プレイバック徳川家康・(25)伊賀越え
信長が光秀に斃(たお)されたと知った瞬間から、大名・町人・百姓、誰もの頭に浮かんだのは「再び乱世への逆戻り」である。すでにこのあたりの野伏せりや乱波(らっぱ)が太刀を背に動き始めていた。百姓も竹やりを磨きにかかっている。戦の請負を家業としている土豪や根来宗徒などは、時こそ来たれと武器・鉄砲を用意して己の買い手を待っていた。追いはぎから落人狩りの類の間に情報は飛び交って、道という道、峠という峠は、みな地理に明るい無頼事の待ち伏せ場と変わってゆく。家康の一行にも、もう幾組かの送り狼がひっそりと後をつけていた。
伊賀山中を急ぎ足で走破する徳川家康一行。けもの道や大木の間をどうにか通っていきますが、早く抜けることに必死で、すぐ下にかがんで姿を隠している女たちにも全く気が付く様子はありません。そして一行を遠巻きに見つめる男たちの姿もあります。息を潜めて一行を襲撃する機会を狙っているのです。
堺を発って2日目の夜を迎えた。携えて来た食料を食いつぶしてからは、飲まず食わずの強行軍である。夜道となり、足元がおぼつかない中、岩にできたほんのわずかな足場をそろりそろりと進んでいきます。しかしその先で武士同士の斬り合いがあり、茶屋四郎次郎は小休止を提案します。狭い場所では進むも引くもできませんが、相手の人数も判断できず様子を見るしかありません。
休むと急に空腹が現実のものとなる。草鞋を履ききって裸足の者もすでにいた。家康はずっとついてきている松丸を見、家康がこれまで最も難儀に思った、空腹で寒いながらもへこたれず帰城したという三方ヶ原の戦いの思い出を語ります。大久保忠隣は父・忠世から、帰城した家康はクソを漏らしていたと聞いていたためプッと吹き出しますが、家康は「焼き味噌じゃ!」と激怒します。
その時、賊の男たちが松明を持って現れます。金蔵は甲賀郡の家来を名乗り、ここまで追ってきた獲物を横取りしたと難癖をつけます。四郎次郎は金銀はやるから刀を置いていけと譲歩すると、金蔵の今にも斬りかかりそうな脅しで、賊たちは刀を置いてきた道を戻っていきます。その様子をじっと見つめていた家康は、自分たちは夜盗の仲間になったのは兵法の極意だと2人を褒めます。
3日目の朝を迎えた。道はさらに険しく疲労と空腹はその極に達していた。しかし野伏せり・乱波・暴民たちが、いつまた襲い掛かるかもしれない。家康一行はただひたすら歩き続けた。3日ともなると、月代(さかやき)やあごを剃っていないため無精面した家康たちは、滝のそばを滑らないように小幅で歩き、岩にへばりつきながら落ちないように進み、ツタをつかんで渡るありさまです。
河内と山城の国境は越えることができました。さらに山を2つ3つ越えればなんとか食料も入手できそうで、四郎次郎は先回りしてその準備にあたることにします。みな何とか気力で奮い立たせて三河へ戻ることだけを目的に歩き続けています。一行は無事に木津川を越え、食料にありつけるかもしれない田原へとかかった時である。田原で略奪をして引き返す暴民800と鉢合わせします。
弱気で善良な人間でも、集団を成すと計り知れない凶暴性を発揮する。これはまさにその集団である。違う道と言ってもこのような山中にはわき道があるわけもなく、進んで来た道を引き返すこともできません。家康は彼らの望みを聞くため本多忠勝に一揆の首謀者を連れてこさせます。話して分かる相手ではないと四郎次郎は忠告しますが、家康は聞きません。
連れてこられたのは孫四郎・関兵衛・弥六の3人でした。家康は農民たちを苦しめているのが誰かを聞き取ります。年貢は7割上納で戦の時には残り3割も取られてしまうと訴える彼らは、領主の米蔵を開いたわけです。家康は褒美として黄金を与え、田原山中で道案内を務めてくれたという名目で、天下が収まれば必ず力になるという墨付け(書状)を渡します。
墨付けを与えた効果もあり、一行は特に被害もなく前に進むことが出来ました。それは家康に従う者たちにとって、信じられない成り行きであった。ここを脱した一行はその日の昼過ぎ、倒れ込むようにして宇治田原にある手配の屋敷にたどり着いた。山口光俊の屋敷に到着し、家康ほか家臣たちも屋敷に上がるまでもなく庭に座り込んでしまいます。
提供された飯を両手でつかみ取り、家康も家臣たちもみんなでほおばります。宇治の茶や追加の炊き出しも断った家康は、伊賀衆は織田信長が征伐したこともあって深い恨みを抱いていると光俊から聞かされます。家康は腰刀を光俊に与え、落ち着いたら改めて茶を一服味わい直そうと約束し、すぐに出発することにします。服部半蔵は、残りわずかな時間を惜しんで飯をほおばります。
