プレイバック徳川家康・(27)小牧 長久手の戦
家康のいる浜松城に、信長次男 織田信雄の家老・津川義冬が到着し、信長三男 織田信孝が羽柴秀吉に切腹させられたとの情報をもたらします。弓の稽古中であった家康が、引き絞った弓を戻して思わず目をむき出しにするほどの驚愕な事件で、家康は本多作左衛門とともに書院の間に向かいます。
秀吉は「信孝さまあっては、三法師君をはじめ織田家一統のためならず」と、信雄に命じて信孝の岐阜城を攻めさせたのです。信雄もやむを得ずこれに従い、すでに数多くの家臣たちが逃亡していた信孝は岐阜城を明け渡したのですが、信雄が秀吉に取りなしてくれるかと思いきや、城を出てから秀吉の使者が来て、信雄の名によって切腹を命じられたとのことです。
秀吉は主筋に当たる信孝に対して自ら手を下さず、信雄の名で切腹を迫ったことを家康は非難します。作左衛門は、真っ当な三河者であれば身の毛がよだつと感想を述べ、石川数正も三河者ゆえに秀吉がどのような罠で待ち受けているのかとつぶやきます。家康も数正ほどの有能な家臣を失いたくはないが……と表情は決して明るくはありません。
今や、秀吉が目指しているのは、名実ともに天下人になるため、その障害となる者を次々と一掃していくことである。その秀吉を思うと、家康からの使者に立った数正の胸中は重かった。坂本城の対面所に現れた秀吉は機嫌よさそうに「まず家康の口上を聞こうかのう」とニヤリとします。以前はどんな時でも「徳川殿」であったのが、すでに「家康」と呼び捨てにしている。
数正は、まずは北ノ庄城の戦いにおける勝利を賀し、家康の代理で参上したと頭を下げます。秀吉はいきなり、6月2日に一緒に京に上らぬかと数正を誘います。信長の一周忌法要の後、三十余国の諸大名に命じて大坂に城を築かせるつもりです。中国毛利とはすでによしみを通じていて、四国や九州をも平定することが信長への忠義に当たると主張するのです。
続いて家康が数正に持たせた土産の話になり、数正は天下の名器「初花の茶入れ」を持参したと答えます。茶人たちからその噂を聞いていた秀吉はとても驚き、秀吉から天下に披露せねばと笑います。数正はエピソードとして、松平清兵衛が家康に献上した際、喜んだ家康は返礼に5,000石を与えようとしたことから、徳川家では「五千石の茶入れ」との別名がついていると説明します。
秀吉は、前の柴田勝家との戦でわずかな首しか上げられなかった小姓たちにさえ、秀吉は5,000石遣わしたと途端に表情を曇らせます。命がけで働く家臣への待遇がケチだと秀吉は言いたいわけです。秀吉はいたずらっ子っぽく、自分が領する国数の4分の1を持っている家康に、大坂築城の費用の4分の1を負担させようと言い出します。
「さればいっそ、費用の半分をと仰せられてはいかがなもので」と数正は秀吉を見据えます。別段家康が裕福というわけではなく、ここまでくれば一戦交える覚悟を固めるであろうと数正は答えます。戯れじゃ! 本気にするな数正! と秀吉は引きつったまま笑い、初花の茶入れに話を戻します。秀吉は、数正が浜松に戻ったら「五千石の茶入れ」のあだ名は取り消した方がいいと勧めます。
もし数正が自分の家臣であれば10万石を与えて城を1つ任せ、大名に取り立てます。数正にはそれだけの値打ちがあるからです。天下の名器として名高い初花の茶入れが、値打ちに合わない“5,000石”とはひどいというわけです。数正は黙って聞いていますが、秀吉はあくまで茶入れの話として、浜松に戻ったら「十万石の茶入れ」と名を改めるようにと笑います。
秀吉は、家康が数正ほどの有能な家臣たちを低い禄高で召し抱えているのが残念なようです。秀吉から見て家康は「家内が第一、天下が第二」と見えますが、もし家康がそうであれば信孝や勝家と同盟して秀吉に挑んでいたに違いないと数正は突っぱねます。秀吉と志が同じだからこそ北条を抑え、秀吉が近畿を平定するまで陰に陽に助けていたのです。家康が羨ましいとつぶやく秀吉は、数正に盃を取らせます。
