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2023年5月30日 (火)

プレイバック徳川家康・(23)安土への道

天正8(1580)年2月、二人の姫を置いて徳姫は岡崎から清洲へ去ろうとしていた。信康の死後5ヶ月が過ぎ、慰める者もない徳姫を於大が訪ねていた。岡崎城・徳姫の居間で徳姫と向き合った於大は、我が子を置いて実家に帰るのはこの身にも覚えがあると、徳姫の辛さを理解します。於大は、再び我が子と会えるという望みは捨てるなと励まし、徳姫は涙を流します。

「若御台徳姫様には最後までこの岡崎に思いを残され、信康さまのご供養とふたりの姫のことくれぐれも頼み入らせ候て、ただただ涙のうちにご出立なされましてござ候。この身の昔を思うて、徳姫さまのご胸中ただただお労(いたわ)しく、なにとぞお屋形様にはご精進あって、か弱き者どもの嘆きのなき世をお作りあられますよう、この身も御仏の前にひたすら念じるものにてござ候」

於大からの書状に、浜松城の徳川家康はジッと目を閉じて思いを馳せます。そこに、小田原の北条からの使者が到着したとの知らせが入ります。家康は顔を上げ、よし、と対面所に向かいます。

北条と徳川が密約を結んだという情報は、甲斐の武田勝頼も耳にしていました。北条も徳川もほぼ同時に戦支度に入ったことが何よりの証拠です。一刻の猶予もならないと、勝頼は高天神城を死守するために諸将に出陣を命じます。穴山梅雪らは困惑しながら、あるいは冷めた目で主を見上げながら、下知に従うことにします。

天正8年の春、武田勝頼が遠江に侵攻すると、家康がこれを迎え討つ。宿敵の、徳川武田両軍は1年以上も死闘を繰り返した。両軍攻防の焦点となったのは遠江の高天神城である。その時、勝頼が頼みとした上杉謙信はすでに亡く、天正9(1581)年3月ついに高天神城は陥落。再び徳川家のものとなった。

以後、武田家の勢力は急速に落ち、翌天正10(1582)年2月 木曽義昌が織田に寝返り、続いて穴山梅雪も家康の降伏勧告を受け入れて下った。こうして信玄以来の鉄の団結は重臣たちの離反によって崩れていった。信長と家康は武田家の諸将の戦意の喪失を見て武田の本城・甲府城に怒涛の如く進撃を開始した。地を失った勝頼は一族を連れて山中を放浪し、ついに天目山の露と消えた。時に天正10年3月、新羅三郎(源 義光)以来の名門武田氏は、滅んだのである。

 

上諏訪で、家康は梅雪を連れて信長と対面します。愉快そうに笑う信長に家康は梅雪を紹介しようとしますが、信長が呼んだのは木曽義昌でした。義昌も梅雪も武田家の血縁で勝頼が信頼していた武将でしたが、運命のいたずらか 今はこうして織田方の武将として顔を合わせています。家康は信長の冷酷さをひしひしと感じていました。

義昌が挨拶を終えて下がり、家康は梅雪を紹介します。梅雪は引き出物を持参したのに信長はさほど気にする様子もなく、武田方の武将の中に“家康に7日7晩説得されて下って”命拾いした者がいるらしいとニヤリとします。それは実は梅雪のことだったのですが、梅雪は冷や汗をかきかき、信長の前に平伏したまま動きません。家康は気を利かせて梅雪を連れて信長の前から下がります。

対面の首尾を訪ねる石川数正に、家康は信長が自分と武田旧臣が手を結ぶことを警戒しているようだと感じたままを伝えます。信長は信玄の弟・武田逍遥軒(信廉)はじめ武田方の武将を討ち尽くしましたが、家康は自分に下った敵将をすべて身内にしていくと決意を新たにします。「人は生かしてこそ人の道、わしはこれだけは変えぬぞ」

 

