやった信長の天下になりつつあると考える作左衛門は、かねての「織田は西へ、徳川は東へ」という約定を使って、家康が武田を抑えるためだけに使われているのではないかと危惧しますが、家康は三方ヶ原の戦いで守りきれたのも織田という後ろ盾があったからだと笑います。信長の下につくというよりも、東に向かう道を選んだ家康は、作左衛門に家臣たちにもそれを伝えさせます。

しかし岡崎城の築山御殿には、家康の覚悟を内から破っていく瀬名と大賀弥四郎がいました。弥四郎は勝頼に長篠出兵を求める書状を瀬名に求めます。勝頼が長篠に現れれば家康も出陣せざるを得ず、家康の陣を弥四郎が突いて勝頼を岡崎に迎え入れるという作戦です。その時の家康の顔を見たいものだと瀬名からは笑いがこぼれます。

岐阜に凱旋した信長は、戦の功により浅井旧領とお市を秀吉に与えると伝えますが、秀吉は険しい顔で断ります。足軽の子が大名にというだけでも恐ろしいのに、信長の肉親をもらったとなれば世間は秀吉がおごっていると見て、言いたいことも言えず信長への忠義にひびが入るわけです。秀吉は、お市の代わりに姫の1人を欲しいと願い出ますが、信長はやらんといって出て行ってしまいます。

上杉から掛川城に届けられた吉報を持って作左衛門が家康に報告に上がります。武田が遠江に侵攻した時はそれを突き、上杉は背後から挟み撃ちにしようというのです。しかし家康に言わせれば遠江侵攻は遅すぎた気がします。稲はすでに刈り取ってしまったし、領土に火を放てば領民たちの反感を買うわけです。米俵を城内に運び入れておいてよかったであろ? と家康は忠勝に問いかけます。

瀬名からの書状が勝頼のもとに届けられました。勝頼がこれまで時間をかけて徳川に打ち込んでおいたくさびでしたが、すでに武田本隊は浜松に進軍中であり、長篠に兵を割けないと馬場美濃守は反発します。山県昌景は、上杉、徳川、織田の三方の敵のうち上杉と手を組んで、敵を二つに絞るように進言します。家臣一同の揃っての諫言に、勝頼は怒りをにじませながら引き下がるしかありません。

 

家康を討ち滅ぼすといきり立つ勝頼が出陣し、本隊15,000の先頭は掛川と浜松の中間の見附(みつけ)に達しています。家康は忠勝に「手負いのイノシシ一頭、うまくかわして鉄砲で討ち取れ」と数正へ伝えさせます。信玄が亡くなったのも鉄砲が関わりあるわけで、勝頼にとって鉄砲は気味が悪い武器のはずです。家康はそこを利用するのです。

奥平九八郎の養女あきが家康の元へ呼ばれていました。あきは奥平家の人質として勝頼に処刑されたおふうの妹で、姉がああいう最期を遂げ、誰よりも戦を憎んでいるあきは、戦はいつになった終わるのかと思いつめたように家康に尋ねます。家康は、天下泰平の世を望みつつ、実現するためには誰よりも強くならなければならないと、そのために戦をし続ける必要があると優しく諭します。

あきは奥平に嫁いだ亀姫の代わりに家康に人質に呼ばれたと思っていますが、おふうの代わりに幸せにしてやりたいあきに、家康は異父弟の(久松)松平定勝への縁談を勧めます。意外過ぎる家康の言葉に絶句するあきですが、その固い表情は少しずつほころび始めていました。家康は安心したように笑い、あとのことはお愛に任せることにします。

瀬名のもとには徳川信康が出陣のあいさつに出向いていました。長篠は山国だから身体に気をつけてと言葉をかける瀬名ですが、武田軍は遠江に向けて進軍していて、家康とともに一気に討ち取ると信康は説明します。企て通りにことが進んでいないことに瀬名は混乱しますが、それを知ってか知らずか信康は勇んで出陣していきます。

武田軍が見附付近の天竜川を渡ってきたと知り、家康も浜松から出陣することにします。岡崎城の弥四郎も長篠の小荷駄奉行として出陣しますが、話が違うと瀬名は企てを諦めかけています。。しかし武田と上杉が手を組んだことで、上杉・織田・徳川の同盟は崩れたと弥四郎は見ています。そうなれば信長の野望は崩れ、今度こそ願望が叶うかもしれないと、瀬名は弥四郎に期待を込めています。

天竜川を渡った武田軍は浜松方向へ進軍し、勝頼はそのまま馬籠川を渡って浜松城下に火を放てと命じます。作左衛門は「たわけた御曹司よ! 若さじゃのう」と勝頼の戦法をあざ笑っていますが、冷静の家康はその勝頼の戦法の若さを馬籠川の岸にまで達した時に気づいたことにして、今は動かず静観しておくことにします。馬籠川の岸では、家康がすでに布陣しておいた伏兵が武田軍に襲い掛かっています。

1隊200の軍勢が11隊、代わる代わる荷駄隊に襲い掛かり、鉄砲足軽30余が土民に紛れ込みダメ押しで馬籠川に隠れて攻撃を仕掛けます。荷駄隊は馬籠川下流の隊と戦ったと思えば、次は上流から攻撃を仕掛けられ、川を渡ることすらできません。馬場は浜松城に攻め込むかすぐの撤兵をするか勝頼に迫りますが、兵糧を城に運び終えている家康が舌を巻くような戦法をと、勝頼は撤兵を決断します。

 

信康が帰ってきて岡崎城内が騒がしくなっています。帰りが早すぎる信康がケガでもしたのではないかと瀬名は焦りを隠せませんが、勝頼が早々に兵を引き上げて戦にならなかったわけです。

そして浜松城には米俵を受け取りに来る領民たちの姿がありました。武田侵攻にも関わらず米が無事だったことで、領民たちはみな大喜びです。さすが! と作左衛門は家康の作戦をもちあげます。家康が戦を避けたことで、結局は勝頼は領民の恨みだけ買っていったわけです。無駄な戦をしなかったことは、勝利の力を蓄えることになったと家康は自信をつけ始めています。

それを教えてくれたのは勝頼の父・武田信玄であったと、いま家康は思いを新たに噛みしめていた。


天正元(1573)年9月1日、織田信長軍に攻められて浅井長政は自害し、小谷城が落城する。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと29年5ヶ月──。

 

原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
池上 季実子 (瀬名)
役所 広司 (織田信長)
宅麻 伸 (徳川信康)
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武田 鉄矢 (羽柴秀吉)
江原 真二郎 (石川数正)
高岡 健二 (本多忠勝)
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長門 裕之 (本多作左衛門)
竹下 景子 (お愛)
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制作:澁谷 康生
演出:国広 和孝

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第18回「謀叛発覚」

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