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2023年5月26日 (金)

プレイバックおんな太閤記・(20)秀長の祝言

天正8(1580)年1月、播磨の三木城を一年にわたる干殺し戦術で陥れ、播磨平定を成し遂げた秀吉は、その年の2月に久しぶりで諸将を引き連れて長浜に凱旋し、さっそく城中で茶会を催した。客には堺の商人で茶人の津田宗及(そうぎゅう)、銭屋宗納(せんや・そうとつ)が招かれた。茶の湯を通じて、当時の文化人たちの仲間入りをし、また一族の者たちの教養を高めようとした秀吉は、妹のきいも「あさひ」というもっともらしい名前に改めさせていた。

茶会が終わり、ねねは諸将に心ばかりの食事の支度をしてもてなします。蜂須賀小六などは、茶会などは性に合わないと笑っていて、気を張って疲れた分 ねねのもてなしでお口直しといきたいところです。久しぶりに秀吉の帰城を迎えたねねには、その機会を狙ってひそかに胸に秘めたたくらみがあった。

宴席に揃い、ねねはもう一人同席させると言うと、こほに付き添われて白無垢姿のしのが現れます。「秀長どのの祝言の儀、ならびに夫婦の披露をさせていただきとうございます」 これには秀吉のみならず秀長までも唖然とします。認めないと立ち上がる秀吉ですが、差し出たことをすると親子の縁を切るでなも! となかにたしなめられます。秀吉は周囲を見渡し、感情を抑えて着座するしかありません。

ねねに促されて秀長も進み出て、三々九度の夫婦盃を交わします。秀吉はしのを睨みつけては目を背けますが、その様子を涼しそうな表情で見ているねねは、なかに目で合図します。なかもしめしめという顔で笑っていますが、ねねとなかが結託して仕立て上げたことのようです。祝言も無事に終わり、ホッと一安心のねねです。

許さん! と秀吉は怒り狂います。今の秀長の立場からすればどんな太守の姫でも娶ることが出来るのに! と声を荒げる秀吉に、ねねは秀長さえも己の出世の道具にする秀吉を批判します。「秀長のためを思えばこそ!」との秀吉の言葉を借りて、秀長も好きな人と夫婦になれたのが一番の幸せとニッコリします。秀吉はねねに太刀打ちできず、秀長としののことについては口を出さないことにします。

秀長としのの初夜です。秀長もしのもまるで夢のようです。ねねが長浜から播磨へしのを迎えに使者を派遣したらしく、しのはねねには感謝の気持ちでいっぱいです。三木城干殺しの戦術で目が見えなくなっているしのですが、不自由はさせないと秀長は誓います。晴れて秀長の妻となったしのは、夫ともに姫路へ帰っていった。

 

秀吉もまた播磨へ戻って姫路城の修築にかかり、長浜城の留守を預かるねねは、一族の束(たばね)に、領民との応対に相変わらず忙しい日日を過ごしていた。そして翌天正9(1581)年3月のはじめ、ねねにとって嬉しい出来事があった。前田利家とおまつが何年ぶりかで長浜城を訪れたのである。

利家は能登の七尾城主になっていましたが、2月28日に京で織田信長の馬ぞろえがあり、加賀から出てきていたのです。全国の駿馬を見たくてとまつは言いますが、利家によればその後にねねと会えるのが一番の楽しみだったようです。利家の嫡男・前田利長には信長の娘が嫁ぐことになり、まつの出産に立ち会い生まれた利長のお守りをしたねねには、この吉報には大喜びです。

ねねは利家とまつの子・豪に会わせようとしますが、夫婦はねねに差し上げたのだからと あくまで他人として対面することにします。連れてこられた豪はかわいらしく挨拶をし、能登とはどこかと尋ねます。「お方さまに、能登の話をしていただきなされ」とねねは豪を促し、まつのまえに進み出るように伝えます。まつは成長した豪に目を細め、利家も感慨無量です。

 

一方、播磨ではその年の5月、約1年を費やした姫路城の修理が完成し、その間にも秀吉は着々と鳥取攻めの準備を進めていた。そして6月の末、2万余の大軍を率いて因幡へ入り、毛利方の将・吉川経家の守る鳥取城を包囲した。

若狭に船を持つ長浜の商人たちは因幡で五穀をたくさん買い入れていると噂が流れ、ややはその真偽をねねに尋ねます。秀吉は因幡に兵糧が流入しないようにして、三木城と同じように渇(かつ)え殺しにしようと考えているのかもしれません。ねねはややをたしなめますが、不安なのはねねも同じです。「いつまでこのような戦が続くのか。早う戦のない世の中が来なければ……苦しむのは罪のない人ばかりじゃ」

因幡の商人から高値で米を買い取って米蔵を空にし、兵糧が入ってこないように城を包囲する秀吉の戦法です。堀を巡らし塀を建て、城内との出入りができないように備えることにします。兵糧の乏しい鳥取城は、秀吉の作戦でたちまち飢餓に瀕し、餓死した者の肉まで食らうといった惨状にさすがの吉川経家も観念し、己の自害と引き換えに部下の命乞いを条件に降伏を申し出た。秀吉はこれを許し、10月25日 半年を待たずして鳥取城は落城した。「三木の干殺し」と並んで、「鳥取の渇え殺し」として今も語り伝えられている。

 

明けて天正10(1582)年1月、秀吉が突然長浜へ帰って来た。なかは渇え殺しをした息子にいい顔はしませんが、秀吉としても穏便に勧誘しつつ、応じない場合は戦うしかないわけです。あさひは嘉助もたまには長浜に帰してほしいと不満を露わにします。秀吉は明朝にはねねと宇喜多秀家を伴って姫路へ向かうと言い出します。姫路には秀長としのがいます。