田原にとどまったのはわずか半時足らず。その出発もまた家康の動物的な六感の冴えで、待ち受けていた危難をかわす原因となったのである。岩のごつごつしたところを滑り落ちるように下りると、“このままこの道を進まれては一大事”と知らせに来る男がいました。男の傍らには、先ほど遭遇した孫四郎が手をついていました。
孫四郎は伊賀衆に駆け付けて徳川の味方をすると言うと、仲間内でも意見が二手に分かれてしまったそうで、伊賀者の柘植三之丞が言うには、信長に恨みを抱き明智光秀に味方する者が多いと、孫四郎を道案内役として信楽から伊賀の丸柱への道に誘導します。家康は道を変えようと即決し、孫四郎は感心します。「やっぱりお屋形さまはすぐに話のわかるお方じゃ。さあ!」
事実、昼の間は分からなかったが、夜になると家康に味方した伊賀衆たちが土地慣れた目配りで、一行を前後左右から警護していたのである。家康は孫四郎を呼び、頼みもしないのになぜ伊賀衆のもとに駆け付けたのか尋ねます。優しい人を殺してそれよりもっと恐ろしい人が天下を獲ったら“勝って負けになる”と考え、家康を助けるのが得策だと踏んだのです。
道理というものは強いものだと笑う孫四郎の顔が、幼いころに教育を受けた雪斎禅師に見えてきました。雪斎は、心からこの百姓を憐れんで優しかったのではあるまい と痛いところを突いてきます。あの場の身の無力を計算し争っては勝ち目がないと見て、見苦しくないように武将の務めを口にしただけなのです。「言い聞かせたはず。民の声は深く深く味わいなされ、と。民の声に従うほかに真理はないぞ」
信楽で茶屋と銀蔵を帰した家康一行は、夜通し歩いて伊勢湾の白子浜に達していた。しかし白子浜の漁民たちは、京での一大事で舟を他国へ出してはならないという禁制の高札が掲げられていたため、一人も家康一行に味方してくれる者がいません。家康はそのうち1軒の戸を叩き、この世を騒乱にしないために本国に戻りたいと事情を説明します。
孫三はひざをつき、首を落とせと言い出します。もし禁制を破って船を出せば、孫三の親類縁者が領主から首を斬られる地獄の連鎖なのです。他に頼むとしても結局は同じことです。家康は、自分が家康であると名乗り、本国に帰ったら今の孫三の言葉を味わい直そうと引き返していきます。孫三は自分の言葉を聞いてくれた侍は初めてだと、喜んで船を用意します。
漁師孫三は、正体不明な侵入者に船ごと拉致されたことにしたが、もし家康が伊勢をも治める日がなければ、禁を破った彼ら親子はその生涯で再び相会う日はない。伊賀越えに続いて、この白子浜で漁師たちが家康を助けたのは、意識していると否とにかかわらず平和を保障されたいと願う心の表れなのである。
家康は、もう白子浜へは戻れない孫三と、残した妻と娘のために、駿河で仕事と住む場所を用意する約束をします。家康は忠次に岡崎に戻ってすぐに兵を集めて熱田へ向かうように命じ、家康自身は領内の農民たちを鎮めてから安土へ向かうことにします。家康は今、地獄の底からはい出るような不眠不休の脱出劇に終わりを告げようとしている。堺を発って4日間、全長300kmの強行軍である。
四郎次郎は納屋蕉庵の屋敷に入ります。堺の商人の間で、次の天下人は誰か? を座興で入れ札したところ、光秀と羽柴秀吉が5票ずつ、家康はわずかに1票でした。堺では中国攻めで一番の勝因を作った秀吉を次の天下人として推すことになるでしょう。彼に頼まれたら当然のように彼のために働いている現状があります。「浜松の方にこれを土産になさるがよい。流れに逆らうは法然の理じゃ」
その羽柴筑前守秀吉が備中高松を引き払い、居城の姫路城に帰り着いたのは6月8日の夜であった。秀吉は弔い合戦の支度が整い信長への志を表す意味で髪を下ろしています。蜂須賀小六と三好武蔵守に、金蔵にある金銀を全て家臣たちに分け与えるように命じます。「この秀吉はもう一度裸に返る。死んでも生きてももうこの城には戻って来ん」
もはや秀吉の眼中には、いち姫路城はなかった。光秀を倒して信長の遺業を継ぐか、玉砕するかの二つに一つであった。その秀吉、一気に京を目指すと6月11日には尼崎、12日富田(とんだ)、13日には山崎と、次第に味方の軍勢を膨れさせながら、常人では信じられない急速な進撃ぶりを見せた。
田楽狭間に今川義元を破った時、信長は全てを捨てて完全と我が運命に立ち向かった。その時信長27歳。それと同じ気迫でいま己の運命をかける秀吉、すでに47歳である。この勢いに世間は全て秀吉の弔い合戦を認めた。明智軍が総退却と知り、「よくやった……よくやった秀吉!」と自分を褒めたたえます。