4月21日、信長は安土に凱旋します。信長は道中丁重な接待を務めた家康を、返礼として安土へ招きます。本多忠勝は、徳川信康を自害に追い込んだ信長の誘いに応じれば、家康もまた殺されると反対を唱えます。数正は九州まで平定するにあたり関東方面の要として、家康の力を無下にできないと説明します。家康も同感で、今はコマとしてでも、天下平定のために安土へ行かなければならないと考えています。

家康の接待役を信長に指名されたのは明智光秀でした。信長は光秀の学問と礼儀正しい社交術を認めて重用していました。信長は家康の心配を吹き飛ばすほどの豪勢な計画をと注文します。光秀は家康にご機嫌を取ったと見られると危惧しますが、信長は今回の接待で家康に親類の扱いを受けたと思わせ、天下に対しては駿河拝領の礼に安土へ臣下の礼を取ったと見せかけることが大事と伝えます。

浜松を発った家康は途中岡崎城に立ち寄り、生母於大と対面します。於大は家康を見ると華陽院のことが思い出されます。華陽院の教えがあればこそ、信長のように武田の残党を追い詰めるまではしなかったのかもしれません。於大は「信長さまと決して争うてはなりませぬ」と諭します。いずれ中国地方へ出陣するように必ず下知があると予想し、そこを逆に自ら出兵すると申し出てみるように勧めるのです。

無論、家康もその考えではありましたが、わざわざ助言する家臣はひとりもいませんでした。それはよいお考えと家康は頷きます。なぜだか胸騒ぎを覚える於大の直感ですが、今の信長は少年期の彼とは異なるとため息をつきます。信長が武田攻めの帰りに岡崎城に立ち寄り宿泊した際も、徳姫の2人の姫たちに対面するかと思いきや、その沙汰なく安土へ向かってしまったわけです。

思ったことを思ったままに行動していた信長がそうではなくなった背景には、彼自身の中に天下の前で“私情を殺す”感情が芽生えているのではないかと推測します。今の信長であれば、いったん口を開けばたとえ誤りでも後へ引かないわけで、だからこそ信長と争ってはならないと忠告するのです。常に先手先手を心がけていくことが大切だと於大は諭します。心が決まったと、家康は於大の手を握ります。

岡崎城の庭に出た家康は、庭に咲く花を摘んでいる一の姫と二の姫に近づき、空を見上げて信康に語りかけます。そのうち二の姫が家康に気づき、摘んだ花を家康に手渡します。「そなたの母の築山殿に告げてやるがよい。家康は今川義元が旧領はみな取り戻した」 先祖代々がこれまで流した涙でしょっぱいであろう土を味わいながら、家康は安土へ発とうと考えます。

安土では、光秀が大宝院に客殿を建設しました。見学に訪れる信長ですが、内装を一目見るとたちまち機嫌が悪くなります。「これはいったい何者を泊める宿舎じゃ?」 どこが気に入らなかったのか食い下がる光秀ですが、ここでは言えないと安土城へ来るように言われてしまいます。さらに追いかけようとする光秀を、森 蘭丸が間に入って光秀を止めます。愕然とする光秀です。

改めて城に上がった光秀に、城に上がるまでに自分が腹を立てた理由は分かっただろうと信長は笑いかけますが、光秀はどれだけ考えてもその理由が見つからず理解できていません。家康を手落ちなくもてなすようにとは言ったものの、それにはおのずから限度があり、分を超えた馳走は相手への諂(へつら)いとなりこちら側の意向を損してしまうのです。

光秀は、中国攻めを前になるだけ本国を空けさせた方がいいと考え、その誘い文句のひとつとしてああいう建築にしたわけです。家康に裏切りの兆しがあるとは言い切れませんが、長く中国攻めにかかるとその可能性は高まっていくと考えているのです。「今度の家康接待は、どこまでも戦勝の礼に来る者をもてなすのじゃ。下がれ!」 それでも光秀は下がらず、信長は蘭丸に扇で光秀の額を打たせます。

 

5月15日、家康は安土の大宝院に到着した。信長は一度解任した明智光秀を再び接待役に命じていた。家康は華美な装飾に心を砕いた光秀を労わりますが、光秀は家康のその言葉にとても嬉しい思いです。家康は浜松へいったん帰国した後で中国攻めに赴くつもりですが、戦況を見分するために家康の家臣を一人羽柴秀吉の陣中に送っていることを信長に取り次いでほしいと光秀に伝えます。

