プレイバック徳川家康・(19)長篠の戦
救援に向かう途中で長篠城が奪われたことを知り、いったん甲斐に引き上げていた武田勝頼は、再び大きな軍事行動を起こそうとしていた。家康は、この勝頼と内応した大賀弥四郎の件を処理し、信長に援軍を依頼する一方、我が子信康とともに吉田城へ兵を進めていた。強大な武田軍との全面衝突となれば、徳川軍だけでは対抗できなかったのである。そして甲府武田館では、勝頼の出撃命令を待って城の内外は軍勢があふれていた。
前将軍の足利義昭から上洛要請を受け取った武田勝頼は、これは徳川家康との戦ではなく、亡き信玄念願の緒戦だと意欲をたぎらせます。敵が鉄砲を多数集める一方で、勝頼は威力を軽視していて、それを疑問視する家臣たちに丁寧に納得させなければ士気に関わると馬場信春は忠告します。勝頼は諏訪法性(ほうしょう)の甲冑を持ってこさせますが、信玄でさえ畏れた家宝だと山県昌景は必死に止めます。
「諏訪法性の甲冑」とは、いかなる時もこれをかざして出で立つ戦には、異論をはさまず命を落とせと言い伝えられている武田家の家宝である。勝頼がそれを持ち出したことは、もはや誰も何も言ってはならないということだった。「この勝頼の生涯に二度ない好機、父の遺志を継がせてくれい。三河勢など……長篠城などひと揉みにつぶしてみせてやるッ」
長篠に陣を敷く家康は、武田軍15,000が武節街道を長篠に向かって進撃中と報告を受けます。敵を迎える長篠城では奥平九八郎が死守していて、何としても武田軍を近づけまいと意気込んでいるそうです。家康は、九八郎の父・奥平美作守に岐阜へ向かわせて信長に援軍要請をさせるよう、本多作左衛門を岡崎城へ派遣します。
勝頼が大賀弥四郎の死を知ったのは、長篠を目前にした武節近くまで来た時でした。この上洛戦にはさほど影響がないと勝頼は表情を変えませんが、岡崎入城が叶わないのであれば作戦の練り直しを求めます。しかし勝頼は、岡崎より長篠を先につぶして西に向かうと攻撃の順序を入れ替えるのみでした。長篠は信濃からの出口にあたり、武田にも徳川にも戦術上の要となる拠点だったわけです。
その長篠城では未だ城塞の修繕が終わっていませんでした。人足たちは、2~3万の武田の大軍に対して長篠城の兵250に不安を隠せませんが、九八郎は人足たちに「必ず勝ってみせる」と笑います。鳥居強右衛門(すねえもん)が援軍の到着を知らせに来ますが、九八郎が望むような援軍ではなく、わずかに250の兵が来ただけでした。
500人の兵が、ひとり30人分の戦いをすれば15,000になると笑う九八郎に、働き甲斐というより死に甲斐でござろうと、家臣たちは表情を曇らせます。家康の娘・亀姫も、家康が娘のいる城を見捨てるわけがないと微笑みます。九八郎は、最も強いのは武田兵、次が三河勢という間違いを正す絶好の機会!と皆の士気を高めます。そして5月1日、15,000の武田軍に長篠城を包囲されます。
岐阜城に入り信長と面会した美作守は、未だに援軍を送ろうとしない信長にしびれを切らしています。援軍は7,000~8,000、鉄砲500~600丁ほどの軍勢と考える美作守ですが、信長は鉄砲隊として少なくとも3,500と考えていて、堺で鉄砲を集めている最中です。これだけあれば武田の動きを封じることが出来、戦は勝てると考えています。美作守は信長の思案に驚き、数々の暴言を詫びます。
長篠城は完全に孤立してしまい、肝をなめる苦戦の中に追い込まれていました。武田勢が城に向かって次々とよじ登って来ていて、九八郎は敵を十分に引きつけておいて鉄砲を撃たせます。しかし敵は西や南からも同様に攻撃してきていて窮地に立たされます。所詮は15,000に500の戦いなのです。
岡崎城に移った家康は、長篠救援に向かえる体制を調えつつ、信長の返事を待っています。酒井忠次や本多忠勝は信長からの援軍は来ないと悲観しますが、「案ずるな、必ず来る」と家康は突っぱねます。信長はこの戦の後のことまで計算しているはずなのです。それでももし来ない場合はと忠次は食い下がりますが、九八郎のような勇士を見殺しにはしないと、当たり前のことを聞くなと叱責します。