そして坂本城へ退こうとした光秀は、落ち武者狩りの暴挙として宇治醍醐の小栗栖村で露と消えた。信長を討って13日目のことである。一方、熱田まで本陣を進めた家康は、一気に安土城へ押しかけると見せてここを動こうとはしなかった。光秀の哀れな最期を聞き、家康は光秀を悼みます。安土城は焼け落ちますが、光秀勢ではなく次男・織田信雄が焼いたと知って家康はひどく非難します。
翌朝、秀吉の使者が到着した。逆臣光秀を討ち取ったことで、秀吉は家康に早々に帰陣を勧めてきました。使者が帰った後、本多作左衛門は信長の客将に対する言動としてはおかしいと腹を立てますが、石川数正は作左衛門が言うように安土に向かって秀吉と共同会見すれば、衝突の可能性こそあれ得るところは何ひとつないと、このまま陣を引き払うことを提案します。
19日に陣払いをすると決めた家康は、上方はすべて解決したと秀吉から言われては、秀吉の家臣ではない自分は援助する義理もないと、主義を通せるということになります。いったんは解散となりますが、家康は数正を呼び、岡崎へ戻ったら秀吉の元に使者として赴くように命じます。「無理してとった天下は長くは続かぬ。こなた秀吉の元に参ってな、我を述べよ。それが必ず後々のためになるであろうでな」
その時、秀吉は岐阜城に入り、信長直系の孫・三法師に目通りしていた。“信長と信忠の仇を取った”とけなげにアピールしますが、三法師には意味がよく分かっていません。秀吉は用意したおもちゃをいろいろと披露し、お馬さんごっこで三法師に好かれようと努力します。家臣は家康が陣払いをしたことで、天下取りは……と言いかけますが、秀吉が咳払いをして発言を止めさせます。
一方、浜松城では無事帰陣の祝出されの最中であった。酒に酔った忠勝は秀吉の口上に未だに納得できておらず、これから戦も続くであろうと家康は優しくなだめます。安穏に暮らせる民の数で秀吉や柴田勝家と競っていくと笑うのです。忠勝は織田家家臣の秀吉や勝家と違い、家康は格別の家柄だと反発しますが、家康は大きな流れを味方につけて力を持てばいいと考えています。
大きな流れを味方に持たずに動いたことが、光秀のみじめな末路があったわけです。仮に秀吉も勝家も近畿を治める力がないと分かれば、欣求浄土の旗を近畿まで進めればいいだけのことです。今は退いて下地をしっかりと固めておくことが何よりも大事だと説き、忠勝は自分の考えの浅はかさに気づきます。
お愛と二人きりになった家康は、堺からの敵中突破に雪斎禅師の言葉を聞いたことを振り返ります。同行する者には一騎当千の武者が揃っていましたが、戦乱の世を怒る百姓たちの前ではそのような力は何も通じません。ただ民の声を聞き民の求めるものに答える。それより他は命を守るすべもなかったのです。「天下とは何か。己一人の天下にあらずこれ万民のもの。天下は天下の天下なり、じゃ」
信長没後の20日間は光秀と秀吉の生涯を決定したが、同時に家康にとってもまた、その生き方を決めさせる重大な来得(きえ)をなした20日間であった。
天正10(1582)年6月5日、本領である三河国への帰還をめざし、無事に三河に帰還する。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと20年8ヶ月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
竹下 景子 (お愛)
長門 裕之 (本多作左衛門)
江原 真二郎 (石川数正)
中山 仁 (茶屋四郎次郎)
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武田 鉄矢 (羽柴秀吉)
高岡 健二 (本多平八郎)
寺田 農 (明智光秀)
入川 保則 (黒田官兵衛)
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小林 桂樹 (雪斎禅師)
紺野 美沙子 (木の実)
石坂 浩二 (納屋蕉庵)
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制作:澁谷 康生
演出:大原 誠
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第26回「次に吹く風」
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