この盃が、我が身を破滅に導くものと数正はすでに覚悟はしてきている。今までの例を見ても「数正はわしに内応している」と秀吉の口からささやきが漏れた時には、数正の不運は決定的なものになってゆく。不運の波を数正より一足先にかぶったのは、秀吉に内通したとの疑いを持たれた織田信雄の家老三名であった。信雄は家老を斬って秀吉に敵対の姿勢を示すと同時に、家康への救援を求めていったのである。
「たわけた御曹司じゃ」と秀吉は三家老を斬って反旗を翻した信雄を大阿呆と非難しますが、信雄を後ろから操っているのは家康であることは確かと黒田官兵衛がささやきます。ふん、と秀吉は鼻で笑います。さすがの家康でさえ、三家老を斬った信雄にはあきれ果てて味方はするまいと言うのです。秀吉以外に最も計算の立つ武将は家康なのです。
数正が浜松城に戻ってきました。信雄の運命は風前の灯火と、作左衛門は単独で秀吉に挑むよりは信雄とともに立ち上がった方が有利だと主張します。数正が言うには、信長と親類であり同盟関係にあった家康が、そのよしみで信雄に味方して秀吉を誅するという大義名分が立つのです。作左衛門はニヤリとします。「これで旗印は決まり申す。あとは信雄さまを風よけに使うのが一番じゃ」
数正の考えは、まず紀州の根来雑賀衆に一揆を起こさせ、さらにできるだけ多くの反秀吉の旗を上げさせる──。兵力を分散する戦を苦手とする秀吉には、この戦い方が一番堪(こた)えるはずです。家康の瞳がギラリと不気味な光を放ちます。
秀吉との一戦が避けがたいとなれば、断じて臣従すべきではない。天正12(1584)年3月7日、8,000を率いての出陣である。それは家康の生涯を決定するほどの合戦となるはずである。家康が挙兵したのを知った秀吉の動きはとても早く、大垣城主・池田勝入に命じて犬山城を落とさせます。
泉州・堺では、豪商たちがこの戦について話し合いをしています。軽挙をしない家康が挙兵すると言うことは勝算があるという見方がある中で、秀吉と家康が“なれ合い”で戦をしたとしたら、立場を失って滅んでいくのは信雄です。納屋蕉庵は、一揆を起こした雑賀衆も四国勢も、なれ合いだと分かれば拍子抜けするわけで、秀吉はやはり知恵者と考えを述べます。
表面では秀吉vs信雄の戦でも、内情は秀吉vs家康の存亡をかけた大決戦です。家康は小牧山に陣取ります。榊原康政は、秀吉が「逆賊」という言葉を最も嫌っていると助言すると、家康はそれを活用することにします。「徳川三河守家康決然と立って義兵を挙げ、信長公の遺児・信雄どののために戦う。天使とともに許さぬ逆賊羽柴筑前を誅罰せよ、と」
高札が各所に立つと、石田三成はそれを犬山城の秀吉本陣へ持ち帰ります。読むように促され、「秀吉は野人の子、もともと馬の轡(くつわ)取りにすぎず──」と読み上げると、なに! と秀吉は大激怒します。家臣たちに見つめられると秀吉は、この高札の内容が自分を怒らせるためにわざと書かれたものだと分かった上で、その雑言に秀吉が耐えられるかどうかを試していると弁解します。
馬の轡取りが信長の寵愛を受け大出世しだすと大恩を忘れ、亡き主君の遺産略奪を企て、主君の子信孝を生母や娘とともに虐殺し、今また信雄に兵を向ける大逆賊なり。そう書いた康政に対して、三成は康政の首に10万石を賭けることを提案します。そういう形で秀吉の怒りを内外に示すのです。怒らせようと謀るものに乗せられまいとするのではなく、怒ってしまえというわけです。