九八郎の緻密な戦いに業を煮やした武田軍は、一斉攻撃を仕掛けて兵糧蔵に火矢を射かけます。燃え盛る蔵から必死に米俵を運び出しますが、運び出せたのはわずかに3日分です。食べられる土壁を消費したとしても5日程度です。九八郎は強右衛門に、幾重にも張られた囲みを抜け出して岡崎の家康に「あと4~5日」と伝える役目を命じます。
はじめは向かう意思を見せた強右衛門ですが、落城目前なのにとそれを断ります。九八郎は強右衛門の言葉を遮り「この九八郎を侮るか! 落城するなどと誰が申した!」と叱責します。えっ!? と驚いた表情で城兵たちは九八郎を見上げ、強右衛門は喜んで伝令の任を受け入れます。もし主命を果たす前に討ち死にすれば七生まで勘当する、と九八郎は強右衛門を笑って送り出します。
岡崎城に美作守が帰ってきました。織田の援軍20,000が明日到着とのことで、その中に鉄砲隊3,500が入っていることに家康は驚きます。信長は家康以上にこの戦を重要視していたということです。徳川と武田の戦ですが、織田と武田の戦になっていくわけです。これはこちらも相当な用意をして戦に臨まなければならないと、吉田城に出陣している徳川信康を岡崎まで戻すことにします。
信長率いる織田勢が岡崎城に入ります。そして長篠城から強右衛門が到着し、九八郎の言う通り「兵糧はあと3日分」とだけ伝えます。家康は着替えと湯漬けを勧めますが、強右衛門はすぐに城内に戻りたいと言い出します。援軍とともに戻ればいいと信長は言いますが、強右衛門は援軍来たるの報を持って帰るために、なおさらすぐに戻らねばと言って聞きません。出発を促しおった!と信長は笑います。
少数で城に籠る長篠城兵ですが、弾正山から強右衛門が上げたのろしが見え、援軍が来るぞとの知らせに歓喜します。九八郎は、岡崎で休んでいればいいものを、休まず引き返してのろしを上げた強右衛門の忠誠心に言葉もありません。
武田本陣では、たかが500の兵が守る長篠城にこだわっている場合ではないとの声が上がります。しかし勝頼は一度決めた決定にくどく言うなと聞き入れません。勝頼の夢である上洛に不服があるのかと言われてはもう何も言えません。そこに、岡崎城から引き返してきた強右衛門が城内に忍び込もうとして武田方に捕らえられてしまいます。
強右衛門は、明日 徳川と織田の連合軍40,000が来ると胸を張りますが、その前に長篠城を落としたい勝頼は、今夜城を攻撃する段取りはすでについていると、強右衛門の人情に訴えることにします。城門の外で「援軍は来ない」と叫ばせ、籠城を諦めた城兵500は開城し投降をするという筋書きです。「これもひとつの慈悲である。500の命を散らすまいぞ」
城の前に連れ出された強右衛門の姿に、城兵たちはザワザワと柵のところに集まってきます。「城内の方々に物申す! 織田・徳川の両大将は、すでに40,000の大軍を率いて岡崎を発した! 3日のうちに運が開ける!」 武田兵が止めるのも聞かずに大声で叫ぶ強右衛門は、勝頼の命に背いたため連行され、夕刻には磔(はりつけ)にされ串刺しの刑に処されます。
5月18日昼、連合軍は長篠の設楽原に進軍し、家康は弾正山に、信長は極楽寺山に布陣します。信長は念のため、家康に短慮はならないと諭します。敵中に深入りして討ち死にすれば、合戦には勝っても負けであるわけで、そうなれば岐阜から助勢に来た甲斐がないと笑うのです。家康は「念のため」聞き入れることにします。
そして信長は、この合戦を自分の采配で進めたいと言い出します。遊山のつもりでよいと言われますが、加勢を頼んだ徳川方が遊山の気分でいるのは申し訳ないと、家康は全力で戦うつもりですが、信長の言葉だけは肝に銘じておきます。この戦に勝つことによって織田の力を天下に知らしめたい信長の思惑を、家康ははっきりと見せつけられたわけです。
羽柴秀吉は、三重に渡って張り巡らした馬防柵へ武田の騎馬隊が向かってくると説明しますが、家康は敵が馬防柵に向かわなかった場合を想定して、戦上手の忠次に案を出させます。一斉攻撃を仕掛ける武田の背後に回り込み、鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を落とすと提案しますが、表情をサッと変えた信長は、それは野武士に対する戦い方だと一蹴、忠次を軍議の場から追い出してしまいます。
