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2023年5月23日 (火)

プレイバック徳川家康・(22)落花有情

だるさで熱にうなされていた徳川家康ですが、お愛の看病の甲斐あってだいぶ落ち着きを取り戻しつつあります。浜松城内にしつらえた築山御殿ですが、表向きは罪人扱いなので華美にするわけにもいきません。家康は瀬名を岡崎から浜松へ迎えにやる段取りを石川数正に命じますが、くれぐれも道中で過ちがないように念押しします。その直後、家康はやはり意識を失って倒れてしまいます。

家康は“瀬名が狂乱した”として、浜松に作った仮屋へ幽閉し、天寿だけは全うさせてやる覚悟であった。瀬名を迎えに行く使者が発ったと知り、弓矢の稽古に励む本多忠勝や服部半蔵らは、大賀弥四郎とともに瀬名も斬ってしまえばよかったのに! と口々に不満を言い出します。瀬名を斬って徳川信康を救い出したいという気持ちでみな一致しているのです。

使者に選ばれた野中重政と石川太郎左衛門が岡崎城に到着し、家康の口上を伝えると意外なほど素直に従う瀬名です。重政は信康の助命嘆願のために自害してほしいと頭を下げますが、瀬名は、家康の命令でなければ従わないと反発します。「夜叉と呼ばれてもよい。悪鬼と呼ばれてもよい。屍(しかばね)に刻まれて加えてもかまわぬ。わらわは思うように振る舞うて死んでいこうぞ重政!」

瀬名にとって自ら命を絶つということは、今川義元の姪であるを誇りとして来た自分だけでなく、夫家康をもまた信長の前に跪(ひざまず)かせることになるのだ。家康は、瀬名が哀れであった。今川義元の姪として嫁ぎ、愛に飢え、わが命を扱いかねて夫婦の溝を深めた女。戦国の謀略がそうした女の不満を見逃すはずはなく、ついに空恐ろしい逸脱をさせてしまった。

お愛が侍女と調度品の打ち合わせをしていました。その会話をうっすら聞いていた家康は、世話をかけるとお愛につぶやきます。お愛はせめてもの慰めにと己の一存でしたことで、叱責されることも覚悟していたわけですが、その家康の言葉は意外でした。そして家康はそのまま目を閉じ眠り続けます。

 

翌 早朝、瀬名は岡崎城の築山御殿から輿に乗って浜松へ出発します。そして3日目、浜松の南西にある富塚に差し掛かった時、重政は再び瀬名に自害を迫ります。自害は家康の目の前でと断る瀬名に、重政は短刀を突き刺します。「徳川家が……この世にあらん限り……恨んで恨んで……魂はこの世にとどまって……呪うてやろうぞ……」

3日前に岡崎を出発したと言う知らせを受けていた家康ですが、瀬名が無事に浜松に到着したと思っていたら、自害して果てたと知って辛そうな表情がますます険しくなります。無事に送り届けることが出来なかったと重政と太郎左衛門は頭を下げますが、家康は2人が瀬名を斬ったということを敏感に感じ取っていながら、労わりの言葉をかけると足元をふらつかせながら部屋を出ていきます。

家康はガックリと肩を落とし、感情を押し殺しています。そして家康が見つめる先には、西光院殿政岩秀貞大姉と記された瀬名の位牌があり、家康は位牌を前にうなだれています。「瀬名……わしも悔しいぞ……思いもかけぬ手違いであったが……心を静めて西方浄土への旅に立ちなされ」

 

再び安土の織田信長から使者が派遣されてきました。病が快方に向かいかけた家康は、信康の介錯をせよと半蔵に命じます。実は信康の介錯は渋川四郎右衛門に命じていましたが、「三代相恩の主首に刀は当てられぬ」とその日の夜に逃亡してしまったのです。大久保忠世とよく相談したうえで手抜かりのないようにと言われ、固辞する半蔵でしたが、家康は半蔵を説得します。

岡崎を追放されて50日。二俣城に幽閉中の信康は、唯一面会を許されていた小姓の初千代から、瀬名が信康の助命を嘆願して自害したと知らされます。信康は心が乱れますが、すぐに落ち着きを取り戻します。父は戦国武将らしく用心深い根強さを持ち、母は立場に執着して自我を曲げない。そのいずれが正しいのかは自分には決めかねるとつぶやきます。

「この信康は、母を殺し父を苦しめて不幸な子であった」 逃げるようにと勧める者もいて、家康もそれを望んでいるらしいと知りながら信康がそうしないのは、二俣から逃げ出せば武田領であり勝頼と対面せざるを得なくなります。勝頼と会えば武田と内通した濡れ衣が本当だったと認めることになるわけです。初千代は、八方ふさがりな運命に愕然とします。

二俣城に半蔵と天方山城が到着し、信康と面会します。信康は介錯を頼むと半蔵に依頼して戸惑わせます。半蔵は家康の話として四郎右衛門の話を持ち出します。「若殿にはご逃亡もしくは出家でもなさるがよいと……他になんぞ若殿に、お願いすべきことがあるのでは」 ない! と叫ぶや信康は作法に則って切腹し、半蔵が介錯をします。物音に気付いて部屋の裏を見ると、初千代も自害して果てていました。

浜松城に戻った半蔵は、家康に信康の最期を報告します。二俣城を訪問した時にはすでに信康は切腹の決意を固め、説得の余地がなく、逃亡するもそれは身の潔白を示しようがないと、こちらが油断する隙にいきなり切腹した──。切腹の許可を申し出て取り乱す半蔵を、家康は見張るように命じます。「むごいぞ! 大罪を犯したるこの半蔵に生きよとは! 殿はむごいお方じゃ!」

徳姫の元には、本多作左衛門によって信康の遺髪が届けられていました。信康の変わり果てた姿に徳姫は絶句します。二俣城の南東に供養していた信康の遺骸から、遺髪を徳姫へ持参した者がいたのです。徳姫は遺髪を手にすると、そのまま意識を失って倒れてしまいます。駆け寄る作左衛門ですが、徳姫の衝撃も分かるだけに静かに見守っています。

信康……この坂は見事越えて見せねばならぬ……もしこの坂で難渋して先を登ろうとせなんだら……それこそ妻も子も殺されて織田の風下に立つばかりの腰抜けじゃ……。涙を浮かべる家康は、信康の死は自分に足りないものを教えてくれたとつぶやきます。「そなたを殺してしまったこと、決して無駄にはすまい」 涙雨の続く中、家康は庭に飛び出すと、信康の名前を叫び続けて無念さを露わにします。

築山御前も死んだ。三郎信康も死んだ。8歳から19歳まで駿府で過ごした長い半生の片身は、これで泡沫(ほうまつ)のように消え去ってしまったのである。この夜、城全体が肩を落として泣いていた。


天正7(1579)年9月15日、徳川家康の命により松平信康が切腹させられる。享年21。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと24年4ヶ月──。

 

原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
池上 季実子 (瀬名)
宅麻 伸 (徳川信康)
田中 美佐子 (徳姫)
織本 順吉 (大久保忠世)
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江原 真二郎 (石川数正)
高岡 健二 (本多平八郎)
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長門 裕之 (本多作左衛門)
竹下 景子 (お愛)
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制作:澁谷 康生
演出:松本 守正

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第23回「安土への道」

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