秀吉は犬山城から家康軍の布陣を前線にまで出て確認します。危ないと家臣は進言しますが、秀吉はお構いなしです。秀吉は勝入に、東に55間(けん=100m)、南北に40間(72.4m)の砦を築かせ、ここから動かないという意思表示をします。家康は三河との通路を確保して自在に往来できて有利だし、一方 大坂から出てきて城に籠る秀吉軍は補給を簡単に行えず、なるべく持久戦に持ち込ませたくないわけです。
家康は数正に、ここが潮時かと考えを表明します。秀吉は家康と信雄の戦意を喪失させるために“なれ合い”の噂を頻繁に流しています。ここで家康が秀吉の思惑に乗っかって、確かに家康は秀吉と手を組もうとしているのを誰か内通者が秀吉軍に伝えてくれたら、秀吉に土産を持たせることが出来ると作左衛門はつぶやきますが、その内通者役のその後の身柄を考えると、家康も身を斬られる思いなのです。
数正は、内通者とはすでに敵に通じた裏切り者のことであり、その内通者の後の身柄のことに心を悩ませる家康は、殿としてまだまだだと笑います。「余人はいざ知らず、この数正ご奉公のためなら何度でも内通してみせるわ」 作左衛門は数正の顔を見据え、数正はここが潮時かもしれぬとほほ笑みます。
犬山城では勝入が、家康を三河へ引き返させる「三河中入れ策」を秀吉に進言します。犬山城から南下して三河への通路を断ち、長久手の岩崎城を落として一気に岡崎城を突くのです。岡崎を突けば家康も信雄の助太刀をしている場合ではなくなり、この戦の膠着状態は早くて10日程度、遅くとも半月で終わると説明します。さらに勝入は、その総大将には秀吉の姉の子・三好孫七郎秀次をと推挙します。
結局秀吉は長期戦を避けるためにこの奇襲作戦を受け入れ、秀次に堀 秀政をつけ、夜陰に紛れて家康の背後に抜けさせます。この動きを家康は翌朝に知りますが、総大将が戦になれていない秀次と聞き、数正、酒井忠次、本多平八郎を小牧山に残して、家康自らは陣頭に立って山を下りる作戦に出ます。「この追跡の途中、臨機応変 三河武士の野戦の妙味、思うさまご馳走してやれいッ」
天正12(1584)年4月10日、世にいう「小牧・長久手の戦い」である。夜を徹して三河を目指した秀次勢8,000は猪子石の白山林で兵をとどめ、つかの間の仮眠をとっていた。秀次勢を引っ掻き回してこれを混乱に陥れた徳川勢は、秀次の援軍に駆け付けた堀 秀政の軍勢と衝突。これに満を持していた井伊直政、鉄砲600丁の口先を揃えて3,000の兵とともに堀勢に立ち向かっていった。
だが、秀吉はまだ白山林での一戦を知らない。秀吉はいよいよ決戦だと飯をかきこんでいますが、三成は今も家康が知らないとは信じられない様子です。そこに伝令が駆け込んできて、家康はすでに小牧山にはいないと報告します。驚いた秀吉は器を放り投げて慌てて出陣していきます。総勢38,000が到着した長久手には、すでに無数の兵士たちの死骸が転がっていました。
家康は兵をまとめて小幡城に入ります。長久手で家康の姿を見失い呆然とする秀吉を、今こそ攻撃しようと平八郎は進言しますが、戦は勝ち過ぎてはならぬと家康は話に乗りません。秀吉ほどには力がなく、今滅ぼせば国中がますます乱れ、信長を討った光秀のようになってしまうのです。呆れる平八郎に家康は諭します。「たとえ秀吉に天下を獲らせようと、わしが秀吉の風下に立たなければよいではないか」
平八郎は、家康が気後れしていると言い出し、秀吉軍4万が早暁にこの城を囲めばどうするのかと必死に食い下がります。家康は静かに笑います。「案ずるな。わしは朝までここにはおらぬ。月の出を待ってさっさと引き払う。夜が明けていざ総攻撃と秀吉が力みかえって進んできてみたら、その城は空っぽだった……」
家康は戦には勝ちましたが、小幡城という小城で秀吉軍を迎え撃てば勝ちは望めず、勝って負けたと秀吉は笑います。今度ばかりは許さぬと、秀吉は家康を討ち取るつもりです。もし秀吉が家康なら、今日のうちに小幡城をさっさと捨てて……と想像しますが、秀吉の表情が笑顔から真顔に変わっていきます。ということは家康もすでに小幡城を捨てている可能性は高いわけです。