姫路で何かあったのかとねねは不安ですが、秀家の父・宇喜多直家の病が重いのです。秀家は人質ではありますが、秀家を連れ出すことと宇喜多家の家督相続の件で、秀吉は信長の許可を得ています。これを機に秀家は岡山城に帰ることになりそうです。ねねはそれを喜びつつ、いざ秀家が帰るとなると寂しくなる思いです。翌日、ねねは秀吉・秀家とともに慌ただしく長浜を後にした。

岡山城では直家は病床に伏していました。大きくなったと目を細める直家は、これまで慈しみ育ててくれたねねに礼を言います。そして秀吉に若年の秀家をことを頼むと言葉を残します。直家が味方してくれた恩に報いるためにも、秀吉は秀家を盛り立てて直家の遺志を継ぐよう努めると約束します。「秀家……筑前どのを父上と思うて……」 直家が息を引き取ると、秀家とふくの嗚咽が響き渡ります。

秀吉とともに姫路城へ戻ったねねはしのと再会します。秀長が戦に出ている間、心細くなったらいつでも長浜へ戻っておいでとねねは言葉をかけますが、幸せそうなしのには必要ないかもしれません。気配で秀長が来たことを感じ取ったしのを見て、ねねは微笑みます。「話の弾んでいるところを悪いが、姉さまを借りるぞ」

秀長がねねに伝えたのは、亡き直家の妻のふくを側室にするという話でした。驚愕するねねに、秀家はまだ幼く宇喜多家つぶしは簡単にできてしまう現状、秀吉に裏切るつもりはなくても信長が宇喜多の所領をどうするかを考えると仕方ないと秀長は言うのです。宇喜多家を守り抜くための家臣たちの知恵にふくも承服したようですが、人質となるふくを思うとねねも胸中は複雑です。

ねねはふくに会うために再び岡山に向かいます。ねねはふくに出家を勧めますが、秀家と宇喜多の家を守るためには秀吉にすがるより他になく、出家などなかなか簡単にはいきません。そこでねねは秀家を“羽柴の子”とすることを提案します。秀吉の子であれば信長も容易に手出しはできないわけで、秀家が成人した暁には宇喜多家に戻すことをねねは約束します。

ただし秀家を羽柴が預かったとしても、幼少の秀家は親元に置いた方がいいだろうという観点で、養育はふくに頼むつもりです。尼となり女の操を守り通せるのならとふくも承諾します。「秀吉のおかかのヤキモチとお笑いくださいませ。これは女子と男の戦、男の思うままにされて黙っておられませぬ」

ふくが尼になったと知った秀吉は、それがねねの差し金だろうと察し、したたかになったと笑います。そしてそこに、於次秀勝が長浜から到着しました。備中出陣を前に、備前児島に落とさなければならない城が1つあり、初陣として於次を出陣させて秀吉同伴の上で攻め落とさせる意向なのです。養子を迎えて羽柴を盛り立てたいねねですが、いずれ育てた子が去っていく寂しさを感じています。

 

於次秀勝の出陣を見送ると、ねねは長浜へ戻った。やがてそのねねに秀勝が見事敵城を攻略し初陣を飾ったという知らせが届いた。そしてみつの知らせによれば、秀家も備中攻めに加わっているらしく、ねねは驚きます。羽柴軍は備中の城を次々と落とし、いよいよ高松城攻めにかかろうというところです。長浜城でともに学びともに遊んでいる姿を思い出し、寂しさを感じるねねです。

その年の5月、備中ではついに高松城攻略作戦が開始された。地形から見て攻めるには難しいと見た秀吉は水責めの計画を立て、本陣と城との間に高さ7m、長さ約3kmの堤防を築き、足守川をせき止めてその水を引き込んだ。時は梅雨、みるみる水かさは増し、たちまち高松城の周囲は水浸しになり城は孤立した。有名な「高松城水攻め」である。

秀吉の元に、甲斐の武田勝頼親子が天目山で自刃したと知らせが入ります。信長は兵を取って返し、明智光秀らと高松城攻めに加わるようです。秀吉は城内の将兵の命と引き換えに和議を進めることにします。備中・美作・但馬の三国に備後・出雲の領土の割譲、そして城主清水宗治の切腹が条件です。長くなりそうだと浅野長政はつぶやきますが、秀吉は覚悟の上で水攻めに取り掛かっているのです。

この時信長は高松城攻めの応援に中国へ下るため、長男信忠と京に向かった。一方、明智光秀も備中出陣の命を受け、その準備のために丹波亀山城へ急いでいた。運命の日──本能寺の変の6月2日は刻々と近づこうとしていたのである。時代は大きく変わろうとしていた。それは秀吉とねねの運命をも大きく変えることであった。


天正10(1582)年5月17日、羽柴秀吉の援軍を請う手紙を受け取った織田信長は、徳川家康の接待をしていた明智光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じる。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと20年8ヶ月──。

 

作:橋田 壽賀子
音楽:坂田 晃一
語り:山田 誠浩 アナウンサー
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[出演]
佐久間 良子 (ねね)
中村 雅俊 (羽柴秀長)
浅芽 陽子 (やや)
滝田 栄 (前田利家)
音無 美紀子 (まつ)
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藤岡 弘 (織田信長)
長山 藍子 (とも)
田中 好子 (しの)
泉 ピン子 (あさひ)
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赤木 春恵 (なか)
尾藤 イサオ (浅野長政)
前田 吟 (蜂須賀小六)
西田 敏行 (羽柴秀吉)
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制作:伊神 幹
演出:北嶋 隆

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『おんな太閤記』
第21回「本能寺の変」

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