信長はこのとき、懸案の中国攻めで苦境に立たされていた。総指揮官羽柴秀吉が高松城を取り囲み、城主清水宗治に降伏を勧めているところに、毛利・吉川・小早川連合軍3万が到着した。攻めるも引くもできなくなった秀吉は、信長に至急の援軍を要請していた。信長は、接待役の光秀を秀吉の援軍として向かわせようと考えていました。

そこに家康の進物を見分した光秀が報告に上がります。鞍(くら)と鐙(あぶみ)300に金3,000枚と聞き、東の守りは抜かりないと言いたげな家康に信長は笑います。中国攻めの件も、家康が先手を打って中国攻めの話をした上、秀吉の下で働いてもいいという考えも見え、そのしたたかさに信長は舌を巻きます。このままでは立場がないと、中国攻めの費用で入り用だろうと黄金1,000枚を返納するよう光秀に命じます。

平身低頭の光秀を見て、家康は光秀の立場を考えて不本意ながら減免に応じます。光秀はこの直後、中国出兵が急を要したために信長に接待役を解任されます。不満を抱いた光秀の家臣たちは接待料理の材料をすべて投げ捨ててしまいます。話を聞きつけた信長なら、馬で明智屋敷まで駆けてきて一気に首を刎ねるに違いない──と光秀は考えます。その時、信長の使者として青山与三右衛門が到着します。

「惟任日向守光秀どのにはただちに出陣、備中に赴いて羽柴筑前守秀吉どのの後詰めをするようにとの上様のお達しにござる」 承ったと光秀は返答しますが、与三右衛門は続けて、光秀に出雲石見の二国を賜るとの上意を伝えます。ありがたき幸せとつぶやきながら、光秀の背中になにか冷たいものが通り抜けていくような感覚に襲われていました。

山陰道はもとより、出雲・石見もまだ敵の手中にある。これらの領地を授けるということを口実に、丹波と近江を取り上げる腹だとこの時光秀は誤解した。

二度にわたる役目替えは光秀には不満だと濃姫は信長の耳に入れますが、だからこそ出雲石見の二国を与えたのだと信長は気にする様子はありません。濃姫は家臣にかける言葉がますます強くなっていっているし、家康を家臣扱いするのは慎んだ方がいいと忠告します。「天下統一、泰平のためよ」と言っても、何かにつけてその言葉にふりかざすと濃姫は半ば呆れています。

大宝院客殿では、周囲が慌ただしくなったのを気にした家康が京都の呉服商・茶屋四郎次郎に調査させていました。中国攻めを命じられた光秀が今宵のうちに安土から坂本城へ引き上げていると事情を説明します。こちらから中国攻めの件を言い出さなければ、今ごろは自分たちが光秀のように中国出陣するはめになっていたと安堵します。「目立たぬこと、万事控えめに」と家康は家臣たちに引き締めさせます。

大きな誤解を抱いて光秀は安土を去った。この世、家康の家臣団は不測の事態に備えて家康の寝所を守っていた。光秀はいま、一路その居城・坂本城を目指していた。この数日後、信長と家康の運命が大きく変わろうとしていることをまだ誰も知らない。


天正10(1582)年5月17日、羽柴秀吉の援軍を請う手紙を受け取った織田信長は、徳川家康の接待をしていた明智光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じる。

慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、

あと20年8ヶ月──。

 

原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
役所 広司 (織田信長)
藤 真利子 (濃姫)
田中 美佐子 (徳姫)
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江原 真二郎 (石川数正)
高岡 健二 (本多平八郎)
寺田 農 (明智光秀)
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長門 裕之 (本多作左衛門)
中山 仁 (茶屋四郎次郎)
大竹 しのぶ (於大)
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制作:澁谷 康生
演出:兼歳 正英

 

◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆

NHK大河ドラマ『徳川家康』
第24回「本能寺の変」

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