家康は、確実に馬防柵へ向かってくるように大久保忠世・忠佐兄弟を囮(おとり)として出したいと進言します。信長は、もし大久保兄弟が苦戦した場合は柴田勝家や丹羽長秀、羽柴秀吉に救援に向かわせることを条件にそれを承服します。軍議はお開きとなり、武将たちはおのおの持ち場につくよう移動していきますが、「いまひとつ御用があるかと思いましてな」と家康は動きません。
完全に見抜かれた信長は大笑いし、忠次を呼び戻して近くに座らせます。堅固な馬防柵に勝頼軍が気づき、引き上げたのでは収穫が少ないと策を考えていた信長は、忠次の妙案が外部に漏れてはならないとわざと叱ったわけです。信長は鉄砲隊500を忠次に預け、鳶ヶ巣山砦を乗っ取るように命じます。馬防柵を打ち込むコンコンという音が、小気味よく聞こえてきます。
5月21日、長篠合戦の火蓋が切って落とされます。馬防柵に突進してくる騎馬隊に向け、多くの鉄砲隊が一斉射撃します。信長の3,000丁の鉄砲は、完全に武田の騎馬軍団を圧倒します。新式鉄砲を、三段に次々に弾込めさせて「つるべ撃ち」できるように備えたのです。名のある武将たちは名もない鉄砲足軽に次々と倒され、鉄砲さえあれば足軽集団で事足りるという革命を起こしたのです。
晴れて長篠城に入った家康と信長ですが、山深い信濃に武田軍を追いこんでやったと愉快そうに笑います。出迎えた九八郎の働きを褒め、夫を支えた亀姫を称えます。信長は「夫婦というは、常に力を合わせてこそ家の栄えがある」と言って、家康と信康を見据えます。信康は厳しい表情を浮かべ、一方家康は表情を変えません。
長篠の戦いは家康が心配していた通り、家康よりも信長の名を盤石たらしめます。作左衛門は自分たちの戦いであったような信長の振る舞いに憤慨していますが、家康は信長を疑ってはならないとたしなめます。織田の援軍がない場合、あるいは織田が敵に回った場合はどうなっていたか分からないわけです。作左衛門は、諭されたままを下々の者たちに伝えるように家康に命じられます。
茶を持ってきたお愛に、信長に対して借りを作った家康は、いずれ借りを返さなければならないとこぼします。お愛は、これからのことを考えると子をたくさん持っておいた方がいいと、女性を紹介したいと言い出します。お愛自身、家康の丈夫な子を産むことを使命としていながらそれを果たせず、せめてその代わりとしたい気持ちが強いわけですが、家康は今のままでいいと優しく微笑みます。
戦いに明け暮れる家康にとって、お愛といるときほど心和む時はなかったが、行く手には信長とともに戦う天下統一への厳しい道が続いている。
天正3(1575)年5月21日、38,000人の織田信長・徳川家康連合軍と、15,000人の武田勝頼の軍が長篠で戦い、連合軍が勝利を収める。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと27年8ヶ月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
役所 広司 (織田信長)
宅麻 伸 (徳川信康)
高岡 健二 (本多忠勝)
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武田 鉄矢 (羽柴秀吉)
渡辺 篤史 (奥平九八郎)
原 日出子 (亀姫)
上条 恒彦 (鳥居強右衛門)
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長門 裕之 (本多作左衛門)
近藤 洋介 (奥平美作守)
竹下 景子 (お愛)
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制作:澁谷 康生
演出:松本 守正
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第20回「難題」
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