家康は小牧山に、秀吉は犬山城に戻り、両軍は再び対峙しますが、目立った戦闘はなく双方とも本国へ引き上げていきます。
その講和の話し合いで、秀吉は数正や作左衛門ほどの者を人質として送れと言い出します。勝った方が人質とはと呆れかえり、その条件を持ち帰った数正に家臣たちの非難が集まります。平八郎たちは数正を討つべしと立ち上がりますが、忠次は家康の意見を聞こうと平八郎たちをなだめます。
人質を出せとは無理があると作左衛門はうなりますが、数正は家康次男の於義丸を秀吉の養子とすることを提案します。羽柴と徳川は縁戚となり、人質ではなくなるのです。「数正、我が腸(はらわた)で大坂城の襖絵に三河者の絵を描いてご覧に入れましょう」 家康は、秀吉に影響力を持つ堺衆の力で、徳川に有利に進められるように茶屋四郎次郎から蕉庵に使いを入れさせることにします。
秀吉は堺衆を招きますが、人質を出せと命じた家康のことを尋ねますが、蕉庵はそんな小さなことで悩むより、もっと大局をと笑います。秀吉が家康を討ったところで信長の真似をしたに過ぎないわけで、これからは信長がなし得なかった交易を進めていくのがいいと勧めます。「そうなると家康という男、得難いわしの番頭となる男……と申すのじゃな」と、秀吉は笑顔を引きつらせます。
堺衆を裏から操るのを見せつけられた秀吉は、家康が憎くて憎くて仕方ありません。大坂城に戻った秀吉は、家康にふっかけた人質の件を養子に変更し、必ず家康に頭を下げさせてやると怒り心頭です。秀吉の意向を受けて、三成は直ちに秀吉の使者を浜松城に送ります。
秀吉の要求は、家康を大坂城に呼び出して頭を下げさせる思惑だと作左衛門は考えます。秀吉の使者から内々に秀吉の意向を聞いた数正によると、家中の反対が強い時は家康には大病で臥せてもらい、養子行列は軽々しくならないようにとのことです。家康は秀吉がそれだけ焦りを募らせていると察し妥協を探り出しますが、大坂へは行かないし頭も下げないという思いは変わりません。
これで、いよいよ作左と数正は家康のためをはかって、明確に敵味方の役割を担っていかなければばならなくなった。ともに父祖の代よりの家臣である。汚名にまみれていくであろう数正の忠義を斬り捨てねばならぬことは、家康にとって坂道の途中で迫られた辛い決断であった。
天正12(1584)年4月9日、長久手の戦いで羽柴軍と徳川軍が激突する。
慶長8(1603)年2月12日、徳川家康が後陽成天皇から征夷大将軍に任命されるまで、
あと18年10ヶ月──。
原作:山岡 荘八
脚本:小山内 美江子
音楽:冨田 勲
語り:館野 直光 アナウンサー
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[出演]
滝田 栄 (徳川家康)
長門 裕之 (本多作左衛門)
紺野 美沙子 (木の実)
中山 仁 (茶屋四郎次郎)
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武田 鉄矢 (羽柴秀吉)
高岡 健二 (本多平八郎)
入川 保則 (黒田官兵衛)
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江原 真二郎 (石川数正)
鹿賀 丈史 (石田三成)
石坂 浩二 (納屋蕉庵)
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制作:澁谷 康生
演出:松本 守正
◆◇◆◇ 番組情報 ◇◆◇◆
NHK大河ドラマ『徳川家康』
第28回「数正出奔」
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